第百三話 「見慣れた天井」
「少し席を外しますね」
「……はい」
真っ暗闇の中、誰かの声が聞こえる。
ここはどこだろうかと記憶を辿れば、思い出されるのは腹を圧し潰されるような耐えがたい苦しみと顎に走った強烈な痛み。
思わず「うぁ」と声を漏らして薄目を開ければ、朧気な視界に黄金色を捉えた。
「七霧……?」
ゆっくりと瞼を持ち上げ、一度瞬きをする。
靄がかった視界が洗われ、明瞭になれば、今のは空目だったと気が付く。
「私で悪かったわね」
そう不興顔をした少女は椅子に腰かけると、持っていた書物に視線を落とした。
俯いたことで顔回りの髪が数束肩を滑り落ちる。窓から差し込む夕日に染められたその髪は、ほんのり赤みがかった雲のよう。
ここで何をしているのだろうかとぼんやり眺めていると、氷のように冷たい眼差しがまた刺さる。
「ぁ、マフラー……どうしたんだ? いつもしてたのに」
「凍え死にたいならつけるけど?」
咄嗟に気付いた違和感を種に気を逸らそうと試みたが、瀕死の自分を気遣ってのものだと悟ったのはため息が返された後だった。
思えば、やけに体が窮屈だ。少し喋りにくさも感じる。
がばっと掛け布団を捲りその下の五体を確認すれば、胸に治療用装具が巻かれているのが分かった。
「なんだこれ……うわ、頭にもついてるんだが」
「当たり前でしょ……アンタ自分がどんな状態だったか知らないわけ?」
「まったく?」
「はぁ……下顎骨骨折に肋骨の不全骨折。加えて全身の打撲傷……普通、魔法使い同士の戦いで負うような傷じゃないわよ」
呆れたような顔をする水世に内心で「確かに……」と相槌を打ちながら、脳裏で壮絶な試合が蘇る。
最後の最後、神崎が繰り出したのが蹴りじゃなく魔法だったなら、智也は負けていた。そもそも万全なら触れることさえできなかったはずだ。
あれで勝てたということは、一様に疲弊していたということだろう。
「俺……勝てたんだな」
「そうね。まさか、本当にやり遂げるとは思わなかったけど」
「え、勝てると思ってくれてたんじゃないのかよ」
鼻を鳴らしそっぽを向く水世。それに追及しようと身を起こしたところ、力んだ腹部がずきずきと痛んで動けなくなる。
諦めて大人しく枕に頭を預ける智也。それを、小馬鹿にしたような顔で水世が見てくる。
そんなことをしていると話し声を聞き付けた先生が、 駆け足で戻ってきた。
「智也くん! よかった、目を覚ましたんですね」
ほっと胸を撫で下ろす先生。
その胸に添えられた手に無意識に視線が吸い寄せられるや、打ち下ろすためと言わんばかりに頭の横へと持っていかれ、智也も、水世すらも慌てふためいた。
「新井先生……!?」
「――。私はいま、怒っています。どうしてあんな無茶なことをしたんですか? 勝負に負けたくないという気持ちも分かりますが、ここまで怪我を負う必要はなかったはずです」
本当に優しい人だと、場違いな感想を抱いた。
今まさに手を上げようとして、怒っていると明言していて、しかしその目はどこまでも慈愛に満ちている。
一見して泣き出しそうにも見える双眸。そこに秘められた感情に、智也は眉を落とし、謝罪の言葉を口にした。
「すみません。……許せなかったんです、周りの人を道具としか思っていない神崎の態度が。それに……自分が一目置いている相手を虚仮にされたことが、どうしても耐えられませんでした……。あいつの強さは自分が一番知ってるんです。だからこそ――」
「貴方の気持ちはよく分かりました。ですが、今後あのような無茶は絶対しないでください。自分の体を、もっと大切にしてください」
振り上げていた手のひらが力なく頬に張り付く。
そこから伝わってくる熱が、じんわりと智也の身に染みた。
「あの……神崎はどうなったんですか?」
「謹慎処分として反省室送りになりましたよ。今日も、学園長による指導が行われたみたいです」
「それは随分な苦行ですね……ていうかそんな部屋あったんだ」
「それが……」
未だ顔すら知らない学園の長。一体どんな指導を受けているかと想像していると、何かを言い淀んだ先生。
智也は首をかしげるが「なんでもないです」とあしらわれた。
「……ところで気になったんですけど、もしかして自分って、何日か眠ったままでしたか?」
「三日三晩、眠り呆けてたわよ」
「そんなに……!? てっきり対抗祭が終わってすぐだと……」
どうりで心配されるわけだと、内心で納得しながら頭を押さえる。
「クラスの皆、毎日様子を見に来てくれてましたよ」
「じゃあ皆に寝顔を見られたってことか……まぁそれは別にいいとして――練習! 三日もサボったらさすがに」
さすがにヤバいと言いかけて、もう対抗戦は終わったんだと再認識。
そう、智也は目標を一つ達成したのだ。大枠で捉えればまだまだ理想像とはかけ離れているが、身を粉にして鍛練に勤しむほどの意義が、これでなくなったといえる。
気抜けする智也の傍らで、見合った二人は呆れ顔を浮かべていた。
「行事も終ったことですし、今はゆっくり体を休めましょう。ただでさえ深刻な傷を負っているんですから」
言いながら、智也の全身を食い入るように見る先生。
すると、思い至ったように手を叩き、
「そうだ。これ、二人で飲んでください。私はちょっと、降魔先生を呼んできます」
そう言って机に置かれていた缶ジュースをこちらに渡すと、先生は慌ただしくもまた外へ走っていった。
夕暮れ時の静かな時間。時計の針が時を刻む音と、水世の本をめくる音が耳をくすぐる。
この時間帯だと、他の生徒はみな帰っている頃合いだろうか。そう考えながらもらったジュースを飲もうと軽く身を起こすが、顎にも腹にも負担がかかりそうでこれが難しい。
一度起き上がればそれも容易だろうが、三日三晩眠り続けていた体を持ち上げるのも楽ではなかった。
首を横にやる。同じように貰った飲み物を口にする水世。智也の視線に気が付くと「なに」と冷たい反応が。
「えーっと……もしよかったら飲ませて頂くことって可能だったり……」
言ってから、どうしてそのようなことを口走ってしまったのかと自分で自分が分からなくなる。
新井先生ならともかくとして、相手はよりにもよって氷の女王だ。無論、その言葉を聞いた途端水世の顔は見て取れるほどに嫌悪感が剥き出しになっていた。
「すみません、撤回します」
「いいわ、その代わり貸し一つだから」
「え? いいのか?」
まさかの返しに耳を疑う智也。再確認すると、「えぇ。醜態を晒す覚悟があればだけど」と地獄に突き落とすような一言が添えられる。
どこかの誰かさんなら何の躊躇いもなく決断しそうではあるが、さすがに智也にそんな嗜好はない。
だが、喉の乾きを感じているのも事実だ。
苦渋の決断のあと、智也は意を決して身を委ねた。
きっしょ。やるわけないんだけど。
そんな心のない罵声が浴びせられるかと思いきや、意外にも水世は優しく智也の口へとそれを運んでくれた。
絶妙な匙加減で傾けられた容器から、冷たい液体が流れ込んでくる。
清らかな気持ちになりながら喉を潤し、嚥下を繰り返していると、とどまるところを知らないみたいに流し込まれてあわや溺れそうになる。
「あっぷ、うぐ……ん、おぼ、おぼぼぼぼぼぼぼ」
腹の痛みも顧みず、勢いよく身を起こして咳き込んだ。
顔どころか、服も寝台もべたべただ。
「こ……殺す気か!?」
「ごめん、つい」
そんな軽いノリで半殺しにされてはたまったものではない。もしかすると最初からそのつもりで引き受けたのではないか、と智也は恐怖した。
「あーあ、枕も布団もべたべただよ……どうするんだこれ」
「寝小便したって先生に言えば? そしたら許してくれるんじゃない」
「それじゃ恥の上塗りじゃねぇか!」
「一応恥じらいはあったのね。まだ甘えたい年頃なのかと思ったけど」
弱り身を扱き下ろして楽しんでやがる。
智也には、水世が悪魔に見えた。
そんな和気藹々とする二人を見守る影。
口に手を当て笑みをこぼしながら、壁越しに様子を覗き込んでいる。
その白衣の更に後方から人影が迫り、
「お前何してんだ、こんなとこで」
「うひゃい!?」
「ちょっと恭吾くん、驚かせないでよ!」
「どこから声出してんだよ……」
急に現れた灰の目の男に小声で怒りながら、彼女は「今いい雰囲気なんだから!」と必死の形相。
一緒になって壁から身を乗り出せば、そこにわりと元気な教え子の姿を見るだろう。
「なんだ、起きたのか。だったら早く呼びに来いよ」
「あちょっと!」
呼び止められるも男は構わず保健室の中へ。
そうして変わらぬ温度感で対話している二人の前に行き、
「あ、降魔せ」
――智也は、いきなり頭を下げてきた担任に、目を丸くさせた。
「ど、どうしたんですか先生! 頭上げてくださいよ!」
「危ない目に合わせてすまなかった」
「そ……なんでですか、あれはだって……自分が頼んだんですから先生が謝ることじゃないですよ」
そう、智也は決勝戦を行う前、先生に何があっても最後まで戦わせてほしいと頼んでいたのだ。
それは神崎の強さを知った上で、それでも予選の不甲斐なさを自分で許せず、決戦の場で巻き返しを図りたいと考えてのものだった。
いざ始まってみれば自分が戦う前に勝敗は決まっており、一時は乱心もしたが――、
「先生が最後まで戦わせてくれたから、俺は神崎に勝つことができたんです。むしろお礼を言わせてください」
智也がそう言うと、決まりの悪そうな顔で先生は頭を掻いた。
その顔には、珍しく傷を作っていた。
きっと、あの赤髪の先生と揉めたんだろうと推察して、なんだか申し訳ない気持ちになる。
「すみません、自分のせいで。D組の先生には……改めて自分から説明しておきます」
「ん、いや……」
ハッとした表情で、傷跡を隠すように手で口を覆う先生。
智也は智也で暗い顔をしており、気まずさこの上ない空気になっていた。
そんなところへ、
「まったく! 智也くんに気を使わせてどうするのよ。だから私が治してあげようかって言ったのに、もう」
先生の背中を叩いた彼女が、智也に向かって「ごめんね」と苦笑いを浮かべた。
「智也くんは、もう無茶なことはしないって約束したんだから大丈夫だもんね?」
「えーっと……はい」
「えっ?」
「大丈夫です!」
屈託のない笑顔から感じる圧に、慌てて言い改める。
あんなに優しい先生でも触れてはならない逆鱗があったようだ。約束が――というよりは、無茶なことを、という部分に過敏か。
確かにいくら優れた回復魔法を扱えようと、身近な人が傷付く様なんて極力見たくはないだろう。次は気を付けないとと、内心で思った。
「あ、そうだ恭吾くん。アレ、まだ渡してないよね?」
「あ、あぁ」
側にあった棚に向かうと、何かを取り出す先生たち。もしかしてと想像したところ、差し出されたのは賞金の入った革袋だった。
「対抗戦……優勝おめでとう。これはお前の分だ」
「こんなに!? これで一人分ですか……?」
給料、と呼んでいいのかどうか。無一文だった智也には念願の自己資金となる。
胸踊らせながらその結び目を解いて中身を確認。ぎっしりと詰まった金硬貨に、驚愕した。
大金。とは聞いていたが、言ってもあの二人から受けた恩義にお返しをした上で、多少自由に使える金額が手元に残るくらいだと智也は思っていた。
これは嬉しい誤算だ。これだけのお金があれば、ある程度のものはなんでも買えるだろう。
逆に、こんなに学園側にお金があるのなら――と思わなくもなかったが、その分自分が上乗せしてあの人に返そうと、心に決めた。
「じゃーん! これもあるよ~」
続けて、両手で摘まむようにして新井先生が見せてくれたのは学食無料券だ。先生の気遣いなのか、可愛らしくリボンで包装されている。
恩返しのことで頭がいっぱいになっていたが、こんな素晴らしいものもあったなと、智也は勝手にサプライズを受けたような気分になった。
「学食無料券……明日からはお腹いっぱい食べられるってことですよね」
「そうですよ~。期限内なら、美味しいパンも食べ放題ですっ!」
「それは魅力的すぎますね」
そう言うと、新井先生は優しく微笑んでくれた。
と、パンの話題で思い出したのか、最近出たらしい新作の話を隣の男にする先生。「そうだ恭吾くん、豆腐パンって知ってる?」と楽しげに話す横顔を見つめていると、こちらも隣から声――ではなく拳が突き出された。
「?」
イマイチその意図が読み取れず、怪訝顔で頭を差し出す智也。すると、「違う」と一蹴されてしまう。
再度突き出された拳を見てようやく理解。そこに自分の拳を合わせる。
「ああは言ったけど、実際優勝できたのはアンタのおかげよ。ありがとう」
「なんだそういうことか。てっきり殴られるのかと思った」
「はぁ? 怪我人にそんなことするわけないでしょ」
素直に誉めてくれているところ、余計なことを口にしたか、と苦笑う。
とはいえ水世らしからぬ発言に、智也もこそばゆさを感じたのだ。
まさか、いつも毒しか吐かない水世の口からこんな言葉が聞けるなんて。そう思いながら、照れ臭さに頬を掻く。
雑魚ランクだなんて揶揄されていた自分がチームを勝利に導いたのだ。その実感がじわじわと湧いてきて、自己肯定感が高まる。
自然、浮かれた面になる智也。その様子を、いつの間にか先生二人に見られていた。
――急速に顔が熱くなる。内心慌てて、誤魔化すための話題を探した。
「あ、自分ってもう退院?してもいいんですか?」
すると穏やかな眼差しをしていた新井先生の表情が一変、「ダメですよ!」と強めの警告を受ける。その勢いには、思わず智也も面食らう。
「短くてもあと二週間はここで安静にしてもらいます」
「えぇぇ……」
「あら、不満ですか?」
「いやまぁ、ずっと先生の顔が眺められるのは光栄ですけど」
「私も夜は帰りますけどね」
智也はその言に、がくっと肩を落とした。
まさかこんな形で学校に寝泊まりすることになるなんて。
「そういうことだから、怜ちゃんもそろそろお家に……」
「私は……」
と、そんな風に一人思いを巡らせていると、どこか歯切れの悪い反応が耳に届く。
いつも落ち着き払っている態度とは正反対の表情。
詮索するつもりはなかったが、智也は無意識に眉を寄せていた。
「……分かりました」
沈黙を多分に含んでから、渋々といった具合に応じる水世。
別にもう少しいればいいのにと、心のどこかで思った。
「じゃあ智也くん、あとで流動食持ってきてあげますね」
「あ、え……」
戸惑っている間に、帰り支度を整えて保健室から出ていく面々。
笑みを残して閉められる扉。一人きりになったことで急に虚しさを覚え、智也は空気が抜けたようなため息をこぼした。
「……」
「暇だ……」
「早く直して千林さんたちに会いたいなぁ……二週間も会わなかったら心配されるかな。新井さんの手料理が恋しい……。あでも、流動食って先生が作ってくれるのかな? 授業、どんなこと教わってるんだろ。早く俺も参加したいな」
濡れて寝心地の悪くなった枕に若干の不快感を覚えながら、とめどなく溢れてくる独り言を天井にぶつける。
一人の時間なんてまるで苦に思わなかったのに、いつの間にか自分の中で価値観が変わってしまったようだ。
「七霧、どうしてるかな。また国枝と三人で話したいな。ずっと対抗戦の練習で忙しかったからなぁ。……久世と雪宮も、見舞いに来てくれたのかな。今ならあの二人ともいい勝負ができたりして……なんて、それはちょっと調子に乗りすぎか」
自嘲的な笑みをこぼし、そこで智也は目を瞑った。
この世界に来た当初は毎日が不安で不安でしかたがなかった。お金もなくあてもなく、学もなくて才能もない。本当に、一寸先も見えないようなそんな心持ちだったのだ。
それが今は仲間に恵まれ、良い師を持ち、薄才ながらも何かを成せるほどに成長することができた。
今回の一連の出来事は、間違いなく智也にとって大きな自信となっただろう。
――俺はうまくやってるよ。だから心配しないでほしい。
口の中でそう呟いて、うっすらと開けた目を、また閉じた。
「――実際のところどうなんだ? 怪我の具合は」
職員室へと繋がる大階段。そこに敷かれた赤絨毯の上を歩きながら、ぽつりと男が問いかける。
それを受けた白衣の女性は、どこか難しい表情だ。
「治癒魔法による非観血的治療を行い、骨折部の整復及び骨癒合の短縮を促進させました。ですが……」
「なんだ?」
「いえ、それ以前から、不思議なことにほとんど治りかけているようでした。私がやったのは幹部の固定くらいだと言っても過言じゃないかな……」
立ち止まり、顎に手を当て神妙な顔をする女性に、男は短く「そうか」と返す。
そのまま自分を捨て置いて歩みを再開する男に、慌てて女性が後を追う。
「若さは偉大だな」
「ちょっと、やめてよ恭吾くん。おじさんみたいな発言」
「あいつらから見たらそんなもんだろ」
「私はまだ若いもん!」
「俺と同い年だろ……。ところで、なんで一緒に来てるんだ? 飯作ってやるんじゃないのか」
階下を指差しながらそう尋ねる男。女性は目に角を立てると、「一応学園長に報告しようと思ったんです!」と頬を膨らませた。
そうして最上階まで赴き、何もない壁の前で立ち止まる二人。いつものようにそこで男が、ぶっきらぼうに言葉を投げつける。
「俺だ。通してくれ」
だが、返ってくると予想された鼻につく含み笑いが、今日は聞こえてこない。
「不在かな?」
「いや、この時間ならまだ居るはずだが……」
言いながら、男もどこか訝しんでいる様子。
もう二、三声をかけたが、やはり反応はなかった。
「この部屋って恭吾くんでも開けられないの?」
「あぁ、そうだな」
「えぇ……それって何かあったとき大変なんじゃ」
憂い顔をする女性に「それは杞憂だ」と一言吐き、それから気怠げに頭を掻くと男は踵を返した。
「まぁ居ないもんは仕方ない。報告くらい明日にでもすりゃあいい」
そんな適当な物言いに困り顔を浮かべていたが、女性も扉のない壁を一瞥したのち、男に倣ってその場を立ち去った。
――白い壁の向こう。誰も居ない学園長室で、床に描かれた魔法陣が一つ、光を放っていた。
✱✱✱✱✱✱✱
人気のない廊下に続く、がらんどうの教室。
最近まで出入りのあった痕跡がちらほら残っているものの、いまは多くある空き部屋と同じように寂れている。
そんな閑静とした本校舎二階の西側で、空き部屋の一つから光が漏れていた。
「……」
誰も居ないはずの教室で動く人影。それは床に浮かんだ紋様を足裏で消すと眼鏡を押さえるような仕草をして、その足を教室の隅へと向ける。
おもむろに手を伸ばす。すると壁面の一部が凹み、何かが外れる音がした。
警戒するように部屋の入り口に目を配り、正面に向き直ると、その人物は固いはずの壁を押し込みながら中へと入っていく。
まるで折り紙のようにぐにゃりとめくれた壁。その先には、螺旋階段が下に伸びていた。
「……」
等間隔で埋められた正方形の石。触れると、それを起因として石が発光、光源となって暗い足元を照らす。
壁の裏に作られた怪しい空間。螺旋階段は明らかに地上よりも低い位置まで続いているようだった。
しばらく石段を下りる音が続き、やがて最下層に辿り着けば、目の前に現れるのは無骨な鉄の扉だ。
重いレバーを下げて取っ手を掴み、重量感のあるその扉を押し開くと、そこから遠く一本道が続く。
両端には、複数の鉄格子が肩を並べていた。
最奥まで歩を進める。そこにもまた、鉄の扉が。
同じように開けると今度は分かれ道になっており、その人物はなんの迷いもなく先へ先へと進んでいく。
そうして入り組んだ道を抜け、行き着いた場所には、地下には似つかわしくない鳥居が構えていた。
薄暗い中でも存在感のある赤をくぐり抜け、五つの石像に囲まれた空間に踏み入れば、その中心――ぽつんと置かれた椅子の上、一人の老夫が手足を縛られ項垂れているのが目に入る。
足音に気付いた老夫が、面をもたげる。
そして虚ろな目でこちらを見ると、蚊の鳴くような嗄れたような声で、言葉を絞り出した。
「メシの時間か……?」
対峙した人物はなにも答えない。無言のまま脇にあった石のテーブルへと寄り、懐から取り出した楕円形の小瓶を開けると、テーブルの窪みへそれを傾ける。
ごろごろと飛び出す丸や四角の形をした小さななにか。瓶の中いっぱいに入っていたそれらをすべて入れると、今度は別の瓶を取り出して、中に入っていた粘性の液体を上からぶちまけた。
呻き声をもらす老夫の元へテーブルを寄せる。と、餌を与えられた家畜のように我を忘れて顔を擦り付ける。あそこにあった窪みは、まさにこのためと言わんばかりだった。
手足が使えないとはいえ、自ら窪みに顔を突っ込み、与えられた餌を食している。
まるで品性の欠片も感じられないその光景を見下ろしながら、心底嫌悪するような声で、その者は言う。
「時の流れとは、こうも人を変えてしまうのか……実に醜い。こうはなりたくないものだね」
「――なぁ、父さん」
眼鏡の奥、糸のように細い目が、老夫を突き刺すように射抜いていた。




