第百十六話 「躍動する影」
異質なほどに白い空間。初めてではないものの、あまり来ることのなかったその場所で、二人の教員を前に整然と列を作る。
異様な光景だ。
指導者は一人が常だったこともそうだが、横に並んだクラスメイトの表情と場の空気感。それはまるで、強制兵役によって徴募された子ども兵のよう。
それもそのはずである。久方ぶりにこの施設を利用することとなったのは、本来の機能を果たすためであり、その用途というのが――、
「今日からお前らには、ここで魔物との戦闘経験を積んでもらう。実際に街の外で跋扈している化け物共だ。だが、あくまでここで戦うのはその虚像に過ぎない……怪我はしないから安心して臨んでくれ」
「安心しろつったってさ……」
「ほんとにやるんやね……魔物……」
誰も彼も暗い顔をしている。
昨日まで普通の学園生活を送っていたはずなのに、いきなり方針が変わって訓練を受けさせられることになったのだ。
――そう、これは戦闘訓練。授業や練習などではない。智也たちが楽しみにしていた日々と時間は、訪れることはないのだ。
「うちのクラスが一番手に抜擢されたのは、対抗戦で優秀な成績を収めたからだ。お前らには期待がかかっている」
そんな風に話す担任をじっと見つめて、「せんせいじゃないみたい」と栖戸がこぼした。
その言葉に共感を覚える智也。自分達のことを大切に想ってくれていたあの人が、生徒の望まないことを強要するなんて。そうなってしまうまでの心境の変化がなにかあったのか。夢か幻か、いっそ別の誰かが扮しているのではと願いたくもなる。
だが、いつにも増して覇気がないものの、智也が憧れの人を見紛うはずはなく。
「そこで、初の戦闘訓練ということもあり、今回は二人体制で見ることになった」
「こんにちは、洌鎌透です。分からないことがあれば気兼ねなく聞いてくださいね。A組の皆さん、本日はよろしくお願い致します」
紹介を受け、洌鎌と名乗った茶色の髪の男性。物腰穏やかで優しい印象は初対面の際と変わらず。ただ今は、日常から逸脱したこの状況が不快で不快で仕方なかった。
「それではまず、訓練を行う前に、皆さんには魔物との戦闘において最も大切な魔法を覚えてもらいます。どんな魔法か分かりますか?」
「……」
誰もなにも言葉を発しない様に苦笑を浮かべる男性。
気を取り直して、彼は説明を続けた。
「模擬戦や対抗戦とは異なり、実戦では魔法服の恩恵がほとんど得られません。ご存知の通り、そこに施されている結界が魔法によるダメージを防ぐために特化したものだからです」
「もちろん、魔物との交戦時には専用の防護服を着用してもらうことになりますが、より安全に身を守るためにも防護魔法の会得は必要となるのです」
異空間から魔導書を取り出しパラパラと頁をめくり、そこに視線を落としながら解説を行う。
「補助魔法29番光箔。全身に魔力を纏わせ鎧とする魔法……区分としては初級に当たりますので、そう難しくはないはずです。この魔法は、箔が29で覚えるといいでしょう」
眼鏡を押さえて得意気に話す洌鎌先生。が、生徒からの反応は薄く、手応えのなさに「ひょっとして、こういう覚え方はしないのかな?」と焦り顔。
おそらく場を和ませようとしてくれたのだろう。平時なら愛想笑いの一つくらいあったかもしれないが、どうしたって今はそういう気分にはなれなかった。
「できれば常に最大効力を維持したまま戦うのが理想だが、とりあえず今は扱えるようになりゃあそれでいい。洌鎌先生と二人で見て回る……全員、一度やってみろ」
――そうして、晴れない気分のまま新たな魔法の練習が始まった。
「えー貴方は栖戸心結さんですね。どうしました? 手が止まっているようですが。番号が分からないのかな? 29番の……」
「こうま先生に教えてもらいたいです」
ぼうっと立ち尽くしていた生徒を見つけ、名簿片手に歩み寄った洌鎌。柔和な笑みを浮かべ寄り添ってみるも、女生徒から「お前じゃない」と遠回しに拒絶され。顔の表情が一瞬凍り付いた。
「ちょっと失礼」
そう言って足早に少女から離れると、別の生徒の指導に当たっていた担任の腕を引き、生徒から離れたところで小声で捲し立てた。
「やっぱり僕には無理ですよ! 生徒さんの目が怖いんですけど!」
「どうしてだ、クラスを受け持った経験あるんだろ?」
「昔の話ですよ! 言ったじゃないですか、今は裏方に回ってるって!」
彼の必死の形相に灰の眼の男は頭を掻く。それから宥めるような声色で、
「つっても全員優秀だ、そう手間取ることもないだろう。あと一人二人だけでいいから見てやってくれ」
洌鎌は渋々引き下がった。
一人だけなら――そうぼやきながら他で困っていそうな生徒はいないかと目を配り、孤立していた男子生徒を見つけて今度こそはと意気込む。
そして、よりにもよって一番とっつきにくい男に話しかけてしまった彼は、そのあと再び泣きを見るのであった。
✱✱✱✱✱✱
「入学式のときは可愛げがあったのに……一月も過ごせば自我も芽生えますよね……。やっぱり僕に教師は向いていなかったんだ……」
「ん、問題なく扱えてそうだな」
生徒の調子を見てそう呟く担任の側、ぶつぶつと呪言のように繰り言を続けているもう一人。どうやら先の出来事が相当堪えたらしい。
むしろそちら側に問題がありそうだが――と、智也は寝そべりながら思う。
防護魔法はその効力を常に最大の状態で維持するのが理想という補足を聞き、どこまでやれるものかと試してみたら案の定すぐに魔力が底をついてしまったのだ。
分かりきっていたことだが、つくづく便利が悪い。ゲームならこんな能無し絶対に使わないのに。
そんなことを考えながら腹の下で萎んだ風船を引っ張り出し、顔の前に持ってくる。これまで度々お世話になっている魔力回復用の魔導具だ。
こうして智也が床のシミと化している光景は見慣れたのか、誰かに触れられることも奇異の目を向けられることもなく、悠々と一体化していられる。
――このまま一日が終わればいいのに。
なんて考えてしまうのは、これから行うことに対しての消極的な気持ちの表れで。とやかく言っていても事態は好転しないと、重たい体を起こして立ち上がった。
「戦闘訓練は三つの班に分かれて一組ずつ行う。出てくるのは低級の魔物だけだ。お前らなら問題なく対処できるだろう。早速、組分けを発表するぞ」
――A班。虎城、神童、清涼、水世、雪宮。
――B班、久世、黒霧、紫月、藤間、七霧。
――C班。国枝、七種、栖戸、千林、東道。
「なんとも感慨深い組み合わせだね」
「智也くん……よろしくね」
たまたま近くにいた二人がそう声をかけてきて、前者には苦い顔を、後者には「あぁ……」と上の空気味に応えつつ、向けた視線の先で七霧と目が合い顔を逸らされる。
「A班から順に始める。他の班は観戦室で控えていろ」
そう指示され、白い空間に映える黒い扉へと向かう面々。その途中も七霧のことはずっと目で追っていたが、やはり距離を置かれていた。
誰かが勝てば、誰かが敗者となるのが勝負の世界。仕方がないとはいえ、自分だけがなにも出来なかった事実への深い思いと純粋な心に負った傷は、癒えるにはまだ早いよう。
「最初にも言ったが、ここで戦うのはあくまで本物を再現した幻だ。慣れるまで時間のかかるやつもいるかもしれねーが……戦場じゃやらなきゃこっちが喰われる。まずはその目と体で覚えてもらうぞ」
投影された壁の向こうの様子に、不安げな眼差しを向ける観戦組。いくら安全だと言われようとも化け物と対峙するのだ、恐れを感じないわけがない。
智也自身それを目にするのは三度目となるが、初めてのときは当然、前回も内心は心臓が飛び出そうなほど怖かった。
「あんなの、慣れるもんなのかな……」
恐怖体験を思い出しながら、説明を受ける五人に目をやる。まるで動じていない者が一人だけいるが、総じて怯えた表情を浮かべていた。
一体、これからどんな化け物と戦わされるのか。そんな面持ちだ。
「俺と洌鎌先生は制御室に入る。五人で協力して群れを退けろ」
「え……? 魔物って何匹も出てくるんですか?」
心惑う清涼の言葉に、しかし何も答えることなく場を離れようとする。そんな担任と生徒たちの間で視線を彷徨わせた眼鏡の彼は、「一定のダメージを与えれば魔物は消滅します。焦らず、落ち着いて戦えば大丈夫ですよ」と助言を残し、担任の後を追ってもう一ヶ所存在した目立たない扉の中に入っていった。
「……大丈夫なんです? あんな突き放すような態度……降魔先生らしくないというか」
「いいんだよ」
厚い気密扉がゆっくり閉まり、密閉された空間に硬く重い音が反響する。他の施設では見かけることのないモニターや操作パネルが複数並んでいる部屋――まさに制御室と称された通りの趣だ。
壁に背を預けて腕組みする男を横目に、メインモニターの前の席へと腰掛ける洌鎌。そこに映し出された中の五人を一目し、隣の男に問い掛ける。
「ちなみに、これまで『擬似霊験』を使ったことは?」
「一度もない。教え子には同じような経験をしてほしくないと思っていたからな」
「……そうですか。始めていいんですね?」
「あぁ」
念を押す洌鎌に淡白な返事を投げる灰の眼。むしろ、担任教師ではない彼の方が憂えているようだった。再々の確認を取ったあと、洌鎌は姿勢を改めた。
「では、01番を再現します」
言って、押しボタンやトグル式のスイッチを慣れた手付きで操作していく。動力源となる玉塊石を接続し、装置を稼働させれば、訓練室の床に描かれた巨大魔法陣が強い光を放ち始める。
戦場で収集したデータを基に、ガワとなる特性や特徴だけを再現、構築した、仮想妖魔の出現だ。
――光の中、金切り音がやにわに発生して。
不快な鳴き声が数を増すのに比例し、小さな獣が五人の眼下に続々と湧き出てくる。
「ね、鼠……?!」
げっ歯類の主な特徴である一対の前歯。それを一匹が軋ませたのを皮切りに、他の個体も頻りに鳴らし始めた。
カチッ、カチッ、カカカカチカチカチカチと寒気立つ気味の悪い連鎖が続いて鼠たちの前歯から火花が散る。
それはやがて勢いを増し、火を起こし体を覆う火炎となる前に撃ち込まれた水泡が先頭の一匹を弾き飛ばした。
霧状に散りゆく魔力と共に、爆ぜた矮躯の黒が混ざって細かな水玉を描く。
「ボサっとしてないで動きなさい!」
響く罵声。場の空気に呑まれて動けずにいた班員に声を飛ばしながら、手を休めることなく水泡を撃ち込む水世。
五、六体を手早く片付けるも、減った分だけまた魔法陣から湧いてきており、「こんなのどうしたらいいんだよ!」と虎城が泣き言を漏らし、襲いかかってくる鼠から神童が背を向け逃げ出す。清涼に関しては完全に萎縮し震え上がっていた。
「邪魔! なにもしないなら引っ込んでて」
いつも以上に角の立つ言葉で後ろに追いやられる清涼。涙すら浮かべた彼女の面など見向きもせず、水世は決死の表情で魔法を具現化させていく。
「Reve12【水風船/針】」
「Reve27【霧雨】」
歯を剥き出しに、白肌に齧り付こうと飛び掛かってきた個体を鋭い一撃が貫いて、そのまま後ろの一体の脳天を穿つ。
それで敵意を集めたか、火を纏った十数体が一度に疾走してくるが、天から降り注いだ雨粒が悉く串刺しに。
「白髪の彼女、場馴れしていますね……さすがだ」
モニター越しに戦いぶりを観察していた洌鎌が、そう感嘆の声を漏らした。
「……でも、やはり他の生徒さんには早かったみたいですね」
「……」
一方で、戸惑い狼狽えている生徒の様子には苦虫を噛み。そんな戦う意思のない者たちにも見境なく魔物は牙を剥く。
「うわあああああ気持ちわりいいいい!!!!」
「おい馬鹿、神童! なんでこっちに来るんだよ!」
逃げ回る神童の背後、夥しい数の鼠が一心不乱に追ってきている。その進行方向、巻き込まれそうになった虎城が顔を引きつらせながら同じく尻尾を巻こうとして、彼の耳に悲鳴が届いた。
振り返れば、神童が連れてきた大群の中の数匹が逃げ惑う清涼の元へと迫っている。悲鳴を上げることしかできないでいるそんな彼女を見て――虎城は駆け出した。
「ちきしょう……!」
具現化させた風の刃を両手に、一刀を飛び付こうとしていた個体へ投擲。もう一刀で後続を切り裂いて黒い飛沫を上がらせる。
肉を裂いた感触まではないにしろ、仮にも動物の姿をしたものが目の前で裂けたのだ、相応の忌避感は抱いただろう。
「うわぁ、初めて切っちゃった……清涼さん大丈夫?」
「ありがとう……虎城くんは強いね。私、足が竦んで動けないや……」
「……俺も同じだよ。いきなり魔物と戦えって言われても、できるわけないよな」
自分の足に触れて弱々しく笑う清涼に虎城が苦笑いを向けて。いつの間にか聞こえなくなっていた誰かさんのうるさい叫び声に気付いて視線を戻すと、そこで自在に飛び交う斬撃によって大群を一網打尽にしている、勇ましい仲間の姿に目を丸くさせた。
「やっぱり選抜組はスゲェや」
深く感じ入ったような声色と眼差し。
そうやって感慨を抱いている間にも魔物はみるみる数を減らしていき、ついには一匹も出てこなくなった。規定の討伐数に達したのだろうか。
「お疲れ様です、よく頑張りましたね。初めてにしては上出来ですよ」
と、拡声器から降り注ぐ声。ほとんど水世と雪宮に任せきりではあったものの、今は脅威が去ったことへの安堵だけが虎城たちの顔に表れていた。
「秋希ちゃん……怖かったよ~~」
控えにいたメンツと合流し、梅色が目に入るや否やいきなり胸に抱きつく清涼。そんな彼女の頭を撫でながら、「無理もないよ」と心を重ね合わせるように千林が言った。
――次は智也たちの番だ。
さっきと同じか、それともまた別の種類が用意されるのか。なんにしても気乗りはしないし、一秒でも長くこの場に留まっていたかった。
「b班、戦闘準備に取り掛かれ」
不安を煽られるような指示の下、智也たちは妖光放つ魔法陣へと近付いていった。
✱✱✱✱✱✱
「偏に戦闘訓練と言っても、どのようなことをするのです?」
「魔物の来襲に備えて、護身術の体得や、仮想的に再現された擬似個体を用いての特訓を行うんじゃ」
「擬似個体って?」
「本物に酷似した偽物……いや、空虚な実物と呼ぶべきか」
「桃ちゃん、それじゃ余計に分からないと思うよ」
「なに?!」
智也たちが訓練室で鼠狩りを始めた頃、賑やかな声が渡り廊下に響いていた。
白い頭の老教師を囲うように飛び交う会話。その弾みで前を歩いていた一人が勢いよく振り返り、足をもつれさせて転倒。老教師が咄嗟に伸ばした杖でこれを受け止める。
「これこれ、危ないぞ」
「ちゃんと前向いて歩こうね」
「忝ない……」
含羞の色をわずかに見せる少女に朗らか笑みを浮かべ、老爺は楽しげに笑う。
「擬似個体とは。実在する魔物の特徴を捉え、写し取った、意思ある魔力みたいなものじゃ。よってお主らに害を及ぼすこともない、ただの張り子の虎よ」
「――なるほど、下稽古というわけですか」
「じゃが、訓練室は他のクラスがつこうとる。今日はここで防護魔法についてでも教えようかのう」
体育館の扉を開け、そう話す担任に、生徒から疑問の声が上がった。
「なんで訓練室じゃないとダメなんですか?」
「そりゃあもちろん、擬似個体を現出させるための魔法陣や装置が、訓練室にしか備わっとらんからじゃよ」
へー、と問いを投げた女生徒。それから一点を見つめた彼女の瞳が妖光を映し、訝るように眉根を寄せた。
「ねぇ、体育館にあんな模様書いてあったっけ?」
「ほんとだ。鬼先生、魔法陣ってあれのことじゃないんですか?」
「――なに?」
老教師が瞠目した直後、魔法陣から閃光が放たれ唸り声と共に複数の影が彼らの前に現れた。




