少年は生きる為に足掻き、そして走り出す
完全にクラウンの背中が視界から消えたシェイドは、暫し檻の隙間から腕を突き出した状態のままで呆然としてしまう。
自らの命が懸かった状態で何を!?と言いたくもなるだろうが、これも致し方の無い事だろう。
何せ、これまで散々暴力を振るわれ、虐げられて来た相手であるとは言え、こうして命の危機に直面する場面にて、完全に一人取り残される形で、表現は些か異なるかも知れないが『見捨てられる』事となってしまったのだ。
流石に、その直後にしなければならない行動を迅速に行って然るべきだ、と言うのは酷と言うモノだろう。
……とは言え、何時までも彼を現実が優しく待っていてくれるハズも無く、僅かばかりの時間を置いて四度目の咆哮が周囲へと響き渡る。
これまでのどれよりも近くから聞こえて来たその咆哮に、呆然としていたシェイドにも喝が入る形となり、檻の中に在りながらも必死に生き残る術を模索し始める。
「はっ!?はっ!?はっ!?
と、取り敢えず、この檻を壊せないと、どうにもならない!?
……でも、多くの魔力を込められたモノを壊すのなんて、僕には出来るハズが……!?」
魔術で作り出された物体や、魔力を込める事で強化された物品等は、基本的には単純な物理攻撃で破壊する事は出来ない、と言われている。
理由としては、込められた内で僅かながらに周囲へと漏れ出して来ている魔力が一種の壁や結界となってソレを守っている為に、製作してから年月が経って込められた魔力が抜けてしまっているモノでないと、純粋な物理攻撃ではそもそも対象に当たらないからだ。
そんな訳もあり、どうにか両手を広げられるだけのスペースしか無いその檻の中にて必死にもがく彼の拳や長剣は、作り出された檻の表面に弾かれて音を周囲へと漏らすだけしか出来ておらず、特に頑丈そうにも見えず、太く固く作られている訳でもない格子に傷一つ着ける事が出来ずにいた。
「…………はっ、はっ、はっ……くそっ!?
こっちは、ダメだ!僕では、とても壊せそうにない!?
……なら、取り敢えずはこっちをどうにかするしか……!?」
檻を壊せそうに無い事を悟ったシェイドは、取り敢えず今はそちらの破壊は置いておくとして、未だに自らの足首に絡み付き、痛みと出血とを強いている茨へと視線を落とす。
彼が普段の冒険者としての活動の際に使用している、厚手の布に硬化処理を施しているズボンを易々と貫いて彼の肉を抉り、深くまで食い込んで少なくない痛みと出血をもたらしているその茨も、魔術による産物ではある。
しかし、この檻の様に、ソレ専用の生成系の魔術を行使して作り出されたモノであるならばともかく、咄嗟に使ったのであろう下級の汎用魔術によるモノであるのならば、そろそろ込められた魔力も霧散し始める頃合いであるので、それならば勝算も在る!との思いから、半ば賭けに出る様な心持ちにて手にしていた長剣を、茨に目掛けて渾身の力を込めて振り下ろす!
…………ザンッ……!
すると、大人の指程の太さも在ったその茨を、まるで胸がすく様な音を立てて一太刀の元に切断する事に成功する。
「やった……!」
思わず歓声を挙げ、未だに絡み付いている残された茨を取り外しに掛かるシェイド。
一応、形ばかり着けていた手袋が刺に引っ掛かって切り裂かれ、指や手からも出血し始めるも、ソレに構う事無く茨を握り締めて足から引き剥がして行く。
未だに傷口からはドクドクと出血は続いているし、ズキズキと痛みを訴え掛け続けて来てはいるものの、傷口を広げ続けていた茨を取り除けた事により、それまでとは異なり魔力を集中的に巡らせる事で傷を癒す事が可能となった事は、彼にとっては小さくはない成果と言えるだろう。
そうして自らを繋ぎ止めていた戒めを取り払い、痛みを取り去ってホッと一息吐く事に成功してしまったシェイド。
彼はこの時、目の前の事に集中するあまり背後から迫りつつある脅威を一時とは言え忘れ去り、この場に於いて最もしてはいけなかった『気を弛める』と言う事をしてしまっていたのだ。
…………それ故に、彼は周囲が異様な程に静かになってしまっていた事に。
少し前まで比較的近くに迫っていたハズの咆哮が、まだ聞こえて来ていない事に。
巨大な『何か』の気配が背後に迫っており、ソレが『空腹』を起源とする欲望を募らせている事に、気付く事が遅れてしまっていたのだ。
故に、彼がその存在に気が付いたのは、ソレが振るった前足が彼を閉じ込めていた檻を破壊し、その破片ごと彼が前方へと投げ出されてしまってからであった。
「…………なっ!?あぐっ……!!」
急に吹き飛ばされて地面に転がされた事による痛みと、唐突に発生した衝撃、更に言えば破壊されて散弾となった檻の残骸によるダメージを受けて漏らされた苦鳴と混乱は、彼の背後から響いて来た
グルルルルルルルルルッ…………!!!!
と言う重低音によって強制的に中断される事となってしまう。
そして、ソレに釣られる形にて、地面に転がされてしまっていたシェイドは、まるで油を注し忘れてしまったが故に錆び付いたブリキの人形のごとき不自然な速度にてゆっくりと背後へと振り返ると、自らを見下ろしている『ソレ』の姿を確認すると同時に、『ソレ』と目が合った、と確信を抱く事となってしまう。
……『ソレ』は、形状で言えば、図鑑で見たり、冒険者ギルドにて耳にする事の在った『キマイラ』の姿と酷似していた。
獅子をベースにした体躯に、防御力の高そうな毛皮。
厳の様な四肢と、そこに生える長く鋭い爪の数々。
通常の獅子と同じ位置に生えた獅子の頭が涎を垂らし、肩甲骨の位置から生えた山羊の頭が角から雷を周囲へと散らし、そして尻尾の位置から生えた蛇が舌を出しながら毒を滴らせている。
……ここまでは、『キマイラ』と要素は同じモノであると思われるが、通常の『キマイラ』の体毛が『黒と赤』である、と言われているのに、彼の目の前で眼光から殺意を漲らせている『ソレ』の体毛は『白と紫』となっており、下手をしなくとも『変異種』や『上位種』である事を窺わせるには十二分なモノとなっていたのだ。
外見上は高々色が違う程度の差でしか無いが、その実力は文字の通りに一桁異なる。
ソレこそ、通常のキマイラであれば手練れの中級冒険者であれば何とか単独でも打倒しうる相手であり、上級冒険者であれば比較的楽勝で済む、と言った程度の戦力でしかない。
……しかし、彼が目の前にしているソレが『変異種』であろうと『上位種』であろうと変わり無く、手練れの中級冒険者が複数人集まって作られるパーティーでギリギリ打倒出来るかどうか。その上の上級冒険者でも一握りの最上位に居る者か、もしくはパーティーを組んで複数人にて掛かる必要に駆られる程の戦闘力を持つ、と言われている。
何故そうなるのか?何故色が違う程度でそこまで異なるのか?
今の今まで散々に議論され、実際に多大な被害が出ている事柄でも在ったが故に、学者だけでなく現場の冒険者達もその原因を知るために東奔西走する事となっていたが、現在に至るまでその原因は解明されてはいない。
……が、だとしてもそんな理屈は今現在目の前にて相対し、振り上げられた前肢に揃った爪が、僅かに差し込んで来ている陽光を反射してギラリと輝きを放っている光景を目の当たりにしているシェイドには全くもって関係は無く、寧ろ咄嗟に、とは言え身体を起こしてその場から飛び退く事が出来ただけでも重畳であった、と言えるだろう。
「ぎぃっ!?あああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああっ!?!?!?」
だがしかし、そうして振り下ろされた前足と爪によってその貧弱な身体を切り裂かれ、たちまちの内にキマイラの腹の中へと収まる事だけは回避出来たシェイドであったが、命が助かった代償として元々背中を向けていた姿勢であった事もあって、大きく肩の部分を抉り取る様にして切り裂かれてしまう。
あまりの激痛に、思わず目の前のキマイラの存在も記憶から消し去り、傷口が地面に擦れる事も、泥にまみれる事も意識の外側に追いやって地面を転がり回ってしまう。
そんな彼の様子を、まるで面白いオモチャを見つけた、と言わんばかりの様子で上機嫌そうに眺めていたキマイラだが、地面にばら蒔かれ、かつ空気中にも漂う様になった濃厚な血の匂いによって抱えていた空きっ腹が刺激され、獅子の頭から涎を垂らすと同時にシェイドを起点としてやや大きめな弧を描きながらゆっくりと移動をし始める。
流石に、その段に至ってしまえば涙やその他を垂れ流しにしながら転がり回っていたシェイドも正気を取り戻し、現状を把握してどうにか生き延びる為に頭を回す事になる。
……幸い、足の怪我については痛みや出血はまだ在るものの、どうにか走るだけなら可能な程度には治癒させる事は出来ている。
肩からの出血も、普段よりも多めに魔力を回す事で、多少の止血を行うと同時に辛うじて傷口を広げ塞ぐ程度の事は出来ている。
気力の方は恐怖でガタガタになってしまっているが、幸いな事に体力はまだ然程削られてはいないので、隙さえ突ければどうにか逃げ出す事も不可能では無いハズだ。
そこまで思考を巡らせたシェイドが、傷付いた肩を押さえながらどうにか身体を起こして中腰になっていると、それまでゆっくりとではあるが移動を続けていたキマイラが、その巨体を静止させて彼へと向かって三組の視線を固定させて来る。
唐突なキマイラの行動に思考を『?』で埋め尽くされそうになるも、どうにか堪えてジリッと一歩後退る。
すると、ソレに反応して更に彼へと警戒する様な仕草をキマイラが見せた為に、恐らくは自分の『何か』を警戒しているのだろう。なら、存在しもしない『ソレ』を警戒してくれている間こそが逃げるチャンスであり、自分に突ける最大の隙だ!と判断したシェイドは、可能な限り視線を逸らさずに後退ってキマイラと距離を取ると、タイミングを見計らってその場から反転し、一目散に走り出して行く。
最低でも、キマイラから距離を取れればソレで良い。
取り敢えず走っておけば、もしかしたら森から出られるかも知れないし、学校が派遣してくれているであろう救助の冒険者と遭遇出来る可能性も在る!
……そう考えてのシェイドの行動であったのだが、彼はまだ知らない。
キマイラが立ち止まっていた方向こそが、森の出口側の方向であった事を。
キマイラは、彼の事を脅威でも何でもない、只の魔力を多く抱えている餌食だとしか認識していない事を。
彼が背中を向けて走り出したその時に、まるで彼を虐げて来た連中と同じ様に、キマイラが口元を吊り上げて『嘲笑』と呼ぶに相応しい表情を浮かべた事を、彼はまだ知るよしも無いのであった……。
ミシミシッ…………パキッ……!




