第十六話 「躍動する心」
「おかえりなさい」
「ただいま……っす」
「ご飯できてるよ。食べるかい?」
「……はい、いただきます」
下宿屋の扉を開けると、変わらぬ笑みを浮かべた家主が出迎えてくれる。
それに対して歯切りの悪い返事になるのは、射的屋でのことが尾を引いているからか。或いは単純に、家主の優しさを素直に受け止められないからかもしれない。
そうして今日も疚しさを抱きながら、智也は食堂へと足を運ぶ。どうやら今日は誰もいないようだ。
「今日はお野菜たっぷりだよ、いっぱい栄養取ってねぇ」
「あ、自分で運びます」
落ち着いてゆっくり食べられそうだ、と少し安堵する智也の元へ、家主がお盆に乗せて料理を運んできてくれる。
智也はそれを受け取ろうとしたが、家主は「いいのよこれくらい」と言って昨日と同じテーブルにお皿を並べてくれた。
「どうぞ、ごゆっくり」
「ありがとうございます」
小さな声で感謝の意を表してから、一度瞑目して暗い気持ちを切り替える。
思うところはあるが、そのままでは食材にも、調理してくれた家主にも失礼だと考えたからだ。
それから両手を合わした後に、眼前の野菜の山へと箸を伸ばし、ひとつまみ。
赤い人参、緑のキャベツとピーマン、黄色の白菜、白いもやし。
色鮮やかなそれらを目で見て愉しみ、口に頬張れば、野菜独特の甘みと風味に加え、絶妙な火加減によって残されたシャキシャキ食感が智也の五感を喜ばせた。
「おいしい……」
口内に残る野菜の風味が消えない内に、急いで白米をかきこむ。
オイスターソースのコクが効いた味付けが、そのかきこむ速度を加速させた。
そして、埋蔵金の如く野菜の下に隠されていた豚肉を発見。それをキャベツで巻いてもろとも口の中へ。
肉の旨味とキャベツの甘みとソースの香りが組み合わさり、食欲が無限に湧いて、白米を食べる手が止まらない。
そうしてあっという間に、てんこ盛りだった茶碗の中身が空になった。
少し寂しさを覚えながら、脇にあった汁物へと手を伸ばす。
まだほんのりと温かいお椀を両手で支え、ずずずっと啜れば程よい薄味が喉を通り、後味をさっぱりと流してくれる。
残った肉野菜と味噌汁も全て胃の腑に収めて、智也は静かに両手を合わせた。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
「そう? 良かったわ。お粗末さまでした」
空になった食器を台所へ運び、家主に一礼してから智也は自分の部屋へ。
「……」
今は無きお気に入りの長椅子を恋しく思いながら、窓際にあるテーブルに腰掛ける。闇に飲まれた夜空には、小さな星がキラキラと輝いていた。
そんな小窓から見える夜景をぼーっと見つめながら、智也は今日一日を振り返る。
「……魔法、使えたな」
他の誰もが味わったことのないような未知を体験したのだ。
今でも思い出せば、その感覚が右手に蘇ってくる。
その喜びが、その感動が、胸に込み上げてきて手が震えた。
ただ一つ、気掛かりなあの現象。
おそらく何らかの手順を間違えているのだろうとは思うが、中にはその影響を受けないものもあった。
或いは智也の適性が問題なのだろうか。その辺も、まだ詳しくは聞けていない。
「もう一回試してみるか……?」
とはいえ、さすがに下宿屋や街の中で火球を放つわけにはいかない。
――それならば、
「Espoir6【門/魔導書】」
手のひらから生まれた漆黒が、蜷局を巻いて大口を開ける。
その禍々しい渦の中から一冊の本が顔を覗かせて、瞬く間に漆黒が消失。手に残った『魔導書』を見て、智也は深い安堵を覚えた。
もしかするとただ試行回数が少ないだけなのかもしれない。それか適性が原因であれば、火属性以外の魔法なら上手くいく可能性もある。
そう仮説を立てて、
「他の属性か……」
十一番同様にここで試し撃ちすることはできないが、手元にある『魔導書』を見れば、その一端を知ることぐらいはできるだろう。そう考えた智也は、書物を読み進めていった。
――多種多様な魔法が記されているその本は、幼い頃好きだった昆虫図鑑を彷彿とさせた。
どちらも智也の興味をそそらせる内容ばかりで、当時のように目を輝かせながら、いつの間にか没頭していた。
「へ~! 結構色んな種類があるんだな」
個性的な名前とその形容に関心しつつ、背凭れに体を預けて一息つく。
この中に記載されている百を超える魔法のうち、どれくらいを扱えるようになるのだろうか。そんな期待と不安の入り混じった感情を抱きながら、まずは他の初級魔法を試してみたいと、智也はそう思った。
――不意に、どこからともなく風が立ち、テーブルの上に置いてあった『魔導書』がぱらぱらとめくれていく。
不可思議な現象に智也は眉をひそめ、横を見やったが窓は閉まっている。
そのまま視線をテーブルに落とすと、ちょうど開かれたページに、一文だけ何かが記されていることに気が付いた。
――Deses1【御霊移し】。
「でぜす……みたまうつし?」
いの一番に、聞いたことのない魔法式に智也は違和感を覚えた。
魔法式は二種類しかないと、授業でもそう言っていたはずだ。
そして、本来なら魔法の説明やそのイラスト、よく分からない魔法陣などが数ページに渡って記されているところ、ソレに関しては魔法名だけしか記述されていない。
その名称も、どこか言い知れぬ不気味さが滲み出ており、気味が悪くなった智也はすぐに『魔導書』を閉じ、再び亜空間へと投げ入れた。
「寝るか……」
言いつつ、制服のままベッドに寝転がる。
シワになるだとか風呂に入れだとか、今は智也を叱咤する存在はいない。それをいい事に怠惰を極め、そのまま深い眠りへと落ちていった。
✱✱✱✱✱✱✱
――その世界には、何も存在しなかった。
音も無く、形の無い白紙の世界。
風や、香りや、温もりの無い無色の世界。
そこには何者も存在せず、何物も生じることはない。
そんな虚無の世界に、突として『暗闇』が生まれた。
何も生まれることのない世界で、『暗闇』が生まれたのだ。
やがて無だった世界を闇が覆い尽くし、世界に『黒』が彩る。
何も存在し得なかった世界は、黒の世界へと成り代わった。
ただ、『暗闇』だけが生きる世界は質素だった。
闇が闇を生み、その闇がまた闇を生む。
いつまでも黒でしかない景色に代わり映えはなく、変化を求むように世界は嘆き、また闇が生まれた。
そんな黒の世界に生きる、小さな『光』が在った。
黒一色の中、唯一光り輝く存在。それは小さくて、可愛らしくて、どこか幽し光だった。
闇に覆われた世界にぽつりと浮かぶその『光』は、どこか寂しそうに揺れている――そんな気がして。
ただの『光』に感情なんてあるわけがないのにと、そう思った。
✱✱✱✱✱✱✱
異世界転移から三日目の朝。
火属性以外の魔法を早く試してみたくて、智也は昨日よりも早く学園に向かっていた。
三日目ともなると体も多少慣れたのか、智也の『早起きスキル』が本来の効力を発揮したのだ。
当然、余裕のできた時間を使って優雅に朝風呂を済ませたあとである。
「まぁ、昨日めんどくさくて入らなかっただけだが……」
なんて独り言ちつつ、握り飯を頬張る。
本当はこっそり出てくる予定だったのに、智也の早起きに気付いた家主のおばちゃんが、わざわざ急ごしらえしてくれたのだ。
「――鮭だ。おばちゃん俺の好みが分かるなんて、ひょっとして魔法使いか?」
自分の発言ながら、我に返る。
下宿屋のおばちゃんだってこの世界の住人だ。例に漏れず、魔法が使えたってなんらおかしくはない。
もしかしたら、人の心を読む魔法なんてものもあるのかもしれないと、智也は胸を膨らませた。
まだ見ぬ魔法に心を踊らせながら、無駄に長ったらしい階段を軽快に上っていく。向かう先は、校舎東側にある第一体育館だ。授業でも使用したそこは、コソ練にうってつけの場所。
「開いてなかったらめんどくさいが――」
と、入り口に着いた智也は開けっ放しにされた扉を見て、小さく握り拳を作る。しかし、そこには先客がいたのである。
体育館から響いた微かな物音に、智也の動きが固まった。
誰かに見られてはコソ練にはならない。それに、万が一中に居るのが茶髪の男だったなら、最悪の場合来た道を引き返すか、諦めてその辺で時間を潰さなければならなくなる。
そもそも体育館は戸締りされているものである。そうと分かっていながら足を運んだのは、それだけ気持ちが昂っていたからだろう。
――恐る恐る中を覗く。
と、そこに見えたのは最もその場に不相応な男の姿だった。
「降魔先生? こんな時間から何してるんだ?」
智也が戸惑った理由は、先生がいつものスーツ姿ではなく道着袴を着用していたから。
手には通常の五倍はありそうな太い竹刀を握っているが、いったい何を始めるつもりなのやら。
「――――」
先生は集中しているのか微動だにせず、得物を中段に構えたまま、静かにその瞳を閉ざした。
無音に包まれる体育館。その必要はないのに、自然と智也も口を噤み、行く末を静かに見届けていた。
「ふーー」
細く長い息を吐きながら、灰色の双眸がうっすらと開かれる。同時に、ゆっくりと得物を振り上げて、上段の構えをとった。
ただ見ているだけ。それなのに智也は息苦しさを感じた。
それだけ空気が張り詰めているのだ。普段の怠けた姿からは感じられない緊張感。その変わり様に、いつの間にか釘付けになっていた。
間もなくして、灰の眼の男はその竹刀を力強く振り落とした――――。
特にこれといった変化はなかった。
あれだけの間を要して、ただ一振りしただけ。それも力強くこそ感じたが期待していたモノは見られず。
何の意味があったのだろうかと眉を寄せる智也。視線の先の人物は、依然竹刀を振り下ろしたまま動かない。
「先生、いったい何を」
しているんですかと、そう尋ねようとしたとき。件の人物を中心に凄まじい風が巻き起こる。
突然吹き荒れた強風に窓ガラスが悲鳴をあげ、体育館は泣き喚くかのように揺れだした。
それは、離れた位置にいる智也ですら吹き飛ばさんとするほどの風威で、
「な、な……!?」
まともに口も開けれぬ、前も向けぬほどの風圧を受け、咄嗟に扉へ両手を伸ばした智也は、必死にそれにしがみついた。
にわかには信じ難い。たった一度の素振りで、これほどまでの風が巻き起こるなんて。
これも魔法の力なのだろうか。などと考える余裕はなく、智也の腕はすぐに限界を迎えた。
「やべっ」
掴んでいた手を離してしまい、支えをなくした智也の体は後方へと吹き飛ばされる――寸前、吹き荒れていた風が一瞬で静まる。
急に空気抵抗がなくなったせいで、智也は顔面を床に打ち付ける羽目となった。
「いてぇ……」
赤く腫れた顔を押さえながら、体育館の中央に目を向ける。まだこちらの存在に気付いていない男は、肩に掛けたタオルで額の汗を拭っていた。
その姿は、いつもの雰囲気からは想像もできないほど爽やかで、男の智也でさえ見惚れてしまうような魅力があった。
「――黒霧か? こんな時間にどうした」
「……ども。あの、さっきのって」
「見てたのか。まぁ、たまには体を動かさないとな……感覚が鈍っちまうんだよ」
意外な存在に驚いたのはあちらも同じだったようで、先生は灰の眼を丸くさせている。
一方智也は自分の目的も忘れるほどの衝撃を受け、すっかりそちらに気を惹かれてしまったのだが、
「お前はどうした?」
「え? あーいや、ちょっと魔法を……」
その問いに語尾が尻すぼみとなったのは、練習しようとしていたことを知られるのが恥ずかしかったからだ。
惨めな姿を晒したくない――そんなプライドが智也の中にはあった。だからこそ、早起きをしてここに来たのである。
「なるほどな。んじゃ、ちょっと試してみるか」
灰の眼に見つめられ、智也は自分の心が見透かされているような錯覚に陥った。
動揺して言葉を返せない智也に、先生が「どれからやる?」と再度問うてくる。
「あ、え……いいんですか?」
「別に構わねーよ」
「えーっとじゃあ、氷とか雷魔法が使いたいっす」
「おいおい、それは『第五属性』じゃないだろ」
「そうだった……」
何らかの鍛錬をしていたであろう先生の、その邪魔になると智也は懸念したのだが、本人はあっけらかんとしている。
とはいえ直々に指導してもらえるのに超したことはないが、気が動転していて訳の分からないことを口走ってしまった。
そうして先生の冷静なつっこみを受けて、「じゃあ風属性からで……」と智也は赤面するのであった。




