第十話 「下宿屋『おとまり』」
「なんか頼りなさそうな先生だったなぁ」
「どうだろうね。ああして教壇に立っているということは、あの人も『魔導師』なのだろうけど」
もう仲良くなったのか、検査のとき同じグループだった虎城と久世が一緒に下校している。その会話を聞きながら、智也は一人帰路についていた。
同じ時間を共にしていたというのに、そこに隔たりがあるのは単純に智也の性格だけが問題じゃない。
「はぁ……なんか疲れたな」
時間にして、およそ四時間ほどではあったが、色んな不安やストレスから、智也はいつも以上に疲れを感じていた。
早く家に帰って寝転びたいし、腹も減っていたが、他の者には当然のようにある「帰る場所」が、今の智也にはない。
「とはいえ、学園で寝泊まりするのはなぁ」
あれだけ広い敷地ならば、体を洗う場所くらいはあるかもしれないが、如何せん食べる物がない。
無論、学園内に食堂がないという意味ではなく、金銭面の問題でだ。
「そうなると……」
昨晩は流れで下宿屋に泊まってしまったが、金もないのに居座るわけにはいかない。そう考えつつも、頼るあてのない智也の頭に浮かぶのは、やはりあの下宿屋だけだった。
確かに家主は心優しい方だった。だかあくまでも智也は客人であり、親戚でもなければ孫でもない。
そして既に一度、無賃で宿泊してしまっているのも事実である。それに関しては、直接詫びる必要がある。
「断じて、疚しい気持ちがあるわけじゃない。俺は謝りに行くだけだ……」
誰に言うでもなくそう呟いて、下宿屋の前に着いた智也は逡巡したあと、入口の扉を押し開いた――。
「あら、おかえりなさい」
今朝と変わらない笑顔で迎えてくれる家主の顔を、智也は直視できない。
「今朝はどうだったかね?」
「ぁ……案の上……遅刻でした」
言葉を交わせば交わすほど、胸の奥がズキズキと痛み、手や額に汗が滲み出てくる。
言えばどんな反応をされるか分からない。でも言わなきゃいけないんだと拳を握り締め、智也は恐る恐る口を開いた。
「あの、すみません……」
「私も起こしてあげればよかったのにねぇ、ごめんよ」
「あぁ、いや……」
「今日は疲れたでしょう? ご飯の支度ができたら呼んだげるから、少し寝てきたらどうだい?」
「ぁ……」
おそらく、自分の思った以上に暗い顔をしていたのだろう。そんな智也を気遣ってか、家主は破顔一笑の表情を見せると食堂の方に向かって歩いていった。
その背に向けて言葉を発しようとしたが、息が詰まって上手く発声できない。どうやら智也は、呼吸も忘れるほど緊張していたらしい。
「また言えなかった……」
――違う、言わなかったのだ。
声が出ずとも、その背を追いかけ捕まえることくらいはできたはず。だが智也はそれをしなかった。ここを追い出されたあとのことを考えると、不安で不安で仕方なかったからだ。
結局のところ、智也は家主の優しさに甘えている。それは紛れもない事実で、このままではいけないと頭で分かっていても、やはり罪を打ち明けるには勇気がいった。
かと言って、それで仕方ないでは済まされないし、智也も黙ったままいるつもりはない。少しばかり勇気を出すのに時間がかかっているだけなのだ。
昨晩寝泊まりさせてもらった部屋で、後ろめたさを感じながらそんな言い訳を考えて、
「次は絶対打ち明けよう。それから二日分の宿泊費を、何らかの形で返して……それで……」
ベッドに腰掛け、改めてそう決意したところで、急激に眠気が増してくる。
まだこの世界に慣れていないからか、精神的な疲労によるものか、次第に鈍くなっていく頭では、いよいよ何も考えられなくなり――――、
「この先どうしたらいいんだよ……」
それが寝言だったのかなんなのか、自分でも分からない呟きを残し、智也は深い眠りに沈んでいった。
✱✱✱✱✱✱✱
「なんだ……!?」
――突然の音に、智也は飛び起きた。
眠気まなこを擦り、音のする方に首を向けると、ベットの近くにあった熊の置物からブザー音が鳴っている。
寝起きの良い智也はすぐに頭を回し、それが家主からのサインだと認識する。おそらく、夕御飯が出来上がったのだろう。
「なんだこれ、どういう原理で……というか近所迷惑じゃないのか……?」
幸いすぐに鳴り止んだものの、相当な騒音だったと心配になる智也。
味気ない部屋に一つあるその木彫りの置物を横目で見つつ、洗面所に顔を洗いに行く。それから部屋を出て階下に向かい、件の話をいつすべきか思案しながら、家主の姿を探して食堂へと足を運んだ。
のだが、
――見覚えのある女生徒が、テーブルについていたのを見てしまった。
「あっ」
「…………」
肩までしかないやや短めの、亜麻色の髪が特徴的な女の子。垂れ下がる前髪を耳にかけ、フォークで綺麗に巻いたパスタを口に運ぼうとした状態で、智也に気付いて固まっている。
今朝学園でいじめられていた、同じ魔力量Zランクのクラスメイトだ。
「こんばんは。一緒の下宿やったんやね」
恵まれなかった才能はともかくとして、彼女の容姿は決して低くはない。
俗に言う「可愛いクラスメイトと一つ屋根の下」なんて状態ではあるが、智也は特別喜びもしないし、むしろ疎んでいた。
「今日の検査大変やったね」
そうして心の中でため息を溢す智也に構わず、女の子は食事の手を止めてまで話しを続けてくる。
「あ、一緒のクラスやったんやけど、覚えとる?」
「……あぁ」
あの変な女にしろ、目の前の人物にしろ、なぜこうも黙っている相手に執拗に話しかけてくるのか、智也には理解できなかった。
と、本当は口を閉ざしているつもりだったのに、まじまじ見つめてくる視線に気圧されて、素っ気なくも反応を示してしまう。
「私、紫月未奈。君の名前は?」
どうやらクラスで行われなかった自己紹介を、今ここでやるつもりらしい。
興味なさそうに目を逸らす智也を見て、紫月は不思議そうに顔を覗き込んでくる。
理解できない、何故話しかけてくるのか。智也はあのとき、見て見ぬ振りをしたというのに――。
脳裏に浮かぶ、泣いていた紫月の姿。
あのとき智也は誰よりも近くにいたのだ。その気になれば助けることも可能だった。だが、他の生徒と同じように手を差し伸べることはせず、それどころか騒ぎを迷惑にすら思っていた。
そんな智也を責めるどころか自己紹介まで始めて、それではまるで、親しくなろうと思っているみたいではないか。
「なんでだよ……」
心の中で問いを発し、不可解に思う気持ちが表情にまで現れる。しかし紫月はそんな智也の顔を見ても、まるで気にする素振りがない。
微笑みを湛える紫月と表情を険しくする智也。しばらくそんな状態が続いたが、結局また智也は相手の粘り強さに負けて、口を開くのだった。
「……黒霧智也」
「智也くんか~よろしくね!」
素っ気なく答える智也に、紫月はまるで花が咲いたような笑顔を見せる。
そんな太陽よりも眩しい笑みを、こんな無愛想な男に向けるには些か勿体ないような気もするが。
「座らへんの?」
「いや、俺は――」
棒立ちの智也に紫月がそう問いてくるが、智也はあくまで家主を探しに来たのだ。
本人からも晩御飯を用意してくれるとのことを聞いていたが、これ以上世話になるのは良心が痛む。
「おや? 食べないのかい?」
が、踵を返そうとした所で家主が登場。お盆に乗せて運んできてくれたのは、おそらく智也の分の夕食だろう。
そして、ご親切に紫月と同じテーブルにお皿を置くものだから、相席を強要されているようで智也は困り果てた。
家主の顔を見つめ、どうしても言わなければいけない話があるのだと目で訴えるが、当然伝わらない。
とはいえ、智也はその話を誰かに聞かれるのが嫌だった。
紫月を横目にどうすべきか考える智也を、二人が不思議そうに見つめてくる。その視線と場の空気に耐え切れず、とりあえず腰を下ろす羽目に。
「ていうか、別に隣じゃなくても……」
と聞こえないように不満を溢しつつ、それは自分への咎めだとして受け入れることに。
「それじゃあ、ごゆっくり」
満足したのか家主は台所の方へと帰っていき、再び訪れた二人きりの気まずい空気と、募るばかりでいる不安に、智也の顔はますます曇っていく。
ともあれ、せっかく用意して頂いたものを粗末にはできない。隣のことは一旦忘れ、機を見て家主に話をしようとそう決めて、智也は目の前の料理に意識を向けた。
少し大きめの皿の底に白米が敷き詰められており、その上にハンバーグと野菜が乗っている。
ハンバーグにかけられたデミグラスソースは階下の純白にまで浸透しており、濃厚そうなその汁が、より食欲を増進させるだろうことが見て取れる。
だが智也の目を惹いたのは、それだけが原因ではない。純白の上のそのさらに上に、光り輝くものがあったからだ。
言うなれば、白銀の玉座に鎮座する王の、その頂にある金の冠のようであった。――そう、最上部にある半熟の目玉焼きが、その存在を激しく主張していたのである。
「美味しそうやね」
紫月が声をかけてきたが智也は反応しない。何故なら、罪悪感を忘れてしまうほどの衝撃が。一瞬で虜になってしまうほどの大好物が、そこにあったからだ。
「ハンバーグに目玉焼きは反則だろ」
さっきまでの暗い表情から打って変わり、智也は目を輝かせていた。
溢れ出る肉汁と絡み合うデミグラスソースの上から、とろとろの黄身がなだれこむ。その絶景を見ているだけで体が喜び、唾液が溢れてくる。
一口食べると濃厚な味わいが染み渡っていき、体中が溢れる肉汁で幸せに溺れる。
とっておきの、黄身の絡んだ部分を口にすれば、濃厚なソースがまろやかに変化し、再び口内を蹂躙した。
無限に箸が進み、智也を幸せの虜とする。――そう、この家主の料理の腕前は、智也の胃袋を鷲掴みにしていた母親に、負けずとも劣らない実力を有していたのだ。
「……」
ふと、視線を感じた智也が首を横に向けると、自分の顔がずっと見られていたことに気が付いた。
いつからかは分からない。ただ、紫月は今もなお智也の顔をまじまじと眺めている。
その視線が気になりつつも、智也は自分の手を止めることができない。紫月と手元のハンバーグとを交互に見ながら、次々と口に運んで幸せを堪能する。そんな智也のおかしな挙動に、紫月は吹き出すように笑った。
「っぷ、アハハ! あ……ごめんごめん、ちょっと面白くて……ふふ」
自覚のない智也が頭上に疑問符を浮かべ、その反応にまた一つ笑みがこぼれる。
そうしてよく分からないまま首を傾げ、智也は食事を再開する。その光景をまた紫月が眺めるのだが、その表情に、僅かに複雑な色が混じる。
「――智也くん、頑張ろな」
その声は小さく、智也には聞こえなかった。
そうして先に席を立った紫月は空になったお皿を手に、台所の方へ歩いていく。
その様子を智也は視界の端に見て、二階に上がっていったタイミングで立ち上がった。
「ごちそうさま」
両手を合わせ、紫月と同じように最低限の片付けを済ませる。
「あれま~持ってきてくれたの?」
「……」
言わなきゃいけない。今度こそ打ち明けるんだ。
今ここでそれができないと、きっと二度と言えなくなる――そう自分を叱責して、
「どうしたんだい? そんな難しい顔して」
勇気を出そうと握り拳を作っていたら、どうやら顔まで力んでしまっていたらしい。心配そうに顔を覗き込まれるが、智也は罪悪感で目を合わすことができない。
言わなきゃいけない。言わなきゃいけない。そう思えば思うほど、息が詰まって言葉が出なくなる。
「ぁ……俺……」
うまく言葉にできない智也を、家主は笑みを湛えてじっと待ってくれている。
今言うしかない。そう自分を奮い立たせ、智也は覚悟を決めた。
「実は俺……お金を持ってないんです」
「そうだったのかい? 言い辛かったろうに、話してくれてありがとうねぇ」
意外にも、家主の反応は軽かった。
「まだ学生だからねぇ、しょうがないさね」
「すみませんでした! 無賃で泊めていただいた分のお金は、時間をかけてでも必ずお支払いします!」
そのまま許してもらうわけにはいかなかった。
仮に家主が目を瞑ってくれたとしても、智也自身が自分を許せないのだ。だから、ちゃんと自分の意思を伝えて、その上で智也はこの下宿屋を出るつもりだった。
「待ちなさい」
「っ……いや、本当にすみませんでした」
「あなた、お金もないのにどうする気なの?」
「それは……」
ひとまずどこかで野宿して、朝になったら街を散策し、働き口を探す――そんなところだろう。
と、頭の中で今後の方針を考える智也に、家主は何故か楽しそうに笑っており、
「私、孫が欲しかったのよねぇ。元々、子供が好きだったっていうのもあるんだけど、だからこうして下宿屋なんてやってるのよね。娘が中々いい相手を見つけられなくてねぇ」
「なにを……」
「一人くらい、サービスしたってかまやしないよ。それこそ孫だと思えば、ね」
「ちょ、待ってください。そういうわけにはいかないんですよ!」
言葉の意味を理解して、智也は慌てて声を上げた。
どこまで優しい人なのか。このお方は、智也が文無しと分かった上で受け入れようとしてくれている。
もちろんそれは願っても無い話ではあったが、まだ未熟ながらも、男としてそれでは駄目だという自覚があった。
しかし、
「まだ若いんだから、甘えてもいいのよ」
「そりゃ……いや……でも」
「お金のことなら問題ないさね。余裕が出来てから払ってくれれば、それでいいのよ」
その言葉に甘えて、頼ってしまっていいのだろうかと揺らいでしまった。
他の誰でもない、下宿屋の家主がそう言ってくれたのだ。智也を咎めるものは、誰もいない。
だがそうと分かっても、素直に受け入れることはできなかった。それこそ親族ならまだしも、他人様に迷惑をかけることに抵抗があったからだ。
「真面目な良い子だねぇ。そんな気負うこともないさね」
「本当にいいんでしょうか……」
「言ったでしょう、かまやしないって」
「く……絶対、絶対に御恩は返します。だから……もう少しだけここに居させてください」
そう言って頭を下げる智也に、家主は何も言わず優しく抱擁してくれた。
その温かさが、いつしか感じた母の温もりに似ている気がして、思わず泣きそうになったのを必死に堪えた。




