第三話 「異界の地」
――反射的に閉じていた瞼を開けると、視界一面に平坦な野原が広がっていた。
それは、どこからどう見てもさっきまで居た玄関先とは異なる景色だ。いくら智也の住んでいた場所が田舎寄りだったとはいえ、ここまで広大な平原を見たことはない。
「なんだよ、これ」
見慣れない景色に動揺しながら、何気なく空を見上げる。
そこには先程まで姿を隠していたはずの太陽が昇っており、時間の経過か、或いは座標の変化を示していた。
「ここはどこだ……」
昼夜の反転、見知らぬ土地。それで智也の頭に真っ先に浮かんだのは、国外という可能性だった。
とはいえそれだけの距離を移動した実感はなく、むしろ瞬きの間に世界が変わっていたと言っても過言ではない状況。
「そうだ、魔法陣の光に包まれて……」
そう考えたところで寸前までの出来事や会話が脳裏に蘇り、同時に、一番馬鹿馬鹿しくて有り得ない可能性が浮上する。
しかし万が一、億が一、それが実在するというのであれば――、
「ここが異世界……なのか?」
文字通り、現実離れした信じ難い話だと智也も思っている。それこそ、本当にゲームや漫画のような話だ。
しかしあの少女は確かに、智也に異世界への関心を問うてきた。
そして今も脳裏にこびりついて離れない謎の魔法陣。あれが現実世界に実見していたのは紛うことなき事実である。
それらの観点から、ここが異世界と考えるのが最も整合性の高い答えだった。
「で、当の本人はどこ行ったんだよ」
方角さえも分からぬ地で呆然と立ち尽くす智也。
辺りは緑の景色が広がるばかりで、人影一つ見当たらない。
まさか、異界の地に連れ出してそれで終わりという話じゃあるまい。なんて考えながらも、不安を拭えず改めて周囲を確認する。
「……おいまさか本当に」
「呼びました?」
背後からの声に慌てて振り返ると、腰まで伸びた金色の髪を揺らす少女の姿があった。
さっき見たときは居なかったのに――そんな疑問が口を衝く。
「……いつからそこに」
「そうですね……『なんだよ、これ』辺りからですかね」
「最初からじゃねぇか」
眉間に皺を作り、先の発言を真似する少女。それに智也が白い目を向けると、少女はわざとらしく舌を出してはにかんできた。
ひとまず一人じゃないことに安堵はしつつも、目の前の人物に対して警戒心が解けた訳ではない。
対話を交えながら、智也は様子を伺うことにした。
前提として、この少女が普通じゃないことは明らかで。既に智也が非日常的な事態に巻き込まれていることも確かである。
そしてこの者が何を企み何を望んでいるのかは不明で、ここが異世界であるという仮説も、正しいと決まった訳ではない。
沈黙を守る水面下、目まぐるしく頭を回転させる智也に、少女は静かに笑みを浮かべる。
と、大平原に一陣の風が吹き抜け、白いワンピースが煽られる。それを両手で押さえる姿はひどく絵になっていたが、目を奪われている場合ではない。
「お前の目的はなんだ? ここはどこだ」
「私の目的は貴方をこちらに連れてくることです。そして、ここは異世界です」
「待て、なに一つ理解できない。ほんとうに異世界が存在するのか?」
「はい。感じませんか? 大気に満ちるマナを」
そう言ってマナとやらを感じとるように両手を上向きにする少女に、智也は「言われてみれば……」と眉を寄せ、
「まぁそんなものありませんけどね」
純情な少年心を誑かされた智也は、色んな感情が入り交じった瞳で睨み付けた。
「異世界というのは本当ですよ。ここは、『魔法』という概念が存在する世界です」
「……それを証明できるか?」
「魔法が見たいんですか?」
「ぐ……別に、それはそうとしても、何一つ確信の持てないこの状況で、確かなものを得ようとするのは自然だろ」
もっともらしい言い分に、少女はふふ、と微笑んだ。
「残念ながら今の私には使えません」
「~~~~! なんなんだよお前! からかってるのか!?」
「本当に使えないんです。すみません」
真顔でそう告げられ、智也は頭を掻いた。
「――さっきの、魔法陣だろ。あれは魔法じゃないのかよ。あとドアノブのやつも」
「魔法ですよ」
だったら、という食い気味の言葉に、少女は首を振る。
「ですが今の私には使えません」
「…………」
その深意を解しようと黒瞳を見つめたが、深淵を覗いているような気がしたので取り止めた。そもそも、名前すら知らない者の考えなど分かるはずもなく。
それでも一つ判明したとすれば、こちらに危害を加えるつもりはなさそうだということか。
わざわざこの場に残り、対話に応じているくらいだ。何らかの狙いがあってここへ連れてきたはず。
或いは智也がそれを拒めば、彼女は牙を見せるのだろうか。
さらに、ずっと抱いている疑念を、払拭せずにはいられない。
「……質問の続きだ。どうして俺を連れてきた」
「貴方には、いくつか私のお願いを聞いてほしいんです」
真剣な眼差しを向ける智也に、少女は微笑を浮かべてからそう言った。
「勝手に連れてきた上に使い走りにしようなんて、我が儘の域を越えてるんじゃないのか」
「でも、言ってましたよね? 異世界で人生をやり直したいって」
「都合のいい解釈をするな。つまらない人生に嫌気が差してただけだ」
重い息を吐く智也を見て、少女はわざとらしく困った表情を作るや、何かに気付いたように手を叩いてどこからともなく封筒を取り出した。
「あっ、こんなところに『リヴ魔法学園』の入学券がっ! でも困りましたね……私は十二歳以下なので使えませんし……そうだ、智也様。良ければこちらもらって頂けませんか?」
「白々しいし入学券ってなんだよ……初めて聞いたぞ。ていうか、魔法学園……?」
差し出された封筒に視線を落とせば、見たことのない三文字の造語が認められていた。まだ下手くそな手書きで記されていれば、幾分か疑いやすくて良かったのに。
「本当にそんな場所があるとして、こんなもんで入学なんて出来るのか?」
「乗り気ですか?」
「ちげーよ! どう考えたって怪しいだろうが。第一、魔法も使えないのに入学したって意味ないだろ」
「本当にそう思いますか?」
「それはどっちの意味で……」
「やっぱり乗り気じゃないですかー」
向けられた腹の立つ眼差しから、智也は視線をそらし、歯噛みした。ついでに話も逸らそうと『お願い』とやらの内容を尋ねてみるが、学園に入学してもらうことがそれに当たるのだと、きっぱりそう言われて。
さっきまでのやり取りに何の意味があったのかと、怪訝な表情を浮かべる。
それなら初めからお互いの利害は一致していたんじゃないか――と、思わず過った思考に頭を振った。
「待て。俺はともかくとして、お前にはなんの得があるんだよ」
「俺はともかくとしてですね」
いちいちの揚げ足取りにうるさいなと文句を言いつつ、眉間に皺を寄せて返事の催促。水を向けられた少女は「んー」と可愛らしく唸った。
「いまは内緒です」
「なんとなくそう言われると思ったよ」
呆れ半分にため息をつき、値踏みするように目の前の人物を見つめる。
未だに名前すら名乗ってこないのだ、どうにも胡散臭くて仕方がない。魔法学園には興味しかないが、手玉に取られている気がしてならなかった。
「言っておくが、見返りを求められても俺には何もできないぞ」
その発言に、少女は堪らずといった具合に失笑した。
「……なんだよ」
「い、いえ、なんでもありません。ふふ」
不満を詰め込んだ視線にまた一笑すると、何を以てか大丈夫ですよと言葉を投げ、
「不備なく入学できるよう、手筈は整えてあります。智也様はお好きなように、学園生活を満喫してください」
そうは言われても、藪から棒な展開で心の準備もできていないのだ。お気に入りの愛機も部屋に起きっぱなしなわけで。
ただ、全く信用はできていないが、今の口振りからは嘘を言っているようには思えなかった。
「ちなみに、その魔法学園ってのはどこにあるんだよ」
「リヴ魔法学園はここからしばらく北に歩いたところにあります」
「しばらくって、見渡す限り緑なんだが……」
やはり騙されているのではなかろうかと、智也は一瞬だけそう思った。
「余談ですけど、夜になると魔物の動きが活発になるので気を付けてくださいね」
「余談どころか一番大事な情報じゃねぇか!」
「意外ですね。魔物がなんなのかご存知なのですか?」
「……ゲームの知識だけどな。それ以前に、今の言い回しで嫌でも察するよ」
十中八九、命に危険を及ぼす存在で間違いないだろう。そう警戒心を強める智也の隣で、学園があるらしい方角をじっと見据える少女。
その唯一の共通点である黒瞳を覗き、智也も北へと視線を揃える。
「今の貴方なら軽く殺されちゃうかもしれませんね」
「分かってたけど真顔で言うなよ……。とにかく、北に行けばいいんだろ? 早く行くぞ」
一歩繰り出す智也に、しかし少女からの応答はない。違和感を覚えて振り向けば「私はここでお別れです」と、突き放されて。
「しばらくは貴方ともお会いできないでしょう。ですが、陰ながら応援しておりますので」
「そうか、じゃあな」
「寂しいかもしれませんが、今は我慢してください……え?」
そそくさと歩き去っていく智也の背に、少女は唖然としたのちに、信じられないものを見るかのような目で叫んだ。
「もうちょっと何かないんですかぁ!?」
「なんだよ……お前が急げって言ったんだろ」
「それはそうですけど……」
智也の方も、質そうとして聞けていない疑問があったのだが、なによりもまず身の安全が最優先である。あれやこれやと考えるのは、歩きながらでもできるわけだし。
めんどくさそうな面を向ける智也に、なぜか少女は不興顔。
「私の予想と違います」
「なにを期待してたんだか……」
ため息をこぼしつつ、目の前の金髪を見やる。するときょとんとした顔で小首を傾げるので、深く眉をひそめた。
「なんですか? そんなにまじまじと」
「お前が呼び止めたんだろ!?」
「えへへ、そうでした」
妙に嬉しそうな表情を浮かべてから、小さな手を顎に当てて考える素振り。どう見ても何もないように思えた智也はまた頭を掻いて、
「……じゃあ、最後に一つ聞いてもいいか」
「なんでしょう!」
やたら食い気味な反応に体を後ろへ反らしつつ、中々切り出せなかった疑問を口に出す。
「さっきの魔法陣を使ってこの世界に来たんだよな」
「はい」
「つまり、瞬間的に別の場所に移動したってことだ。俺のゲーム知識がどこまで当て嵌まるのかは分からないけど、言うなればそれは、転移の類い」
「――はい」
何を問わんとしているのかを察してか、返ってくる相槌の間が、一拍あいた。それを智也も知覚して、自然と険しい表情になる。
「だったらおそらく……いや、間違いなく行き来ができるはずだ。――違うか?」
危ぶむ智也の眼差しを真っ向から受け止めて、少女は瞬きを一つ挟んでから、口開いた。
「いいえ、帰れません。あれはもう使えないんです」
驚きが半分と、諦めが半分だった。不思議と怒りは感じなかった。
どこかでそんな気がしがしていたのだ。
――いや、何も未練がなかったから、それでいいと思ったのかもしれない。だからこそ智也はそんな大事な質問を後回しにして、興味の赴く話題ばかりを追求していた。
少女は二の句を継ごうとはしてこない。どうやらこちらの反応を窺っているらしい。
「……まぁ、そう言われると思ったよ」
「てっきり、怒鳴られるかと思いました」
力なく吐いた智也の言葉に、少女は少しだけ眉を上げた。
「一応俺も望んだことだからな……」
「認めるんですか?」
調子づこうとする少女に「下手に出ればすぐこれだよ」と呆れながらため息をこぼす。
どういう意図で連れてこられたのかはハッキリしないが、自分に何らかの価値があるのだと思えば悪い気はしない。それこそ、自覚していないだけで凄まじい魔力を秘めている可能性だってあるかもしれないのだ。
ずっと脇役だった人生が、ここでは主役になれるかもしれない――そんな、甘い妄想を頭の片隅に起こしつつ、
「ここで駄々こねてたって何も変わらないだろ。別にお前を責めるつもりはないし、驚きはしたが落ち込んではない」
「魔法に興味津々でそんなことは些事だ!って素直に言えばいいのに。大人ぶっちゃって、くすくす」
「こいつ……」
危うく握り締めた拳が肩の上まで上がりかけたが、どうにかそれは自制した。実際、否定しきれないのが悔しいところである。
嫌な流れを変えるため、智也は咳払いを挟んだ。
「……で、しばらく会えないって言ってたけど、それってどのくらいなんだ」
「やっぱり寂しいんですか?」
「いや、そうじゃない。知らない世界だし聞きたいことが山ほどある。それに、ちゃんとした理由も聞けてないしな」
下手に反応をすればまたからからわれると悟った智也は、素っ気なく、かつ間髪いれずにあしらってやった。すると少女は口をすぼめて不満をあらわにしたので、言っても十歳前後の子供だなと、内心鼻で笑って。
「意地が悪い人には教えてあげませーん! しばらくったらしばらくです!」
不貞腐れる少女を前に、智也は苦笑した。
「まぁいいや。とりあえず、日が暮れないうちに移動しないとな」
そう言って北に向かって歩き出す智也の後ろで、小さく鼻を鳴らす音がした。
澄んだ空の元、新しい門出に一つ「旅立ちの日に」でも口ずさもうかと脳内でディスクを取り込もうとして、
――直後、智也は鋭い何かが背中に突き刺さる感覚に襲われた。
完全に油断していた。まさかこうなるなんて思うはずもなかった。
目を見開き、背中に走るズキズキとした痛みに体が震え上がる。
「何の、真似だ……」
怒りで声も震えた。
誰がやったかなんて確認するまでもない。この場には、二人しか存在しないのだから。
智也はすぐさま左手を後ろに回し、背を突き刺している細い腕を掴んだ。
やられたまま終わるわけにはいかない。絶対逃がさないよう掴んだ腕を強く握りしめ、そして振り返り、
「ぐさりぐさり」
擬音を放ちながら、か細い二本の指を突き刺していた少女と目が合った。
無言で見つめる智也に満面の笑みが返される。その天使のような微笑みに、智也は容赦なく鋭い手刀を落とす。
「あいたっ」
「ほんとに腹の底が見えない奴だな……」
両手で頭を押さえる少女を見ながら吐息をつく。
終始、何がしたいのかよくわからない存在だ。遊んでいる時間なんてないのにと、更に肩を竦めて。
「魔物が出るんだろ? 俺は先を急ぐぞ」
「はい、お気をつけて」
そう言って踵を返した智也は、今度こそ謎の少女と別れを遂げた。
遠ざかっていく姿を静かに見守るその顔には、さっきまでの膨れっ面も、悪戯な笑みも消えていて。
「これから先、これまでにない経験や色んな出来事が貴方を待ち受けているでしょう」
代わりに、幼い容貌には妖しい笑みが浮かんでいた。
――吹き抜けた風が金色の髪を靡かせる。
そして、少女は音もなく世界から姿を消した。
その深紅の双眸に何かを秘めて。