少年は恐怖のままに逃げ惑い、己の根元へと到達する
…………そして、時間軸は冒頭のソレへと戻り、森の中でつい先程まで駆けていたシェイドは苦痛を堪えて呼吸を貪る。
「…………はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、はあっ……!」
薄暗い森の中に、彼が発した荒い吐息が響く。
取り敢えず、キマイラから逃れたい一心にて走り出したシェイドであったが、そうして暫し走っていると、自分がどの方向へと向かって走ってしまっているのか、を否応なしに把握させられる事となってしまう。
この時ばかりは、大体の植生を見ただけで自分が今何処の辺りにいるのかが判別出来る程に馴染んでしまっていた事を嘆き、珍しく呪いの言葉でも吐き散らしたい気分になりはしたものの、ここで立ち止まっては下手をしなくてもキマイラの腹に収まる羽目になる、とどうにか飲み下して足は止めないながらも周囲を見回して行く。
記憶を頼りに、先程キマイラが居た場所を迂回してどうにか表に出られないだろうか?と脳裏の地図を参照にするシェイドの背中を、背後からまたしても挙がった咆哮が否応なしに叩いて来る。
ゴガァァァァァァァァァァァアアアアッ!!!!!
先程よりも近いからか、それとも咆哮に混じる純然たる『食欲』に感化されて本能が表に出始めたからかは不明だが、聞く者に『補食される』と言う本能的な恐怖を与えると同時に、まるで物理的に衝撃を叩き込まれた様な状態となってしまった事によってパニックを再発し、現在地なんて欠片も考えずにがむしゃらに走り出してしまう。
……なんで、こんな事に?
……どうして、僕だけ?
……僕が何か悪い事をしたから?
……でも、ずっと我慢してきたのに……?
……なんで、何時も僕だけ……?
肩と足の怪我が訴える激痛と両方からの出血により、混濁と覚醒を繰り返す意識の最中、何故か変な方向に冷静な思考の一部でそんな事ばかり考え、知らず知らずの内に心に更なる『澱』を溜め込み、意識の外側にて幻聴として鎖が軋みを挙げる悲鳴を耳にしながら走って行く。
背後から迫る、枝を踏み折る音や木々を薙ぎ払い突き進んで来る音、狩りの愉悦を含んだ低い唸り声と僅かに香る獣臭に更にパニックを加速させた彼は、とうとうこれまで決して挙げる事の無かった叫び声を挙げてしまう。
「なんで!?どうして!?
なんで、僕がこんな目に!?
何も、悪いことなんてしてないのに!?
今まで、ずっと我慢してきたのに!?
なんで!?!?どうしてこんな目に!?!?」
血を吐く様な切実な叫び声は、彼が今まで密かに蓄積させてきた心の『澱』を爆発させるのに十分なモノであったが、この状況に於いてはキマイラに周囲へと助けを求めて叫びを挙げている、と認識されるには十分な声量を伴ってしまっていた為に、もう少し遊ぶつもりでいたキマイラの思考を、完全に『殺して喰う』に切り替えてしまう結果となってしまう。
そして、既に猫がネズミを嬲るのと同類の遊びを止めてしまったキマイラは、その嗅覚によって把握していたシェイドのは位置まで一気に移動すると、その豪腕によって彼の身体を薙ぎ払い、その場から吹き飛ばしてしまう。
「ごっ……!?がぱぁっ…………!?!?」
我が事ながら、何故その様な声が出たのか不明だが、一体どうやったらこんな声が出るのだろうか?と冷静に可笑しな事を考えている脳裏の一部を除いた他全てが『痛い』『死ぬ』『熱い』と言った思考に支配されてしまっているシェイドは、吹き飛ばされた先で木に身体が叩き付けられた事も、ソレにより身体の内側からベキベキッ!と言う嫌な音が聞こえて来た事も、ゆっくりとした足取りにてキマイラが近付いて来ている事も、何処か遠い世界で起きている事の様に思えてしまっていた。
この段に至って漸く、彼は自分が叩き付けられ、身を預ける形で寄りかかり、かつ自らの血潮にて現在進行形にて汚している木が森の中に出来ている広間をグルリと囲む木立の一本である事に気が付く。
そして、この広間に何の躊躇いも無く踏み入って死にかけの彼へと近付いて来るキマイラは、恐らくはこの広間に親しみ、馴染む程に良く利用していたのだろう事を窺わせる。
……ほぼ確実に、狙って追い込まれた。
別世界へと飛んでいたが、身体を蝕む激痛によって強制的に引き戻される事となったシェイドは、その考えにほぼ間違いない、と言う確信を抱く。
そもそも、魔物とは呼ばれているが、基本的には賢くて凶悪な獣とそう存在は変わりはしないのだ。
そんな魔物が、何の躊躇いも無く足を踏み入れて補食を行おうとするだなんで、予め安全を確認してあるか、もしくは何度も使って危険は無い、と実感していると言う事なのだろう。
……つまりは、助けも予想外の乱入も、一切は期待が出来ない状況に在る、と言う事だ。
つまりは、ほぼ詰んだ、と言う事だろう。
そう結論を着けたシェイドであったが、何故か無意識的に魔力を大きな負傷に集中させて傷口を塞ぐ様にしていた。
ソレに、まだ動く方の腕にて腰に差していた長剣を引き抜き、構えて寄せ付けない様に振りかざそうとしている。
…………が、彼の足は薙ぎ払われた時の攻撃が直撃してしまったらしく膝関節にて明後日の方向を向いており、碌に立ち上がる事すらも出来ない状態となっていた。
更に言えば、彼の精神は目の前の光景を正しく受け止めていながらも、既にキマイラに対抗する事への意欲を掻き立てる事が出来なくなっており、在るのは目の前のキマイラから向けられている食欲に混じった『嘲笑』と『蔑み』の感情に触発されて湧き起こってきた、これまで受けて来た虐めに対する鬱憤と怨嗟の感情であった。
…………思えば、彼が現在の様に激しく虐げられる様になったのは、幼馴染み二人が女性として美しく成長してからになるだろう。
ソレまでは『無能』だと陰口を叩かれる程度で済んでいたが、そうなってからは二人に振られた男や、二人に惚れた男に惚れていた女、と言ったほぼ関係無い連中から直接的な暴力を受ける様になっていったのだ。
最初こそ、彼は二人に訴えたのだ。
『二人が振った相手から殴られたりするから、ちゃんと付き合うか僕と距離を取るかしてくれない?』
と。
……だが、その結果は逆に二人は彼から離れる様な事はせず、周囲に見せ付ける様な行動を取り始めたのだ。
丁度、イザベラが彼へと強く当たり始めたのも同じ頃合いではあったが、変わらずにシェイドの隣に居た為に、結局彼へと降り注ぐ暴力は減る処が徐々に増加して行く事になった。
それから少し時間が経過し、彼の両親が揃って魔物の大暴走であるスタンピードを鎮圧するのと引き換えに故人となった時、ソレまでは彼にも普通の扱いをしていたハズの冒険者達も彼への扱いを変える事となってしまう。
……そう、両親の親友であり、彼と妹の後見人であり、彼らが所属していた冒険者ギルドのギルドマスターであるラヴィニアが、彼らへと遺されていたハズの両親の遺産を取り上げると同時に、冒険者達の前で彼を軽んじる様な言動を見せる様になったのだ。
それまでは、英雄の両親が在り、かつギルドマスターも尊重する様な扱いをしていた為に、多少うざったかったとしても、例え子供が嫌いで嫌いで仕方がなかったとしても、そこまで粗雑で乱暴な扱いをされる事は無かった。
……だが、既に英雄は亡く、かつ庇護して然るべきギルドマスターが尊重する姿勢を見せていないとなれば、それまでと同じ扱いをして甘やかす、なんて事にはならないのは、残念ながら自然の理と言うモノだろう。
その上で、ソレまでは掣肘していたのであろう、明確に彼を下に見て暴力を振るうカスグソの様な冒険者を野放しにするだけでなく、彼らの近くで彼を著しく貶める様な事を口にする事で積極的にけしかける様に誘導したりもしたのだ。
本の少し前までは信頼を置けていた相手が、何の躊躇いも無く自らの尊厳を貶めて来る事によって心にひび割れを起こした彼に、認められようとして選んだ道であるガイフィールド学校への入学を機として、彼には更なる絶望が降り掛かる事となる。
……そう、それこそ、彼がこの場で死に掛かっている最大の要因である、クラウン生徒会長を筆頭とした生徒や教師からの虐めの数々だ。
聞いた話に寄れば、入学以前よりも貴族家同士であった為にクラウンはイザベラとナタリアの両名と面識は持っていたのだそうだ。
その為、同じ学校に入学したのだから自分達で将来も見据えた関係にならないか?(早い話が『俺の女にしてやるよ』である)と提案した処、二人揃って
『シェイド(君)が居るから』
と、それまでの男達と同じ様にバッサリ断ってしまったのだそうだ。
男として無能に負けた、と思い込んだ為に激昂したクラウン生徒会長は、表向き何て事はない、気にしてはいない、と言う体を装いながら、多数の生徒を巻き込んでシェイドの心身に対す虐めを結構し、ソレが現在まで定着してしまった事で、彼に対してならば何をしても大丈夫。どうせ誰も助けには来ないし、罰せられる事もないのだから、と言う認識が広まってしまったのだ。
……だが、そうした扱いよりも、実際に殴る蹴るの暴行を受けた際よりも、彼の心を傷付け、抉り抜いてくれた事が在った。
それは、幼馴染み二人が放った
『どうせアイツなんて男としては見てないからさぁ~』
『私も、どちらかと言えば好みは男性らしい方ですから』
と言う言葉であった。
その時は、友人との会話の流れでそう言う言葉が出てきた、と言う事情もあり、かつシェイドもたまたま聞いてしまっただけなので二人も彼に聞かせるつもりは無かったのだろう、と言うことは彼にも理解出来た。
……だが、そんな事情と、彼が内心で抱いていた二人に対する信頼に皹を入れ、もしかしたら……と心の奥底に秘めていた淡い恋心を粉々に打ち砕くのには、十分に過ぎる程の破壊力を秘めていたのだ。
ソレ以降、彼は例えイザベラが文句を言いつつ乱雑で強めな接触をしてきたとしても、ナタリアが近くに寄って来て年頃の女性特有の良い匂いをさせていたとしても、二人は自分の事は好いていない、好かれるハズも無い、と自らの心を凍り付かせ続けて来た。
……その奥底に、嫉妬や怨嗟や恨みつらみと言った負の感情を煮えたぎらせたままの状態で、彼の心の『澱』として、着実に降り積もっていたのだ。
斯くして、積もり積もったそれら負の衝動の結晶たる『澱』は、彼が死に直面し、ソレをもたらすであろうキマイラの爪が眼前に迫った事により彼の心の内から噴出し、それまでの彼の弱気で優しく他人を傷付ける事を良しとしない性根を根本から蝕み、急速に変質させて行く。
そして、ソレがピークに達した次の瞬間、彼の耳元で一際大きく鎖が軋みながら断末魔の悲鳴を挙げる幻聴を耳にするのと同時に、目の前に広がる光景は、視界一杯に広がっていた絶死を告げる爪では無く、白く広く何も無い、そんな空間へと変化を遂げてしまっていたのであった……。
次回、覚醒回




