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口実カレー②


「はあー、お腹いっぱい」

 すっかりカラになったどんぶりとお皿を見下ろしながら、康介はぱんぱんに膨らんだ腹を撫でた。おかわりを二回もしてしまったのでちょっと苦しいくらいだ。最初は遠慮していた涼も、「まだまだたくさんあるから、おかわりしてくれた方が嬉しいかな」と言えばおずおずとどんぶりを差し出してくれた。涼も康介と同じだけおかわりをしてくれたので、やっぱり気に入ってもらえたようだ。

「ごちそうさま、すげえ美味かった」

 満足そうな声で告げられ、康介はぽりぽりと頭をかいた。

「へへ、ありがとう。お粗末さまです」

「料理、得意なんだな」

「まあ、一人暮らしする前からずっと料理は俺の役目だったから」

「そっか、すごいな」

 一瞬ちらりと康介の目を見た涼は、ふっとその目を細めて笑った。

「涼はあんまり料理しないほう?」

「うん。あんまりしたことない」

「ご飯どうしてるの?」

「だいたいいつもレトルトとか、インスタントとかかな」

 長い脚を折り曲げて膝を抱えた涼は、その上にこてんと頭を乗せた。子どものようなその様子が可愛くて胸がキュンと音を立てる。

「そうなんだ」

「今日も袋ラーメンで済ませるつもりだったから、こんな美味いカレーが食えるなんて思わなかった」

 上目遣いでそう告げた涼は、それからにこっと笑った。

 康介は思わず胸を押さえた。ありがとう、勢いだけで誘いに行った一時間前の自分。よくやった、図太いと言われる自分の性格。自分自身に心の中でグッと親指を立てつつ快哉を叫ぶ。

「気に入ってもらえたみたいで嬉しいよ」

 高鳴る胸の鼓動をひた隠しつつ、平静を装いながら微笑んでみせる。

 とは言え、純粋な好意だけじゃなくて半分くらいは下心が混じっているから、あまり喜ばれてしまうと少し良心がうずいてしまう。康介は小さく目を逸らした。

「それにしてもすごい量だったな」

 涼がカラになったどんぶりを見下ろしながら苦笑をもらした。

「まだ鍋にルー残ってるよ。おかわりする?」

「さすがにもう入らねぇよ」

 ふざけて言うと、涼は呆れたみたいに小さく眉を寄せて笑った。つられるように康介もへへっと笑う。

「実家だとアホみたいに食う人がいるから、そのクセで作ったらこんなことになっちゃったんだよ」

「それって、あの着物の人だろ?」

 涼がぽつりと尋ねる。

「そうそう」

 康介は頷いた。入試のときと引っ越しのとき、涼は松雲のことを見かけている。

「たしか養父なんだよな」

「うん」

 彼が康介の養父であるということは、前にちょっとした会話の流れで告げている。そのときも、涼はただナチュラルに「そうなんだ」と受け止めてくれた。過剰に驚いてみせたり同情してみせたりしないその態度は、これまで会った誰とも違っていて新鮮で、心地よかった。

「あの人ってさ」

 抱えた脚のつま先をいじりながら、涼が呟く。伏せた長いまつげに覆われた瞳は、灰色の靴下に包まれた自分のつま先をじっと見つめている。

 どうしたのだろう。康介は内心で首を傾げた。言おうか言うまいか迷っているような、ずっと遠くを見つめているような涼の目に、少し身が強張る。

 伏せていた目を上げて、涼は康介を見た。

 二つの視線がつい、と交わる。

「小説家の清水松雲だよな」

「えっ、涼、気づいてたの!?」

 思わず康介は目を見開く。

 『清水松雲』というのは松雲のペンネームだ。

 松雲は著者近影を撮られるのを嫌がるのであまり写真が出回っておらず、ごく初期に出版された本にしか写真が載っていない。それにこう言ってはなんだが、誰もが知る有名作家というよりはまだ若手の中堅作家なので、そこそこ本を読む層以外にはまず名前すら知られていないだろう。

 それを、たった二回見かけただけの涼が気づくなんて。

「いや、気づいてたというか、たった今気づいた。この部屋清水松雲の本がたくさんあるんだなあって思って、そしたら彼の顔と着物の人の顔がダブって」

「そっかあ」

 たしかに康介の部屋にはこれまで出版された松雲の本が全部そろっている。本棚にも、床に積まれた山の中にも、彼のペンネームが記された本がたくさんある。

 それにしても、よく『清水松雲』の顔を覚えていたものだ。

「涼って読書家なんだな」

「そんな大げさなほどじゃないよ。それに、俺たちの学科じゃ珍しくもないだろ」

 涼はひらひらと手を振りながら苦笑した。たしかに康介と涼が所属している学科は文学科であるけれど、その学生がみんな文学や本に興味があるかと言えばそんなことはない。中には本なんか滅多に読まないなどと話す学生もいて、康介は驚いてしまったくらいだ。

 それに、今まで康介の周りで松雲の正体が小説家の『清水松雲』であることに自力で気づいた人はいない。やっぱり、ある程度本を読む人でなければ気づかないのだろう。

 もしかしたら、涼は『清水松雲』のファンなのかもしれない。

「なあ、涼ってもしかして──」

 尋ねようとしたとき、ちょうど涼が「あ」と声を上げた。

「どんぶり、早く洗わなきゃヤバイんじゃない?」

「え? あっ、たしかに!」

 カレーのルーは一度こびり付いてしまうとなかなか取れなくなってしまう。テーブルの上に放置されたどんぶりを見れば、すでに茶色く固まり始めてしまっていた。康介は慌ててどんぶり二つをキッチンへと運ぶ。

 どんぶりを水に浸していると、涼が残りの食器たちを持ってきてくれた。

「おっ、ありがとう」

 食器を受け取り、流しに置く。

 康介は料理は得意なのだが、洗い物は掃除と同じく苦手な分野である。いつもは面倒くさがって数時間放置しがちなのだが、涼の前でそんな姿は見せられない。康介はスポンジを手にしてテキパキと洗い物を始めた。

 その康介の手元を、涼がひょいと覗きこむ。

「ごちそうになってるんだからこれくらいはしないと。ていうか、俺が洗い物しようか?」

「いやいやお客さんにそんなことさせられないよ! っていうか誘ったの俺だし!」

 康介はスポンジを握ったまま勢いよく固辞する。けれど、涼は「じゃあ俺は拭く係。ふきんってこれだよな?」とどこ吹く風でふきんを手にしている。

「いいよそんなのしなくても」

「いや俺、こういうのは結構得意なんだ」

 ふきんを広げて早く早くと催促する涼に、康介は観念して洗ったばかりのスプーンを手渡した。すぐさま拭き始める涼は、たしかに手際がいい。瞬く間に綺麗に拭き上げて、再びふきんを広げてスタンバイしているので、康介はしぶしぶ二つめのスプーンを手渡した。鼻歌でも歌いそうな勢いで次々と拭き上げていく涼に、康介は思わず尋ねる。

「自炊はそんなにしないんじゃなかったの?」

「んー、掃除とかはよくやってたから。それにカレーはときどき作ることもあるし」

「そうなんだ」

「まあ、ほんのときどきだけど」

 だからカレーの汚れの手強さを知っていたのか。合点がいって、康介はふんふんと頷いた。



 二人がかりの洗い物はすぐに終わった。

 連れ立って部屋に戻ったとき、涼がまた「あ」と声を上げた。

「もうこんな時間だ。随分長い時間おじゃましちゃったかな」

 テレビボードの上の時計を見やりながら呟かれた言葉につられるように、康介もそちらへ視線を向ける。二つの針は八時を少し過ぎたことを示していた。

「ゆっくりしてけばいいのに」

 せっかく隣の部屋なのだから。そんな思いから、引き止める声は思った以上に未練がましい響きを含んでいた。慌てて誤魔化すように咳払いをする。

 くす、と口元を緩めた涼は、「明日英語の授業で小テストがあるから、勉強しなきゃヤバイんだ」と肩をすくめてみせた。

 用事があると言われてしまうと無理に引き止めるわけにもいかない。康介は「そっか」すごすごと引き下がる。

「誘ってくれてありがとう。手料理食べたの久しぶりだったから新鮮だった」

 靴を履き終えて玄関先でくるりと振り返った涼が、微笑みながらもう一度お礼を言った。肩を落としていた康介は途端にパッと顔を輝かせる。

 少しぶっきらぼうだけれど、でもこうした人一倍律儀で気配りのできるところが垣間見えるたびに、どうしようもなく深く惹かれてしまう。ぎゅっと心臓を鷲掴みにされたみたいな心地になるのだ。

「こちらこそ。急に誘っちゃったから迷惑だったかなって思ったけど、喜んでもらえたみたいで嬉しいよ」

「迷惑なんかじゃねぇよ。康介の作ったカレー、食べたかったから」

 さらりと告げた涼は、じゃあな、と言ってドアを開ける。

 その背中に康介は思わず「なあ」と声をかけていた。

 中途半端に開いたドアが細長く切り取った夜空をバックに、涼がきょとんと目を瞬かせる。室内のほの白い明かりが、彼の端正な顔にくっきりと陰影を映しだす。

「これから毎週、水曜日は一緒に晩ご飯食べようよ。一人分作るのも二人分作るのも変わらないし、それに誰かに食べてもらった方が張り合いがあるし」

 まっすぐに涼の目を見ながら告げた康介は、それからにこっと笑った。

 とっさの提案の理由には、普段自炊をしないと言う彼のインスタントばかりの食生活が心配だから、というのもある。

 けれど一番の理由は、彼のためにご飯を作りたいと思ったからだ。

 本当は、「誰か」に食べてほしいわけじゃない。他でもない彼のために、『康介の作ったカレーが食べたかった』と言ってくれた涼のためにご飯を作りたいのだ。

 呆気にとられたように立ち尽くす涼に、康介は答えを促すように少し首を傾げてみせる。二秒間くらい三和土のあたりに視線をさまよわせた涼は、その後、ちらりと康介を見た。迷子になった子どもみたいな、目だった。

「俺は、ありがたいけど……。康介はいいの?」

「よくなかったらわざわざこんな提案しないだろ」

 わずかに眉を下げる涼の掠れた声を、康介は軽い調子で笑い飛ばす。

 涼はまた少し下を向いた。彼のスニーカーが廊下の床と擦れてザリ、と小さな音を立てる。開きっぱなしのドアの向こうから、アパートのすぐそばを通る自転車の甲高い車輪の音が響いてくる。

 きゅ、と一度唇をひき結んで、涼は口を開いた。

「……わかった」

 呟いた後、こくりと小さく、けれどたしかに頷いた。



 バタン、とドアが閉められたのを見届けて、康介は大きなため息を吐きだした。

 思わず突拍子もない約束を取り付けてしまった。やっぱり少し強引すぎたかもしれない。ドアに背を預けながらずるずるとその場にしゃがみ込む。

 けれど、どうしてももっと涼に近づきたかった。

 迷いながらもこくりと頷いた彼の姿が脳裏によみがえる。頷いてくれてよかった。受け入れてくれて、よかった。顔を覆う手のすきまから、安堵の息が細くもれる。

 さて、来週の水曜日は何を振る舞おうか。


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