芽生えたものは
金曜日は一週間の中で最もしんどい曜日だ。板書に勤しむ教授の背中を確認して、康介はちらりと腕時計に目をやる。時計の針はさっき確認したときからほとんど変わっていない。こぼれそうになるため息をなんとか噛み殺す。
金曜日は、一限に学科の、二限に初修外国語の必修授業があるし、三、四限にも授業が詰まっている上に五限と六限には司書課程の授業がある。ほとんど丸一日を大学で過ごさなければならないのは精神的にきついし、空きコマが一つも無いのは体力的にしんどい。
とは言え、同じ司書課程を履修しながらバイトに励んでいる人もいるし、教職課程を履修している友人はもっと大変そうだし、これくらいで根を上げるわけにはいかない。ぐっと腹に力を込めて、丸まっていた背中を無理やり伸ばす。
意識的に授業に集中しているうちに遅々として進まなかった時計の針もなんとか半円を描いて、ようやく四限の授業が終わった。伸びをすると肩のあたりからゴキッと不気味な音が鳴った。隣で机に突っ伏していた友人、嶋田と菅田を揺り起こし、寝ぼけまなこの二人を急かしながら講義室を後にする。
「二人はこの後も授業だっけ?」
あくび交じりに嶋田が尋ねる。康介はこくんと頷いた。
「うん、司書課程のが入ってる。嶋田はバイトだろ?」
近所の学生街にある居酒屋チェーンでバイトをしているという嶋田は、たしか金曜日はこれからシフトが入っていたはずだ。康介が言うと、今度は嶋田が頷いた。
「おう。金曜日は混むからダルいんだよな」
「んーファイトぉ」
寝起きだから微妙に呂律が回っていない菅田がへらへらとガッツポーズを繰り出す。あまりにも気持ちのこもっていない応援に、康介と嶋田は「お前、思ってないだろ」「適当にもほどがある」と呆れたように目を細めた。
嶋田と別れた後、いまだにふにゃふにゃとしている菅田を引っ張りながら次の授業の講義室へと急ぐ。少し離れたところにある棟に移動しなければならないから、いつも講義室に着くのが授業開始時間ギリギリになってしまうのだ。
歩みの遅い菅田をせっついていると、ふと前から向かってくる学生の波の中に涼の顔を見つけた。あっ、と思い声をかけようとしたとき、向こうもこちらに気づいたようでバチリと視線が交わった。
「康介」
名前を呼んだ涼が、花がほころぶように微笑む。彼のまとう空気が一瞬でふわりと軽くなったように感じた。まるで風でも起きたように、周りの人たちが一斉にふっと顔を上げて涼を見た。その例に漏れず康介も彼の表情に目を奪われる。
「お疲れ。康介はまだ授業?」
そばまで寄ってきた彼が小さく首を傾げる。我に返り、康介は慌てて頷いた。
「う、うん。涼はこれからバイト?」
「おう。授業、頑張れ」
「涼もバイト頑張って」
お互いひらひらと手を振って別れる。
少し歩いてから、菅田が涼の歩いて行った方を振り返った。
「ひゃー、やっぱりイケメンの笑顔は破壊力がすげえな。みんな釘付けだったじゃん」
さっきまでのふにゃふにゃした態度が嘘みたいに、菅田は大げさなほどに目を丸くして騒ぎ出す。
「つーか芝崎、高倉と仲良いの?」
「うん」
家が隣であることは伏せて、康介は頷く。嶋田や菅田とはよく連んでいるのでいずれ家に招くこともあるかもしれない。そのとき、芋づる式に涼の家までバレてしまうのを防ぐためだ。
「そっかぁ、なんか意外」
「そう?」
「だってあい……高倉、あんまり人と連んでるところ見ねーもん。話しかけられてるところはよく見るけどさ」
おそらく『あいつ』と言おうとしながらも康介を気にして『高倉』と呼び直した律儀さに、思わず苦笑をもらす。ふにゃふにゃとしているけれど、自分なりの確固たるポリシーを持っている男なのだ。
「まあたしかにね」
「だろ? 高倉が自分から誰かに話しかけてるところ、初めて見たかもしんねーわ」
菅田が頭の後ろで手を組みながら笑った。
そこで、はた、と気づく。言われてみれば初めてだ、涼から声をかけてくれたのは。康介は思わず後ろを振り返った。もちろんすでに涼の姿などないけれど、それでも人混みの中に彼を探そうとするみたいに目を凝らす。
「一匹狼気取りとかじゃなくて本当に一人でも大丈夫なヤツなんだと思ってたけど、普通に友達いたんだなぁ」
さも意外そうに呟かれた菅田の声が、やけにはっきりと聞こえた。
*****
やっと六限目の授業を終えると、外はもう暗くなっていた。五月も半ばを迎え、だんだんと日が沈むのが遅くなってきたと思っていたが、やはり七時半ともなれば夜の帳もすっかり下りてしまっている。ちらちらと星の瞬く夜空を眺めながら、康介は帰路を急いだ。
重い足を引きずるようにしつつ頑張って歩いていると、クゥ、とお腹が情けない音を鳴らした。今にも背中とくっつきそうなお腹をさすりながら、今夜の晩ご飯について考える。
料理をするのは好きだけれど、今日みたいに疲れ切っているときはあまりキッチンに立ちたくない。身体はクタクタだし、お腹はペコペコだし、正直一秒でも早く食事にありつきたい。
よし、今日は外食の日にしよう。そう決めて、家の近所にあるお店をいくつか思い浮かべる。そう言えば、前に一度だけ訪れた小さな洋食屋は雰囲気も良かったし味も美味しかった。以前食べた肉汁溢れるジューシーなハンバーグを思い出すと、また腹の虫が騒ぎだした。目的地をその洋食屋に定めて、康介は大きく頷いた。
ふと顔を上げると、すぐそばの民家の軒先に白い花が咲いているのが目に留まった。薄暗い夜の闇の向こうでふわりと咲く満開の花を眺めていると、不意に昼間見た涼の笑顔が脳裏に蘇った。それから、しげしげと呟かれた菅田の言葉も。
「一人でも大丈夫なやつ」と涼を評した菅田の言葉は、たしかにその通りだと思う。
決まった仲間と連んだりせず、一人で行動できる涼。多くの人から話しかけられながらも、自分からはあまり話しかけない涼。大学内での様子を見るに、それほど人懐っこい性格ではないのだろう。
けれど、「毎週水曜日に晩ご飯を一緒に食べないか?」という康介の誘いは、一度も断られたことがない。毎回きちんと家を訪ねてくれるし、振る舞った料理を美味しいと言いながら食べてくれる。
その意味を、理由を、どう受け取ればいいのだろう。目を伏せて考え込む康介の頬を、生ぬるい風が撫でていく。
と、そのとき背後から「康介」と呼び掛けられた。驚きつつ振り返ると、十数メートル向こうから駆け寄ってくる人影が見えた。濃い群青の闇の中を足早に駆けてくるその人影に目を凝らす。
「あっ、涼!」
康介は目を見張った。たった今考えていた当人の登場にドキッと心臓が跳ね上がる。意味もなく背中のリュックを背負い直す。
ほら、こうやって声をかけてくれる。あまり自分から人との距離を詰めようとはしない性格だろうに、それでも暗い夜道でも姿を見つけ出して、追ってきてくれる。
「どうしたの、バイト帰り?」
駅に通じている脇道から駆けてきた涼に尋ねると、彼はコクリと頷いた。
「今日はちょっと早めに終わったんだ」
「それはよかったね」
康介が笑顔を向けると、涼は少し康介の目を見つめた。それから、ふっと微笑む。
「うん」
噛み締めるようにゆっくり告げられた一言。きゅっと胸が詰まり、呼吸が乱れる。なんだ、今の意味深な視線は。今の綺麗な微笑みは。
涼は一体何を「よかった」と思ったのだろう。思わず都合の良すぎる思い込みが頭に浮かんでしまう。ドキドキとうるさい鼓動を感じながら、康介はゴクリと唾を飲み込んだ。
「あのさ」
「ん?」
「俺、今日は外食しようと思ってるんだけど、よかったら涼も一緒に行かない?」
なるべくさりげなく言ったつもりだけれど、語尾が少し上擦ってしまった。胸の鼓動はより一層うるさく高鳴っている。急な提案だし、断られるかもしれない。ハラハラしながらそっと目の前の涼の様子を窺う。
少し目を見開いた涼は、けれどすぐに「うん、行きたい」と微笑んだ。
「よしっ」
思わず繕うことも忘れてグッと拳を握れば、涼がくすくすと小さく肩を揺らした。ハッと気恥ずかしさがこみ上げて、康介は熱くなった頬をかく。
「えっと、アパートのそばにある洋食屋に行くつもりなんだけど、いい?」
「うん」
頷いた涼がごく自然に隣に並ぶ。またきゅんと胸がうずき、甘酸っぱい歓喜が心をみたしていく。歩き出しながらそっと涼の顔を窺えば、彼の涼やかな目とバッチリ目が合った。すぐそばにある、夜空の色を溶かしたような黒い瞳がふっと細められた。どぎまぎしながら慌てて前に向き直る。
手を伸ばせばすぐに触れられる距離に胸をざわめかせながら、康介は洋食屋へと急いだ。
講義中の教授の面白かった言動など、今日の出来事を話しているうちにその洋食屋はすぐに見えてきた。
おしゃれな木製のドアを開ければ軽やかなカウベルの音が迎えてくれた。
「いらっしゃい。どうぞ好きなところに座ってちょうだい」
優しく微笑むお店のおばさんの言葉に従い、端の方の二人掛けの席に腰を下ろす。さりげなく店内を見回すと、カウンター席を含めて二十席くらいあるうちの半分が埋まっていた。周囲から聞こえるさざめきのような話し声が心地良い。
ふと目の前に座る涼を見れば、彼は物珍しそうにきょろきょろと視線をさまよわせていた。思わず頬を緩めながら、「なに食べる?」とテーブルの上にメニューを広げる。
プラスチックのファイルに綴じられた手作り感溢れるメニューにはカレーやハンバーグ、スパゲティーなどの写真が載っていて、その横に「当店イチバン人気!」などのおそらくお店のおばさんの手書きであろうコメントが書かれている。なんとなく『清水屋』を想起してしまい、じんわりとした温もりが胸に広がった。
「えっと……、康介は何にした?」
「俺はハンバーグセットにしようかな。すっげぇお腹減っちゃっててさ」
お腹をさすりながら言うと、涼はクスッと笑った。
「じゃあ俺もそれにしようかな」
「りょーかい」
二人分のオーダーをした後、涼が「康介も外で食べたりするんだな」と呟いた。
「うん、まあね。今日みたいに帰るのが遅くなる日は作る気力なんて湧かないから」
「そっか」
「涼は?」
「俺もバイト終わりに食って帰ることも多いかな。けど、ファストフードとかチェーン店とかがほとんど……って言ったら康介に怒られるかな」
上目遣いでこちらを窺う涼に、康介は思わず笑ってしまった。
「俺もときどき食べてるよ、ファストフード」
「本当? すげぇ意外かも」
「ときどき無性に食べたくなっちゃうんだよなぁ。セットでサラダとか付けておけば大丈夫だろって自己弁護してる」
おどけたように言ってみせると、涼は肩を揺らして笑ってくれた。
「でも、やっぱりそういうとこに気を配ってるんだ? 偉いな」
「そうかな」
くすくすと笑いながら褒められて、胸のあたりがむず痒くなる。康介はおしぼりの端っこをイジイジと指先でもてあそんだ。
大学のことやバイトのことを話しているうちに、香ばしいソースの匂いとともにハンバーグが運ばれてきた。
「うわ、美味しそう」
思わず康介が感嘆をもらすと、運んできてくれたおばさんが「ウフフ、ありがとうね」と目尻の皺を深くした。
「学生さんでしょう? たくさん食べてお勉強頑張ってね」
「ありがとうございます」
穏やかな笑顔とともにかけられた言葉に、康介も同じように笑顔で応える。
厨房へと引っ込んでいくおばさんの背中を見送っていると、涼が「なあ」と呟いた。
「康介、ここの店よく来るの?」
「いや? 前に一回来たことがあるだけだよ」
「ふうん?」
涼は納得いかないような表情のまま不思議そうに首を傾げている。康介は笑いながらひらひらと手を振った。
「個人経営のお店だと結構店員さんが話しかけてくれること多いよ」
「そうなんだ」
「うん。実家の近くに定食屋があるんだけど、そこの女将さんも話し好きでさ」
話しながらハンバーグに箸を入れる。じゅわっと溢れ出した肉汁がソースと混ざり合い、キラキラと光る。ふわりと立ちのぼる湯気の匂いに食欲が刺激され、ごくりと唾を飲み込む。
「この前のゴールデンウィークに帰省してたときもその定食屋に行ったんだけど、一緒に料理作ってる最中もずっと女将さん話しっぱなしでさあ。本当機関銃みたいだったよ」
ひとくちサイズに分けたハンバーグを箸で掴み、パクリと口に放り込む。途端に肉の旨味とデミグラスソースのフルーティーな香ばしさが口いっぱいに広がった。疲れているときの肉ってなんでこんなに染み渡るのだろう。ふわふわと幸せな気分になり、うんうんと頷く。
ちらりと涼を窺えば、彼もちょうどハンバーグを口に運んだところだった。やけに神妙だったその表情がホロッと綻ぶのを見て、康介も頬を緩める。
「ん、一緒に料理って?」
セットのコーンスープのカップに手を伸ばしながら涼が尋ねる。
「新しい料理を教えてもらってた。俺、料理はほとんどその女将さんに教わったんだ」
パクパクとハンバーグを頬張りながら康介が言うと、涼がわずかに目を見開いた。おや?と康介が訝しく思うと同時に、涼はふっと眉を下げて笑った。
「やっぱりそうだったんだな」
「え?」
静かに、まるでひとり言のように呟かれた言葉。康介はまじまじと目の前の涼の顔を見た。
彼の涼やかな黒い瞳はコーンスープのカップも康介も通り越して、どこか遠くを見つめている。穏やかで柔らかな眼差しだが、……けれどどこか、ちらりとかすかに切なさの影が浮かんでいる気がする。
かける言葉が見つからないまま涼を見つめていると、その視線に気づいた涼がハッとした表情になった。取り繕うようにさりげなく微笑んでみせた彼は、さっき飲んだばかりのカップに再び口をつけている。
康介も何も言えないまま、少し冷たくなったハンバーグに箸を刺し入れた。ドクリ、ドクリと高鳴る心臓の音が、やけにうるさく聞こえていた。
食事を終えて店を出ると、夜空にはいつのまにか鈍色の雲が薄くかかっていた。欠けた月の明かりを頼りに、すぐそばのアパートまでの道のりをのんびりと二人でたどる。
「いやー、お腹いっぱいになったな」
「結構な量あったもんな」
少し後ろを歩く涼を振り返ると、お腹を撫でながら涼が苦笑をもらした。もともと少食気味な涼には少し量が多すぎただろうか、と康介は思わずじっと涼を見つめる。
そんな心配を見透かしたように、涼はにこっと笑ってみせた。
「でも、美味しかったよ」
「ほんと? よかった」
「康介の誘いについてくといつも美味しいもん食えるな」
ふざけるように軽口を叩いて笑う涼と同じように笑おうとして、──ふと疑問が頭をよぎる。
初めて涼を部屋に招いた、あの日。作りすぎたカレーを一緒に食べてくれた涼は、どうしてあの突然の誘いに乗ってくれたのだろう。
あの時点ではまだ仲良くなれていたとは言い難いし、お互いのことなんてほとんど何も知らなかったのに。なぜ、自ら人との距離を詰めようとはしない涼がわざわざ部屋に来てくれたのだろう。
いやもっと前の、引っ越した初日だってそうだ。挨拶に行っただけの康介に「仲良くしてくれる?」と尋ねた涼は、どうしてそんな提案をして仲良くなろうとしてくれたのだろう。康介はふっと地面に視線を落とす。ゆるゆると歩く二人の足元には、雲の影がゆらりと漂っていた。
考え込むうちに、いつのまにか自室の前にたどり着いていた。
「じゃ、おやすみ。水曜日も楽しみにしてる」
ひらりと手を振った涼が、ドアの向こうへと消えていく。康介はぼんやりとしたままそれを見送った。