第百十七話 「現実」
「――――」
不気味さを感じつつもどこか目を惹かれる仄明かり。それが、鼓動を刻むみたいに妖しく揺蕩っている。
刻まれた紋様はさながら血を通す管のようで、それ自体が一つの生き物のようにも感じられる。
「入るならさっさと入ってほしいんだけど」
観戦室の扉の前。立ち止まっていた神童を後ろから水世が小突いた。
「あっ、すんまそん」
半笑いでその場を退いてから、もう一度魔法陣へと振り返ってそれを認める。なにを思ってか、彼は矯めつ眇めつ妖光を見つめていた。
「降魔先生、B班も01番でいいんですか?」
「そうだな」
「あの面子なら05番くらいでも問題なさそうですが」
「『発火鼠』と『鉄鎌切』か。それでいこう」
「えっ、両方ですか?」
片方だけの提案のつもりだったのか、両採用となって喫驚する洌鎌。
が、それでも問題はないと判断したのだろう。担任の指示通り、彼は二種類の魔物を再現させた。
――閃光と共に、またあの金切り音が訓練室に鳴り響いて。智也たちの前にも大量の鼠が顔を見せる。
戦い方はさっき見た。討伐対象が変わらないのであれば同じように対処すればいいだけだ。
あの鼠は、強靭な前歯を噛み合わせることによってその摩擦熱で火花を発生させ、火炎に包まって突進してくる。火を纏う前に仕留めるか、最悪噛まれなければ致命傷は負わないだろう。
「――いや、怪我はしないんだっけか」
口の中でそう呟きながら腰を落として臨戦態勢に入る。とはいえ、外傷は負わずともアレに齧られるのは身の毛がよだつほど嫌である。
正直あの男みたいに逃げ出したいと思う気持ちは強かったが、自分より不安に満ちた面をしている者が側にいると、幾分か冷静になれた。
――戦闘開始。
「Reve13――」
「【火弾】」
誰よりも早く火球を具現化させた久世が、真っ先に群れの中心へと取って置きを見舞った。
轟音を立て、ドミノ倒しみたく大群を蹴散らしていったそれは、奥の壁に当たってド派手に爆ぜる。
何度見ても理解できない破壊力に二の足を踏みつつ、具現化させた風の刃を握り直して駆け出そうと――、
「大丈夫だよ、紫月さん。僕と智也ですぐに片を付けるから」
「……」
「ありがとう。二人とも心強いなぁ」
智也は、目の前の標的が取った妙な行動に違和を感じ、走るのを躊躇った。
「何か様子がおかしい……」
「うん? どうかしたのかい?」
既に二射目の準備を整え撃ち放たんとしていた久世。しかし、足を止めた智也に気付いてその柳眉をひそめると、一拍遅れて彼も異変を感じ取ったようだ。
まるで、何かを探しているような。何かを嗅ぎ取っているような――そんな雰囲気、突として黒い粘液が噴出されて間欠泉よろしく水柱が立ち上った。
黒い雨が一帯に降り注ぎ、あたふたと動き回る鼠たちを拉いでいく。
何が起こったのか。脳がそれを理解する頃には至るところに粘液が飛び散っていて、気持ち悪いほど湧いていた鼠の姿は跡形もなく消え去っていた。
「なにあの変な魔物~スライムみたいじゃん??」
「……!!」
「ねずみよりあっちの方が戦いやすそう」
魔法陣の中心で佇む粘液状のソレを見て、鈍い反応を示す観戦者たち。中には一部対照的な表情を浮かべた生徒もいて――。
「あれ? 七種さん今日休みじゃなかったっけ?」
疑問を投げた千林の言に何人かが視線を寄せたが、彼女は最初からここにいたと言いたげな表情で首を傾げている。
元々口数が少ないのもあってそれ以上話が膨らむことはなく。今はそちらよりも訓練室の方に関心が集まっていた。
「どういうことだ……? 共食い……いや、補食された? 魔物同士でも生存競争は起こり得るのか……てっきり、人にしか害意を持たないものだと思っていたけれど」
「召喚?した魔物が、たまたま相性が悪かった……とかなんかな?」
「そもそもなんで二種類出てきたのか。特に忠告もなさそうだが……意図してなのか」
白い扉の方を一瞥し、思慮を巡らせる智也。
そんな悠長に構えている智也たちは、扉の向こう、危険を知らす叫び声にまるで気付けない。
「――! なんで黒不浄がここに居やがんだ」
「まさか、僕じゃないですよ? ちゃんと05番を構築しましたので。第一、黒不浄のデータはまだ集まっていないんですから、再現しようにもできるわけが……」
洌鎌の言った通りであるならば、モニターに映っているあれはなんなのか。それを悟って弾かれたように視線を飛ばした灰の眼は、瞬時に扉へ手を伸ばして密閉ハンドルを回し、
「重ッ……! おい、開かねぇぞ!」
「施錠されてる……? いやしかし、内側からでもロックは解除できる構造ですよ!」
押そうが引こうが回そうが、びくともしない気密扉。ならばと操作パネルに指を走らせるが、そちらも反応しないようで。
「だめだ、操作が受け付けない……!」
「なんとかできないのか!?」
「も、もしもあれが擬似霊験によって生まれたものじゃない、本物だとしたら……討伐以外に打つ手立ては……」
「だったら今すぐ避難を呼び掛けろ!」
殺気立つ男の気迫に圧倒されながら、洌鎌は急いで訓練室へと声を飛ばした。
しかし、狭い制御室に反響するだけでそれが外に届いている様子はなく。扉を叩こうと声を張り上げようと中の五人には伝わらない。
灰の眼の男は、やにわに抜刀した。
「悪いが焼き切らせてもらう」
「こんな密室で火を起こせば僕らの身もただじゃ済みませんよ!?」
「あいつらの生死が関わってんだ、四の五の言ってる場合じゃねぇだろ!」
激情を木剣に纏わせ、最上の一刀を振るうべく気を高める男の姿に、洌鎌は言葉なく目を見開いた。
✱✱✱✱✱✱
「この手のモンスターは単なる経験値要因か、容易には倒せない厄介な存在かの二極に分かれる。わざわざこれを選出したってことは、前者の可能性が高いよな……? 得体が知れないけどやるだけやってみるか」
長い独り言を呟いてから、智也は先陣を切って駆け出した。
図体がでかいだけの見掛け倒しなのか、ゲル状のソレにこれといった動きはない。やはり、先の推定で間違っていないのだろうと判断して、浅はかにも短刀片手に単身で切り込む。
鼠に比べれば見た目の嫌悪感が薄いという点が後押しになったのかもしれない。蛮勇を振るっての一閃がしかし、振り抜いた時には持ち手から先の部分が消滅していて。消えた刀身を見やり頓狂な声を出す智也の頭上、覆い被さるように粘体が倒れ込んできていた。
「智也!!」
仲間の叫び声と命の危険を感じて反射的に後ろへ飛び、不格好な体勢で地面を転がる。
間一髪、呑まれる前に脱することができたのは、咄嗟に水球を飛ばして時間を稼いでくれた久世のおかげだ。その水球も、あろうことか瞬時に溶かされ無に帰していた。
「な、なぁ、あれって本物そっくりの幻なんだよな……?」
「その旨と聞いていたけれど……」
信じ難い現実を前に困惑が広がっていく。仮に、元になった魔物に物を溶かす能力があったとして、それが疑似個体にも適用されるものなのか。
鼠で噛まれたものがいないため確証はないけれど、先生たちの説明ではその心配は要らなかったはず。
「どういうことっスか……? なんで本物がここに……?」
「どうしよう……先生たちはなんで……?」
「悪意ある仕掛けを企図したとは到底思えない。何かしらのトラブルが発生したと考えるべきか」
「でも、じゃあなんで助けに来てくれへんのやろ……?」
それは、と考えあぐねる久世を横目に智也は一考する。
おそらく来ようにも来れない状況に陥っているのだろう。制御室と称していたことと、黒い方とは異なる扉の材質から、機械的な問題――動作不良かなにかによって出られなくなっているのではないかと睨んだ。
「俺が呼んでくる。紫月は万が一のために出口の確保に向かってくれ」
「……わかった!」
二つ返事で応じて入り口へ走っていく背中。
智也もすぐに制御室へと向かい、まずはその扉を叩いて中の二人に呼び掛けた。
「先生! 聞こえますか!?」
「降魔先生!!」
応答がない。こちらの声が聞こえていないのか。
扉を叩いた感触からも、音が伝わっている気配はなく、まるで厚い壁に隔てられているかのよう。
これは施錠されているのではなく、なにか別の要因によって閉じ込められているのだと悟る智也。そのとき、取り乱したような声が遠くからした。
「智也くん……! 扉開かへんよ!」
制御室がこの様子だと、出入り口の方も封じられている可能性は高いだろうと思ったところだった。
誰がいったい何のために――今はそれよりも、目の前のアレをどう退けるかが先決か。
「制御室の方も駄目だった。多分一時的に出入りが出来なくなってるんだと思う」
「そんな……」
「つまり、僕たちだけであの怪物をどうにかするしかないと」
確認の意を含んだ視線に同じく目で応じて。望み薄な期待と願望を口にしてみる。
「この中に魔物との戦闘経験がある人って……」
「お生憎と箱庭育ちだったからね……」
可能性があるとすれば久世くらいだと考えていたが、本人からそれはないと首を振られてしまった。藤間に関しては留年させられていたことを思うとなさそうで、智也含めた残りの三人は、誰が見ても希望の持てる面はしていないだろう。
「まだ分からないけど……あの魔法陣のある場所から動く気配がないのが幸いか? その間に様子見で」
そこまで言って、自分に疑念を抱いてしまう。
様子見で何をするというのだ? 長期戦を加味して、魔力を節約して、それで……?
――戦場じゃやらなきゃこっちが喰われる。
そう、やるかやられるかの死合において、小手先のごまかしなど何の意味も持たないのだ。
「あれ……? どうやって戦えばいいんだ……?」
思考の果て、智也は迷走してしまった。
「【水膜】!!!」
隣から。いきなり大声で叫ばれたかと思えば正面、離れた場所に位置していた魔物から何かが飛んできていた。
吐瀉物のような、見るからに異臭放つ液体が視界を覆う形で広がっている――。
「早くッ……離れて!」
切羽詰まった久世の声。訳も分からず言われた通りに後ろに下がり、その全容を収めて絶句する。
高密度に展開した水の膜を、魔物が吐いた粘液がたちどころに侵し、溶かしている。――あわやというところで智也に続き、久世もその場を離れて難を逃れた。
「遠距離もいけるのかよ……!」
「それだけに留まらない。あの体液が飛んだ場所、腐食が始まっている……。訓練室に張り巡らされた結界は何層にも及ぶと聞くが、或いは時間の問題かもしれない」
「それじゃあ、もしあの液体で一面を覆われてしまったら……」
最悪の構図を想像する七霧に「身動きすら取れなくなってしまうね」と、久世が額に汗を滲ませ独り言ちる。
――結界をも溶かす力があるのだとしたら、ひょっとして制御室の扉を無理くり開けることができるのではないか。
智也の頭に、そんな考えが降って湧いた。
だが光明に見えたその方法を取るには、誰かが訓練室の隅にある、あの扉の前で囮にならなければならない。ギリギリまで魔物の気を引いて、粘液が吐き出されたのを見てから退避する必要があるのだ。
失敗すれば取り返しのつかないことになってしまう。そんな大役を他の誰かに任せることなどできやしない。自分がやるとして、上手く逃げ切れるかどうか。
「残陽で潜れば……」
だめだ。粘液で脱出口を防がれてしまっては、二度と地上に戻れなくなってしまう虞がある。
なら影送りならどうか。――発動までに時間を要するため、現実的ではないだろう。
「とにかく、時間との勝負になる。魔物にも何かしらの弱点があるはずだよ。僕が一通り探りを入れてみよう」
そういって勇み立った久世は、直接床に魔力を流して攻撃を仕掛けた。
「Reve40【鉤状突兀】」
複数の針岩が食い合うように飛び出して。力強さと勢いを増しながら標的へと迫っていく。
それは粘体の足元から中腹にかけてを串刺しにする形で貫いたが、ただ孔が空いただけに過ぎず効き目は感じられない。
すかさず次の言霊を唱え天井から針の雨を降らせるが、そちらも大したダメージにはなっていない様子。
「斬撃や刺突系の魔法じゃ駄目みたいだ。なにか、もっと芯に響くような魔法があれば……」
「それならば……」
渋い表情を浮かべてから、久世は瑠璃の瞳を閉ざした。
突き出した左腕を反対の手で支えながら、時間をかけて捻出されるもの。それは、あのとき智也が色んな意味で衝撃を受けた魔法だ。
「Reve44【雷火逼墜】!」
雷鳴を轟かせ激震をもたらしたイカヅチは、軟体の脳天を確かに捉え、表面を焼き焦がすと共にその中核へと大電流を走らせる。
間近で銃声を聞いたかのような空気の割れる音。思わず片目を閉じながらも、魔物の体が二分されるのを智也は見た。
「やっぱり凄い……」
改めて感銘を受ける智也にしかし、久世は浮かない表情だ。
なぜなら、かち割れ焼き切れたはずの肉体が、見る間に寄り合い元の形へと戻っている――。やはりこれでもダメかと気を落とす彼に、智也は待ったをかけた。
或いは、粘体のどこかに中核となる肝があるのではと考えての先の発言。その予想は外れ、急所らしき部位は見当たらなかったが、明らかに前二つの魔法とは違う生体反応が見受けられた。
「熱だ、熱に弱いんだ。一見効いていない風に見えるけど、裂けた胴体と特に直撃を受けた表面の部分が爛れていた。今の落雷ほどじゃなくても、持続的に高温で熱すれば……無力化できるかもしれない」
「なるほど、そういうことなら」
「火属性の魔法なら効き目があるん? だったら私も微力やけど……!」
智也の言葉で顔を上げ、目に光を宿らせる二人。それに七霧も合わさって、智也も形だけは昂然と肩を並べる。
「Reve11【火弾】!」
「Reve31【手銃花火】!」
三人で火球を撃ち込み、そこに追い討ちをかける形で久世が火炎を放出する。
魔物は炙られるのを嫌ってか、炎から逃れようと粘体をうねらせるが、紫月と七霧の追撃がそれを許さない。
――効果は覿面のようだ。ようなのだが、まだ火力が足りないのか焼き付くすには至らず。
側方へ一瞥を投げる久世。なにもしていないように見える男へ彼は躊躇なく声を飛ばした。
「藤間くん」
「二世ごときが指図すんじゃねぇ」
言われるまでもねぇんだよと、舌打つ音を空耳に。獰猛な獣が如く双眸が標的を捉えた直後、むせ返るような熱気が立ち込めた――。
「Reve41【大噴炎】」
爆音。轟音。床から噴き出た炎が瞬く間に魔物を包み、その業火を以て巨体を焼き滅ぼす。
ぼちょ、ぼちょと全身が溶けるように崩壊し、焦げくずれ、終いに火炎放射が胴体に孔を開けて四散。その散り散りになった肉片さえも、凡てが焼却された。
――結局あの二人だけで事足りたのではないか。そんな懊悩を頭の片隅でけぶらせつつ。誰も怪我することなく危険を回避できたことが何よりだと一息。
「倒せたんスか……?」
「完全に消滅したようだね」
「あぁ」
心底から安堵の息を漏らす紫月と、体の力みが取れずにいる七霧。彼の不安げな眼差しに智也と久世が応え、もう一人の立役者へと改まって久世が謝辞を述べる。
「助かったよ、ありがとう」
向けられた真心を一顧だにせず、白んだ目を他所に注いでは耳を塞ぐ藤間。そうなることは分かりきっているはずなのに、実直な奴だなと智也は苦笑した。
「これで外に出れるんかな?」
「どうだろうか。先生方も何かしら反応をくれると有難いけれど」
扉の方を見やって口を曲げる。そんな久世の発言に自然とみんなの視線がそちらに流れて、そして。
「嘘だろ……?」
黒い液体が、再び噴出したのが目の端に映った。




