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一章 〈9〉

 〈9〉


 階段を降りた、薄暗い空間。そこには、一枚の扉があった。扉には精緻な模様が施されており、薄暗い中でもそれがなにを表しているのかは一目瞭然だ。


 それは――……口。


 ゾロリと牙の生え揃った、獣の口腔を表したモザイクであり、いままさにその奥に進まんとする俺っちたちを食らおうとする、化物の顎門に思えた。

 そしてその口腔の中心には、周囲の細かいタイルとは別の、大きなタイルが貼り付けられており、そこには二文記されている。


『ここより先、命の保証は一切なし。たった一つの宝を惜しむ者、より多くを欲さず、その先に進むべからず』


 たった一つの宝とは、命の事だろう。……いや、もしかしたら、なんらかの謎解きのヒントだろうか? 人の手掛けた罠の道というのなら、普通のダンジョンにはない、そういったギミックがあるのかも知れない。面白い……。

 たしか、以前はこの先には吊天井の仕掛けがあったという。その先のドアを、ドアノブを回さずに開けるのが、正しい進み方。万一天井が下りてきても、狭い物置のようなところに逃げ込めばいい、だったか。


「けっ、気取ってんじゃねえよッ!! いまさら俺たちが、こんなんでビビるかってんだ!」


 俺っちがそんな事を考えていたら、真っ先に階段を下りた迂闊な男が、気負いなくドアを開けて奥に進む。そのあとを、三、四人がぞろぞろと付いていく。

 本当に、あの男は六級までいったのだろうか? ダンジョンでも、十層以上ある中規模ダンジョンでは、まず生き残れない人材だろう。五級に上がれなかったのも道理だし、なんなら七級のまま浅層の魔物駆除くらいにしか、使えないと思う。

 まぁ、それだけ戦闘能力が秀でていた、という事なのかも知れない。だがそれは、モンスターなどいるはずもない人造の地下施設では、無用の長物というものだ。


「おい! 扉が勝手に閉まり始めたぞッ!?」


 誰かがそう声を発するのを聞いて、俺っちも扉を見る。たしかに、ゆっくりではあるが、扉が閉まり始めている。先行した人数が、五人を超えたから閉まり始めた? だが、この鈍さじゃ、五人全員が脱出する事は不可能じゃない。だが……――


「おい、戻れ!」

「ハン、別に閉まろうが構やしねえよ! どうせ種は割れてんだ。吊天井が下りてきたら、物置に逃げりゃあいいんだろ!」


 アホはそう言って、閉まる扉に見向きもしなかった。五人中三人はそそくさと戻ってきたというのに。アホともう一人は、ウル・ロッドの幹部候補という餌につられたのだろう。

 やがて、扉が閉まる。すぐに、扉の奥から振動が伝わってきた。男たちもなにかを喚いていたが、扉が分厚いせいで聞こえない。

 どれくらい経っただろう。何度も振動があった事から、少なくともあの二人のうち、一人は生きているのだろう。俺っちたちはどうする事もできず、うえで待っている連中に報告をしたあとは、思い思いに休んでいた。

 やがてカチリと扉から音がし、再び開くようになった。恐る恐る扉を開いてみたが、奥には誰もいなかった。二人とも先に進んだから、開くようになったという事なのか……。

 とりあえず、全員で話し合った結果、三人ずつ先に進む事になった。どのみち、ここで引き返すなどできないのだ。ならば、細心の注意を払いつつ進むしかない。

 そのうえで、なんらかの罠で全滅する可能性を考慮し、一度に三人ずつ送り込む。一度に送り込む人数を増やしても、罠を探索する場合は余計な手間や連携の不備によって、致命的な間違いが起こりかねない。

 そして、俺っちを含む三人が、先発組として扉の奥に進む事になった。こういうとき、五級という肩書きは貧乏くじを引きがちなんだよなぁ……。まぁいいさ。

 扉を開き、ゆっくりと進む。背後の壁が閉まる、という事もない。


「なぁ、この壁に埋まってるのって、なんかの宝石じゃねえのか?」

「どれどれ? お、たしかに。こいつぁ緑碧玉グリーンジャスパーっすね。そこまで高価じゃないっすけど、売ればまぁそこそこの値段にはなるっす」

「マジかよ。ラッキー」


 迂闊に壁の宝石に伸ばした男の手を、俺っちは押さえる。当然だろう。


「宝石に触れた瞬間、罠が発動するかも知れないっす。なにより、あそこの扉に書いてあった文、あんたも見たっしょ? 下手に触らない方が身の為だと思うっすよ?」

「お、おお。そうだな……。すまんすまん」


 ここにも、最初の男と同じくらい、迂闊な男がいたようだ。

 俺っちたちは廊下を進み、もう少しで突き当りの扉に到着する。いまだに、階段に通じる扉は開け放たれたままだ。壁には所々に宝石と思しき石があったが、誰も手を出さないよう厳命していた。

 いよいよ、この短い廊下も終点だ。ところが、扉の前に立った瞬間、バタンと大きな音がして、階段側の扉が閉まった。そして、ズズズという重苦しい音がして、石の天井が下りてくる。その降下速度は早くないが、それ程高い天井でもない。

 俺っちは、ざっと扉の様子を確認すると、ひとまずは物置へと避難する。

 ここには三つのレバーがあり、天井のレバーをあげれば天井が戻り、扉のレバーをあげれば扉の鍵が開き、明かりのレバーをあげると死んでしまうという、よくわからない罠があったらしい。実際、レバーはあった。

 一人の男が、天井のレバーをあげる。降下していた天井が、今度はゆっくりと戻っていくのが、この物置からも見えた。その男が、隣の明かりのレバーまであげようとしていたので止めに入る。


「ちょっと、そっちは罠だって聞いてたっしょ? なんで触るんすか?」

「あん? ああ、こっちが明かりのレバーだったのか。天井はわかったんだが、明かりと扉の字は知らんくてな」

「だったら迂闊に触んない方がいいっすよ……」


 正直、命がいらないのかと、怒鳴り付けたくなる。パーティのメンバーだったら確実に、怒鳴ったうえで拳骨を落としていた。

 まぁ、こいつはたぶん、冒険者の経験がないのだろう。ママと呼ばれる、ウル・ロッドファミリーの二大巨頭の片割れ、ウルの命で俺っちについてきた監視役だ。だからって迂闊なのが許されるはずもない。下手に死なれると、俺っちが疑われかねないのだ。


「さて、それじゃああの扉をどう開くか、考えないとっすね」


 俺っちは、ドアノブのない扉を思い出し、そうこぼした。


 あの扉は、事前情報が通用しないのは一目瞭然だ。なにせ、押し開く両開きの扉だったのだから。当然、ただ開ければいいという事ではないだろう。

 もしかすれば、扉に貼り付けてあった【|迷わずの厳関口《エントランス&エグジット》】という表記がヒントなのかも知れないが、十中八九扉の先にある部屋の名称だろう。


「ともあれ、何回かやってみないとわからないっすよね」


 前回の扉も、ドアノブを回さずに押し開くのが正解だった。あの扉も、ただ押し開くタイプの扉かも知れない。まぁ、先行した二人が扉を開く為に、結構時間を食ってたので、それはないとは思うが。


 何度か試してみてわかった事は、現段階では、扉は押しても開かないという事。鍵穴やドアノブの類はなかった事。鍵のレバーをあげると、階段側の扉は普通に開いたが、当然突き当たりの方には変化がなかった事がわかった。

 三人で交互に扉の前に立ったが、それ以上の発見は特になかった。だとすると、鍵はやはり、階段側の扉にあった文言だろう。えーっと、なんてったっけ?


『ここより先、命の保証は一切なし。たった一つの宝を惜しむ者、より多くを欲さず、その先に進むべからず』


 だったな、たしか。たった一つの宝を惜しむ者ってのは、命という意味かとも思っていたが、もしかしたらあの壁の宝石を指しているのかも知れない。だとすると、たった一つを選ぶのか? いや、それを惜しむ者は、その先に進めないんだから……結局、どういう事だ?

 よく考えたら、あの文言は、先に進む為のものじゃない。進ませない為のものだ。だとすれば、真っ先に飛び込んでった男の言っていた通り、ただの脅し文句だったのかも知れない。


「そういや、その文句ってちょっとおかしいよな?」

「おかしい?」


 俺っち以外の二人の内、文字が読めないマフィアの男――名前はたしか、フバといったか——が、首を傾げつつそう言った。いまは、もう一人の冒険者崩れ、イニグが廊下を探索している。

 フバ、イニグ、そして俺フェイヴの三人組だ。まぁ、全員本名かどうかは知らないが。


「なんで、『その先』なんだろうな。こういうときって『この先』じゃねえのか?」


 フバの言葉に、俺も首を傾げた。言われてみれば、たしかに。扉に記されているなら、普通は『この先』と書くんじゃないだろうか。まぁ、『その先』でも通じるが、その前の文で『ここより先』と記している事を思えば、確かに不自然だ。

 となると、『その先』っていうのは、廊下の事ではなく、あの両開きの扉の先という事になる。つまり、やっぱりあの文言は、なんらかの謎かけだったという事になる。


「ふむ。となると、やはり問題は『たった一つの宝』と『惜しむ者』となるっすね。そしてキーが、『より多くを欲さず』という言葉。たった一つの宝がなにか、惜しむ者は進めないという文言の意味がわからないと、さっぱりっす」

「やっぱりそこは、あの壁の宝石なんじゃねえの?」

「そうなると、たった一つを選ぶ基準がわかんないっす。それ以上を欲せない宝石、なんてあるんすかね?」

「さぁ。俺には、そもそも宝石の価値なんざわかんねえしなぁ」


 フバは肩をすくめて、思考を放棄したように狭い物置内を物色し始めた。だが、ここにあるのは、掃除道具の詰められた金属製のロッカーくらいのものだ。それ以外に見るべきは、精々あのレバーくらいだろう。


 そうだな。一回、考えをリセットして考えてみよう。

 たとえば、あの『たった一つの宝を惜しむ者』が、『命を大事にする者』と訳せるなら、つまりは『命知らずなら、先に進める』と読み解けないか? だとすると、もしかすればこの物置にある、あの明かりのレバーをあげて蛮勇を示せば、先に進めるというのはどうだ?

 うん、センスがないな。どちらにしろ、それじゃあイチかバチかだ。あるいは、天井が下りてきても、両開きの扉の前を動かない、という命知らずな真似も可能性があるといえる。謎かけの答えが二通りあるなど、ナンセンスだろう。

 それに、『より多くを欲さず』と言う文言が空文化する。


「あれ? もしかして逆、なのか?」

「あん? 逆ってなんだよ?」


 今度は廊下の探索を終えたイニグが、物置の入り口から聞いてきた。背後では、ゆっくりと吊天井が降りてきているのが見える。


「いや、あの文章が『命を惜しむ者は、より多くを欲さず、その先に進んではならない』って意味だとしたらっすよ、もしかしてより多くを欲する者が、先に進めるんじゃないっすかね?」

「より多く欲する者? つまりどういう事だ?」


 そこにフバも混ざってきた。


「つまり、あのこれ見よがしの宝石を取ったら扉が開いて先に進める、とかっす」

「ふむ……、なくはない、か……」

「んだよ、やっぱ最初からあれを取っときゃ良かったんじゃねえか!」


 イニグがなにやら考えつつ頷き、フバは考えなしに不平を垂れる。仮説として、検証の余地はあるだろうというだけの話で、そもそも考えなしに宝石を盗もうとしたヤツの行動と、同じにされては困る。

 まぁ、たしかに行動だけ見れば同じだし、客観的に俺っちたちの行動を評するなら、押し込み強盗と大差ないと言われてしまえば、ぐうの音もでないのだが……。


「じゃあ、フバに確かめてもらうっすか。宝石は、フバのものでいいっすよ」

「マジかよ!? ラッキー!」


 大喜びするフバを後目に、俺っちとイニグは頷き合った。このチームには、喜んで囮になってくれるアホがいて助かった。こういうとき、五級ってのは貧乏くじを引きがちなのだが、今回ばかりは違うらしい。

 俺っちとイニグが暗黙の了解を交わしている間に、フバが壁から碧玉を取り出していく。どうやら、いくつも持っていくつもりらしい。まぁ、それ以上を欲するなっていう文言の反対なのだから、強欲なくらいでちょうどいいのかも知れない。

 そんなフバが両開きの扉の前に立つ。俺っちたちは、物置からその様子を眺めていた。


「天井が下りてこないな」


 イニグの言葉に、俺っちも頷く。だが、まだ安心するのは早いだろう。フバが扉に手をかけ、ゆっくりと開いていく。

 天井は動かない。完全に開いたところで、ようやく俺っちは安心した。どうやら、これで正解らしい。


 俺っちたちは、安堵の息を吐いてから、扉の奥の【|迷わずの厳関口《エントランス&エグジット》】とやらに向かって歩を進めた。


 そこは、吊り橋状の一本道だった。迷わずとはよく言ったものだ。これはもう、迷いようがない。なにせ、指定された道以外は奈落なのだ。

 たしか、事前情報では、ここは幻術の施された書斎で、部屋の全域が落とし穴になっている、という話だったはずだ。だが、いまのこの光景は、事前の情報とはまったく異なっている。

 まぁ、無理もない。ここはダンジョンじゃないのだ。一度侵入されて、仕掛けを見破られた罠など、そのままにしておく意味がない。すぐにまた、同じ組織の仲間が攻めてくるとわかっていたら、なおの事だ。

 幻術を解いて、バレてる落とし穴なんぞ開きっぱなしにして、間に吊り橋を渡しただけの状態にする。手間を考えれば、ある意味最善手だろう。


「結構深いな……。地下だってのに、どんだけ掘ったんだ……」

「たしかにそうっすね……。崩れないか心配っす」


 イニグが下を覗き込みつつ、不安そうにこぼし、俺っちもそれに同意する。


「フェイヴ、あれを見ろ」


 イニグに促されて、彼の指差す方の壁を見ると、そこには小さな穴が空いていた。まず間違いなく、吊り橋を渡り始めると、あそこから妨害が入る仕掛けになっているのだろう。吊り橋を渡りながら、あの妨害に対処するのか……。面倒な。


「ここは、固まらず一人一人で渡った方がいいな。ただでさえ狭い橋の上で、動きを制約されたくない」

「おいおい、まさかまた俺が行けってんじゃねえだろうな?」


 今度は役得がないからか、フバが文句を言う。だが、別に問題はない。足手まといであるフバを連れていく方が面倒だ。というか、こいつはこの橋を、どうやって渡るつもりなのだろうか……?


「じゃあ、まずは俺っちが行くっす。そうだ、フバ。一回階段のところまで戻って、廊下の攻略法を教えといた方がいいかも知れないっす」

「あ、そうだな。っていうか、壁の宝石って足りんのか? 全部なくなったらどうなるんだ?」

「さぁ? 流石にそこまでは知んないっすよ。というか、心配ならフバの持っている石を分けてあげればいいんじゃないっすか?」

「はぁ!? なんでそうなんだよ!? つーか、うえにいるヤツ全員ここに突っ込むなら、俺が持ってる分含めたって足んねえっての!」

「そりゃそうだ」


 俺っちは肩をすくめてから、興味のない話を打ち切って進行方向を見つめる。

 緩い弧を描いた石の吊り橋。向こうの足場から、金属のロープが二本渡してあり、そこに石の足場がある、見るからに危うい橋だ。

 下手な渡り方をすると、橋が左右に揺れて振り落とされそうですらある。しかも、左右、下手すりゃ上下からも妨害が入る可能性を思えば、それは決してあり得ない可能性ではない。

 そもそも、橋の強度は大丈夫なのか? まぁ、いま落ちてないのだから、先行の二人が渡れるだけの強度はあるのだろう。ならば、いっそ駆け抜けてしまえばいい。

 体を沈め、目的地を睨む。対岸にある扉と、空中に張り出した足場。あそこまで、一気に駆ける。

 ゆるく息を吐き、鋭く吸い込み、呼吸を止める。そこから一拍おいて、俺っちは床を蹴った。

 一歩、二歩、三歩目にはスタートダッシュの段階を終え、その初速を活かして前へ前へと加速していく。

 壁から金属製の矢が飛来するものの、大抵は俺っちの通り過ぎたあとを通過していく。前方から飛来するものだけ、ナイフで弾いて駆け抜ける。

 足場が揺れるし、道全体が沈み込むような感じもあって少し走りにくかったが、特に問題なく対岸へと辿り着いた。

 足場が抜けるような罠も警戒して走っていたのだが、どうやら杞憂だったらしい。


「ふぅ……。なんというか、思ったよりもストレート勝負な橋だったっす。もっと悪辣な罠とか、あると思ってたんすけどね」


 対岸の連中には聞こえない、独り言をもらす。

 まぁ、身のこなしには自信がある。これまで自分を支えてきた健脚にもだ。

 もしかしたら、この罠の作り主にとっても、おれっちくらいの素早い相手は、想定外だったのかも知れない。

 それならば、普通はどうなのか、イニグの攻略を見学させてもらおう。



 イニグは、俺っちとは違ってゆっくりと橋を渡ってきた。自分に飛んでくる矢を、丁寧確実に打ち払いながら、足場の揺れを最大限に警戒して慎重に進む。

 なるほど、それが正攻法かと、貫禄の攻略だった。とはいえ、俺っちからすれば、わざわざ危険を冒してまで、矢を浴びる趣味はない。

 俺っちには俺っちの足があり、イニグにはなかった。それだけの違いだ。

 ちなみに、フバは俺っちと同じように一気に駆け抜けようとした。残念ながら上手くいかず、身体中に矢を浴び、橋から振り落とされそうになりながら、それでもなんとか橋を渡り切った。

 もしかしたら、罠の作り主は、敵として想定しているのが、冒険者ではなくマフィアなのかも知れない。流石に、一応はプロである冒険者が、この程度で死ぬはずがない。


「次の部屋は、ええっと【暗病の死蔵庫(テラーズパントリー)】っすか。前回の連中は、そこで死に絶えたって話っす。警戒していきましょう」

「そうだな」

「な、なあ、どっちか水薬ポーションとか持ってねえ? すげえ痛えんだけど……」


 持っていたところで、高価な魔導術製の水薬ポーションを、わざわざフバに使ってやる理由はない。

 俺っちたちは、フバの泣き言を黙殺して、次の扉を開いた。


 絶叫が響き渡った。

「ああっ!? こんなあっさり突破されるなんてッ!!」


 っていうか、なんなのあの速さ。あの糸目のおじさん? お兄さん? の足の速さが、もう僕の知っている人類最高峰のスプリンターと比べても、明らかに隔絶してるんだけど!? いや、生命力の理とか、魔力の理とかある時点で、そういう人間を想定していなかった僕が悪いんだけどさ!

 だからって、あんな不安定な足場を、全力疾走で駆け抜けられる!? もっとバラエティみたいにユラユラグラグラして慌ててよ!! 撮れ高最悪だよ! 正面から飛んでくるボルトなんて、どうやったら減速〇で弾けるんだよ!?


「次の男は、普通に進んでいますね。矢は弾かれていますが」

「そう、これでいいんだよ! って、よくはないんだけどさ。なんで全方位から発射される矢とか弾けんの? っていうか、当たった矢まで弾かれてるんだけど?」

「身体の硬度を高める理を用いているのでしょう。十中八九生命力の理でしょうが、魔力の理でも同様の事はできます」

「むぅ……。ちょっと、冒険者というものを過小評価していたかも知れない。侵入者のIQを低く見積りすぎていたようだ」


 バカなゴロツキばかりを相手にしてきた弊害だろうか。


「まぁ、我らがダンジョンも広くなっています。わざわざ作り直すようなものでもないでしょう。序盤くらい、愚者に対する罠を構築していても良いかと」


 それもそうか。なにより、この【|迷わずの厳関口《エントランス&エグジット》】には、侵入者を殺す以上の目的がある。まぁそれは、吊天井の廊下【強欲者の敷石パッショネイトアプローチ】も同じだ。


「まぁそうだね。じゃあこの【|迷わずの厳関口《エントランス&エグジット》】はこのままでいいかな?」

「よろしいかと。なにより、先の【強欲者の敷石パッショネイトアプローチ】 と合わせて、人海戦術を阻む良い障壁となっています。人数制限のギミックを、ここで変えてしまうのは少々惜しいかと」

「だね。じゃあこのままでいこうか」


 僕は改めて、侵入者たちに意識を飛ばした。なお、バカはやはりバカだったとだけ追記しておこう。




 耳をつんざくような、野太い絶叫。

 それとともに、俺っちたちがゆっくりと開こうとしていた扉を、縋るようにして、勢いよく開いて男が現れた。押し開く扉で良かった。でなければ、この勢いに押されて、足場の外まで吹っ飛ばされていたかも知れない。

 扉から出てきたのは、先頭を切ってこの地下施設に踏み入った、あの迂闊な男だった。血走ったような目で、涎を撒き散らしながら叫んでいる様は、鬼気迫る様子だ。


「あ、ちょ、そっちは――」


 狂ったように叫び声をあげながら、その男はあろう事か自ら奈落へと身を投げた。なんの躊躇もなく、火に追われた者が湖に飛び込むように、男は深淵の暗闇に消えていった。


「「「…………」」」


 あまりの出来事に、三人とも声も発せなかった。

 いま、一人の男が確実に、命を落とした。それは、俺っちたちと同じ任を負った、いわば同僚の死だ。

 しかも、見るからに尋常ではない死に様だった。緊張するなという方が無理だろう。


「……気を引き締めて行くっすよ?」

「お、おう……」

「…………」


 イニグはまだ大丈夫そうだが、フバの様子はいささか以上に気がかりだ。冒険者経験がないせいか、こういう状況に慣れていないのだろう。

 とはいえ、こんな状況じゃ経験があれば一安心というわけでもない。実際、本物のダンジョンでもあんな光景は、見た事はなかった。

 俺っちも、ここからは気を引き締めて行く必要がありそうだ。


 部屋の中は真っ暗闇だった。当然ながら俺っちとイニグは、明かりを用意している。フバは言わずもがな。

 ランタンの頼りない明かりでは、視界はほとんど確保されない。相当な広さの伽藍堂なのか、あるいは別の要因か? どうやらそのようだ。なにせ、足元まで、ランタンの光が届かないのだ。普通なら、こんなのはあり得ない。

 なんにせよ、こんな罠だらけの地下施設を、これだけ視界が悪い状況で、進みたくはない。さて、どうしようか。


「フフフ……」


 耳元で声。これは、もしかして属性術の【囁き】か? 俺っちは即座に気付いたが、フバとイニグはにわかに慌て出した。


「お、おい、なんかいるぞ!?」

「く、くそ、暗闇に乗じて襲ってくる気か!? やってやる! やってやんよ!」

「おいバカ! こんな視界の悪いところで、短剣なんぞ振り回すな!」

「うるせえ! どこから敵が襲ってくんのかわかんねえんだから、仕方ねえだろ!」


 錯乱しつつあるフバと、視界の悪さ、突然の声に、冷静さを欠いているイニグが、口論を始めた。これはまずい。


「落ち着くっす! いまのは【囁き】っす! 離れた相手に声を届ける為の、簡単な属性術っすよ!!」

「う、うるせえ! 俺は、俺はなぁ! ウル・ロッドでも、ママに目をかけられてる、か、幹部候補なんだ! ぜ、絶対に、こんな、こんな穴蔵で死んでたまるかぁ!!」


 ああ、これはマズい。視覚を閉ざされる恐怖というものは存外大きい。フバはこの暗闇に、完全にあてられてしまっている。

 俺っちとイニグが持っているランタンの明かりが、ゆっくりとフバがいた場所から離れるのを確認した。


「んなっ!?」


 だがその瞬間、室内にポツポツと別の明かりが生まれ、驚愕の声を発してしまった。明かりを持った人間と思しきシルエットが、口元までを照らして直立不動で立っている。これは幻術?


「な、んだこりゃあ!? お、おい、イニグ! フェイヴ!? ど、どこいきやがった!? ど、どの明かりがお前らなんだ!?」

「こっちだ! こっちにこい!」

「俺っちはここっす! こっちにくるっす!」

「違う!! いまのは俺の声じゃねえ!! 騙されるな!」

「本物はこっちっす! 早くくるっす!」

「違うわよぉ……。本物はぁ……、こっちぃ……」


 四方八方から俺っちやイニグの声が響き、あまつさえ明らかに女の、薄気味悪い声まで混じる始末。これはもう、完全に幻術に呑まれている状態だ。

 仕方ない。ここで出し惜しみをして殺されるなんてゴメンだ。


 俺っちは魔力を手の平に集め、その魔力を操って理を刻む。見えない術式を描き、発動の為の詠唱を行う。


「【灯台プハロス】」


 暗闇を吹き消すような、強い光が俺っちの手の平のうえ、数十センチのところを浮遊する。おかげで、これまで見通せなかった室内も、ゆうに見渡せるようになった。思ったよりも、広くはない。

 属性術における、光属性の【灯台】は周囲を強い光で照らすというだけの【魔術】だ。普通はもっと魔力の消費が少ない、【灯火】やせいぜい【照明】を使うのが一般的だろう。

 だが今回は、この術で正解だ。


「落ち着いたっすか?」

「あ、ああ……」


 明かりに照らされた室内で、短剣を持ったままへたり込んでいるフバに声をかけると、放心したような顔のまま、気の抜けたような声で応答した。見れば、イニグも剣を抜いており、こちらもギリギリだったのだと窺える。


「この部屋に入ったときから、たぶん俺っちたち、幻術の【恐怖】にかけられてたっすね。それと属性術の【囁き】に、同じく属性術の【暗転】っすかね。あとは、あの間抜けな【幻影】っすか」


 俺っちが目を向けた先では、銘々に明かりを持った幻が、ニタニタとした笑みを湛えたまま、立ち尽くしていた。暗闇でなら、恐怖を煽るには最適なギミックだろうが、こうして明かりを確保してしまえば、ただのカカシでしかない。

 とはいえ、恐ろしい罠だ。

 なにが怖いって、幻術の【恐怖】も属性術

の【囁き】と【暗転】も、非常に難易度の低い【魔術】だという点だ。魔導術でマジックアイテムを作ろうとしても、それ程難易度は高くない。

 しかし、そんなありきたりな【魔術】を三つ組み合わせただけで、これ程までの効果を発揮できるとは思わなかった。特に、【恐怖】と【暗転】の相乗効果が高すぎる。

 これまで組み合わせた者がいないのが不思議なくらいだ。作ろうと思えば、こんな罠は誰にでも作れるのだから。


「いやでも、やっぱりその二つだけではダメっすね」


 恐怖を煽れても、そこに色がない。ただ暗いだけでは、恐ろしくはあろうと、錯乱までには至らない。だからこその【囁き】か。しかも、途中からこっちの声真似までする芸達者っぷり。


「怖いっすね……」


 この罠を作ったヤツは、人間ってものをわかってる。人間がなにを感じ、なにを恐れ、どう動くのか。そのうえで、人間を殺しにきている。

 ダンジョンも人間を殺傷する目的で罠を張るが、そんなものは獣に対する罠の延長線上にあるものでしかない。

 失敗すれば勿論怪我をし、場合によっては命すら失うが、どこまでいってもそれはあくまでも獣用でしかない。単純で、ありきたりで、殺傷力はあれど、そこに罠を置いたヤツの意思などない。ただの装置だ。

 だがこれは、人間が人間に対して用意した罠。人間を殺す為の罠だ。

 俺っちを殺す為に、罠の作り主が俺っちたち侵入者を考えて作った、作り主の意思そのもの。

 そこには、ただの剣と、それを振るう技程にも違いがある。

 俺っちは恐怖ではない震えが、体に走るのを感じ、口元がニヤける。


 ゾクゾクするっすねぇ……。



「フェイヴ、あんた属性術なんて使えたんだな」

「属性術を修めた本職には及ばないっす。冒険者業に使える術だけを、ピンポイントで習得しただけで、属性術師が得意としている、臨機応変な【魔術】の運用はできないっすよ?」


 しかも俺っちの本職は、斥候であって魔術師じゃない。生命力から魔力を生成する効率はそこまで高くないし、キャパシティも大きくない。だから、この【灯台】の【魔術】だって、あと数回も使えば、魔力の枯渇で朦朧とし始める。

 それでも魔力消費の多い【灯台】を使ったのは、この部屋に【暗転】が使われていたからだ。なまじな光属性では、たぶん相殺されてしまう。


「それでもすげえよ。でなきゃ、俺たちも《《ああ》》なってたかも知れなえからな」

「……そうっすね」


 イニグが見つめる先、部屋の一角では血溜まりに沈んでいる骸があった。先の奈落に消えた、迂闊な男と一緒に先行していた、もう一人の男だろう。この部屋の暗闇にあてられ、錯乱の末に、味方同士で殺し合ったのか……。惨いな……。


「なんにせよ、これで先行者がいなくなってしまったっす。つまり、ここから先は安全が保証されていないって事っす」

「ヘッ、最初から安全なんか保証されてねーっつの! こちとら命知らずの荒くれだぜ? いまさら引き返すわけにゃあいかねえだろうがよ!」


 さっきまで暗闇で錯乱しかけていたとは思えないフバの切り替えの早さに、ある意味感心する。イニグを見れば、なにやら物言いたげにしていた。


「イニグ、なんか懸念があるっすか?」

「ああ……。俺は、先の吊り橋で生命力を消費しちまっている。まだ余裕はあるだろうが、帰りもあの吊り橋を渡る事を考えると、そろそろ一度休憩をとっておきたいんだが……」

「とはいっても、俺っちの【灯台】だって、長時間灯ってるわけじゃないっすよ。あと数分で消えるっす。そうなると、この部屋は再び【暗転】に呑まれるっす。あと、俺っちも本職じゃねえんで、魔力はカツカツっすよ?」


 とはいえ、魔力が減るのは、生命力が減るのに比べれば、だいぶマシではある。なにせ、魔力ってのは生命力から生成されるエネルギーだ。生命力を直接消費するよりも安全で、効率よく特別な力を使える。

 だが、生命力から魔力を抽出する為には、それなりに時間がかかる。魔導術で作った水薬ポーションのなかには、生命力から無理やり魔力を生成して、即座に魔力枯渇の状態を回復するものもある。だが、これは魔力の代わりに生命力を消費しているだけで、危険な行為でもある。

 もちろん切羽詰まっている状況では仕方ないが、生命力というのは消費しすぎると死んでしまう。緊急時でもなければ、そのような水薬を使うべきではないのだ。

 イニグが休憩を必要としているのも、生命力の回復の為だろう。食事をして、体を休めると、生命力は回復する。勿論、このような場所でとった簡単な休憩では、回復する生命力量もたかが知れているだろう。

 それでも、ないよりはマシだ。


「どうするっすか? 先に進んで、そこで休める可能性に賭けるか、一度戻って吊り橋の前で休むか……」

「んなもん、先に進んでからに決まってんだろ! もう一度この部屋を突破するのに、また属性術ってのを使うんなら、フェイヴの魔力が無駄になる。それよりは、先に進んでから休む方がいいに決まってる!」


 フバの言葉は、一部はもっともだ。ただし、先に進む危険を軽視しているという点に目を瞑れば、だ。

 たしかに、一度戻ってからもう一度ととなると、また【灯台】を使う事になる。生命力の理である【強心】で、幻術を払うという手もなくはないが、こちらも生命力を消耗するので、休息の意味が薄れてしまう。


「…………」


 イニグは先に進むリスクと、一度戻ってから進むリスクを勘案し、眉間に皺を寄せて考え込んでいる。俺っちも考えたが、ここはフバが正しいと思う。

 結局、先には進まねばならないのだ。あえて戻って二つの試練をクリアするよりも、一旦進んで一つをクリアする方が、消耗は少ない。

 勿論、危険を軽視するのは良くないが、慎重になるあまり、意味もなく足踏みをするのは悪手だろう。


「……進もう」


 やがて、同じ結論に至ったのか、イニグがそう言い、俺っちとフバも頷いた。

 それから、【灯台】の明かりが消える前に、そそくさと部屋の先にある扉まで進む。残り時間的には、もうかなりギリギリだ。


「は、早く行こうぜ。またあの暗闇に呑まれるのは勘弁だぜ!」

「待つっす。扉や周囲に罠がないか、確認してからじゃないと、危ないっす」


 タイムリミットが迫った事で、再びビクビクとし始めたフバを待たせ、俺っちは両開きの扉を調べていく。だが、特に罠はなさそうだ。

 あるのは、一枚のプレート。これまで通りなら、これは次の部屋の名前なのだろう。


「【目移りする衣裳部屋(カレイドレスルーム)】っすか……。さてさて、お次はどんなおもてなしをしてくれるのか、楽しみっすね」


 そう言った直後、【灯台】の明かりが消え、フバとイニグが驚いたような声を発する。俺っちはそれに取り合わず、ゆっくりと扉を押し開いた。


 そこには、何人もの俺っちが、驚いたような顔で待ち受けていた。


「これは、鏡っすか?」

「すげーな。これだけのガラス鏡、地上に持っていけたら一財産だぜ?」

「持って行けたらな……。っていうか、ここの主だっていうガキは、どこからこれだけの鏡を集めたんだ? 目立つだろ?」


 俺っち、フバ、イニグの順に、部屋の威容に感嘆の声をあげる。

 フバの言う通り、天井も床も、そして通路になっている壁も、四方八方が鏡になっている部屋。その鏡に、俺っちたち三人が何人も何人も映り込んでいる。

 たしかにこれがすべてガラス鏡なら、一財産どころではない。お貴族様並みの財力だ。

 そして、イニグの言う通り、これだけの鏡を集めようとすれば、確実に目立つ。ましてスラムに運び込むともなれば、噂にならないはずはない。

 だが、俺っちはそんな話を耳にしてはいない。不自然だ。


「とはいえ、当初の予定通り少し休むっす。俺っちとイニグは、生命力と魔力の回復に専念するっす。フバ、その間の護衛を任せても大丈夫っすか?」

「おうよ! つっても、俺も怪我してんだけどな」


 そういえば、フバは吊り橋で全身に矢を浴びていた。急所こそ避けていたものの、それなりに怪我を負っている。彼にだけ負担を強いるのは、フェアじゃない。


「そうだったな……。フバがピンピンしてたから、忘れてたぜ。じゃあ、やっぱり交代にしよう。一人ずつ、一時間警戒すればいいだろう」

「いや、イニグは生命力を削ってるから、十分に休む必要があるっす。俺っちとフバで、一時間半ずつ警戒すればいいっすよ」


 生命力の消費というのは、ときに致命的な事態をも引き起こしかねない。ここでイニグに無理をさせるより、回復の早い俺っちや、軽症であり、これ以上傷が悪化する恐れもないフバが、均等に負担をするべきだ。

 というか、当初の三時間フバに負担を強いるという案は、いくらなんでも理不尽すぎるだろう。どうやら俺っちも、魔力が少なくなっているせいで、頭が回りづらくなっているらしい。

 扉のすぐ側で、三人座り込む。イニグは携行食料を水で流し込んでから、すぐさま横になった。俺っちとフバは、少しだけ言葉を交わす。


「どうもこの鏡、ガラス鏡じゃないようっすね」

「そうなのか?」

「触った感触が、ガラスとは違うっす。磨き上げられた大理石みたいな感触なんすよ」

「へぇ……、そんなのもわかるもんなのか……」

「まぁ、勘みたいなもんっすから、あまりアテにされても困るっすけどね」


 だとすると、ガラス鏡を他所から持ち込んだわけではないのだろう。しかし、だったらそもそも、この鏡はなんなのか、という話になる。


「ホント、不思議な場所っすね……」


 そう言ってから、俺っちも横になる。まずはフバに見張りを担当してもらって、魔力の回復を図る。冷たい床に寝転がるのは、生命力回復の妨げとなるが、贅沢も言っていられない。


「こんな事してたら、後続のやつらが追い付いてくるんじゃねえのか」


 仮眠によってぼんやりとした意識のなか、フバのそんな声が耳に届いた。それもいいかもなと、ウル・ロッドに自らを売り込むつもりもない俺っちは、無責任にそう思ったのだった。

 それが、俺っちが聞く、フバの最後の声だとは、そのときは知るよしもなかった。




「あぎゃああああああああああああああッ!?」


 絶叫。俺っちはガバりと身を起こした。既に、取り出しやすいところに装備していた短剣を、両手に携えている。

 だが、一瞬俺っちは、誰がどこで悲鳴をあげているのか、把握できなかった。いや、誰がはわかる。この場合、()()()と表すべきだろう。

 真っ赤な鮮血を撒き散らし、のたうち回るフバ。彼が悲鳴をあげているのはわかる。だが、壁、天井、床に映る鏡像の、どれが本物のフバなのか、一瞬わからなかったのだ。

 だが、判別する手段が皆無というわけではない。俺っちは、床に広がるフバの鮮血から、彼の位置を特定し駆け寄る。俺っちと一緒に、俺っちの鏡像まで動くせいで、気が散ってしょうがない。


「おい、大丈夫っすか!? フバ、聞こえるっすか!?」


 声をかけてみるも、反応はない。失血具合、呼吸、鼓動の有無、そして目の感じを見るに、もう無理だというのはわかっていた。せめて、意識でもあればどうしてこうなったのか、聞き出す事は可能かも知れないと声をかけたが、意味はなさそうだ。


「フェイヴ、なにがあった?」


 俺っちからそう遅れず、イニグも駆け寄ってきた。そして、フバの様子を見て絶句する。


「わからねっす。俺っちも仮眠中だったもんで」

「くそ……っ! おい、フバ! 起きろ! なにがあった!?」

「ダメっす……、背後から胸を貫通されてるっす。もう息はないっす」

「クソッ!!」


 仲間が一人死んだというのに、事態が把握できずに悪態を吐くイニグ。その苛立ちはわかる。

 フバはどうして死んだ?

 ここの壁は、すべてが鏡だ。四方八方に俺っちたちの像が反射して、奥行きや方向感覚まで惑わしかねないような部屋だ。だが、逆にいえば、鏡のせいで他に仕掛けを仕込める余地がない。

 鏡像に歪みや穴があれば、それに気付かないわけがないのだ。


「どうやら、この部屋にもなんらかの仕掛けがあるようっすね」

「そうだろうな。クソガキが!」


 地下室の主である子供に対して、唾でも吐きかけるように悪罵を放つイニグ。そうとうに、精神的に追い込まれているようだ。


「クソ、クソ、クソッ!」

「落ち着くっすよ、イニグ。ここで取り乱すのは、敵の思う壺っす。ここでの休息は諦めて、先に進みましょうっす」


 地団駄を踏むように足元の壁を蹴り始めたイニグを落ち着かせようと、俺っちは声をかける。冒険者崩れであるイニグは、それで落ち着きを取り戻しつつあった。

 こういうとき、冷静さを欠く事が死に直結するのだと、経験で知っているのだろう。


「ふぅぅう……」


 大きく息を吐き出したイニグは、気を取り直すように「悪い」と言ってから、俺っちを見返す。


「なんすか?」

「なぁ、フェイヴ。あんた、うえのマフィア連中が、ここまでたどり着けると思うか? いや、ここまでは来れるかも知れねえが、この先も進めると思うか?」

「それは……」


 吊天井と吊り橋なら、タネも割れている以上、少しずつなら損害も少なく突破できるだろう。皆無になるとは思えないが。

 だが、あの暗闇の部屋は、人数が増えれば増える程、混乱は増す。俺っちたちが易々と突破できたのは、属性術も一因ではあるが、人数が少なかったという方が大きい。

 まして、本隊はフバと同じ、マフィアやそれ以下のチンピラたちなのだ。最初にあの部屋に入った二人組の二の舞になる未来が、容易に想像ができる。

 そして、そこを突破してもこの鏡部屋だ。ここになんらかの危険があるというのなら、件の子供の拠点はさらに奥という事になるだろう。もしかしたら、まだまだ先は長いのかも知れない。

 そんな場所を、フバと同じような連中が、探索する? 七〇〇人という数が、なんのアテにもならない。


「もしもだ。ウル・ロッドがここに七〇〇の兵を突っ込んだとして、それが全滅したらどうする?」

「ウル・ロッドにとっちゃあ、死活問題……っていうか、ほぼ終わりっすね。他の組織に舐められるどころじゃないっす」

「そうだ。だとすると、今回俺たちが命を懸けて進んだって、報酬が無価値になるって事じゃあねえのか? これ以上、命の危険を冒してまで、先に進む意味ってあるのか?」


 なるほど。イニグの言い分は、わからなくもない。

 イニグが今回、ウル・ロッドの招集に応じたのは、いわば自らを売り込む為だ。だとすれば、その組織そのものが弱体化するのが目に見えているのに、これ以上危険を冒す意味は少ない、と考えるのは自然だろう。

 だがそれは、ウル・ロッドが弱体化すれば、という前提に基づく話であって、そうでない可能性だって十分にある。


「たしかに、人海戦術でここを突破するのが不可能な以上、無理に突破を試みれば犠牲が増えるのは確実っす」

「だろ?」

「それでも、今回の襲撃が必ず失敗するとは言い切れないっす。あの暗闇の部屋だって、俺っちたちが戻って、仕組みさえバラしてしまえば、犠牲覚悟で抜ける事は、できなくはないっす。そのとき、イニグはどうするっす?」

「うっ……」


 ウル・ロッドが勝利した場合、ここで任を投げ出したイニグや俺っちは、彼らの顔に泥を塗ったという事になる。立場は、ここに住むという子供と同じだ。

 俺っちはともかく、既に表社会をドロップアウトしたであろうイニグにとって、それは強すぎる逆風だろう。


「とはいえ、たしかにちょっと、厳しいっすね……」


 この鏡部屋になにがあるのかはわからないが、既にフバが死んでいる以上、生半可なものではないはずだ。暗闇の部屋からここへ抜けたマフィア連中が、さらにここを突破できるのか。突破できたとして、そこに子供はいるのか。

 そして最大の懸念は、最終的に子供を見つけて、なんらかの報復が成就したとして、そのときウル・ロッド側の人間が、何人生き残っているのか、だ。

 子供一人を殺す為に、三〇〇人を犠牲にしたともなれば、組織の弱体化は免れ得ず、また外聞は非常に悪い。張り子の虎だと思われれば、他の裏組織や他所から参入する連中に、ウル・ロッドはたちまち蚕食されるだろう。

 目的の達成が困難であるという、イニグの意見はもっともだ。正直、いまからでも引き返して、あのママに撤退を進言するのが、賢い判断だろう。

 この場合、問題になるのは俺っちたちの身の安全だけだ。


「この部屋にある危険が、ウル・ロッドに致命的な損害を与え得ると確認できたら、戻って報告を優先するのも手っす」

「……そうだな」


 組織に致命的な害が及ぶ可能性があったから、という理由であれば、言い分は立つ。ウル・ロッドの顔に泥を塗ったとは思われない。


「その為には、なにがフバを殺したのか、確認する必要があるっす。慎重に進むっすよ?」

「ああ……」


 俺っちは、強ばった顔のイニグと一緒に、鏡の通路を進んでいく。



 無数の虚像。

 薄暗かった他の部屋と違い、明るいこの部屋では周囲の様子がよくわかる。だからこそ、俺っちとイニグの姿が動くたびに、全方位を警戒している神経が、過敏にその動きを捉える。

 一つ前の暗闇の部屋は、なにも見えないからこそ恐怖心を煽られたが、この部屋は逆だ。見えすぎるからこそ、集中力が削がれる。

 慎重に慎重に進む俺っちたちは、しかしそんな部屋を着実に進んでいった。


「ちょっと休もう……」

「そっすね」


 二〇分程進んだところで、俺っちとイニグは背中合わせで小休止をおく。流石に、二〇分も神経を尖らせていたせいで、気疲れしたのだろう。

 背中合わせなのは、フバのように背中から攻撃されるのを防ぐ為だ。


「ここまで、罠らしい罠はなかったっすね……」

「ああ……。ただ合わせ鏡になった通路があるだけだった……」

「それはそれで、方向感覚や、下手したら平衡感覚まで狂いそうで、難儀するっすけどね」


 鏡の通路は、奥行きや方向を見失いやすい。しかも、通路の形状が画一的でない為、鏡像が乱反射しており、通路の先から突然自分の姿が現れる、なんて事もままある。

 正直、罠はほとんどないのに、この鏡のせいで精神の消耗は、これまでの道のりよりも激しいといわざるを得ない。


「まさか、鏡にこんな使い方があるとは、思わなかったっすね……」


 合わせ鏡にすると、無数の虚像が生まれるという話は、聞いた事があった。ガラス鏡自体、あまり普及しているものではないうえに、大きなものはさらに高価である為、これだけの規模で鏡を使う事などまずなかった。

 それがこれ程までに厄介だとは……。


 鏡像の乱立する通路を、俺っちとイニグは進んでいく。

 フバが殺されて以来、問題は起きていない。だが、むしろ何事もないせいで、警戒心はいや増すばかりだ。


「罠がない……?」


 いよいよ緊張も限界だったのか、イニグが声をこぼした。


「そうみたいっす。どういうわけっすかね?」


 俺っちもそう答え、何度目かの小休止に入る。お互いに背中合わせで座り込み、前後を警戒する。


「だが、フバは殺されたんだぞ?」

「そっすね。だから、なにかはあるはずなんす。それはもしかすれば、俺っちたちが警戒している間は、出てこないような罠かも知れねえっす」

「んな罠があるわけねえだろ!?」

「どうっすかね。正直、ここに住んでる子供ってのが、どういう人物なのかは知らねえっすけど、それくらいの事はやってのけて見せそうって、俺っちは思うっす。この地下室だけで、そう思わせるには十分っしょ?」

「…………」


 同意見だったのか、イニグは黙った。しかし、このまま進んでいて良いものか……。なにがあるかわからない、危険な道をただ進むという行為は、非常に消耗する。

 現に、俺っちもイニグも、この鏡部屋の探索を始めてまだ三、四時間程度だというのに、何度も休憩を挟まないと、集中力が保てない程に疲れていた。

 どこかで大休止をとりたくはあるのだが、それでフバの二の舞を演じるのはゴメンだった。だが、そうだな……。


「イニグ、俺っちが仮眠をとるフリをするっす。イニグは周囲を警戒して欲しいっす。俺っちも、寝たフリしながら、警戒しておくっす」

「……そうだな。どのみち、このままじゃ先にこっちが衰弱しかねねえ」


 背中合わせのまま頷き合い、俺っちたちは休息の準備を始めた。


「じゃあ、俺っちは寝るっす。警戒、よろしくっす」

「ああ……」


 顔色の悪いイニグが、もそもそと携行食料を齧りながら応えた。彼もだいぶ参っているようだ。無理もない……。

 仮眠を始めて三〇分。特に、変化はなかった。

 仮眠を始めて一時間。変化はない。さらに三〇分、俺っちは――ッ!!


「そこっすッ!!」


 気配の元に、ナイフを投擲する。そこにあったのは、俺っちの虚像。鏡に映っているはずの、鏡像。

 だがその鏡像は、なんと俺っちとは違う動きをした。俺っちの投擲したナイフを、弾いてみせたのだ。


「んなッ!? どういう事だこりゃあ!?」


 イニグの驚愕の声を聞きつつ、俺っちは駆ける。鏡像だったはずのそれは、即座に撤退を選んだらしく、俺っちの姿のまま、俺っちとは違う動きで駆けていく。

 要は、鏡像のなかに、こちらとまったく同じ姿の刺客を紛れ込ませたのだろう。なんという、悪辣な仕掛けだ。


「うわぁぁあああああ!? ク、クソぉッ!!」


 イニグの悲鳴に、俺っちは足を止める。チッ、そっちにも、奇襲を仕掛けてきたのか。

 鏡像だったものは、一目散に他の鏡像たちの群れに紛れて、消えていった。もう、どれが襲撃者だったのか、判別はつかない。

 追跡を断念した俺っちが、慌ててイニグの元に戻る。彼はちゃんと生きていた。肩に多少の切り傷が付いていたが、かすり傷だろう。


「大丈夫っすか?」

「く、くるなッ!?」


 俺っちが声をかけると、切羽詰まった表情で脂汗を流しながら、剣を抜いた姿勢で俺っちを見ている。俺っちが本物なのか、疑っているのだろう。


「落ち着くっす。俺っちは本物っす」

「ど、どうやって証明すんだよ!?」


 どうやって?

 困った、そういえば存在証明の方法がない。俺っちとイニグは、今日初めて顔を合わせた間柄だ。当然ながら、お互いしか知り得ないお互いの秘密などない。

 であれば、姿形までそっくりだったあの襲撃者でない証明など、できようはずもない。


――疑心暗鬼。


 なるほど、これがこの部屋の仕掛けか。なまじ、他に罠がないからこそ、疑いの目が仲間に向く。

 なにせ、常にそいつがチラチラと視界に入ってきて、そのなかに敵が潜んでいるのだ。


「証明は無理っす! それはお互いにそうっす! イニグにも、イニグの証明ができないっす!」

「あ……、じゃ、じゃあ、どうすんだよ!?」

「イニグ、中級冒険者の心得、覚えてるっすか?」

「こ、心得?」


 事前情報では、ここに住む子供は、下級冒険者だそうだ。つまり、中級冒険者の心得を合言葉にすれば、子供が知らない情報を互いに開示できるという事になる。

 だから俺っちは、まず自らの証を立てる。


「ダンジョンは暗い場合もある、だから明かりを持っていくべし! どうっすか、イニグ?」

「あ、ああ! そういう事か! たしか、え、ええっと……、ダ、ダンジョン探索は時間がかかるから、飯をちゃんと持ってけって話だったはずだ!」

「そうっす! これは下級冒険者であるここの主人も、ウル・ロッドの連中も、まず知らない合言葉っす!」

「な、なるほどな! で、でもよ、俺、その心得あんま覚えてねえぞ?」


 だとすると、この合言葉は、使えてあと一回という事になる。というか、機密性という意味では、かなり緩い合言葉だ。本当なら、証明としては信頼性に欠ける。

 だが、イニグが落ち着いて、こちらを信じたなら、それでいい。


「そ、それよりも、ありゃあなんだ? モンスターか?」

「まさか。ダンジョンでもない場所に、モンスターなんて……」


 言いかけて口籠る。まるで人造ダンジョンのような、この地下施設。そこに、モンスターと思しき異形の襲撃者。

 これは、ここがダンジョンであるという可能性の示唆ではないか?


「おそらくあれは、鏡像に紛れてターゲットの背後に忍び寄り、襲いかかる類の存在っす。だから、警戒心の薄いフバが、真っ先にやられたっす」

「まるで、この場所に合わせたような生態だな」

「というか、ここ以外だと生きてけないっす。そんなモンスターなんて、いるんすかね?」

「俺が知るわけねえだろ」


 敵の姿を真似て、敵の背後から忍び寄る。この、鏡が乱立する場所でこそ脅威だが、そうでなければハッキリいってただの雑魚だ。外に出れば、特に苦もなく倒せるモンスターだろう。それが本当にモンスターだとしたら、だが。


「……モンスターだったとしたら、これは由々しき事態っす。もう抗争だなんだと、遊んでいる場合じゃないっすよ……」

「あ、ああ……。町中にダンジョンがあるなんざ、悪夢以外の何物でもねえ。ニスティスの都の再来なんざゴメンだぜ……」

「俺っちもっす」


 ニスティスは、かつて栄えていた大都市だ。しかし、その大都市のなかにダンジョンが出現した事で、ニスティスはそこに住む民諸共に滅びた。その跡地にいまなお存在するニスティス大迷宮は、世界でも有数の大規模ダンジョンだ。

 これは、この地域一帯では、子供でも知っている話だ。


「でもなぁ……」

「なんだよ?」

「あの襲撃者がモンスターってのが、どうにも腑に落ちねえんすよ。なんというか、もっと無機的な存在のように思えたっす。どちらかというと、属性術の土属性で操る、ゴーレムに近い感じっつーか……」


 たしか、魔導術でも似たような人形が作られていたはずだ。もしかしたら、あの襲撃者はそれかも知れない。


「ど、どうしてそう思うんだよッ!?」

「だってあの襲撃者、寝ている俺っちと同じ姿勢で近付いてきたんすよ? つまり、微動だにしない相手と同じ姿勢で、少しずつ少しずつ、一時間半かけて進んできたって事っす。それって、生き物だったら神経すり減るような真似っすよ? やれって言われてできるっすか?」

「そ、それは……」


 言い淀むイニグに、さらにたたみかける。


「百歩譲って人間ならできるかも知れないっすけど、モンスターがそれをしたって信じられるっすか? ある程度忍び足で近付くとかならわからなくもないっすけど、一時間半っすよ?」


 あれがモンスターという生物であれば、息を潜めて忍び寄るといっても、限度があるだろう。その点、無機物だったと考えれば、合点がいく。


「そして、この場所とあの襲撃者の適合性っす。いかにも、この場所で使う為だけに作られた存在って感じじゃないっすか。あまりにも合致しすぎていて、モンスターという方が不自然な程っす」


 そもそも、もしここがダンジョンなのだとしたら、他にモンスターがいないのは不自然だ。ここまで進んで、ようやく二体だけモンスターが現れるようなダンジョンなど、ギルドの資料でも見た事がない。


「そして、下手にダンジョンだと騒ぎ立てて、もし違ったりなんてしたら、やべえなんてもんじゃねえっすよ?」

「というと?」


 ただ単に、地下の防衛施設をダンジョンと勘違いしたというだけならば、お咎めはない。だが、俺っちたちはいま、不法侵入中なのだ。

 冒険者ギルドなり、衛兵なりに訴え出た場合、俺っちたちはその不法性を自ら認める事になる。そして、勘違いだった場合は、ただただ自分たちの犯行を認めただけのアホに成り下がる。


「そしてそうなったら、特にヤバいのは、ウル・ロッドっすね」

「ヤバいってのは……?」

「町中にダンジョンが生まれる。それはたしかに、ニスティスの再来とも呼ぶべき事態っす。当然、ギルドも国も総力をあげて調査するっす。でももし、それでここがダンジョンじゃないってわかったら、ギルドや国はどう思うっすかね?」


 ただでさえ、ダンジョンを検知するマジックアイテムの使用には、良質の魔石がそれなりの量必要になる。

 無論、ニスティスの例もあるので、定期的に町全体を調べてはいるが、本来ならそのマジックアイテムは、周辺地域のダンジョンを索敵する為に使うものなのだ。

 そんなものを、わざわざ町中で使わせて、成果がなかったら……。


「ど、どう思うんだよ?」

「ウル・ロッドが目障りな存在を潰す為に、ギルドや騎士団を使嗾した、と認識されるっすね。そんな事を、ギルド、領主、国が許すはずないっしょ?」


 俺っちが言った言葉の意味を察したのか、ゴクリと喉を鳴らしたイニグ。彼がなにを想像したのかは、容易に察せる。

 国と一マフィアとの、全面衝突。ウル・ロッドにまず勝ち目はない。


「まぁ、そのとき俺っちたちは、自ら不法侵入を認めたアホとして、投獄されてるっすし、関係ないっちゃ関係ないんすけどね」

「バ、バカ野郎! 俺は捕まりたくなんかねえぞ!?」


 慌ててそんな未来を否定するイニグ。

 俺っちもゴメンだ。なにせ、そのとき俺っちたち二人は、表の社会でも裏の社会でも居場所をなくしているのだから。


「だったら、一回あの襲撃者を撃退したいっす。もしここがダンジョンなら、モンスターは倒しても霧消するっす」


 稀に体の一部、魔力の強い部分を残したりするが、ダンジョンでは大半のモンスターは魔石を残して霧のように消える。ごくごく稀に、ほぼ全ての肉体を残すものもいるが、それは本当の本当に例外だ。

 一〇〇〇体中、一体いるかどうかという確率だ。


「倒して消えたら、ここはダンジョンに間違いないっす」

「もし……、消えなかったら……?」

「ダンジョンじゃない可能性が高いんじゃないっすか? 消えないモンスターの方が稀なんすから、消えなかったらモンスターじゃなく、やっぱりこの地下施設の罠の一部なんすよ」

「…………」


 深刻な顔で黙り込むイニグ。なにやら思い詰めているようだが、大丈夫だろうか。


「イニグ、もしかしたらこの部屋にも、なんらかの幻術が使われている可能性もあるっす。定期的に、生命力で【強心】を使っておくっすよ?」

「……ああ……」


 イニグの思い詰めた声が、どうにも引っかかったものの、俺っちたちは件の襲撃者を探しつつ、探索を続けた。


 探索を再開した俺っちたちだが、その目的は当初のものとは大きく違ってきていた。


 まず第一に、踏破よりもこの場所の脅威度の測定に重きをおいている。

 次に、襲撃者を返り討ちにし、ここがダンジョンではないかという疑惑に、一定の答えを得る。

 主にこの二点だ。特に、踏破を目指さないという事で、俺っちたちは元きた道を引き返していた。要は撤退である。

 入り口付近でフバが殺されたのだから、そちらに近付いても襲撃は予想される。ならば、戻っても問題はないだろうとイニグが提案し、俺っちも了承した。


 無数の俺っちとイニグの姿が、変わるがわるあちこちに現れては、消えていく。そのどこかに襲撃者が混じっているかも知れないと思うと、一瞬たりとも気が抜けない。

 気配によって察知するのは不可能じゃないが、それは神経を研ぎ澄ましていればの話だ。そのレベルの警戒をしながら歩みを進めるのは、非常に疲れる。

 案の定、きたときと同じく、何度も休憩を挟みながら、鏡の通路を戻っていく。何度か襲撃者が近付いてきたようにも感じたが、こちらがそちらに意識を向けようとすると、フッと気配が消えてしまう。

 そうとうに用心深いようだ。まぁ、それはこれまでの動きを見て瞭然だったが。


「……休もう」

「そっすね」


 イニグの休憩の回数が増えている。そして、反比例するように口数は減っている。こんな精神状態で、あの暗闇の部屋に入ったら、すぐに【恐怖】にあてられてしまうのではなかろうか……。


「フェイヴ……」

「どしたっすか?」


 随分と久しぶりに、イニグの方から俺っちに話しかけてきた。俺っちはそれに、意識して明るく応える。

 こういう状況で、双方が鬱々とすると、際限なく気分が落ち込んでいくものだ。


「どうやら、あの襲撃者は、こっちが警戒してると近付いてはこねえようだ」

「そうっすね」


 イニグも、何度か襲撃者の気配を感じていたらしい。そして、俺っちと同じ結論に達したという事だ。


「できる事なら、俺は入り口についたら、すぐにでもここを抜けて、地上を目指したい」

「でも、それじゃあここがダンジョンかどうかってのが、あやふやなままっす。さっきは否定的な見解を述べたっすが、ここがダンジョンだったらやっぱりやべえっす。確認はしときたんすけど」

「ああ、それには俺も同意だ。だからよ、さっきと同じようにして、襲撃者ってのを誘き出そう」


 イニグの提案に、なるほどと頷く。

 どちらかが寝たフリをして、襲撃者を誘き出す。二番煎じではあるが、モンスターだろうとゴーレムだろうと、それに違和感を覚えることはないだろう。唯一、遠隔操作されている、魔導術で作られた人形だった場合は、その先にいる子供は気付くと思われる。

 が、それもないだろう。前述したように、有機的な意思では、一時間半もの時間をかけて相手ににじり寄るような真似は、苦痛でしかない。楽な方法が他にあるのに、わざわざそんな苦行を選んだりしないだろう。

 どちらにせよ、誘き出せれば今度こそ、仕留められる自信はある。そうなれば、ここがダンジョンなのかどうかも、ハッキリするだろう。


「……いいっすね! それでいきましょうっす!」

「ああ。悪いが、囮役は今回も、フェイヴがやってくれ。俺は、そこまで索敵が得意じゃねえし、気付かずブッスリやられるのは勘弁だからな」

「了解っす。ま、イニグも周囲の警戒を怠らないで欲しいっすね! 特に、自分に近付いてくる気配には、注意しておくっすよ」

「ああ。俺が囮になっちゃ、意味ねえからな」


 意味ない? 別にきちんと対応できるなら、イニグが囮でも問題ないだろう。気にすべきは、囮になる事じゃなく、襲われてもきちんと対応する事だ。

 まぁ、そうは思ったが、細かい言葉尻を拾って論うような真似はせず、俺っちは休息の準備に入る。イニグは携行食料を齧りつつ、剣を掻き抱きながら座って周囲を警戒し始めた。

 一時間半経ったが、襲撃者は近付いてこない。もしかしたら、本当に遠隔操作なのかも知れない。だとすると、あの襲撃者の対処は意外に簡単かも知れない。

 そう思った途端に、微かな物音と気配を察する。どうやらまたも、結論には至らないらしい。だったら、倒してから考えよう!


「――シッ!!」


 俺っちは即座に身を起こすと、無言でナイフを投擲する。今回は二段構えだ。一本を弾いても、もう一本が襲撃者を襲う。

 その間に、俺っちも駆ける。

 襲撃者も身を起こし、俺っちのナイフを二本とも弾く。やっぱり、動きがかなり無機質だ。生物なら、自分に向かってくる一本目に、自然と目がいくものだが、こいつにそんな生き物らしい意識は感じられない。

 以前と同じく、襲撃者は自身の存在が露見したのを察し、即座に撤退を選択する。このあたりの徹底ぶりも、実に人形臭い。


「逃がさねえっす!」


 撤退を始めた襲撃者の足元を目掛けて、投げ矢(ダート)をいくつか放つ。それらに対処する為に、襲撃者は足を止めた。走りながら対処するには、投げ矢は小さすぎた。

 だが、足を止めただけあって、俺っちのはなった投げ矢はすべて弾かれてしまった。バラバラと散らばる投げ矢。

 そんななかを、俺っちは突っ切り、いよいよ襲撃者に肉薄する。

 右手の短剣を振るう。どうやら襲撃者は、俺っちの姿はしていても、俺っちの技までは盗めないらしい。不恰好に俺っちの攻撃を弾き、体勢を崩してしまっている。

 左手の短剣を振るえば、襲撃者はそれに対処できない。しかも、そちらに気を取られて、右手への意識がお留守だ。

 いける――ッがあッ!? あ?


 突然の背後からの衝撃に、俺っちは鏡面の床を転がる。


 何度も天地の入れ替わる視界で、俺っちの姿をした襲撃者が、イニグに倒されているのを確認した。

 俺っちと襲撃者を間違えた? そんなバカな。


「悪ぃなあフェイヴ……。あんた、こいつがダンジョンのモンスターじゃねえってわかったら、ウル・ロッドの連中に言っちまうだろ?」


 そう言って、血の滴る剣を見せ付けるイニグ。その鬱屈した表情に、ああ、こいつはもう、とっくに限界を超えていたんだな、と思った。


「そうなると、マフィアどもの水先案内で、またこんなクソッタレな場所に送り込まれかねねえ! ざっけんな!! あの世に行きてえなら、てめえらだけで勝手に行け!!」


 血走った眼差しで、口角泡を飛ばしながら、誰かに向かって叫ぶイニグ。少なくとも、その矛先は俺っちじゃない。


「俺は! 俺はなぁ、今後ウル・ロッドやガキがどうなろうと、もうこんな場所は懲り懲りなんだよ! 二度とこんな場所にきたくねえんだよ!! だから、情報の精度なんざどうでもいい!!」


 そう言って、イニグは足元に転がっている、白いなにかを蹴りつけた。蹴られた音から、それがある程度の重量を持った、柔らかいものであるというのがわかる。


 それが、あの襲撃者の本当の姿だ。


 真っ白い、人型の肉のようなものの塊。血の気がないどころではない肌色だが、それもそのはず、俺っちとイニグが斬り付けた裂傷からは、血が流れていなかった。

 肉体が残っているという事は、これはモンスターではないという事。つまり、ここはダンジョンではないという事だ。

 だが、このままではイニグは――


「俺は、ここがダンジョンだったって報告する!! そうすれば、七〇〇人動かしたウル・ロッドがすごすご撤退しても、格好は付く! そのあとの事なんざ知るか!!」

「そ、その後は……、どう、するんすか……? 表社会でも裏社会でも……、うぐ……、あ、あんたお尋ね者っすよ?」


 特に、ウル・ロッドが生き残ったら、イニグの命を最優先で狙うだろう。戦闘で死ねれば運がいい方で、この世のありとあらゆる苦痛を与えて、残虐に殺される未来が容易に想像がつく。

 ウル・ロッドと国をかち合わせようとしたのだから、二人目三人目が現れないよう、徹底的に見せしめにされるだろう。


「知るかッ!!」


 だが、イニグはそんなおれっちの問いに、なに一つ明確な答えを示さず、激昂して吐き捨てた。どうやら本当に、ただここから逃げたい一心で、ウル・ロッドに偽情報を掴ませるらしい。

 フバよりもイニグの方が、頭が悪かったとは、俺っちにも読めなかった。仕方ない……。あとでなにを言われるかわかったもんじゃないが、地上に関しては、アイツに任せるしかなさそうだ……。


「くはは……。ここまで、かぁ……」


 鏡面に流れた血溜まりの中を這いずり、仰向けになる。全身血まみれになった俺っちが、天井から見下ろしていた。横を見れば、そこにも俺っちがいて、ムカつく笑みを浮かべてこちらを見ていた。

 なるほど。【目移りする衣裳部屋(カレイドレスルーム)】ねぇ……。


「まぁ……。俺っち……、らし……ソッタレ……様っす……ね……」


 俺っちは瞼を閉ざした。




「あれ!? なんか、あの厄介そうな男、倒されたんだけど!?」


 僕は驚きに声をあげた。

 僕とグラは、敵が襲撃してきたこの機会を最大限活かす為、一気にダンジョンを広げていた。このタイミングであれば、ある程度の振動していても、周辺住民が不審に思う事はないだろう。

 一気に二階層をつくりあげ、いまは三階層の掘削に、体の主導権を渡したグラが勤しんでいた。僕は、意識を奥に沈めつつ、侵入者の様子を確認していたのだが、注目していた糸目の男が、仲間から背中を刺されて血溜まりに沈んでしまったのだ。


「本当ですね。それに、どうやらあの二人組、先に進む事を諦めて、撤退していたようです」


 作業の手を止めたグラが、空中にウィンドウを広げながら、そう答えた。これが、試作型の至心術の画面だ。

 そこには、糸目の男と、もう一人の侵入者の姿が映っている。グラも意識を飛ばす事はできるのだが、今回は実験の一環として、ダンジョン内の様子を映し出しているのだろう。


「なんですってっ!?」


 侵入者たちの様子を眺めていたグラが、鋭い声を発した。


「どうしたの?」

「あの男、ここがダンジョンだと、地上のマフィア連中に報告するそうです……」

「え!? もしかして、バレたの!?」

「いいえ、どうやら誤情報のつもりで、地上の連中に伝えるつもりのようです」


 深刻そうなグラの声音に、僕も黙り込む。

 これはヤバい……。なにがヤバいって、彼らは誤情報のつもりでも、ここは本当にダンジョンなのだ。詳しく調べられたりして、件のマジックアイテムなんて使われたりしたら、一発で僕たちの存在が露見してしまう。


――どうする?


 決まってる。最悪の状況を回避する為、動くしかない!!


「はっはっはっはっはっは」


 息が切れる。剣を抜いたまま走る。走る。走る。

 興奮と恐怖で、頭が痺れている。

 やってしまったという思いと、やってやったという思いが、同時に湧いていた。

 どれだけ頑張っても六級どまりだった俺が、あのフェイヴを斬ったのだ。飄々として、なんでもできそうで、いけ好かねえあの五級冒険者をだ。

 やっぱり、俺には五級になれるだけの力はあったのだ。いつまでも六級だったのは、ギルドの連中の目が節穴だったからだ。

 不意打ちだったなんて、冒険者にとっちゃ、言い訳にもならねえ。森でもダンジョンでも、罠やモンスターは不意打ちしてくるもんだからだ。

 だから俺は間違っちゃいねえ。絶対に、間違っていねえ。


 このクソッタレな鏡部屋の入り口に到着する。近くには、フバの骸が横たわっていた。そういえば、フバは緑碧玉をいくつもガメてたな。

 それを思い出し、ヤツの懐をまさぐる。


「なんだこりゃあ?」


 フバが碧玉を入れていたはずの皮袋の中には、ただの小石が詰まっていた。最初はわけもわからず呆気にとられたが、そういえばいまの俺は、自らに【強心】をかけて、幻術に対抗しやすくなっている。だが、あのときはまだ、幻術に対して無警戒だったと思い出す。


「クソがッ!!」


 床に袋を叩きつけ、さらに腹いせにそれを踏みつけた。ガラス鏡なら割れかねないような踏み付けだが、小石が擦れたというのに、傷一つない床の鏡が腹立たしい。

 とはいえ、いつまでも怒ってたって、また不意打ちされるだけだ。俺は、フェイヴ程索敵能力は高くないし、一人になった以上は休息もままならない。もうここに用はない。

 俺は意を決し、暗闇の部屋に繋がる扉を開く。

 そこかしこから悲鳴が聞こえた。どうやら、後続がここに残っているらしいが、既に手遅れな程に錯乱してしまっているようだ。そんな連中に構わず、俺はいま一度自らに【強心】をかけると、一気に室内を駆け抜ける。誰かにぶつかればそれを斬り捨て、気配を感じればそれに対しても剣を振る。

 フェイヴがいなくなったせいで室内を見通す事はできなくなったが、それでもあのとき属性術の光に照らされた室内の光景は覚えている。それ程広くはなかったはずだ。壁伝いに扉を探せば、戻る扉を見付ける事は難しくない。

 程なくして、扉を見付けてさっさと開く。運のいい事に、吊り橋には誰もいなかった。


「しかし、クソ……。生命力が……」


 鏡部屋、暗闇部屋と、生命力を使いっぱなしなせいで、体が怠くなってきた。この吊り橋を渡る為には、さらに生命力を使わねばならない。

 正直ギリギリではあるが、それでももうこんな場所からは、一刻も早くおさらばしたい。


「大丈夫。この先は、あの吊天井の廊下だ。戻るだけなら、あのレバーを戻すだけだ……」


 俺は自らに言い聞かせつつ、生命力の理【ガイ】を発動する。あとは、吊り橋が揺れて投げ出されないよう、注意して進むだけだ。程なくして、渡り切る。

 ようやくだ。ようやくここまで戻ってきた。

 俺は扉を開き、壁に碧玉の埋まった廊下に続く扉を開いた――はずだった。


「ようこそ、地獄へ」


 俺を迎えたのは、そんなあどけない声音だった。だが、そこには一切の感情がこもっておらず、こちらを睥睨する視線にも、一切の温度がなかった。

 そこには、上等なシャツのうえにダークブルーの革鎧、腰には剣、黒いハーフパンツ姿の子供がいた。右手には大きな爪の指輪……。間違いない。件の子供だ。

 どうして、こんなところに、このガキが?

 俺の思考は、一瞬でその疑問に押し流され、周囲の異変に気付くのが遅れた程だった。


「一つだけ、この迷宮の主から質問があります」


 淡々とした口調で、ガキが問うてくる。やはりそこには、色がない。ただただ冷徹に、まるで屠殺する豚でも見るような冷めた目で、俺を見ていた。


「この【強欲者の敷石パッショネイトアプローチ】 の入り口にあった文言は読んだはずです。それならばどうして、いまさらになってあなたは、たった一つの宝を惜しんでいるのですか?」

「ぅあ……」


 俺は狼狽えて、後退った。そのときになってようやく、そこが最初に通ったはずの、吊天井の廊下じゃなくなっているという事に気付いた。

 グニグニとした床も、ぬらぬらと光る壁も、血色のいい真っ赤な肉だった。天井はどういうわけかドームのような形状になり、まるで肋骨のようにアーチを描いている。

 パッショネイトなんたらなんざ知らないが、このガキがなにを問いたいのかは即座に理解した。この先の扉に刻まれていた文言は、謎解きにも使った言葉だからよく覚えている。


『ここより先、命の保証は一切なし。たった一つの宝を惜しむ者、より多くを欲さず、その先に進むべからず』


 つまり、より多くを欲して先に進んだのに、どうして命を惜しむのか。なにもかも投げ出して、仲間を裏切って、たった一つの、命という宝を惜しんでいるのか、と。


「あ、ああ……、あぁあ……」


 俺はなおも下がろうとするも、そこにある壁に阻まれた。壁? そんなバカな。俺は、扉を開いたところで立ち止まっていたはずだ。振り返れば、吊り橋があったはずの足場はなく、上下に閉じた肉のシャッターが、俺の退路を絶っていた。


「な、なんで……」

「返答はなし。元より私は、愚者の愚行になど興味はありません。速やかに処理され、永久に口を閉ざしなさい。さぁ、蠢きなさい大王烏賊ダイオウイカ


 氷柱のような声音に振り向けば、ガキは小剣を抜き放ち、真下に振り下ろした姿勢で止まった。その柄から、勢いよく飛沫しぶきが迸る。

 やがて水滴はより集まり、四本の触手となり、ガキの右腕に絡み付く。そして、右肩から生えたように、外へと伸びる。

 それはもはや、触手というよりも――……。


「て、天使……?」


 そう、天使のようだった。水でできた、美しい片翼の天使……。そう思えたら、あの無機質で無感情な表情も、実に神々しく思えた。

 なにより、あんな小さな体だというのに、その子供から放たれている存在感が、尋常のそれではない。

 もはや、なにからなにまで、意味がわからない。子供がここにいる事も、吊天井の廊下が肉の壁に包まれた、気色の悪い空間になった事も、退路がなくなっている事も、子供に天使の翼が生えた事も。


「それでは、処理を開始します」


 だが、そんな俺の混乱を一顧だにせず、片翼の天使は剣を構えて、一気に駆ける。咄嗟に、俺は剣を振った。

 体が覚えていた防御の動きで、子供の小剣を弾き返す。思わず安堵したところを、水の触手に打ち据えられた。

 子供の肩から生えた触手が、真上から俺を地面に叩き付けたのだ。吹き飛ばされる程に高威力というわけではないが、意識していない頭上からの攻撃に、一瞬だがわけもわからず激しく動揺した。

 だが、一瞬でも大きな隙だった。水の触手は四本もあったのだから。

 二本の触手が両足に絡み付くと、俺の体はそれに引っ張られ、背後にあった壁とは反対方向へと投げ飛ばされた。

 ゴロゴロと、湿っぽい肉のうえを転がった俺は、追撃に備えてすぐに体を起こす。だが、子供はだらりと剣を下げた姿勢のまま、さっきまで俺が立っていた場所に佇んでいた。


「最後に、この空間のコンセプトを教えて差し上げましょう」

「コ、コンセプト?」

「我らは所詮、マンイーター。人を食らい、糧とし、生きる者。この幻覚げんじつは、そんなあの子の覚悟の具現」

「な、なにを……」

「理解しなさい。愚鈍な地上生命であろうと、そのくらいの事はできるでしょう?」


 ぐらりと、肉でできた地面が揺れる。まるで隆起するように——いや、これは隆起しているというより、蠢いている?

 それに、この形、どこかで……。


「あ……」


 そこで俺は、この先、階段を降りたところにあった、扉の模様を思い出した。

 それは——口。

 ゾロリと牙の生え揃った、獣の口腔を表したモザイク。その奥に進まんとする俺たちを食らおうとするように表現された、化物の顎門。

 ぬらぬらと光る肉の壁、ざらざらとした質感の、蠢く肉の床、アーチ状の天井、上下に閉じられた肉のシャッター。


 ここは——口。


 だが、それには一つだけ、要素が足りない。その部位の目的は、たった二つ。そのうちの一つ、威嚇は既に役割を終えた。

 俺たちは、それを無視したのだから、威嚇の段階はとっくの昔に終わっている。ならば、もう一つは——咀嚼。


「最後に、もう一つ伝言です」

「あ……。ゆ、許し――」

「――いただきます」


 ガブリ。

 足りなかったものは、歯。ゾロリと生え揃った、獣の歯。それが上下から現れ、ようやくこの部屋が完成する。

 当然、そこに喜んで入ってきた食物オレを食う為に。

 ガブガブ。ガブガブ。




「どうやら死んでいるようです」


 グラが、目を見開いたまま倒れている男を見下ろしながら、そう言った。僕は彼女のなかで、それを聞いている。


「うん、そうみたいだね」

「本当に、幻覚だけで人は殺せるのですね」

「そりゃそうさ。いや、幻覚なんてなくても、本来人ってのは、思い込みだけで死んじゃう生き物なんだ」


 ブアメードの水滴実験という、悪魔のような話があってね。いや、これを詳しく説明し始めると、ただでさえ低いグラの人間に対する評価が、さらに下がるのは明白だ。あとで、ノーシーボ効果の概要だけ教えておけばいいだろう。

 いうまでもないが、ここは吊天井の廊下【強欲者の敷石パッショネイトアプローチ】 だ。さっきまでの、まるで口腔のような内装は、ほとんどはグラの作った幻術だ。幻覚だけじゃ足りない部分は、ダンジョンを変化させて対応した。

 あの男は、噛み砕かれるという幻覚を信じ込み過ぎて、本当にショック死してしまったのだ。

 これにて、口封じは完了した。


「なんとかなって良かったね」

「そうですね。流石に、ここがダンジョンだと疑われるのは、現段階では尚早に過ぎます。せめて、いまの十倍、いえ、二〇倍は大きくならねば……」

「先は長いなぁ……」


 とはいえ、別に急ぐ必要はないだろう。急いては事を仕損じる。今回の襲撃に乗じて、三階層までダンジョンを深くできたのだ。現時点でこれ以上を望む必要はないだろう。

 ところで、二〇倍っていうのは、広さって意味だよね? まさか、六〇階層って意味じゃないよね?


「それにしても……」


 グラが操る僕の体が、男の死体に向けられていた視線を、携えている剣へと移した。そこには、水の触手を生やす、まさに魔剣といった感じの大王烏賊があった。


「あの幻覚のせいで、またも大王烏賊が、ほとんど活躍できませんでしたね……」

「…………」


 不憫な子。




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