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本当のこと②

 嶋田たちと別れて帰宅してから、チャットアプリにニ件の通知が届いていたことに気づいた。アプリを開いてみると、送り主は二つとも涼だった。

『ごめん、今日は俺のぶんの夕食作ってくれなくていい。今の状況のまま康介の料理ごちそうになる権利ない』

『ちゃんと話したいから、今日は少し早めに部屋に行っていいか?』

 胸の奥がきゅうっと締めつけられる。スマホを握りしめながら、康介は深く息を吐き出した。

 いつもより長めの、誠実な文章。

 そうだ。俺は、涼のこういうところが好きなんだ。噛みしめるように、そう思う。

 ちょっと素っ気なくてぶっきらぼうなところもあったけど、でもさりげなく皿洗いを手伝ってくれたりちょっとした手土産を欠かさなかったり、そして参考書を拾い上げてくれたり。

 そういうさらりとしながらもたしかな優しさにこそつよく惹かれているのだ。康介はふっと目を伏せる。

 今日の晩ご飯の付け合わせはついぞ思いつかなかったが、もうそれに悩む必要なんてなくなった。けれど、それを幸運だとは、どうしても思えなかった。



*****



 五時を少しだけ過ぎた頃、インターホンの音が静かな部屋の空気を震わせた。康介はごくりと唾を飲み込む。一度、大きく深呼吸をしてからのろのろと玄関へと向かう。

 ゆっくりとドアを開ける。短冊のように細く切り取られた夕暮れ色の空を背に、涼が所在なさげに佇んでいた。

「……いらっしゃい」

「……ん、お邪魔します」

 声をかけると、涼は口の端だけで少し笑ってみせた。けれど、その顔が微かに強張っていることはすぐに分かった。

 敷居をまたいで部屋に入ってくる姿もスニーカーを脱ぐ動きも、どこかぎこちない。彼は、今から何を話すつもりなのだろう。康介は涼の横顔を眺めながら、胸のあたりが鉛でも飲み込んだみたいにずしりと重くなるのを感じた。

 カーペットの上に座ると涼も隣に腰を下ろした。けれどその距離は心なしかいつもより離れている、ような気がする。ご飯の匂いが全くしない部屋に涼がいるこの状況が慣れなくて、自分の部屋のはずなのに妙に居心地が悪い。康介はもぞもぞと体を動かして尻の座りを直した。

 横目でさりげなく涼の様子を窺ってみる。伏せられたまつげの向こうの黒い瞳は、膝の上でぎゅっと握りしめているこぶしを見つめている。唇は堅く引き結ばれていて、容易に開かれそうにはない。

 康介はぽりぽりと頭をかいた。少し視線をさまよわせた後、口を開く。

「あー……えっと、さっきはごめん」

 そう口にした途端、涼がパッと勢いよく顔を上げた。その見開かれた目を見つめていられなくて、康介は思わず視線を逸らす。そのまま、呟くように告げる。

「涼の事情も分からないのに、キツい態度とったりして悪かった」

「ちがう、康介は悪くない」

 突然、きっぱりとした声が空気を震わせた。驚いて康介は涼へと振り向く。

 涼の黒い瞳がまっすぐに康介を見つめていた。彼はほんの少し震えている唇で、それでも強い声を紡ぐ。

「康介は悪くない、俺の、……俺が、悪かったんだ」

 言いながら、くしゃりと涼の顔が歪む。柳眉を下げてアーモンド型の目を細めて、唇を曲げて白い歯を食いしばって。

 まるで、叱られる子どものような表情だった。

「ちょ、涼、どうしたんだよ」

 思わず康介は涼の背中に腕を回した。わずかに丸められた背中を撫でながら、慌てて声をかける。

「俺、べつにそんな怒ってないよ」

 いつもどこか飄々としていてあまり感情を表に出さない涼だから、今のように表情を崩しているところなんて見たことがない。いつもより幼い表情はひどく苦しげで、まるで泣くのを堪えているみたいに見えてしまう。

 そんな顔をさせたいわけではないのに。動揺と焦りが綯い交ぜになってじりじりと胸を焼く。

 康介は一度大きく息を吐いた。なんとか心を落ち着かせて、涼のきつく結ばれたこぶしにそっと触れる。

「無理しなくていいよ。言いたくないことなんだったら、無理して言わなくてもいい」

「ううん」

 涼はふるふると首を横に振った。

「ちゃんと、言うから」

「……分かった」

 康介は涼から手を離して、姿勢を正す。

「……なんで、俺に飲み会行っていいって言ったの?」

 責めるような口調にならないよう細心の注意を払いながら、ゆっくりと、穏やかに問う。ごくり、と唾を飲み込んだ涼が、そっと目を伏せた。

「康介は、友達も多いし」

 訥々と語る声はほんの少し掠れている。康介は口を挟むことなく、静かに聞き続ける。

「俺なんかとの約束に、なんて言うか、……縛りつけちゃいけないと思って」

 言いながら、涼は微かに口の端を持ち上げて笑みの形をつくる。自嘲じみたその微笑みに、心臓を直に握られたみたいにぎゅっと胸が痛む。

「……なんで、そう思ったの?」

 たぶん、その理由こそが涼の本音なのだろう。

 核心に──涼のなかの本当のことに触れたくて、康介は静かに尋ねる。膝の上の、涼の固く握られたこぶしがぴくりと動いた。

 黒い瞳が、水の中を泳ぐ金魚のようにゆらりと揺れる。ためらうように、きゅっと真一文字に引き結ばれた口が、やがておずおずと開かれた。

「べつに、たいした理由なんてないよ。ただ、康介は人気者だから、あんまり俺ばっかりに構わせちゃ悪いよなって思っただけ」

 涼は、何でもないことのようにさらりと告げた。その声はもう掠れてはいない。淀みなく、軽い調子で語った後、涼はふっと口の端を持ち上げた。

 そのぎこちない笑顔も、わざとらしく流暢な言葉も。まるで虚勢を張るかのようなそれらは、おそらくもっと奥にある本心を覆い隠すための建前だろう。躱されたのだ。

 なのに、瞳だけはまだわずかに揺れている。まるで隠した本心が滲み出ているかのように。それが返って痛々しい。康介はぎゅっと唇を噛みしめた。

「そっか。話してくれてありがとう」

 康介は小さく笑ってみせる。一瞬、涼の黒い瞳が康介を捉え、けれどすぐに伏せられた。

「でも俺、べつに人気者でも何でもないよ」

「そんなことないだろ」

「そんなことあるよ。だからさ、変な遠慮とかしなくていいんだって」

 康介は俯いた涼の顔を覗き込んだ。しっかり、目を合わせて告げる。

「俺、涼と一緒にご飯食べるのすげぇ楽しいんだ。だから、もし涼の迷惑じゃなければこれからも水曜日の約束を続けていきたいんだけど、どうかな」

 涼の目が微かに見開かれた。それから、きゅっと細められる。小さくふるえるまつげが無性に儚くみえてしまい、まだ返事も聞いていないのに胸が詰まる。

 涼は、こくりと頷いてくれた。

「迷惑なんかじゃない。俺も、楽しいと思ってるから」

 まっすぐなこの声音は、きっと作られたものではないはずだ。康介はほっと息をついた。

「よかった……」

 思わず体中の力が抜けてしまった。康介はカシカシと頭をかきながら、吐息のような言葉をこぼす。すると、涼がそっと体を寄せてきた。猫が甘えるような──悪戯の後で何かを償おうとするような、そんな仕草だった。

 もしかしたら、本音を話さないこと、話せないことに、涼自身が後ろめたさを感じているのかもしれない。チャットアプリでは『ちゃんと話したい』と言ってくれた彼だから、最初は心の奥の本音まで全部話すつもりだったのだろう。

 でも、そんな簡単に話せるもんじゃないよな。

 そばにある、伏し目がちな横顔を見つめながら、康介はそっと思う。

 心の奥底に隠しているからこそ、簡単にはさらけ出せないからこそ、それは「本音」と呼ばれるのだ。それに、さらけ出すことに慣れていない部分を、無理に暴くような真似はしたくない。康介は胡座をかいた足の上で、固く両手を握りしめた。

 すぐ隣に座る涼は、抱えた膝の上にこてんと頭を乗せた。それはひどく幼くて、頼りない仕草のように思えた。重力のままに顔を覆うように流れる黒髪のせいで、彼の表情は窺えない。

「……康介はつよいな」

 俯いたまま、涼がぽつりと呟く。

 何が──と尋ねようとしたとき、ふと涼が顔を上げた。

「ごめん、俺のせいで嫌な気分にさせて。それと話聞いてくれてありがとう」

 そう告げる涼は、幼さなど感じさせない、完璧なほどに整った笑みを浮かべていた。その微笑みはやっぱり綺麗で、だけど同時にどうしようもなく胸のあたりが苦しくなる。康介はぎこちなく首を横に振った。

「いや、全然大丈夫だよ。俺の方こそ、悪かった」

「ううん、俺が……って、これじゃキリがないな」

 涼がふっと口元を緩める。康介もついつい噴き出してしまった。

 張り詰めていた空気が、ゆっくりと解けてゆく。

「な、もしよかったら今日も晩ご飯食べていかない?」

 胡座の上で両手をもてあそびながら、康介はできるだけさりげなく提案する。

「えっ、でも」

 涼がちらりとドアの向こうのキッチンへと視線を向けた。そこにはいつもと違って鍋もフライパンも並んではいない。

「うん、まだ作ってないんだけど、でも親子丼ならすぐに作れるからさ」

「……じゃあ、俺も手伝う」

「えっ!」

 康介は勢いよく涼へと向き直る。涼は小さく苦笑した。

「あんまり役には立てないかもだけど」

「いやいや、すげぇ嬉しい!」

 思わず康介は立ち上がった。さっそくキッチンへと行きたくなるほど逸る気持ちを隠しもせずに言うと、涼は呆れたみたいに笑ってくれた。

 腰を上げた涼とともにキッチンへと向かう。狭いキッチンは男二人が立つとすぐにぎゅうぎゅうになったけれど、その距離がかえって嬉しい。

「じゃあ俺は味噌汁の準備するから、涼はお米研いでくれる?」

「わかった」

 鍋やまな板を取り出しながら指示を出す。炊飯器の内釜に米を一合半入れて手渡すと、涼はてきぱきと米を研ぎ始めた。前にカレーくらいなら作れると言っていた彼は、確かに思っていたより手慣れた様子である。シャッシャッと響く音が小気味よい。そこに、康介が玉ねぎを切るトントンという音が入り混じる。

 やがて、あたたかな湯気が白く立ちのぼり出汁の優しい匂いが香りはじめる。付け合わせに悩んでいたのが嘘のように、食卓に並んだおかずはいつもより一品多く、鮮やかなものになっていた。

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