第二十九話 「目標への第一歩」
――暗い世界。
それは、何も存在し得なかった無個性な世界に、突として『暗闇』が生まれたからだ。
闇に覆われた空間。そこに生きる小さな『光』がある。
黒一辺倒でしかない世界をまるで旅するかのように、その『光』は漂流していた。
ふわふわ、ふわふわと彷徨い続けて、果たしてどれくらいの時が経っただろうか。――そも、この世界には時間という概念が存在するのかさえ不確かである。
曖昧な世界では『光』の存在だけが判然としていて、質素でつまらないこの空間に、唯一変化をもたらせてくれていた。
そんな『光』が、突然静かになってしまった。それまで元気に揺れ動いていたはずなのに、その活動を止めたのだ。
眠りについたのか、はたまた儚くなってしまったのか、その答えは闇の中。
或いはこの世界にとっては、それすらも退屈を紛らわすためのただの変化に過ぎないのかもしれない――。
✱✱✱✱✱✱✱
朝、眠りから覚めた少年は伸びをしてから身体を起こした。
「んー」
寝ぼけ眼を擦りながら壁掛け時計を確認。
現在時刻は、ちょうど六時半を過ぎたところだ。
「よし、予定通りだ」
効率よくゲームを進めるために会得した『早起きスキル』は、智也の数少ない特技である。
その概要は、就寝前に軽く念じることで好きな時間に目を覚ませられるといったもので、おかげさまで大半の人が苦手とする朝に苦労したことがない。
何故それを今日この日に用いたのかと問われれば、それは特別授業が始まるからに他ならない。
「時間は指定されなかったけど、あの感じでいくと……既に先生は学校にいるんだろうな」
前回智也が初めて早起きをした際に、件の男とそこで鉢合わせた。
と言っても、たまたま遭遇したわけではなく、彼は日頃からそこで修練を積んでいるようだった。
その刻苦勉励とする様には感ずるところがあり、智也は知らずのうちに感化されていた。
「おや、早起きだねぇ」
朝の支度を済ませて一階に降りると、カウンター奥の部屋から出てきた新井さんが、こちらを見て目を丸くさせる。
むしろ智也からすれば、いつ来ても起きている新井さんの方が不思議だったがその疑問は飲み込んで、
「今日からちょっと、朝練? があるので」
「それは大変だねぇ。そうだ、ちょっと待っておくれ」
そう言ってまた台所に駆けていく新井さん。
前回もこうして智也の朝ご飯を急ごしらえしてくれたのだが、本当に何から何まで世話になりすぎている。
可愛がられているのは有難いが、親切になる度に智也の胸は罪悪感で締め付けられ、「これでいいのだろうか」という疑問に苛まれた。
いくら家主の許可を得ようとも、何のけじめも付けずに甘えていることはできない。
――だから、
「お腹空いてるでしょう? これ食べていきなさい」
「――あの」
しばらくして、新井さんが大きな握り飯をこしらえてきてくれて、智也はそれを受け取る前に意を決した。
パーマ頭の下の、穏やかな眼差しを見つめて述懐する。
「今度のクラス対抗戦に……出て、それで優勝してお金を稼ぐつもりです」
以前からその目的は智也の心中にあったが、ただ思いを抱くことと、こうして意思表明するのとでは全く意味が違う。
一度言葉にしてしまえば、それを取り下げることはもうできない。言わば自分に枷を掛けたようなものだが、それだけ強い意思が智也にあるということだ。
「だからそれまでの間、時間を下さい」
「――分かったわ。それで早起きなのね」
智也の真剣な思いを受け止め、新井さんはそう笑みを湛えた。
考えを否定しないのはもちろんのこと、ただ甘やかすだけでなく、ちゃんと頑張ろうとする意思を汲み取ってくれる。
そんな新井さんの優しさに感謝しつつ、ますます尽力せねばと思い至る。
「それじゃあ尚更、腹ごしらえはしないとねぇ」
「ありがとうございます」
「気を付けて行ってらっしゃい」
用意して頂いた握り飯を受け取って、新井さんに見送られながら下宿屋を出る。その際に向けられた優しい笑みに、智也は気合を入れるように「行ってきます!」と声を上げた。
早朝の町は静かで人は出歩いておらず、ほとんどのお店が開店準備中だった。
いつもならこの中央広場には街の人々や喧騒で溢れ返っているが、今は噴水から湧き出る水の音だけが、静かに響いている。
その噴水を挟んで向かい側にあるお店――射的屋の横を通り過ぎようとして、噴水の縁に座る子供を見つけた。
こんな朝早くに一人で何をしているのだろうか。
智也はそう思いながら、膝に頭を乗せて俯いている子供を注視する。
迷子か、家を追い出されたのか。この街に来てまだ日が浅い智也には、そもそもここの住人かどうかさえ判別できない。
しばらく物珍しそうに見つめていると、それに気付いた少女が顔を上げた。
――まるで宝石のように美しい、深紅の瞳がそこに在った。
その赤い目を際立たせる、綺麗を超えた異様なまでに白い肌。日を浴びたことがないと言われても頷けるほどに、少女は白かった。
幼い顔立ちに似合う桃色の髪は両サイドで縛られており、ガラス製なのか、花形のヘアゴムがキラリと光を反射する。
年頃は、ちょうど例の金髪少女と同じくらいだろうか。小さな手にはパンダのようなぬいぐるみを握っていて、年相応の可愛らしさが窺える。
「――お兄さんこの町の人?」
智也の顔を見るや否や、引き結んでいた口が弧を描き、表情が和らいだ。
口振りからして迷い子なのだろうと推測して、その問いに答える。
「あぁ、君は迷子か?」
「ふふん、じつはそうなの」
そう高くない噴水の縁から飛び降りると、少女は腰に手を当てながらふんぞり返って空を仰いだ。
道に迷った割に、随分と誇らしげな顔である。
「……ちなみに、なんでこの街に?」
「それよりさぁ、お兄さんお名前は?」
質問に質問を返されたが、相手は智也より幼い子だ。
それこそ急に異世界に連れ出したどこぞの不審者とは違うのだから、ここは年上として優しく接してあげるべきだろう。
「黒霧智也。君は?」
「わたしはルサ・リリム。ルサちゃんってよんでね」
自分でも驚くほどに穏やかな声色で智也が尋ねると、少女はそう愛らしく笑った。
「かわいい名前でしょ? ま……パパが付けてくれたの」
「へぇ……」
親が子供の名付けをするのは当たり前のことだ。それなのにわざわざ主張した少女の物言いに、智也は違和感を覚えた。或いは複雑な家庭事情でもあるのか、もしくはこの異世界では様式が異なるのだろうか。
そして、疑問に感じたことがもう一つある。
今まで智也はなんの違和感もなく過ごしてきたが、この世界の住人は和名ばかりだ。
正確には「ドロワット」と「ゴーシュ」という名の門番が存在するのだが、智也はその名前を知らない。
仮にその情報が頭にあったとしても、彼らの場合は異名の可能性が大いにあると、名が示す意味から推測しただろう。
だからこそ、少女の名前は妙だった。
この街の住人ではないらしいが、それこそ名付けの習慣が異なるのだろうか。
何にせよ、この街のこともまだ把握できていない智也には、判断できるような材料がない。
と、沈思していた智也は不意に感じた腹部への感触に、思考を止めて視線を落とした。
「ねぇねぇ、これなぁに」
「学園の制服だよ。見たことないか?」
物珍しそうな顔で制服を触っていたルサに、智也がそう説明する。
襟袖やポケットなどに黒のラインが入った純白のブレザーに、男子は黒色のズボン、女子は赤チェックのスカートが、この学園の正装だ。
上下白黒のコントラストで統一されたデザインはクールでカッコよく、女子のほうは刺し色の赤がキュートで可愛らしい。
そして、見て呉は普通の制服だがそこには強力な防護魔法が掛けられており、ありとあらゆる妖術から身を守ってくれる優れものである。
「じゃあお兄さんは、学園の人ってこと?」
「まぁそんな感じだな……もしかして、学園に用があったのか?」
「うん! 『こんど』ね、学園にご用があるから下見しにいけって言われたの」
――こんな小さな子が一人で学園に?
リヴ魔法学園に入学できるのは十四歳からと決まっているらしいが、どう見てもルサの年齢はその半分以下だ。
智也はそう疑問に思ったが、困って迷子になっているならと遠くを指差し、
「あそこに見えてる城みたいな建物だよ」
「わぁ~、あれが学園なのね」
中央広場の北方に位置する、遥か高いとこに聳え立つリヴ魔法学園。
その方角を目で追って視認したルサが、感嘆の声を上げた。
そこまでの反応はまだ理解できたが、何故かルサは学園のほうを向いたまま、目を瞑っている。
「え?」
一体何をしているのかよく分からず、間抜けな声を発する智也。
急に始まった不可思議な行動に困惑していると、幸いそれは数秒ほどで終わった。
「お兄さん、どうもありがとうございました」
「あ、あぁ……どういたしまして。それじゃあ、俺は行くよ」
深紅の瞳をゆっくり開けると愛らしい笑みを浮かべ、ルサは丁寧にお辞儀してみせた。
その礼儀正しい姿に感心しながら、智也も自分の予定を思い出し、少女に別れを告げて学園へと足を向ける。
「そういや、目的地同じだけど一緒に行くか?」
下見をしに来たという話を思い出し、智也は親切で尋ねてみたが、ルサはそれに首を振った。
「ううん、今回は『かくにん』しに来ただけだからいいの」
「そっか」
「学園にはね、パパがいるの。でも今はその時じゃないから会えないんだぁ」
「へぇ、そうだったのか」
学園にいるということは、教員の誰かだろうか。何故会えないのかは分からないが、生徒である智也なら、そのうち顔を合わすこともあるかもしれない。
「お兄さんはさぁ、こんな早くから何しに行くの?」
「あー……ちょっと魔法の練習をな」
頭の後ろに手をやるのは、智也の照れ隠しの癖だ。
「そぉなんだ、『たいへん』ね」
「まぁ色々とな……。でも、助けてくれる人たちがいるからまだ楽だよ。ほんとに、皆には感謝しきれない」
「ふ~ん、お兄さん『がんばって』ね!」
「ありがとう。じゃあな」
「うん、またね~!」
そう言って大きく手を振るルサに背を向け、今度こそ学園へと向かう智也。
少し歩いてから後ろを振り向いたときには、既に少女の姿はそこになかった。
✱✱✱✱✱✱✱
長い階段を上った先にある学園の校門。そこから右方へ歩いていき、開けっ放しにされた扉を通って第一体育館へと入る。
そこには前回同様、道着袴に身を包んだ先生が座禅を組んで待っていた。
「――来たか」
「おはようございます」
「予想以上に早かったな。眠いだろ?」
「いえ、朝は得意な方なんで」
「そうか。俺とは真逆だな」
口ではそう言っているが、既に一頻りの鍛錬を終えたあとだろう。これでも智也は早起きをしたつもりだったのだが、一体彼はいつからここに居るのだろうか。
「んじゃ、早速始めるとするか」
「ちなみにどんなことをするんですか?」
「そうだな……お前は自分に何が足りないと思う?」
「魔力量と経験……ですかね」
「言わずもがな、だな。だが魔力量はそう簡単に増えるもんじゃない。日々の努力が必要不可欠だ。戦闘経験に関しては、他の奴も同じだろう。まぁ……例外もいるが」
説得力のある言葉だ。きっと自らが、そうして努力を積み重ねてきたのだろう。
語尾の「例外もいる」という発言のほうは、見比べてもしょうがないという意味で受け取った。
「知ってるかもしれねーが、俺も昔は魔力が少なかったんだよ」
なにか試すような物言いである。
驚かなかった智也の反応を受け、先生は小さくため息を溢してから話を続けた。
「魔力が少ないなりに、どうすりゃ勝てるのかをずっと考えていた。どうしても負けられない相手がいたからだ。――昔の話だけどな」
「先生が、ですか……」
彼も智也と同じように自分の非力さに嘆き、苦しんでいたのだろうか。昔の話を語る姿には、どこか一抹の哀愁を感じた。
「話が逸れたな。少し例え話をしよう」
そう言っていきなり手のひらから火球を飛ばすと、先生はそれに親指を向ける。
「分かりやすく魔力を数値化させた場合、アレを撃つのに十の魔力を消費するとしよう。仮の話だ、お前の魔力量が百だとすれば……まぁ十回しか使えないよな」
「そうですね……」
例え話と言ったものの、その実、智也の魔力はその程度のものである。むしろ、更に少なく見積もってもいいくらいだ。
そう考えると、自分の才能の無さが顕著に表れて悲しくなる。
「んじゃ、その回数を増やすにはどうすりゃいいと思う?」
その質問を例に倣って考えてみるが、何をどう頑張ろうと十回目で魔力切れが起こる。その回数を増やす方法など、あっても一つしか浮かばなかった。
「魔力の消費を抑える……? そんなことができるんですか?」
可能性として挙げたものの、それは有り得ないはずだと智也は考える。
込める魔力が少なければ魔法は上手く具現化しない――それを身をもって経験しているからだ。
国枝と七霧にコツを教えてもらうまで、魔力のコントロールが上手くできていなかった智也は、それが原因で何度も具現化に失敗していた。
智也の魔法だけが途中で消滅していたのが、それである。
つまり意図して魔力量を抑えることと、心外にも魔力不足だったことに相違はないのだ。
だから魔力の消費を抑えることなど不可能だと結論付ける智也に、先生は不敵に笑ってこう言った。
「――今からお前に、魔力のケチり方を教える」




