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第百六話 「生と死の狭間で」

遅くなりました。そして今回長いです。



 岩影に潜んでいた摩訶死蟻の不意打ちが、梅色の髪の少女に見舞われる。

 振り下ろされた大きな杭――それは、結界を構築するために用いていたはずの片割れだった。


 刹那、矢のごとく飛来した何かがその一撃を代わりに引き受ける。吹き荒れる突風に思わず閉じた目を開ければ、少女の前に割って入った王隹が、身を覆うように重ねた翼でそれを防いでいた。


 鈍い音と共に降りかかった重い衝撃。彼は額に汗を滲ませながら、後ろに庇った自分のためにそこで踏ん張っていた。


「っ、先輩……!」


 驚きの声を上げたのは、寸前まで別の個体と交戦していた彼が数瞬の間に現れたことに対してだけではない。

 どちらかと言えば、岩影から奇襲をかけてきた摩訶死蟻の知能の高さと、まるで感じなかった気配に対してが主である。


 標的を見失った一体目が、驚いたような素振りで首と触覚を動かして、再びその匂いを捉えるやこちらへ向かって走ってくる。

 ――まずい、先輩はいま身動きが取れない。

 少女がそう思ったとき、悠子と日吾の放った援護射撃が目の前の個体を横撃した。


 まるで鎧のような外骨格に阻まれ然したるダメージにはならなかったが、二人の機転によって摩訶死蟻の注意が一瞬逸れる。

 その隙に、生み出した突風によって杭ごと吹き飛ばし、体勢を整えた王隹がひとっ飛び。頭頂部の触覚を切断する。


 生命線を絶たれ、失くした部位を手で押さえながら硬直する摩訶死蟻。そのまま微動だにしなくなると、そいつは独りでにコロンと横向きに倒れてしまった。


 なるほど。あれが先輩の言っていた弱点なんだと解釈して、少女は迫る一体目を迎撃する。


「ゆっこ!」


 それだけ言って疾駆する少女の意図を完璧に理解し、真後ろから後方支援が飛ばされる。

 それを一顧だにせず地面を跳ねた少女は摩訶死蟻の頭上を取って、直後、烈風が足元を掠める。それに合わせて大量の火種を飛ばし、二人の魔法が同時に炸裂。


「【陽華(ひなそう)】!」

「【春一番(はるいちばん)】!」


 ――阿吽の呼吸が織りなす強力な連携に瀕して、摩訶死蟻が優先したのは急所の防御だった。

 思わず唸るような防衛本能とその反応速度。籠手のような腕を頭に回すことで降りかかる爆撃から頭部を守り、同時に身を竦めることで腹圧を高めて腹の守りも強化。烈風をものともしない。


 ただ、奴の眼にはそこまでしか視えていなかったのだろう。

 人の視界ほどはっきりと物が判別できないその複眼には、代わりに人には見えない特殊な光を視ることができる。

 ――魔力の流れと濃淡。それの識別に秀でているのが摩訶死蟻の眼力であり、保有する特異的な力であった。その特徴を知ってか知らずか、少女たちは見事に逆手にとってみせる。


「こっちが、本命だっつーの!」


 自ら生み出した烈風に身を投じていた悠子が、風に乗り急接近。複眼にはそれが渦状に放出された魔力としか見えておらず、懐に潜り込んだ彼女には、丁度叩きやすい位置に頭が差し出されている形に。

 そうして、切り払うように一閃。一対の触覚が落ち葉のように宙を舞う。


 先に倒した方と同じように、まるで電池が切れたみたく動かなくなり、コテンっと横に転がる摩訶死蟻。

 初めての会敵だったが思いの外うまくやれたと、少女は安堵の息をもらした。


「ふ、二人とも、すごいね」


「見たぁ? あたしらのコンビネーション。どーーよ、やればできるっしょ」


「ま、まぁまぁだな……」


「まったまた~、そんな見栄張っちゃって。正直びびってたんじゃない? 足、震えてるよ」


「べ、別に俺でもやれたし!」


 緊張の糸がほぐれてか、みんな元通りの空気感に戻ったようだ。

 ずっとおどおどしていた斗南からも笑みがこぼれ、胸に巣くっていた不安や恐怖が薄まったのを少女も感じた。


 自分の心の声に従って良かったと、心底そう思った。だがその前に、この身があるのは命懸けで守ろうとしてくれた先輩のおかげである。そのことについてお礼を伝えにいくと、彼はどこか茫然としていた。


「先輩。さっきはありがとうございました」


「あぁ、いや……それより、少し見くびっていたよ。まさか君たちが、ここまでやれるとは」


「え~~そうですかぁ? もっと褒めてください」


 礼を伝えるはずが、逆に称賛の言葉をもらってしまい気恥ずかしくなる少女。

 一方でお世辞を真に受けた悠子は調子に乗って鼻先と鼻の下を伸ばしていたので、冷ややかな視線を送ってやると「冗談だって~」と彼女はおちゃらけて。


「ともあれ、全員無事でよかった。他の個体が匂いを嗅ぎ付けて来る前に、さっさとこの場を離れよう」


 先輩の指示に各々が首肯を返して、足早に群晶地帯を後にする。

 そうして初めての『跨入』を無事に終えた四人は、然るべき場所に採掘した石を納品。それと引き換えに得た多量の報酬金と土産話を持ち帰り、活気ある街へと帰還するはずだった。



「直ぐ……あッ゛……」


 ナニカを抉るような気味の悪い音に続いて鼻につく鉄臭い匂い。

 現実離れした、この空気感()に相応しくない情報が五感を伝って脳に押し寄せてくる。決壊したダムからなだれ込んでくる濁流のように、豊満な胸に空いた穴からこぼれ出る鮮血のように。


 拒絶。拒絶、拒絶、拒絶。

 五感から伝わる情報を、脳が拒絶する。


 だって、この場にはもう脅威となるものは居ないはずで、万事解決して五人仲良く帰るところだったのに。

 先の二体はちゃんと無力化させたし、他に潜んでいた個体がいたとして、先輩が気付かないわけがない。何より、自分の時と違って周りに身を隠せるようなものはなにもないのだ。そんな突然、何もない場所から、凶器が飛び出すなんてことはあり得ないのだ。


「もう来てたのかッ……!!」


 肌を粟立たせ、驚愕と憎悪の混じったような顔をした王隹が、一番近くにいた少女を庇うように腕と羽根を広げてこれでもかと見開いた目で周囲を睥睨する。


 状況を飲み込めないでいる三人。

 独りでに地面に倒れ伏し、そこに血の池を作る斗南を見て、日吾の口からか細い声が漏れた。


 一瞬だった。


 危機を乗り越え、安堵した束の間にソイツは音もなく現れた。――まるで最初からその場に居合わせたかのように。


 目の錯覚かと思うような揺らぎが生じて、ソレは現前した。斗南を襲い、姿をくらますまでのわずかの間、少女が目にしたのは限りなく透明に近い真白な体躯。

 胸を貫いた凶器――いや、骨張った五指とそこから伸びた恐ろしいほどまでに長い爪が、彼女の命を掻っ攫っていったのだ。


 ぶわん。と、ギリギリ視認できるかどうか程度の違和感を滲ませながら再び現出する白い死神。同時に、今度は右の凶器が悠子の首目掛けて突きだされ、既のところで硬質化した羽根がそれを防ぐ。

 弾かれた爪に一瞥くれ、その場を飛び退いた死神はまたしても景色と同化し見えなくなる。

 次に備えて翼をたたんだ王隹が、まだ理性のある二人に対して声を飛ばした。


「河那、千林。さっき言ったことを覚えているな」


「ッ……」


 彼が何を言わんとしているかを察して息を呑む。

 分かっている、もう四の五の言ってられないと。目の前で仲間が一人死んだのだ。自分たちがそうなっていないのは彼のお陰であって、次の瞬間には横たわっていても何らおかしくはないと。

 そして、それほどまでに自分たちは無力であると。


 漂う絶望と無力感に唇を噛む少女。すぐ側では悠子が目を泳がせていた。


「河那!」


 そんな彼女に号令して、逡巡していたその身に活を入れる。

 知り合って間もないが、ここまで気迫のこもった声は初めてだった。


 一瞬だった。

 ほんの一瞬で、命が奪われた。


 なにも反応できなかった。いや――今なおできていないの間違いだ。落ち着きを失った心臓を、抑えることすらままならない。

 こうしている間も、無力な自分たちを守るため、彼は一人で奮闘している。


 これも経験の差なのか、彼は不可視の化け物相手に渡り合えているようだった。足枷さえなければもっと善戦できるのかもしれない。

 そう思う反面で、どこかその横顔には危うさも感じられて。いるだけ無駄だと痛感しつつも、このまま落ち延びることも怖くてできなかった。


 瞳に映った泣きそうな顔を見つめ、どうすることもできずに口籠る二人。

 王隹はそんな少女たちに今一度言い聞かせる。


「いいか、よく聞くんだ。あの白い個体は、摩訶死蟻の母体であり群れの統率者だ。あれが前線まで出向いてきたということは、すぐそこまで数百の軍隊が押し寄せてきていることになる。――戦えるのか? 大群を相手に。自信がないと思うのなら、今すぐこの場を離れろ」


 そう言われ、自然と二人の目線は下に落ちた。

 視界に広がる赤赤とした光景。それにすっかり入り浸り、どす黒い赤に塗れた軍服と、二度と口を開かなくなってしまった少女の死に顔。その亡骸の前で膝をついた日吾が、ずっと譫言を呟いている。

 それらに思いを馳せて発した歯切れの悪い言葉は、続く彼の厳しい一言によって上書きされた。


「同情で人は救えない。情けで抜いた刀では、なにも斬ることはできない。過去を顧みず、ただ一目散に逃げること……それが今の君たちにできる唯一の仕事だ」


 ――自分には、正義感がある方だと少女は自負していた。

 だがこの場において、そんな安っぽい感情一つでは何も成し得ないのだと知らしめられた。


 苦渋の決断。

 苦虫を噛み潰しながら――いや、噛んだ唇から止めどなく流れてくる血を飲みながら、少女たちは尻尾を巻いた。


 そうして忸怩たる思いで踵を返した途端、後方から耳に飛び込んでくる衝撃音。

 吹けば揺らいでしまうような決意がさっそく波打って、二の足を踏んでそちらへ振り向けば、最奥部の岩崖が崩壊して中腹に横穴が出来ていた。

 穴から顔を覗かせる複数の死蟻――魔物てきの増援のお出ましだ。


 思わず身震いしてしまうほどの数が、そこで犇めいている。恐怖から硬直してしまう少女らの背を、今度は彼の怒号が突き飛ばす。


「走れ!!」


 命じられたまま無我夢中で走り出す。正面に向き直る過程で視界に入った少年は、依然としてへたり込んだままだった――。



 不安と、恐怖と、募る帰心からか、どれだけ走ってもあの荒野は遠く届かない。

 そう思っていた矢先、不意に二人の視界に変化が訪れた。群晶地帯に這入った際に見た現象と同じだろうか。移ろいゆく景色に目を凝らしていると、視界一面に黒が広がる。


「ひ……」


 見に覚えしかない、トゲトゲした外骨格と人並みに発達した長い手足。それらが目の前の空間から躙り出るように現れて、驚きの余り引き呼吸になる。

 少女らが境界を跨いだのではない。目と鼻の先にあった裂目から、別の個体が顔を出したのだ。

 

 ――退路を断たれた。


 岩崖に囲まれたような地形なため、出で入るための道は正面(そこ)にしかない。それを新たに現出した別動隊に阻まれて、後ろからは大群が押し寄せてきている形。つまるところは袋の鼠だ。


 窮地に至り、二人は足を止めてしまった。

 さっきは曲がりなりにも一体を討伐できたが、あれは強力な後ろ盾があったのが大きかった。そうでなくとも、目の前のそれは他の個体とは異なる特徴をしている。

 二回り以上大きな体格に、ここぞとばかりに短くなった頭の触覚。そこだけ見ても他とは一線を画した風情が感じられる。


 或いはその巨体を掻い潜って先へ進んだとして、後を追われればどのみち戦闘は避けられない。

 そして、眼下に佇む少女らに気付いた巨体三体が、手に持っていた長柄の武器をそれぞれ構えて襲いかかってきた。悩んでいる時間はもうなかった。


「千夏……」


「ゆっこ、やるよ」


「――うん」


 胸中で入り乱れる感情と思考を無理やり端に追いやって、隣の相棒と気持ちを高め合う。

 それから正面の敵を見据え、同時に左右に旋回。中央の個体が振り下ろした刃物が二人の影に突き刺さる。


 利器まで用いるだなんて、体格だけでなく戦い方まで人の毛色が混合している。地面から伝わる衝撃にそんなことを頭の片隅で考えて、左の一体へと火球を飛ばし注意を引き付ける。別所では、激しく飛び回る羽音とそこから繰り出されたであろう刃音が響いていた。


「――三体同時に相手をするのは利口じゃない。まずはこっちの一体を……」


 摩訶死蟻はそれそれが鎧のように硬い外皮を持っている上、統率のとれた連携を行ってくる可能性が危惧される。普通にやりあっていては勝てるはずもない。各個撃破するため、少女らはまず三体を分断すべく動きに出た。


 背中を晒して逃げる少女の誘い出しに、釣られた一体が得物を携え追ってくる。それを肌で感じながら岩崖を沿うように走り、ある程度の距離を引き剥がしたところで向き直った。

 逃げるのは止めたのかと、訝るように左右へ小刻みに首を傾げる摩訶死蟻。頭の触覚をピクピクと動かしたのち、腰の横で得物を構えるようにしてそいつは突っ込んできた。


 体格や形姿に多少の違いはあれど、特定の虫の外見とその特性を持っている点は共通している。単純に、同種属の強個体といったところか。

 通常個体でも人によっては拒絶を示すような見た目をしているが、それが二メートルを越える巨体となると殊更不気味に感じる。ただ、鎧と見紛ったくらいだ、そこまで生々しくはないため少女は軽い嫌悪感で済んでいた。

 むしろ、本当に恐ろしいのは巨体に見合うだけの長大な武器と、いつ襲ってくるやもしれないあの白い化け物の方。


「見えない奴に比べたら、これくらい……!」


 そちらはおそらく先輩が相手取ってくれているのだろうと考えて、自身の身の丈以上の長物と対面、兜の緒を締める。


 突進の勢いを乗せて振るわれる刃を凝視する少女。三日月型に湾曲した形状に身が竦んだのではない。間合いを見極めるためと、どこまで得物を扱えるかの精察ゆえ。

 腰の横に構えた流れのまま、脇腹から肩口まで裂くような軌道で脅威が過ぎゆく。それを身ごなしによって冷静に躱しつつ、身を返す燕のように再来する刃も危なげなく見切る。


 なるほど、扱いの難しい部類の武器のはずだが人並みには操れるらしい。

 だが、達人の域には程遠い。本物はただの棒切れ一つでこちらの動きを完封してくるのだ。


 振るわれた刃をさらに二、三、躱したところで、大振りの一撃が右薙ぎに叩き込まれる。そこへ瞬時に生成した火球を放り投げて顔面に着弾。摩訶死蟻はそれに構うことなく振り抜いてきた。

 この程度では効き目がないのは承知の上。あくまで火球それは視界を遮るのが目的だ。とはいえ触角で音や匂いを察知できる相手を完全に惑わすことは不可能である。少女の狙いは――、


 ギィィィィン、と金属が擦れるような音がして、湾曲した刃が見事に岩崖に突き刺さる。急にピクリとも動かなくなった得物に困惑する摩訶死蟻。すかさず少女は疾駆した。


「どうやら無用の長物だったみたいね」


 慌てた素振りで得物から手を離し、肉薄する少女を捕らえるべく伸ばされるがそこに少女の姿はあらず。居場所を嗅ぎ取ろうと動かすはずだった触角を掴んで既に頭の上に乗っていた。


「Reve51【真一文字斬り】!」


 言霊を唱え、魔の手に捕まるより早く柄節から先の部分を切り落とす。触覚というよりは、洞角を覆う角鞘のような硬い感触を左手に残して、倒れ込む巨体から飛び降りる。

 万全を期したはずだったが、少しでも甘く見積もっていたら切断するまでには至らなかったかもしれない。内心で冷や汗をかきながらそう考えて、逆サイドでまだ交戦しているであろう友人の元へ駆け付ける。


 つもりで振り返った先、彼女は摩訶死蟻に首を掴まれ苦鳴を漏らしていた。

 ところどころに負った裂傷。中でもとりわけ深い肩口の傷が純白を侵し、腕を伝って赤いしずくを指の先から滴らせている。その有り様を目にした瞬間、少女は怒り狂ったように叫んでいた。


「『千箭魔弦(せんせんまげん)』!!」


 妙に静かだと、思わなかったわけではない。先の個体と対面した辺りで同じように戦闘を始めた姿はちらと見ていたが、言っても心に余裕があったわけではない為そこからは目の前の敵に集中していた。そのときはまだ彼女も善戦していたはずだ。――知らぬ間に、中央の個体があちら側へ加勢しにいくまでは。


 どちらかが負担を強いられるのは覚悟の上で対峙していたつもりだった。

 手の空いた方が手早く一体を片付けるか、或いは二人で頭数を減らしにかかるか。その旨を心で対話して、悠子もそれを汲んでくれていたように思う。

 ただ、逃げや守りに徹していて尚ああなったのであれば、やはりそれだけ摩訶死蟻の群としての力が優れていたのだろう――。


 怒声と共に顕現した大弓に、魔力で象った矢を番えて行射する。高ぶった感情が見て取れるまでに表れた茶色の瞳――それが射すくめる先へ、力強くも精密な射撃が行われる。


 空間を裂くような鋭い弦音に続いて風を切る矢の音。そして、硬い皮膚をも穿つはずだった矢弾が標的の左隣に位置していた別の個体によって弾かれて、爆散する音が一帯に響いた。


「嘘…………」


 依然として悠子の体は魔の手の中、いまなお苦しめられており、空気を求めて喘いでいる。

 早く助けなければ。そう焦りつつも、一射入魂が易々と防がれてしまい少女は言葉を失ってしまった。

 もはや考慮に値しないと思われてか、それらが二度、こちらを向くことはなかった。


 細い首にあてがった五指が軋めく音か、骨が悲鳴を上げる音か、はたまた奴等の笑い声か。ギチギチ、ギチギチと、嫌な音が耳に這入ってくる。


「いや……いやああああああああああああ」


 響き渡る少女の悲痛な叫び。悠子の意識がいよいよもって途絶えようとしたそのとき――白翼を広げて彼が飛んできた。


 そのことに少女が気付いたのは随分と後のことだった。

 どうすれば目の前の二体を退けられるのか。どうすれば彼女を助け出せるのか。自分に何ができるのか。それが永遠と頭の中で渦を巻き、何もできない無力さにただ赤子のように泣き叫ぶことしか能がなかった。

 そんな中、一足飛びに現れた王隹が白銀の刃を以て悠子を魔の手から解放する。


 そのまま高速で飛来した体躯は岩崖を中継地点とし、身を翻すと、鉤状の嘴のような短刀を逆手に構えて再び飛び立ち、


「【白羽の鉤(アンブラッセ)】」


 一度翼をはためかせて滞空したのちに、高所から勢いをつけて滑空し一直線に飛び抜ける。軌道上にあった一対の触覚が、まるで細い枝木のようにパキッと半分に裂けて宙を舞った。


 急所を守るためにより強固に進化した角を二本切ってなおその勢いは削がれることなくもう一対へ叩き込まれ、数メートルほど地面を引きずったあと巨体を後方へ押し飛ばす。


 土煙を上げて転がる摩訶死蟻。それを見据えていた瞳がちらと横に動く。窒息から解放された悠子が、這いつくばった体勢で咳き込んでいた。


「――よく頑張った」


 状況を把握するように目を配ったあと、彼はそのような言葉を投げ掛ける。溢れる安心感に思わず目頭が熱くなり、胸がきゅっと締め付けられた。

 あぁ、たすかったのだと、少女はそこで思い至った。


「……ゆっこ!」


 我に返り、弾かれたように悠子の元へ駆け寄って、うまく呼吸のできていない背中を支えて優しく摩る。

 涙の筋ができた顔をこちらに向けた彼女は、「あ……たし、いきて、る……?」と錯乱した目をしていた。


 大丈夫。もう大丈夫だよ、と声をかけながら撫で摩り、ふと最奥部の方に視線が吸われた。横穴を通って現れたはずの数百体の群れは、いつの間にか屍の山と化していた。

 本当に、全部一人で倒してしまったらしい。

 自分はなんておこがましい事を考えていたのだろうかと、底なき強さに打ち震える。


「まだ全ての脅威が去ったわけじゃない。動けるなら、今の内に退避しろ」


 正面、切り伏せた摩訶死蟻が緩慢ながら身を起こそうとしている様を注視しつつ王隹が言った。

 まるで胸中を覗かれたような一言に少女は口を噤んで、ついと目の前の友人に視線を向ける。


「ゆっこ、歩ける?」


 まだ錯乱状態にある彼女にそう尋ねて手を取れば、こちらへ寄り掛かりつつも立ち上がろうとする意思が見えた。少女はその肩をそっと支えながら、ゆっくりとした足取りで裂目へ向かう。


「……」


 微動だにしない後ろ姿を一目する。奴等の複眼ではないが、彼の身に纏わり付く魔力をなんとなしに感じ取って、溢れる活力に確信を得ながらお辞儀を残し、今度こそ戦線を離脱した。


 ――境界を跨いで見えなくなった二人の少女から、目の前に立ちはだかった巨体へと視線が流れる。


 虫にとってなくてはならない重要な器官を一つ失ったというのに、そいつはしかと二本足で立っていた。

 あの感覚器官が担っていた役割の中には空間認識や平衡感覚も含まれているはずだ。それなのに、より高度な歩法さえ未だ健在。


「……やはり二本とも斬っておく必要があったか」


 先の急襲で戦闘不能にさせた方と見比べて、静かに得物を握り直す王隹。

 一拍置いて、金属音が風に流れた。


 柔らかな風が頬を撫でたかのような、そんな優しい口当たりのあとに吹き出る黒い血飛沫。硬い外皮の中でもとりわけ硬質な部位を二度も断ち切られ、悚れるような、狼狽えるような素振りがソレから窺えた。


 そうしてなにも行動を取らせぬまま、銀閃によって残る一本の触覚を攫うと、彼は目を回して倒れた無腕の摩訶死蟻へと追加で火を放つ。


「来るなら今だと思ったよ」


 その瞬間、真隣の空間に現前した白い死神の、細く鋭い爪が王隹を襲った。

 ギチギチと気味の悪い音を立てる死神。その爪が既のところで静止して、それを睥睨すると共に振り抜いた刃が半透明の体を切り倒す。

 ――いや、倒せはしなかった。振るった刃は外皮を浅く裂くだけに終わり、張っていた罠が解除されるや否や後ろに飛んで距離を取られる。


 隠蔽能力を有する代わりに肉体の強度は通常個体のそれと同程度かと思いきや、むしろあの三体を上回る周到さ。おまけに、


「雑兵をぶつけて消耗させてから顔を出すなんて、随分と賢しい真似をしてくれる」


 そう言って一睨すれば、そいつはゆるりと首を左右に傾け戯けた仕草を取ってくる。

 まるでこちらの感情を読み取っているかのような反応だ。それに王隹は深い息を吐いてから、その双眸に憎悪を宿した。


「……仲間の敵、取らせてもらうぞ」


 幾ばくかの間を置いてからそう呟いて、翼を大きく構える。


 ――奴の手足となっていた兵隊は全滅させた。仮に本拠地に配下をまだ残していたとして、呼びつける前に片をつければ事無し。逃走を図った場合も、横穴の入り口に張っておいた網で足は止められる。

 そして、あの母体さえ倒せばこれ以上増殖することもなくなるはずだ。


 そう踏んで、広げた翼が風を生み、前傾姿勢を取って踏み出した一歩に合わせて背後に現れた影。

 眼前のソレとは異なる気配に目を剥いて、咄嗟に振り返った王隹は羽を――――。


 飛散する白金の光。一拍遅れて噴き出た赤がそれらを絵取って、惨憺たる場景を作り出す。黒瞳が捉えた気配の主は、もう一体の摩訶死蟻だった。

 三度肩を上下させる間に、熱を帯びるほど回転した頭が状況を把握する。


 ――間違いなくこの場にいた雑兵は全て片付けた。増援を呼びつけるにしては早すぎる。なら伏兵か。

 いや、背後から奇襲をかけてきたその巨体には、左右一対であるはずの触覚が半分欠けている。援軍や伏兵ではないという証左だ。


「くっ……」


 分析を終え、即座に飛び退こうとしたが片翼を失ったせいで上手く飛行ができない。根元から切り落とされた羽を捨て置いて、左の肩骨から血を流しながら足を使って場を離れる。


 ――盲点だった。


 討ち漏らしがいたことではない。見るからに隠蔽能力に特化したようなその身骨が、こちらの目を欺いているのだと思っていたのだ。

 だが実際は、奴の身に備わった特殊な力が対象を不可視にさせていたのだと、王隹は今になって気が付いた。


「とはいえ、アレ以外に使える手駒はもういないはず。この鉛のように重い体でも、それならまだ……」


 二体の魔物を視野に収め、値踏みしながら勘案する。

 そうして片側だけになった羽と白刃を以て詰め寄ろうとしたとき、別の何かが横穴の罠にかかったのを肌で感じた。

 敵の増援かと焦ってそちらを見やれば、そこに見えたのは人の影。


「青いバンダナ……裂斗? 裂斗なのか? すまない、張り網を仕掛けてある。お前が来てくれたことにも驚きだが、まさかそっち側から来るとは思わずに……」


 遠くてよく見えなかったが、頭に巻いた目立つ手拭いからすぐにそれがよく知る人物だと分かった。

 心強い味方だ。彼女たちが救援を寄越してくれたのだろうか。それとも、彼が偶然この秘境を見付けたのか。

 聞こえているのかどうか分からないまま呼び掛けていると、その人影は無理やり網を突破しようと前進し始めた。


「ばか、慌てるな! 俺は無事だ! それくらい楽に斬れるだろ!」


 足止め用にと張り巡らせた罠は、仕組みを知っていれば簡単に除去できる物だ。その反面で、無理に突破しようとすれば肉を牽き切るほどの切れ味を誇る。そんなこと分かっているはずなのに、彼はこちらの呼び声を無視して円網へと体を押しつけている。

 正気の沙汰とは思えない行動だ。王隹は必死に声を飛ばしたが、しかしそれが届くことはなかった。

 行き過ぎたその体は、網状の刃によって寸断された。


 ヒラヒラと舞う青い端切れ。

 焼け焦げて色の変わった軍服。

 寸断されてボトボトと落ちた肉塊が、地面に影溜まりを作る。



 絶句する。それと同時に全てを理解し、再び人のナリを象った黒い影に絶望した。



 ――あれは、人ではないと。



「なん……なんだ、あれは……」


 新種の魔物か、或いは深淵に潜んでいた魔物が摩訶死蟻の作った径路を辿って這い出てきてしまったのか。

 得体の知れない漆黒を前に、王隹の意識は釘付けになった。



 ワケの分からない感情に小刻みに震えだした体を片手で押さえる。意外だったのは、そうした防衛本能を働かせたのが彼だけではなかったこと。

 それまでこちらに敵対していた摩訶死蟻が、同じように人影に見入り、ギィギィと音を立てて何かを訴えているのだ。

 まるで近付くなと言わんばかりに得物を振りかざし威嚇する巨体に、黒い影は我関せずといった具合にゆらゆらと像をたなびかせながら近付いてくる。


 そもそも意志疎通の図れる魔物の方が少ないと思われるが、話の通じない彼の者に対して癇癪を起こしたかのように巨体は動いた。

 ――白翼を切断した大鎌が、今度は黒い影へと振るわれる。暗赤色の空の下、一閃の光が生じた。


「…………」


 湾曲した刃が首を刎ね、分断された頭部がその場で霧状になって消えゆく。

 その首から先を失った状態のまま、影は踵を返すと摩訶死蟻へと手を伸ばし、瞬間、具現化した斬撃を撃ち放った。


 ザリ、と尻足を踏む音。衝撃に耐え忍んだ巨体の腹部に、深い裂傷が走っている。

 おそらく一番硬度の高いであろう腹を切り裂いた威力よりもまず、魔法とおぼしきものを放ったその行為に仰天する。


「バカな、魔法だと……!?」


 同じ魔力を見に宿す生き物として、魔物による魔法の使用というのは理論上は可能であった。あの死神のように、種によっては特異な力を発する物もいるのだから。

 だが、それとこれとではまるで原理が異なる。魔法を操るためには理の理解と言霊が必要不可欠なのだ。


 それを成し得たということが、どれほど肝を抜く事象だったか。どれだけ脅威を孕んでいるのか、もしかした同族であるそれらにこそ伝わったのかもしれない。


 すっかり鳴りを潜めていた母体が、仕切りに触覚を動かして「キキキキキ」という一際高い音を発し始めた。

 これまでと一風変わった様子に明らかな異変を感じていると、独特の方法で何らかの意思を伝えたそいつは一人、景色に紛れて逃げようとする。


「なっ……待て、逃がすか!」


 慌ててそれを追いかける王隹。両翼が生え揃っていれば一息の間に詰められる距離なのにと、もどかしさを感じなから視界の端で、巨体が人影に飛び掛かったのを見た。

 同じ漆黒を鎧った二体の魔物。されど摩訶死蟻のそれより遥かにどす黒い淀みが二メートルの巨体を敢えなく呑み込む。

 そして、先に駆けていた王隹の視界を、物凄いスピードで影が横切った。


 べちゃべちゃと、音を立てて波打つ影溜まり。

 まさか、今の一瞬であの死神までもが呑まれたのかと思いきや、ちゃっかり横穴の方に逃げ延びたそいつは綽々とした態度で首を傾げていた。


 わずかその一秒後、死神の背後に現出した人影が、半透明の体に覆い被さって白を蹂躙する。

 頭も、腹も、膨腹部も、長い手足も一片も残らず黒にまみれて圧し潰される。

 そんな悍ましい光景を目の当たりにした王隹は、まるで悪夢を見ているようだと声を漏らして。

 その人影が、今度は笑みを湛えてこちらに向き直る。


 襲い掛かる悪夢から、彼は瞼の裏へと意識を向けることしかできなかった。



 ✱✱✱✱✱✱



「ありがと。もう一人で歩けるから」


「大丈夫?」


「……うん。先輩は……大丈夫かな」


「きっと平気だよ! なんたってあれだけの数と戦っても、全然消耗してなかったからね」


「そうなんだ、よかっ……」


 そこで吐こうとした息を飲み込んだのは、たぶん彼女も同じことを考えたからだろう。

 思い出したように表情を暗くさせる悠子に釣られ、少女の眉根も力をなくす。


「あたし……なにもできなかった」


「……うん」


「あの子は、あのまま取り残されるのかな」


「今はまだ危険だと思うから、一度態勢を整えてから拾いにきてあげよ。それくらいなら……私たちにもできると思うから」


 そう言ってもう一度肩に手を添えると、悠子は力なく頷いた。


 荒れた大地を踏む足音二つ。

 侘しさを感じたのはそのせいか、或いはこの荒涼とした景色にあてられてか。広大な地を、たった二人だけの息遣いが占める。


「……誰もいない。みんな外に出たのかな」


 辺りを見渡しても誰の姿も見当たらず、まるで二人だけがこの世界に取り残されたのかと錯覚しそうになる。

 そんな不安から、どちらからともなく肩を寄せ、遅々とした足取りで進んでいった。


 ――同じ道を往来しているばすなのに、体感で倍ほどの時間をかけてようやく目印となる地点が見えてくる。もうずいぶんと前の出来事に思える、黒焦げになったあの枯木だ。

 五人だったときのことが、思い起こされた。


「……正直、意外だった。ゆっこが逃げようって手を引いたこと。翼先輩に、結構なついてるみたいだったから」


「バカ言わないでよ。親友以上に大事なものなんて……あるわけないから」


 焼け跡を見つめ、口開いた少女に悠子は酷く辛そうな顔で答える。

 できることなら皆で帰りたかった。力があるなら共に残って戦いたかった。だが今の少女らは、あまりに非力すぎた。


 そんなやるせない思いで息が詰まりそうになっていると、不意に後方から、ひたひたと誰かの近付く足音が聞こえてくる。

 もしかして。そう思いながら光が弾けんばかりの瞳で振り返った先――知らない人影が佇んでいた。


「先、輩……?」


 来るはずだったその人ではなく、恐れていた化け物でもない。得体の知れない黒い淀みが、人の形を装っている。

 自分の意思に反して震えを起こす体に、戸惑いを覚えながら頭を巡らす。どうしてアレを彼だと思ったのか――その理由に思い至った少女は、堪らず目を見張った。


「まさか、そんな……」


 人影の背後、左の肩骨から伸びるような形で異物が生えている。

 底の見えない闇のような風体とは対極の、真白な、 大きな羽が。


「……よう。……千夏! 千夏!!」


「……っ!」


 切羽詰まった悠子の声で我に返ると、人影が、白翼を広げ陸の上を猛進していた。

 真っ直ぐこちらに向かって突き進んでくる漆黒に息を呑んだ間に、開いていた距離は十歩ほどまで詰められる。そうして影が少女らに飛び付こうとしたところへ、途端、黄線が走った。


「【オウバク】」


 二人の間をすり抜け躍り出た黄線が、帯のように影へと巻き付いてその足を止める。

 忙しなく変転する状況に目眩を覚えながらその源泉を辿れば、うねった髪の教員が小筆を片手に揮っていた。


「【ラズリム】」


 宙に書き出される「玉」の字。それに合わせて唱えた言霊が、続けて二つ目の魔法を具現化させる。帯で縛り付けた人影を、更に覆う形で光の球が形成された。


「お二人とも、今の内にこちらへ……」


「鳴先生……!」


「ご無事で何よりです……。他の方は?」


 見知った顔に幾分か表情を明るくさせて、男性の方へと駆け寄る友人。

 と、投げ掛けられた問いに悠子が口をつぐめば、彼は全てを察して苦虫を噛んだ。


「あれは一体なんなんですか……?」


「――わたくしにも分かりません。ですが、深部に生息しているはずの魔物が数種、浅瀬(こちら)にまで現出している異常事態です……。何人かの生徒は既に脱出しました……。あなた方も早く、外へ」


「何人かって?」


「……」


 鋭い少女の着眼点に、男性は困ったように目を逸らした。

 どうりで人の気配がないわけだと、納得しながら拘束された人影を一瞥。それを経由してから友人に目を向けて、


「行こう。ゆっこ」


「先生……」


「わたくしもすぐに向かいます」


 少女の差し出した手に、悠子は淋しそうな、何かを確かめるような目でその人を見つめた。

 力なく握り返される右手。同じリズムを刻む拍動をそこから感じ取って、二人は歩みを再開した。


 何度も、何度も後ろを確認する悠子。

 少女はひた向きに出口を目指した。



 ――霧がかってまだ遠くに感じた石の門が、微かに見えるくらいの距離にまでやってくる。

 長かった。遠かった。だが、時間にしてみれば実に二分足らずだ。後ろをみれば、まだあの丸まった背中が視認できる。


 完全に脱出するまで拘束を維持するつもりなのか、それとも、他の生存者を待っているのか。気が急くような面持ちでそちらを窺っていると、彼の先生は少女らの動向を確認するように、ちらとこちらに首を向けた。


 その背後に、悍ましい影が聳え立って。メラメラと燃え盛る炎を手のひらから放出した。


「先生!!」


 咄嗟に構えた左手を、横に払って火の勢いを反らす。

 少女らの方へ大きく飛び退いてきたその痩躯――左半身から、残り火が立ち上っていた。

 直撃を受けた肘から先の部分の損傷が特に酷そうだ。しかし、負傷の具合を検めるより先に彼は筆を走らせる。


「【ラズリム】!」


 解けた拘束を結び直すべく宙に文字が綴られて。より強い光が、揺蕩う影を閉じ込める。

 光の中、踊るような、もがくような様相で萎縮していく人影を訝しみながら、彼はぼそりと呟いた。


「結界を破いたわけではない……? ではどのようにして外に…」


 奴の左後方、一つ目の結界はまだ現存していた。当然中はもぬけの殻だが、解れた形跡は見当たらない。


「魔法……? なんで魔物が魔法を……?」


 時を同じくして、少女の動揺をまとめて代弁する形で悠子が不理解を表した。

 その風体も、魔法を繰り出したことも明らかに普通じゃない。今になって、少女は震えの正体を理解した。


「だめだ……逃げないと……」


 前のめりに伸びた長身越しに見える、拘禁された人影。

 光に当てられ随分と縮こまっている様子だが、どれだけ強度を高めようとも結局一度は抜け出ているのだ、同じ方法ではおそらくヤツは捕らえられない。


 概して魔物というのは原型となった生物に由来する挙動を取るものが多かった。

 アレがもし人を模しているのだとしたら、知恵を振り絞り、何かしらの術を用いたのだとしてもおかしくはない。それこそ、奴には魔法が使えるのだから。


 そんな少女の懸念を体現するように、人影が、再び結界の中から姿をくらます。


「先生! 左!」


「【コチル】!」


 それをいち早く捉えた悠子が声にして。二度は喰らうまいと間髪入れずに筆を走らせた円背の男。「碁」の字が立場を移した影の頭上に、大きな角氷を具現化させる。


 ズシン、と音を立てて墜下する角氷。押し潰された人影が、周り一帯に黒をぶちまけた。


「今のうちに、逃げましょう……」


 その言葉に悠子は安心したような顔を浮かべたが、少女はどうしても不安が拭えなかった。

 捕縛できないと判断しての足止めの一手なのだろうが、果たしてどれほど時間を稼げるものか。出口までは、まだ二百メートル以上ありそうだ。


「走れますか?」


 鬱念を抱えつつも、後ろから肩を押されてやむなく足を動かす。


 妙な違和感が、ずっと頭の隅で渦巻いていた。

 どうしてヤツは二度目は手を出して来なかったのだろうか。拘禁されようと好きに抜け出せるのであれば、また背後から奇襲することも容易かったはずなのに。


 ――力を消耗してる?


 ――そのためにあえて離れた位置に移動した?


 もしかすると、あのまま光を当て続ければ、或いは撃退できるのかもしれない。

 そんな風に思索していた少女の耳に、男の短い呻き声。驚いてその方を見やれば、後方から伸びてきた影がその人の首を掴んでいた。


 見開いた目を更に大きくして、手を伸ばす。

 だが、触手のように伸びてきた複数の影の手が、彼の腕に、足に、纏わり付いて体勢を崩されてしまう。


 空を掴む少女の左手。前のめりに倒れた男は、そのままずるずると走った分の距離を引き戻されていく。

 落石によってひしゃげた漆黒が、影溜まりへと姿を変え、そこで男を待ち受けていた。


「じ……ぅあ……」


 握っていた筆は影に攫われ闇の中。無手のうえ、四肢を動かすこともままならない状態。

 見かけによらない馬鹿力だ。ボロ雑巾になりながら、どうにか仰向けになろうと身を捻った男は、足元に向かってまだ自由の利く左腕を揮った。


「【白飛び(しらとび)】……!」


 掴んで離さない影の手に、上から白を染め付ける。

 ――咄嗟の機転。白く潰れた箇所で影が裁ち落とされるや、引き寄せられていた力がピタと途切れた。


 即座にその場から跳ね起きて、左腕を押さえながらしげしげと影を見る。

 裁ち落とした白い部分に、少しずつ黒が滲んできているのが分かった。


「なんと強かな……」


 下瞼に刻まれた隈を更に深くさせる円背の男。

 直立不動なままのそんな彼の背に、白菫色の髪の少女の消え入りそうな声。


「先生、早く……」



 その希求を、掻き消すような形で奥の角氷が砕け散った。



 暗赤色の世界に散じる氷片。真下から、ブクブクと膨れ上がった絶望がまた紛いの姿を装う。

 男は、口早に言霊を唱えた。


「【アリザリン】【ルベリトリン】【ベンガラ】」


「先生……?」


「時間を稼ぎます……。その間に、逃げてください」


「なんでよ……一緒にって言ったじゃん!」


 泣きののしる友人の隣で、少女は奥歯を噛み締める。

 例え全力で走ったとしても逃げ切れないことは明確だった。その気になれば、もっと機敏に動けるだろうことが先の触手攻撃で分かったからだ。そうでもなけりゃ、今頃きっと、この窮地から救うべく彼の人が――颯爽と駆け付けてくれるはずだから。


 すっかり心酔してしまっていると、いつの間にか気弱になった自分に心付く。

 また、守られるのか。父親譲りの義侠心が、恐怖を押し退け少女を前へと駆り立てる。

 次の瞬間には、鉄砲玉のように飛び出していた。


「……!?」


 疾駆する姿に上がる困惑の声。それを置き去りにして、無我夢中で戦線へ。

 なんでもいい。なにもしないでいるよりは。何かできることがあるはずだと、頭の中で魔導書をめくり――、


「【エンパク】」


 浮かび上がった「魑」の字が白煙を生んで、駆け付けた少女に組み付いてきた。

 奇しくもあの人影に似通う形姿をしたそれは、生やした腕を少女の腰に回すとあろうことか足早に彼らから離れ始める。

 

「まっ……ぶ」

「命は大事にしなさい」


 微かに聞こえたその言葉に、物申したが煙に口を隠され音にはならなかった。

 そうして、同じように悠子の体を攫うと、白煙は二人を強制的に門の近くまで運び届けた。


 運び届けたといっても、優しく地面に下ろされたわけではなく、支えになっていたものが無くなり急に落っこちたといった具合で。

 嫌でも働いてしまう想像力を、拒絶するかのように視線は前へ。


 ――どれだけ目を凝らしても、そこには影がのさばっている様子しか見えなかった。


「どうして――」

「どうしてあたし達だけ残すの……?」


 少女の声は悠子の嘆きに吸い込まれた。

 無策でかかっていい相手じゃない。あのまま突っ込めばまず間違いなく命を落としていただろう。

 利口じゃなかった。利口ではいられなかった。


 一粒の涙が、頬を伝ってこぼれ落ちる。



 腕で顔を拭ってから、立ち上がる。

 泣いている場合じゃない。いま自分たちがすべきことは、一刻も早くこの場を離れることだ。

 彼の言葉を思い出し、へたり込んでいる悠子の腕を引く。


 なにも言葉は交わさなかった。そもそも、かける言葉もなかった。悠子もなすがままに、少女についてきた。


 出口は、もう目と鼻の先だ。


 心身ともに弱りきった体を押して、重い一歩を繰り返す。


 繋いだ左手の温もりの先、うつむいたまま歩く友人の顔。それを確かめて、強く手を握り締める。


 大丈夫だ、二人で帰れる。心の中でそう呟いたとき、とあるものが目に留まる。

 途端、頭の隅で渦巻いていた違和感が息を吹き返した。


 ――最初から妙だとは思っていた。水気があるのに草花の一つも生えていないことを。ただそれは、劣悪な環境によって汚染されているからなのだとその時は考えた。

 だが今になって気付く。あれは、あの黒い水溜まりは、ただの水なんかではなかったのだと。


 頭の中のモヤが晴れると同時、今度は全身に悪寒が走った。

 この地に踏み入った際、真っ先に目に留まった謎の淀み。それは、ちょうどこの辺りで見かけたものだ。


 危機感を覚えたときには、既に紛いの姿があった。

 そして、振り払われた斬撃が、目睫の間にまで迫っていた。


 ――茶色の瞳を占める青が、淡い紫へと移ろいゆく。


「かはっ……」


 強い力を受けて倒れそうになった体を、交互に後ずさった両足が食い止める。

 そこへ、更なる衝撃が加わって。胸の辺りに感じた重みがずるずると滑り落ちた。


 思わず胸部に手を当てる。その手を分かりやすく顔の前に持ってこればベッタリと、血が、染み付いていた。


 目を泳がせながら、緩慢とした動作で首を振る。

 狂ったように主張してくる心臓が脈打つほどに胸の痛みは増していった。


 血濡れた指の隙間から覗く花筵。そこに崩れ落ちた少女は異常なほどに早い呼吸を繰り返しながら、膝元で横たわっている友人の手を握って涙ながらに懇望した。


「いや……いや……いやだ、いやだよ……ゆっこ……」


「っ、ごふ……ぁ、あぁ……これは、ダメなやつだ……」


 彼女の胸元には、ぱっくり裂けた傷口から今もドクドクと生暖かい血液が流れていた。

 今すぐ止血して適切な処置を施さなければ手遅れになる。一分一秒を争う迅速な対応が、少女に求められた。


「そ……そうだ、こんなときのために教わった回復魔法……えっと、えっと……」


「Espoir7【緑閃光】!」


 真っ白になった頭をこねくり回して、詰め込まれた情報の中から必要なものを引っ張り出す。

 呼び起こした言霊を唱えると、患部に翳した両の手から薄緑色の光が溢れた。


「あっ、あれ? おかしいな……止血の魔法はこれで合ってるはずなのに……」


 一向に止まる様子のない血の流れを見て、また頭の中が白んでいく。

 また、自分は救えないのか。

 また、自分だけが守られるのか。


 どれだけ泣き叫ぼうとも、助けてくれる人はもういない。自分がなんとかしなければ、目の前の親友は助からない。


「ち、な……にげ……」


 と、ますます顔色を青ざめながらも悠子が言葉を絞り出した。

 それは、迫り来る死の恐怖からくる弱音でもなければ痛みに苦しむ嘆きでもなく、少女の身をただ案ずるものであった。


 拾えたかもしれない可能性を掴み損ね、ロクに言葉もかけてあげられない――そんな自分に対しての。


「ゆっごを置いてなんていけないよ……」


 血の赤を流してしまうような勢いで、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ出る。そうしてる間にも、悠子の体からは熱が失われていった。


 すがるように彼女の手を握り締め、少女は咽び泣いた。


 少女は、すっかり失念していた。これをやった元凶が、今もずっと近くにいることを。

 なにかの気まぐれか、この惨状を見て悦にでも入っていたのかしばらく静止していた人影。それが、今になって影を伸ばし始める。


 地を這う影溜まりが少女へと忍び寄る。

 例えそれに気付こうとも、すぐ側に出口の門があろうとも、少女にはもう立ち上がるための力は湧いてこなかった。


 水上に飛び出す魚が如く影が飛び掛かってきて。

 散り敷いていた花がひとひら、ふっと浮かび上がった。


「はな……ふぶき……」


 両手をすり抜け胸に押し当てられた手は、まだわずかな熱を孕んでいた。

 その、最後の灯火が、暗く淀んだ世界に風を巻き起こす。


「ゆっこ……?」


「……ごめ……ね」


「いや――――」


 力なく笑った笑顔を残して。突風が少女の体を押し退ける。舞い散るひとひらの花弁に続くように、一叢の花筵が風に乗り、吹き抜けていった。


 少女は、ようやく出口へと辿り着いたのだ。


「だんでぇ……ひどりにしないでぇ……」


 顔から汁という汁を流しながら、血と土の混じった五指で地面を掻く。

 数秒前まで身を置いていたその場所には、影溜まりがべちゃべちゃと音を立てて波打っていた。


 嗚咽を漏らしながら、人の様を象った化け物をギロリと睨み付ける。

 それが利いたわけではなかろうが、不思議とそいつはそれ以上近付こうとはしてこなかった。まるで――なにかを煙たがっているかのように。


 ハッとして真後ろに目を向ければ、門の周辺の極わずかな範囲にだけ、明かりが灯っていることに気が付いた。


「門灯……? まさか、こんな…………」


 知ったところで少女にはどうすることもできない。

 だが、もっと早く気付いていれば助かる命はあったかもしれない。その現実が、少女を酷く苦しめた。


 ――もう一度目を向けたときには、人影はどこかに消えていなくなっていた。




 広大な地に、たった一人きり。

 啜り泣く少女の息遣いだけがそこに響き渡る。

 

 赤黒い空の下、どれだけそうしていただろうか。しばらくして、涙の枯れた少女は悲しみに包まれながら、門を跨いで外に出た。

 暗く淀んだ世界に、いくつもの影溜まりを残して――。



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