第50話 ☆素敵なひととき
「失礼します」
「あら、ティーエ」
やってきたのはティーエだった。
貴族の青年たちが寄ってこないようにと、周辺でにらみを利かせてくれていたはずだが。
「あのぉ、ヨゼフ様」
「ん、なんだい?」
ティーエの呼びかけに、ヨゼフは小首をかしげて答える。
「あちらで、奥様が……」
「えっ?」
ティーエが向けた視線の先には、不機嫌そうな表情をした婦人が立っていた。こちらをじっと見つめている。
「うげっ」
ヨゼフは青ざめた顔で、頭を抱えた。
「マズいな……。あれは相当にご立腹だぞ」
ぶつぶつとつぶやくヨゼフに向かって、婦人はずんずんとした足取りで近づいてくる。
「ほら、お姉ちゃん。今のうち」
ティーエは身振りで、エディタに「行け行け」と促した。
「……助かりますわ」
エディタはヨゼフに軽く頭を下げると、早足でデニスのもとへ向かった。
背後から、「主催のくせに、若い娘に付きっきりとはなんですか!」と女性の叱責が聞こえてくる。
――ヨゼフ様、奥様のおっしゃるとおりですわ……。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「ごきげんよう、ミルシェ様」
「あら、エディタ」
エディタの顔を見るなり、ミルシェはわずかにがっかりしたような表情を浮かべた。
「お父様ったら……」とぼそりとつぶやく声が耳に入ったが、聞こえないふりをしておく。
「……デニスを独り占めするつもりはありません。ごめんなさいね」
ミルシェは笑顔を浮かべ、すっとエディタに場所を譲った。
エディタは少し拍子抜けした。もっと粘られるかと思っていたからだ。
だが、せっかくすんなりとデニスの隣が空いたのだ。ありがたく移動する。
「いかがですか、貴族のパーティーは」
ドリンク片手に一息ついているデニスに、エディタは声をかけた。
「やっぱ、肩肘張るから疲れるよ。俺は根っからの庶民だなって、痛感した」
「あらあら、それは残念ですわ」
困ったように頭を掻くデニスを見て、エディタは苦笑する。
「ところで、ヨゼフ様との話はもういいのか?」
「今頃、奥様に叱られている最中かと思います。わたくしを独り占めしていたせいで、奥様だいぶご立腹のようでしたから」
「そりゃまた大変だな」
デニスが吹き出し、エディタも釣られてクスクスと笑った。
ひとしきり笑ったところで、デニスはさっと真剣な表情になる。
「さて、エディタ……」
デニスがそっと手を差し出してきた。
「俺とダンスを、踊ってもらえますか?」
「……はい」
エディタは、その手を取ってうなずいた。
曲に合わせて踊り始める。
これまで幾度となくレッスンを重ねてきた。
その積み重ねの分だけ、互いの呼吸は自然と合う。
もう、デニスに足を踏まれることもない。
滑らかなリードに、エディタは安心して身体を預けられた。
――ふふ、ダンスがこれほど楽しいだなんて。
エディタは胸が一杯だった。
今まで踊ってきたどの相手よりも、デニスは理想のパートナーのように思える。
――尋ねるのなら、今しかないですわね……。
ちらりとデニスの表情を窺う。
はじける汗が照明に照らされ、きらきらと光っている。
「ねぇ、デニス……」
「どうした?」
よどみなくステップを刻みながら、デニスはエディタに応じた。
「わたくし、あなたのお役に立てましたか?」
デニスはハッと息をのみ、押し黙る。
エディタは、ドキドキと胸を高鳴らせながら、その返事を待った。
「……あたりまえだろう? 君がいなかったら、今、俺はこの場に立てていない」
デニスは、少し照れたような表情で言った。
「よ、よかったですわ……。本当に、よかったですわ……」
エディタは感極まり、自然と涙が頬を伝って落ちた。
曲が最高潮に達する。
あふれ出た涙のしずくと、デニスから飛び散る汗が宙で混じり合い、きらめく光となって弧を描く。
数多のしずくが光を受けて、幻想的に瞬いていた。
――わたくしは一生、この光景を忘れたりはいたしません……!
エディタは今、全身で幸福を感じていた。
――あぁ、この時間が、永遠に……。永遠に、続けば良いのに!
背に翼が生えたかのように、エディタは軽やかにステップを踏み、今ひとときのデニスとの時間を、全身で堪能した。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
しかし、幸せな時間にも、終わりは訪れる。
曲が終わり、エディタとデニスは動きを止めた。
「終わって、しまいましたわね……」
「あぁ……」
名残を惜しみ、エディタはデニスの手を握りしめたまま離そうとしない。
ふと、幼い日々を思い出す。
王族として厳しく躾けられた、幼い身には過酷な日々。
教育係に口を酸っぱくして言われた、「常に王族としての立場を忘れるな」という叱責は、今でも脳裏に焼き付いている。
つらかった。つらかったけれど――今、その経験は生きている。
デニスの役に立てた。喜んでもらえた。それが、何よりうれしい。
そろそろ次のダンスが始まる。
エディタは断腸の思いでデニスの手を放し、連れ立って壁際へと移動した。
その後もパーティーは順調に進行していった。
デニスと踊れたのは一度きりだったが、エディタは満足している。
――聞きたかった言葉を、この耳でしかと聞けましたし……。
胸が一杯で、今はもう何も飲み食いできそうにない。
デニスと並んで、無言でホールを眺めた。
ティーエが貴族の少年と踊っている。
レッスンの成果か、他の貴族令嬢に負けないくらい優雅に舞っていた。
「パーティーは、大成功ですわね……」
無意識のうちに、そんな言葉が口をついて出る。
「主催者として、とてもうれしい言葉だね」
不意に、横からヨゼフの声が聞こえた。
「ヨゼフ様……」
「先ほどは失礼した。妻には参ったよ」
ヨゼフは頭を掻いて、苦笑いしている。
「っと、本題はそっちじゃない。えぇっと、デニス」
「はい」
「ちょっと私に付き合ってくれないか? 改めて、お礼もしたいし」
「……わかりました」
ヨゼフはテラスのほうを手で示した。
静かな場所で話したいのだろう。
「エディタ、すまないな。しばらくの間、デニスを借りるぞ」
「ごゆっくりどうぞ」
エディタにとっての大きな目的の一つは、すでに果たされている。
これ以上、デニスを独り占めにするわけにもいかなかった。
デニスはヨゼフに連れられ、テラスへと向かう。
その後ろ姿を見送りながら、エディタは――自分がデニスの役に立てた喜びを、改めてかみしめていた。




