口実カレー①
「じゃあ今日はここまで。出席票を忘れずに提出してから退出するように」
教壇に立っていた講師がそう告げると、途端に講義室内の空気がふっと緩んだ。くつろいだ表情でざわざわとおしゃべりを始める学生たちに紛れて、康介も両手を前に突き出してグッと伸びをする。
大学に入学してから早くも二週間が経った。授業も本格的に始まって、いよいよ本当に大学生としての生活がスタートしたのだという実感が湧いてくる。九十分という、これまでより格段に長くなった授業時間にもようやく慣れてきた頃だ。
ルーズリーフをファイルに仕舞いこんでいると、隣に座っていた嶋田が大きなため息をついた。嶋田は同じ学科の学生であり、学籍番号が前後であることから仲良くなったのだ。短いスポーツ刈りの頭をぽりぽりかきながら「九十分とか、長すぎて寝そうになるわ」とこぼす彼に、康介は軽く苦笑する。
「ノート取れてないところがあるなら貸そうか?」
「大丈夫、何とか起きてたから。しかしこの先生、声が小っさいから聞こえにくいんだよな」
「そのうえ板書は少なめだもんな」
「今度から一番前の席座らなきゃだわ」
こそこそと軽口を叩く嶋田に笑いながら出席票を提出し、連れ立って講義室を後にする。
廊下には授業を終えたばかりの学生たちで溢れていて、ガヤガヤした騒がしさに満ちていた。四限が終わったところだから、今日の授業はこれで終わりの学生も多いのだろう。どの顔にもやっと解放されたとばかりの清々しさが滲んでいる。
まだ一コマ授業があるという嶋田と別れ、康介はのんびりと校舎を歩く。今日はもう授業はないから、後は帰るだけだ。
お喋りしながらそぞろ歩く学生たちの間を縫うように歩きながら、時折すれ違う友人たちに「お疲れ」と手を上げる。この二週間で交友関係は格段と広がった。入学前は友人ができるかどうか少し不安だったけれど、人見知りも物怖じもしない性格であることが幸いしたようだ。
入学したての頃はひどく広大に思えた校舎も、二週間も経てばその広さにも慣れてきた。あちこちに似たような講義室があって最初は迷ってしまうこともあったが、どの授業がどこの講義室で行われるかを覚えてしまえば案外すんなりと目的地にたどり着けるようになった。慣れとは偉大なものである。
のんびり階段を下りていると、少し前を歩く人の群れの中に一際目を惹く後ろ姿を見つけた。艶やかな黒髪、凛と伸びた背中。パッと顔を綻ばせながら、康介はその背中へ向かって声を上げた。
「涼!」
振り返った彼のもとへと、急いで階段を駆け下りる。
「もう授業終わり?」
隣に並びながら尋ねると、涼は「うん、今から帰るところ」と頷いた。
「なら一緒に帰らねぇ? あっ、何か用事とかある?」
「いや、ない。大丈夫」
意気込んでまくし立てると、涼にくすくすと笑われてしまった。気恥ずかしくなって康介はぽりぽりと頬をかいた。
校舎から出ると、昼間の陽気の名残をにじませた暖かな風がふわりと通り過ぎていった。葉桜ですらなくなった、瑞々しい青葉ばかりを繁らせた木々が頭上でさわさわと心地よい音を立てる。
「なんか、日が経つのが早いよな」
康介はぽつりと呟いた。
「そうだな。いつのまにか桜も散ってるし」
涼も頭上を見上げなら答える。上を向いたことでよりシャープになった頬のラインに木漏れ日が柔らかく落ちている。金色の光のかけらに飾られた横顔は、映画の一コマのように綺麗で神秘的だ。思わず見惚れてしまっていると、涼から怪訝そうな視線を寄越されてしまった。康介は慌てて口を開いた。
「ほんと、入学式のときは満開だったのに」
「そう言えば、一緒に帰るのって入学式の日以来だな」
「あんまり大学で会わないよね」
「うん。ちょっともったいないよな」
小首を傾げて苦笑する涼に、康介は胸のあたりがむずがゆくなるのを感じた。
今のように涼とゆっくり話ができる機会は、そう多くはない。最初の頃は、アパートの部屋が隣同士で大学の学部学科が同じという接点の多さだから、自然と顔を合わせる機会も生まれるだろうと考えて悠長に構えていた。けれど実際は、必修じゃない講義だと案外履修がかぶらないし、そうなれば帰る時間も合わないしで、なかなか顔を合わせることができない。それに入学したての今の時期は、授業の準備やらサークル見学やらで何かと忙しい日が多いのだ。チャットアプリの連絡先は交換しているが、勇気が出ないのと迷惑に思われたくないのとで結局数回しかメッセージを送っていない。
つまり、今のこの時間はとても貴重なものなのだ。
なんとかして、たくさん話をしておきたい。もっと仲良くなりたい。康介は密かに拳を握りしめた。
「そう言えば、バイト始めたって言ってたよね。何のバイト?」
前にチャットアプリで話した内容を思い出しながら尋ねる。ちらりと隣を見やれば、ほとんど身長が同じだから、涼の涼しげな黒い瞳とすぐに目が合った。
「んー、軽作業、みたいな。接客は合わなさそうだったから」
「そうなんだ」
もったいない、という言葉はかろうじて飲み込んだ。
涼の容姿ならば、人気のカフェでもレストランでもすぐに採用されるだろう。そうなれば彼目当ての客も増えるだろうし、店からも重宝されるに違いない。現に今だって、ただ普通に歩いているだけなのにチラチラとこちらを見ている視線を感じる。
けれど、彼はあまり目立つのが好きなタイプではないのだろう。整ったルックスなので女子からも男子からもよく声をかけられているけれど、だからと言って派手なグループに属しているわけでもない。それどころか、特定の誰かとつるんでいる様子も見受けられないくらいである。
「康介はバイトしてないんだっけ?」
小さな石ころを軽く蹴った涼が尋ねる。その石ころの軌跡を目でたどりつつ、康介は頷いた。石はかすかな音を立てて側溝へと落ちていった。
「うん、今はまだしてない。司書課程も履修してるからなかなか時間取れなくてさ」
「大変だな、頑張って」
「うん、涼こそ」
「ん」
康介が笑顔を向けてみせると、涼もはにかむように笑ってくれた。控えめに歯を見せて笑う顔が、夕焼けの日差しのようにまぶしく見えた。
授業のことやバイトのことなど取り留めのないことを話しているうちに、いつのまにかアパートまでたどり着いてしまっていた。いつもはさほど近いとは思わない徒歩二十分の距離が、今はひどく近すぎる気がして恨めしい。
「じゃ、また」
「うん、またな」
隣の部屋に帰っていく涼を見送りながら、康介は名残惜しさに胸を焦がした。
その二時間ほど後。
なみなみと鍋を満たすカレーを前に、康介は一人険しい顔で立ち尽くしていた。
大食漢でありカレーが大好物である松雲と暮らしていたときのクセでたくさん作ってしまったが、どう見ても一人で食べるには多すぎる量だ。全部食べ切ろうとすれば、明日の朝ご飯どころか明後日の朝ご飯もカレーになってしまうだろう。
しばらく腕組みして考え込んでいたが、ふと頭に涼の顔が思い浮かんだ。
そうだ、涼におすそ分けすればいい。
突如浮かんだ名案に、康介はパッと顔を輝かせる。今まできっかけや理由を見出せずにいたせいで、せっかく隣の部屋に住んでいるのに部屋に招いたことも部屋を訪ねたこともなかったけれど、このカレーはきっかけや理由として充分すぎるものだ。まあ、涼もすでに晩ご飯を用意しているかもしれないが、そのときはそのときだ。
よし、と声に出して気合いを入れる。さっそく康介は自室を飛び出して、涼の部屋のインターホンを押した。
数秒後、ガチャリと開いたドアの隙間から顔を覗かせた涼は、驚いたように片眉を上げた。
「どうかした?」
「いや、えーと」
訝しげな表情を浮かべる涼に、康介は思わず口ごもってしまう。
勢いだけで誘いに来てしまったが、いきなり食事に誘うのはやっぱり迷惑だろうか。嫌な顔をされたらどうしよう。弱気な考えが黒い影のように次々と頭をよぎる。康介は両手の指先をすり合わせた。
ごくりと唾を飲み込み、思い切って口を開く。
「カレー、作りすぎちゃったんだけどさ。もしよかったら一緒に食べない?」
もごもごと告げると、意表を突かれたように涼が目を瞬かせた。慌てて言葉を付け足す。
「いやっ、もうご飯の準備してるなら全然構わないんだけどさ! もしよかったら、だから!」
わたわたと手を振りながら言いつのる。
すると涼は、ぷっとおかしそうに吹き出した。
「うん。まだ全然準備してなかったから、お言葉に甘えてごちそうになるよ」
その言葉に、康介はパッと光が射したように顔を綻ばせた。
「ほ、ほんと!?」
「ああ。康介の部屋に行けばいい?」
「うん! あっ、ごめんちょっとだけ待って、軽く部屋の掃除するから」
「べつに気にしねぇよ」
「俺が気にするの! だから十分だけ待って」
「分かった」
涼が頷いたのを見届けて、康介はすぐさま自室へと駆け戻った。
ドアを閉めた後、康介は思わず「よし!」と力強いガッツポーズをしていた。これから、この部屋に涼が来る。この部屋で一緒にご飯を食べるのだ。そう考えると、どうしたってドキドキと胸が弾んでしまうし顔が緩んでしまう。締まりのない顔をそのままに、康介はドタバタと部屋の片付けに取り掛かった。
床に散らばる本や教科書を部屋の隅にまとめて、掃除機をかけて。料理は好きだが掃除は苦手なせいで、部屋はいつだって綺麗とは言えない状態なのだ。
必死で部屋を片し、ふう、と息をついたところでちょうどインターホンが鳴り響いた。慌てて玄関に飛んでいきドアを開ける。
「もう入っていいか?」
小首を傾げてみせる涼はいたずらっ子のような笑みを浮かべていた。おそらく掃除機の音が止まったタイミングで訪ねてきたのだろう。必死になって部屋を片付けている様子が筒抜けだったのかと思うと、少し気恥ずかしくていたたまれない気持ちになる。
康介はぽりぽりと頬をかきながら「うん、どうぞ」と頷いて彼を招き入れた。
「お邪魔します」
部屋に上がった涼は、キッチンに充満するカレーの匂いに鼻をひくつかせて「すげえ、うまそう」とこぼす。康介は胸中でまたガッツポーズをした。
「今支度するから、座って待ってて」
「何か手伝おうか」
「いや、大丈夫。俺から招いたんだし、お客さんにそんなことさせられないよ」
首を振ると、涼は大人しくカーペットの上に腰を下ろした。所在なさげに、部屋のあちこちに控えめな視線を向けているのが、子どものようで可愛らしい。胸がキュンと甘くうずいてしまう。にやけそうな顔を隠すため、康介は慌ててキッチンへと向かった。
どんぶりによそったカレー二つと大皿に盛ったもやしの玉子炒め、それからサラダをテーブルの上に並べる。ほかほかと湯気をたてる目の前のカレーに、涼がごくりと喉を鳴らした。続いてクゥ、と控えめに響いたのはおそらくお腹の音だろう。恥ずかしそうに頬を染めながら目を伏せる彼に、思わず口元が緩んでしまった。
「どうぞ、召し上がれ」
「……いただきます」
スプーンを手に取ってカレーをひとくち頬張った涼を、康介はドキドキしながら見つめる。
ごくん、と飲み込んだ涼は、わずかに眉尻を下げた。康介の顔を見て、ふっと息をこぼすように笑う。
「すげえ、美味しい」
ゆっくりと噛みしめるように告げられる。
「ほんと?」
「うん、ほんとに美味いよ」
いつもは涼しげな瞳が今はきらきらと子どものように輝いていて、きっと本心だろうと思わせるような説得力がある。康介はホッと胸を撫で下ろした。
「野菜がとろとろなのも肉にウィンナー使ってるのも、俺は好きだな。すげえ美味しい」
もぐもぐとせわしなく口を動かす様子がどこか小動物のようで可愛い。次々とスプーンを口に運ぶ涼の姿に、面映ゆい気持ちで胸のあたりがむずむずとする。
康介もスプーンを手に取り、カレーを食べる。野菜にもカレーの味がしっかり染み込んでいて、手前味噌だが美味しい。野菜を小さめに切り、とろける寸前まで煮込むという作り方は、松雲に教えてもらったものだ。また、ウィンナーを入れるというのも松雲の好みだ。いつでも着物をまとい落ち着いた物腰をしているくせに、松雲の味覚は案外お子様なのである。
一緒に暮らすようになってしばらく経った頃に初めて教えてもらった料理だから、このカレーは康介にとって思い出深いものであり、また得意料理のひとつでもある。それを褒めてもらえたことは、康介にとってひどく嬉しいことだった。
ほこほこと心を浮き立たせながら、馴染みの味を口いっぱいに頬張った。