第二話 「加速する秒針」
「うわー、雨すごいな」
地に打ち付けるように降り注ぐ雨粒を見て、驚嘆の声を漏らす智也。
「いやそれよりも……」
――誰の姿も見当たらない。
確かに来客はあったはず。母親がわざわざ嘘を吐くとも思えないし、実際呼び鈴が鳴ったのを智也は聞いている。それなのに、辺りを見渡しても誰もいないのだ。
「こっちは忙しいってのに、悪戯か?」
そう考えたが、わざわざこんな大雨の日にやる人がいるだろうか。
いよいよこうなると、その来客とやらの人間性が疑わしくなってくる。
苛立ちを覚えながら扉を閉めようとする智也。その傍らで、声がした。
「あの……すみません」
「誰もいないな、よし」
扉の裏に誰かがいると気付いたが、むしろいない方が楽だと即座に判断。
どうせ碌でもない輩だ、関わらないに越したことはない。そう考えた智也の耳に入ってきたのは、意外にも女の子の声だった。
「ええっ!? お話聞いてくださぃぃ」
慌てたように目の前に躍り出たその者は、およそ百六十五センチある智也の身長の、その腹の辺りまでしかない小柄な体格。
そんな小さな来訪者を見下ろす智也に、少女は泣きそうな顔で智也の服をぎゅっと握りしめてきた。
「あの……黒霧智也様でしょうか?」
その問いには答えず、掴んだ手を振り解こうと身動ぎするが、離してくれない。
「あの……」
無理やり振り払い逃げることもできるが、さすがにそれは良心が痛むのと、万が一また呼び鈴を鳴らされれば余計面倒なことになる。
智也は観念したようにため息を吐いて、改めて少女を視界に入れた。
夜の闇に溶ける智也の黒髪とは対照的に、腰まで伸びた少女の髪は金色に輝いていた。
その髪に触れずとも分かるサラサラとした質感には、思わず手が伸びそうにもなる。
肌は見るからにもちもちしていて瑞々しく、掴めば餅のように伸びそうだ。
可愛らしい小さな桃色の唇は、先ほどから不安そうに震えており、智也と同じ漆黒の瞳に、僅かに涙が浮かんでいるのが見える。
「あの……聞こえていますか……?」
「誰だこいつ……」
涙目でこちらを上目に見る少女にしかし、智也の反応は酷く冷めていた。
来客は智也に用があるとのことだが、他に人がいないことを考えれば、当然それは目の前の少女を指すことになる。
しかし智也と少女との間に面識はない。ますます疑問が深まるばかり。
「金髪……」
どこかの外国人だろうか。
目を惹く髪色だが、智也がその手のことに無頓着なだけであって染めた可能性もある。だとしたら年不相応だと思ってしまうが。
「引っ越しの挨拶――それはないな」
それで自分を名指しする意味が分からないし、そも、この田舎に新築の気配はない。どちらにしても、親はなにをしているのか。
と、そんな風に思考に耽っている間、全く相手にされなかった少女が泣きだしそうになっていた。
言葉を発するより先に一頻り頭で考えてしまう、智也の悪い癖だ。
「うぅ……」
「うわぁ……誰だよ泣かせたの」
ついに堪えきれなくなったか、少女が顔を両手で覆ったところでようやく智也は気が付いた。
面倒くさそうに頭を掻きながら、どう対処すべきか一考しようとして、
「ううううううう」
「あーもう、なんだよ。何しに来たんだお前」
考える時間を貰えず、止む無しとしてやけくそ気味に問いかける。
そんな智也の声に顔を上げると、少女は何事もなかったかのように笑みを浮かべた。
「お休みのところ、また夜分遅くに大変ご迷惑お掛け致します。黒霧智也様でございますか?」
「泣き真似かよ」
文句を言いつつ、やけに丁寧な口振りに智也は眉を寄せる。
見たところ年下のようだが、ここまで礼儀正しさが備わるものなのだろうか。
育ちがいいのか、悪いのか。誰かの差し金か。
「本日は、智也様にアンケートのご協力をして頂きたく、訪問致しました」
「とはいえ、なんでまたこんな日に――アンケート、だと?」
「はい、そうです。本日は智也様に……」
言い終える前に、智也は迷わず玄関の扉を閉めた。
「はい、さようなら」と別れを告げつつ施錠して、閉めたばかりの鍵が――独りでに開いていく。
「は……? おいおいどうなってるんだよ」
力づくで止めようとしても抵抗虚しく、扉は開け放たれてしまう。
再び面会を果たした少女はニッコリと微笑んでいるが、智也の体からは嫌な汗がとめどなく噴き出ていた。
「そんなに警戒しないでください、傷付きます」
「いや、だってお前、いまどうやって……」
無手で現れた少女に、鍵を開ける手段はなかったはず。
それでどんなトリックを使ったのか、まるで怪奇現象のようなものが智也の目の前で起きた。警戒するなと言われても、そう簡単に心を解けるわけがない。
「貴方にはただ、アンケートにご協力して頂きたいだけなんです」
動揺が隠せない智也に少女は困ったような表情を見せて、そう強請ってくる。
正直面倒この上なかったが、これ以上無駄な時間を浪費するのも惜しまれたし、何より目の前の人物から早く離れたいと智也は思った。
「わかった。けど答えるだけだぞ。用が終わったら帰ってもらう」
「ふふ、構いませんよ。――ではまず、学校生活は楽しめていますか?」
返答を得て、意味深げに笑みを湛える少女。それを訝しんでいた智也は続く言葉に目を細める。
――学校関係者の回し者か?
純粋に、その疑問がまず頭に浮かび上がった。
つまり彼女は、わざわざこんな日に生徒の家を回っていると。
もしそれが本当であれば、指図している関係者も大概なものだが。
「さすがにそれは安直すぎるか……」
他に考え得るとすれば、何らかのストレス調査の類だろうか。
もしかすると、本当にただの悪戯かもしれないという線も、頭の片隅に置きつつ。
そうなった場合、いまこの瞬間が一番ストレスを感じていることになるのだが。
「別に、普通だよ」
「そうですか。では二つ目の質問です」
答えたら答えたで、大した反応もない少女の態度に「こんなアンケートに何の意味があるんだ」と心の中で呟く。
「貴方は今の生活に満足していますか?」
「……」
いきなり核心に迫られて、智也は言葉を詰まらせた。
まるで、こちらの情報を知った上で尋ねているかのようだ。
――いや、違う。
あくまでそれは、見透かされているようだと思うからこその錯覚で、本当はそこに意味などないのかもしれない。
勝手に深読みして、焦っている自分が馬鹿馬鹿しいと心を落ち着かせる。
「満足は……してないが」
馬鹿正直に答える必要もなかったが、胸に秘めた思いを消すことはできなかった。
なにせずっと、ずっと、打ち明けることのできない思いを、一人抱えていたのだから。
そんな気難しい顔になる智也をじっと見つめてから、少女は「次で最後の質問です」と言った。案外、なんてことない問答だったようだ。
変に緊張していた肩の力が抜け、眉間の皺が薄くなる。そうして一息ついた智也に、少女は問う。
「――貴方は、異世界に興味はありますか?」
その言葉が何度も頭の中で反芻され、繰り返すたび、それまでとは何ら関係性のない突拍子過ぎる問いに、脳が混乱した。
「……は?」
意図が分からず、意味を理解できず、智也の思考は固まってしまう。
しばらく放心状態が続いたあと、停滞していた思考が回り始め、ようやく悟った。
「お前、あれか。やっぱり悪戯して――」
「私は至って真面目ですよ」
「真面目ってお前……」
智也の言葉に被せるようにそう言って、黒瞳がじっと見つめてくる。
やはり、碌でもない人物だったのだ。突然来訪してきて異世界への関心を問うなんて、まともな人間が取る行動ではない。
そうして値踏みする智也の視線を気にもせず、少女は再度問うてくる。
「異世界に興味はありますか?」
「いや……大体、異世界ってなんだよ」
「そうですね……智也様がよくしていらっしゃる、ゲームのようだと言えば分かりやすいでしょうか?」
ちょうど、そんなものはゲームや漫画の世界でしか見たことがないと、そう言おうとしたところだった。
しかし、何故この少女は智也のことをそこまで知っているのだろうか。
何故そんな質問を、あえて智也にしてくるのだろうか。
「……仮に俺がその質問に頷いたとして、それで何になる?」
「それは、興味があるということでよろしいですか?」
「待て待て、仮定の話だ」
智也は彼女が何を考えているのか確かめたかったのだが、どうも気が早い様子。
そんな早合点で話を進められ、「じゃあ一緒に異世界へ旅立ちましょう」なんていって連行されては洒落にならない。
「うーん、想像と違う……」
「一体どんな想像してたんだよ」
「貴方はそういうのに興味があると思ったんですよ」
「……いや、まぁゲームは好きだけど」
「そうですよね!」
「異世界に興味があるとは言ってないぞ」
勝手に早とちりして明るい表情になる少女に、智也再度釘を刺す。
すると不満そうに口を尖らせて、なにか訴えるような眼差しを寄越してきた。
「あのさ、俺帰っていいか? もうアンケート終わっただろ」
「あ……え、と次が最後です!」
「話が違うぞおい」
つっこむ智也に、少女は楽しそうに微笑む。
それに冷たい視線を向けつつ「そういうのは一回しか通用しないぞ」と念押しすると、確かにその首は縦に振るわれた。
「では最後の質問です。もし人生をやり直せるとしたら――どうしますか?」
「人生をやり直すだと……?」
ますます少女の目的が分からなくなり、その存在が胡乱に思えてくる。
だがその疑念も、この問答を終えれば意味はなくなる。例え目の前の少女がどこの誰であろうと、智也は無関係であり、無関心なのだから。
最初こそ戸惑ったが、冷静に考えれば馬鹿馬鹿しい問答だ。さっさと答えて満足してもらい、帰っていただくとしよう。
そんな軽い気持ちで、智也は答えてしまった。
「まぁそれも悪くはないかもな」
――少年は、こんな毎日に嫌気が差していた。
故に、強ち適当な回答だったというわけでもない。
だがまさか、目の前の少女に、自分よりも幼いただの女の子に、何かができるとは思わなかった。
――いや、先の怪奇現象を鑑みれば、もう少し警戒心を抱いた方が良かったのかもしれない。
とはいえ、もう撤回することもできずに。
「アンケートへのご協力、ありがとうございました」
腰まで伸びた金髪を揺らしながら、少女は最後まで律儀にお辞儀してみせた。
綺麗、というよりは可愛らしいその所作を見ながら、智也はやっと解放されるのだと、安堵する。
そうして長い金色の髪を一瞥して、不意に疑問が浮かび上がってくる。
視線を、少女の髪からその背後へ。
そこには止む気配のない雨が更に強さを増し、今も大地を殴り続けている。
確かめるように、再び少女を視界に捉え、凝視した。
――こんな大雨の中、こいつはどうやってここに来たんだ?
白いワンピースも、長い髪の毛の一本さえ、雨に打たれた形跡がない。
おかしいのだ、水滴一つ付けずにそこに立っているのが。
無論、乾かす暇はなかったはずで、先の件で少女が無手であることも確認済みである。
「お前……」
何となく嫌な予感がして、智也はその場から逃げようと動いたがもう遅かった。
「それではご案内致しますっ!」
雨音が闇夜を制す中、少女の明るい声だけが智也の耳に殴り込んでくる。
――全く突然出し抜けに、少女はソレを発現させた。
「は?」
足元を確認する智也。その視界に映る、黒い魔法陣。
突如現れたソレは複雑な文様を刻んでおり、緩やかに回転を始めている。
初めてこの者と対峙してから、智也は何度も思考を搔き乱されたが、いくらなんでもこれは常軌を逸している。
「魔法陣……?」
と、口にしたものの、それはゲームの世界で得た知識であって、今そこに存在していいものではない。
人は、自分の許容範囲を超えた信じ難い現実を目の当たりにすると、防衛本能が働き、都合の悪い事象をあたかも夢でも見ているようだと錯覚させて逃げようとする性質がある。
それと同じことが、いま智也の身に起きていた。
だが、これはゲームのしすぎで見ている夢などではない。もっと質の悪い現実なのだ。
それを知らしめるかのように、甲高い金属音のような耳鳴りが、頭の中でずっと鳴り響いている。
おそらく本能が危険を感じているのだ。とにかく、足元の魔法陣から離れなければ――、
「動かせない……!」
普段、無意識化でも動かすことのできる自分の肉体が、今は強く意識しても操ることができない。
まるで肉体と精神が切り離されたかのような感覚だ。
深く息を吸い、暴れ出す心臓を押さえつける。
――落ち着け、落ち着け。
そう言い聞かせて冷静を繕うが、今更どんな努力をしても状況は変わらないし、時間は止まらない。
ただただ、足元の魔法陣が慌ただしく回転速度を上げていく。
「お前……何をした」
敵意の満ちた眼差しで睨んでも、少女は変わらず笑みを浮かべるだけで、言葉も返さない。
せめて、その身をとっ捕まえようと手に意識を集中させるが、もはや指一本動きはしなかった。
「くそっ! ――母さ」
やがて、目まぐるしい速度で回転する魔法陣から眩い光が溢れだし、成す術もなく智也は『転移』された。
視界が、暗転した――――。