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幻想の晶  作者: 詩乃なかば
序章
5/30

始まり4

 晶陽歴547年。


 平穏な日々だ。

 温かい午後の陽だまりを足元に受けながら、私はルイスと卓上で行う戦略ゲーム"タクス・ボード"を興じていた。

 この"タスク・ボード"は子供用ではあるが、稀代の天才軍師ミンスラーが手掛けた本格的な戦略ゲームで、驚くほど簡単にかつ分かりやすい教材としてしっかりと創り込まれている。

 私はルイスに戦略の手ほどきの材料に幼い頃からこのゲームを使用してきた。


 あれ以来、魔晶庁からの呼び出しで幾度かのトラブルはあったものの、ルイスのオリクトは未だ眠ったまま七年が過ぎた。

 ルイスは今年で十七になる。貴族の長子であれば当主に付き従い、同じ公務に就きながら次期当主としての仕事や立ち振る舞いを覚えたり、顔と名を覚えてもらうために国外や貴族の会議へも顔を出す年頃である。

 元々母親似で幼顔であったルイスも近頃ではだいぶ大人らしい顔つきになってきたように思う。貴族としての品位も教養もきちんと養われているし、立場に奢ることのない他者への優しさも忘れてはいない。嬉しいことに私をよく見て手本にしているそうだ。

 ルイスの成長が著しいのは喜ばしいことではあるのだが、オリクトが視界をよぎるたびに私の胸はざわついた。そろそろ目覚めるのではないかと穏やかではない日が続いている。


 私は頭痛がする額を抑えてため息をついた。


「父上、お疲れですね。夜はしっかりと眠れていらっしゃいますか?」


 声をかけられ、私は顔を上げる。

「あぁ、遊戯中にすまない。そう言うわけではないよ」

 つい考え事にふけってしまっていた。

 私は騎手の隣に旗の駒を置いた。


「……」


 手元の駒に視線を落とし、ルイスの手が止まる。

「長考にはまだ早くないかい?」

 私は考え込むルイスに笑いかけた。


「…父上の心配事はガーランド王国のことですか?」


「?!」

 思わぬ質問に私はぎょっとした。

「な、何故、ガーランドの名が出てくる…?」

 私は努めて冷静に聞き返す。


「ずっと疑問に思っていたことがあります。父上はブライズ王家に連なる生まれで、エノテイアの要請によってキャトラ家存続のために階級を放棄しエノテイアに帰属したと聞き及んでおります。双方同意の上での、好意的な離籍だったと…。それなのに何故ガーランドを避けるようなことをされているのですか?祭事に招かれているのに、出席どころか文の一つも返されていない」


 ルイスは真っ直ぐに私を見ていた。

 私は瞳を閉じて大きくため息をつく。

 さすが賢い子だ。ルイスなりに情報を整理し考え、それなりの真実にも近付いているように思う。私の経歴についてはずっと話さなければいけないと思いながら、オリクトのことばかりが気になりつい後回しになってしまっていた。


「疑問に思うのも無理はない。世間的に公表している事情と事実は少し異なるからね。おまえには隠していたわけではなく、ただ、話すにはまだ早いだろうとずっと躊躇(ためら)っていただけだ」


「では教えてください。本当はブライズ王家とどういった関係なのですか?」


「…そうだな…遠回しに言うのは良そう。私とおまえはブライズ王家の親戚ではなく、直系筋にあたる。前国王ノランは私の父で、つまりおまえの祖父なのだ」


「!」


 ルイスは瞳を見開いて、やはり、と言った顔をしていた。

 色々な辻褄を合わせた結果、この可能性には辿りついていたのだろう。

「ガーランドは、エノテイア統一戦争後にブライズ将軍が領地を国として賜ったことで出来た若い国家。家臣や部下も軍の出がほとんどで、エノテイアのような血統の重要性は薄く、実力がすべての成り上がり気質が強い者ばかりだ。そのせいか、常に継承権争いに悩まされてきた。私の代の時もそう。父ノランは病気がちで執政に関わることが少なく、家臣たちの覇権争いがひどかった…。私や母は異母弟の側近に何度か暗殺されかけ、心身喪失で母の気が触れてから私と母は保養地に追いやられたのだ。その保養地で出会ったのがおまえの母ライナ。ライナは保養地一帯を治める領主の娘で、塞ぎ込んだ母と私にとても献身的に付き添ってくれた。婚姻を申し込むのにそう時間はかからなかったな」


「ライナ…?どこかで聞いたような…」


 ルイスが首を傾げる。

 その疑問に答えるために、私は話を続けた。


「王子の婚姻は執政に大きな流れを生む。ライナと親しくしていることを知った第一王妃派の家臣と、私から継承権を奪いたい第二王妃派でまた衝突が起きた。王宮は謀略で荒れ、最終的にライナは異母弟の正妃として召し抱えられてしまったんだ」


「え…。では、母上は…」


「そう、現ガーランド国王オルガノの妃だ。彼女が王宮へ上がる前に、先におまえが生まれた。継承問題の最中に、この事実はさらなる謀略を生む。赤子を危険に晒したくなかった私とライナは、隠し通すことを決め三つの誓いを交わした。ライナはこのままオルガノとの婚姻を滞りなく進めること、私は継承権を放棄し子を連れてガーランドを離れること、そしてブライズ王家には二度と関わらないこと」


「……」


 ルイスは黙って話を聞いている。

「そして私はエノテイアに交渉を持ちかけた。キャトラ家存続と従属を引き換えに亡命を認められ、ヒイラギ様の名でガーランドへ働きかけてもらい、双方同意で王家から離籍したのだ。そう言った経緯とライナとの誓いによって、私はブライズ王家とは一切関わらないようにしているのだよ」


「エノテイアへ帰属したのであればガーランドとしても父上とは関係を続けられないはずですよね?何故書簡を送り続けてくるのでしょうか?」


「私に子がいることをどこからか嗅ぎつけたらしい」


「子?私のことですよね?」


「私は継承権を放棄し、エノテイアへの従属と共に未来永劫王位に復権することはないが、おまえの権利は私の物とは別になる。ガーランドはここ数年、近隣の国との国境問題を穏便に済ませようとするオルガノ王の甘い執政に、反発の声が高まっているようだ。これを機に前国王ノランの正当な孫であるルイスを王位継承者として迎え入れることはいくらでも出来る。ルイスをブライズに召し上げればこれまで以上にエノテイアと密な関係を築くことも出来る。母の代の第一王妃派の誰かが躍起になっているのだろうと思うよ」


「なるほど…、内政が上手くいっていなければ反王政派にとっては好機ですね。父上のことも含め、エノテイアと言う付属要素まで付いてくるのですから駒の付加価値は相当なものと言えます」


 ルイスは冷静に自分の価値を分析する。自分の意思や感情よりも先に戦略的思考に至るのはもはやクセにも近い。親としては心配だ。


「オリクトのおかげで今はエノテイアの保護下にはあるが、今後の状況次第ではエノテイアもガーランドとの外交問題にルイスを投じるとも限らない。私はそれが不安なんだ。おまえが自分で選んだ道でも自分で決めた選択でもなく、エノテイアからもガーランドからもただ駒として利用される日が来るのではないかと…。すまない、私はおまえを守るために行動していたはずなのに…結局、またこの問題に戻ってきてしまうのだな…」

 私は大きく項垂れた。

 自ら選択することの出来ない立場に追いやってしまったことをただただ申し訳なく思う。


「父上が謝ることではありません。ずっと私のために苦心してくださっていたのですよね。父上と母上の苦労があって今の私があると知ることが出来てとても幸せに思います。事態が大きく動く局面が来たとしても、私はもう守られるだけの子供ではありませんし、私なりに熟考し可能な限り正しい手を選びます。どうか気に病まないでください」


 ルイスは席を立つと跪いて私の手にそっと手を添えた。

 顔を上げるとルイスは真っ直ぐな瞳で私に微笑んでくれていた。

 保養地に追いやられ母を亡くし絶望する私を、ライナもそうして励ましてくれたものだ。


「ありがとう、おまえがそう言ってくれると私たちはいくらか救われるよ」

 ライナのことを話すのはこれが初めてなのに、ルイスは本当によく似ていると思う。顔も知らず声も知らず、生まれてから一度も会うことがなかったけれど、母と子には目には見えない繋がりがあるのだ。そう信じずにはいられない。

 ガーランドの問題はこれからも降りかかってくるだろう。けれどルイスの成長した言葉を聞けて私の心は少しだけ晴れた。この子ならば降りかかる火の粉からただ逃げるのではなく、自ら火の粉を散らすことの出来る道を切り開いていけるのかもしれない。

 ライナ、子供と言うのは親の知らない所でいつの間にか成長しているのだね。




 ・・・


 深夜、私は数時間前に届いた白緑(びゃくろく)色に金の縁取りがされた紙を片手に、書斎の椅子にもたれ掛りぼんやりと天を仰いでいた。


「悩みは一つ解消された?」


 声をかけられ体を起こす。

 どうも、とユーリが窓際で手を挙げていた。

「あぁ、昼間のことか。そうだな」

 私は思い出してふっと微笑んだ。


「なら良かった。ここ数日眠れてなさそうでしたからね」


 彼はこうして本当に時々だが私たち親子を気にかけて突然屋敷に姿を現す。

 普段はどこかでルイスのオリクトを監視してくれているらしい。いつオリクトが目覚めても言い様にと。

 だから夜は寝なさいと私は何度か注意を受けた。ルイスの体調が悪くなると私が心配のあまり徹夜で見守っていることも彼は知っているのだ。

 彼が実際に屋敷へ来たのは数えるほどではあるが、私の中では彼に対して秘密を共有するある種の仲間意識のようなものが芽生えていた。誰にも言えない話も彼になら出来た。彼の素性は知れないままだが、どこか安心して話せるのは彼がエノテイアともガーランドとも関係なく、何の利害も発生しないからかもしれない。

「けれど悩みが一つ増えた。大聖堂から通達が来てね…」


「ヒイラギから?」


 ユーリの問いに私は小さく頷いた。

 この書簡はヒイラギ様直々の厳命が発令された際に使用される特別なものだ。

 魔晶が施され、あらかじめ決められた者にしか封を開けることが出来ないようになっており、また一度読んだらただの紙切れになる。バリアント地方への遠征の際にも同じものが発行された。

「ルイスは今年で十七。節目だと言われた。キャトラ家を継ぐか、聖堂入りするか正式に手続きを行えと…。そうでなければガーランドの王位の並びに即けると言う選択肢もあるそうだ」


「なるほど。どれを選ぼうとも国内外へルイスの存在を知らしめると言うわけか、エノテイアの正式な駒として。嫌らしいことよくもそんなに思いつくもんだ」 


「いずれこうなるだろうとは覚悟していたけれどね。貴族の身分でオリクトまで手にしては、もう自由に生きるのは無理だろうと…」


「何故?無理なんです?」

 ユーリは首を傾げた。


「?何故だって?不思議なことを聞く。エノテイアから逃げ出すことなどできるはずもないだろう」

 私はユーリの問いに少し語気を強めた。


「やってもいないのに出来ないはないでしょうよ。現に貴方だってガーランドの第一王子だったのに自らの運命を変えたじゃないですか」


「それは…!エノテイアと言うより強大な後ろ盾があったからだ!エノテイアの助力があったから出来たこと!私自身の力ではなく!」

 思わず声を荒げた。難しいことを簡単に話すユーリに苛立ってしまう。


「その違いが私には分からないな。それだけの想いがあるなら行動すればいいのに。この世界にはエノテイアしかないわけじゃない。貴方たちは水の中でしか生きられない魚じゃないんだから。結局エノテイアに固執してるのは貴方の方だ」


「…ユーリ、あなたはエノテイアの恐ろしさを知らないからそんなことが簡単に言えるのだろう…」


「知ってるよ、ヒイラギとは長い。私もこう見えてエノテイアから追われる身ですから。自由に行動しているように見えるかもしれないけど黒特級の手配をかけられていますよ。今は『(しょう)』のことがあるから強行する気はないみたいだけど、機会があればいつだって殺しに来るよ、あの人らは」


「?君が、生死問わずの手配?初耳だ…」

 黒特級とは、騎士庁が指名手配者に対する重要度を現すための隠語の一つだ。級は重要度とその捜索範囲の規模を表しており、特急であれば最重要国際手配を意味する。色は手配者の状態を意味し、黒は生死問わず、灰は可能な限りの生命優先、白が無傷での捕獲、とされている。


「オリクト所有ですからね。将官以下には情報規制してるんでしょう。所有者ありのオリクトの回収なんてただの騎士が何人束になっても無駄死にするだけですから」


「だとしても、私にはあなたのような力もない。ただ闇雲に逃げたところで『()』に捕まるだけだろう」

 そう、逃げたところでこの国には『環』のオリクトがある。『環』は大地に根を生やし、国内のあらゆる出来事を網羅する力を持っている。限定的に範囲を絞れば人物の索敵なども容易に行えるとも聞いた。


「捕まる前に国外へ出れば大丈夫。基本的に『環』の拘束力が及ぶのは首都の中だけで、索敵範囲もせいぜい国内だね。所有者のいるオリクトならその範囲はさらに半分。私もこの屋敷に来るまで気づかれてませんでしたから」


「………」


「ふむ。気が乗らなさそうだ」

 ユーリは息を吐いてソファーに腰かける。


「乗る乗らないではなく、本当にそんなことが可能なのか…そんなことをして良いのか、と…」

 あらゆる懸念が頭をよぎる。あらゆる葛藤が心を乱す。


「私の経験上ですけど、このままあの子を流れに任せても良いことはありませんよ。ヒイラギに従属するぐらいならガーランドで王家に入れた方がましだ。あらゆる魔晶に関与する『晶』のオリクトは最大限駒として利用されるだけです。今のあの子の持ってる知識や経験値ではヒイラギには絶対勝てないから、抗うことも出来ずに永遠に囚われます」


「正式にエノテイアに属すれば、いずれそうなるか…。ユーリ、一つ聞きたい。あなたの目的は何だ?私はこれまでのあなたの人と、なりを見て頼りにはさせてもらっているが、信用出来ないのが正直なところだ。ルイスのオリクトを監視していると言っていたが、監視するだけならば、私たちの所在がどうであろうと構わないのでは?むしろ、監視しやすいここにいてくれと言いそうに思うが」


「…うーん…」


 私の問いにユーリは困惑の笑みを浮かべて頭を掻いた。


「あの子に…ルイスに、ちょっと期待してる」


「期待?」

 ユーリは言いずらそうに何度か唸る。


「これまでの所有者には無い可能性を感じて、違う結末を期待してる。それを見届けたいんですよ。そのためにはエノテイアに縛られては意味がない」


 ユーリは言葉を選びながら、核心には触れずにぽつりぽつりと話を続けた。


「前にも言ったけど、『晶』のオリクトって言うのは心を糧に力を発揮する。それを手にした人はみんなだいたい同じ結末を辿ってきました。そして最悪の場合、反逆が起こる。私はそれを止めるため、或いは処理するために『晶』の傍にいるようにしてるんです」


「反逆とは、何に対して?」


「その場のすべて。それは他者への攻撃であったり、物の破壊であったり、時には捕食であったり…まあ、だいたいは周りに人がいれば殺戮の方へ向かうかな。完全に人としての理性を失うんです。知性も感情もない、在るがまま成すがまま、すべてを破壊する魔物のようになって手が付けられなくなる。国なんて簡単に滅んでしまう」


 ユーリは淡々と語った。

 そのせいか、恐ろしい話をしているのにもかかわらず私は冷静に聞いていられた。

「それが起きないと、ルイスに期待していると?」


「うん。そうじゃない最後を望んでる。最悪の結末を繰り返しすぎて、たまには違う可能性を夢見ても良いと思わない?解放されたいのもあるかなぁ…。まあ、私の自己満足ですよ。自分を慰めたいだけかもね」

 ユーリは心痛な表情で左手のオリクトを眺めた。


 ああ、そういうことか。彼はずっと、そうならないために間際で阻止してきたのだ。バリアント地方の村での惨劇はきっと反逆が起きた後だった。苦しみ悶える人々に致命の一刀を下ろしたのは、恐らく彼。

「なるほど…。すまない、他人が触れるべきではないものに触れてしまったようだ。貴殿は私には計り知ることのできない大きなものを背負っているのだな…」


「いやいや、そう湿っぽくならないでくださいよ。だから私はルイスが大聖堂に囲われるぐらいなら貴方がたの国外逃亡に助力しますよって話なんだから」


「何だって?!」

 突然のユーリの提案に私は思わず立ち上がってしまった。

 こんな心強い申し出はない!彼がいれば本当にエノテイアから逃げ出せてしまうのではないだろうか。

「…いや…」

 しかし、私はふと思い至り、ソファーに座り直した。

「申し出はとてもありがたく思う。少し考える時間をもらえないだろうか。情報を整理し一度冷静に考えてみたい。あの子とも話をしなければならないし、使用人たちの身の安全も保障してやらねばならないし…」


「良いですよ。でも時間があまりないことは忘れないでくださいね。ヒイラギの子飼いはひどくせっかちだから」


 そう言い終えると、ユーリは音もなく部屋から消え去った。

 私は大きく深呼吸をする。

 彼の話で言えない部分はあったかもしれないが、恐らく嘘は一つもない。

『晶』のオリクトに関しては私より多くの知識がある。わざわざつまらない嘘をつく理由もないし、その話を疑ったところで意味はない。

 だからと言って素直に受け入れるのも躊躇ってしまう。

 タスクボードでも逃げ道は別に用意しておくのが定石だ。少しでも選択肢を探し出し作っておきたい。

 と言っても、残る手はガーランドぐらいしかないが…。

 いや、打てる手ならばたとえ悪手であろうとも打つしかない。


 私は再び深呼吸をし、机へ向かう。

 引き出しから上等な紙とペンを取り出した。現ガーランド王国王城防衛司令を担う、ある中将宛てへ書きだす。

 中将と両親は親友とも呼べる中で、幼少期には私にも懇意にしてくれた。母が第二王妃派の策略の末に亡くなった際、守ってやることが出来ない立場にあったことを誰よりも悔やんでいた。

 私がエノテイアを離れる際も、いつかガーランドへ戻る時までこの場所を守ると誓い、別れたきり連絡は取っていないが彼は今も王家の護衛の任に就いている。

 あの中将ならば、もし私に不測の事態が起きてルイスがガーランドへ身を寄せることになったとしても最善を尽くしてくれるだろう。

 彼にだけ分かる内容で、手短に数行だけ書き最後に、ウィンダム中将の名を綴り、私はガーランド王子時代に使用していた椿の印章で封を捺した。



・・・


 それから二週間。

 私はユーリに頭を下げてエノテイアを離れる覚悟を決めたことを伝えた。彼はそうしてくれて良かったと手を差し伸べ、握手を交わし、私たちの間には協力関係が結ばれた。

 そうして私は周りに気付かれないよう静かに少しずつ身辺の整理を行っている。

 キャトラ家は筆頭貴族ではないが屋敷の規模からも使用人の数もそれなりにいて、彼らへの次の仕事の斡旋や暇を出すなど、大聖堂に悟られないように事を進めるのは思ったよりも時間がかかってしまった。

 最後に残ったのは祖母の代より屋敷に勤める執事と料理長だ。ありがたいことに彼らは実際に私たちが動き出すその時までいてくれると申し出てくれた。

 ここまでくればあとはもう好機を狙って動き出すだけなのだが、私は肝心のルイスには荷物をまとめるよう伝えただけでまだエノテイアを離れることは話せていない。

 私は今日こそは言おうと、ルイスの部屋を訪れた。


「ルイス、少し話をいい?」

 外部には魔晶庁へ入庁する体を装って邸宅の整理を行っているため、ルイスもそのつもりで片づけや身支度を整えている。普段着もかなり簡素なものにあつらえなおした。


「はい、丁度一段落したところです」

 ルイスは手に持っていた本を本棚の隅に並べ直した。

 肩から掛ける小ぶりの鞄に二冊の本だけを入れて口を閉じる。

 私は目を瞬いた。


「随分と身軽な荷物だ」


「…えっ、ええ…」


 ルイスはうろたえている様子だった。

 ああ、この子は、もしや…。

「大聖堂へ行くための用意ではない、と」


 ルイスは困惑に染まる大きな瞳を伏せて唇をきゅと結んだ。

「申し訳、ありません…」


 やはりそうか。さすが私の子。考えることは一緒だ。思わず失笑してしまう。


「父上、私は大聖堂へはいけません。心配をかけまいと黙っていたのですが、魔晶庁へ赴いた際に二度ほどヒイラギ様と面会しました。あの方は…『環』は…、とても恐ろしいことを考えておられます。このオリクトを利用し大陸全土へ根を広げ、抗う者をすべて打ち据え終わることのない争いを続けるつもりなのです。あの時のヒイラギ様は、エノテイアと言う国の恐ろしさを体現しているようでした…。今の私は未熟で無力で、対抗する術がありません。ならば、私はオリクトを彼らに渡さないために一度この国から逃げ出すしかないのだと考えるに至ったのです」


「ああ、分かっている。それで良い。今の私たちに出来る最善の手だ。ルイス、私が導かなくともおまえは自分で答えを出せるほど成長していたのだな」

 ライナ、君にルイスの姿を見せてやりたい。

 私たちが命を賭けて守ろうと誓った赤子は、いま自らの意思で道を歩き始めようとしているよ。

 子供の成長を己の目で見る幸せを私に授けてくれた君にただただ感謝するばかりだ。

「これまで話せていなかったが、私もおまえと同じ考えだ。私たちはこれから、大聖堂ではなく、エノテイアを離…」


 言いかけて、急に声が出なくなった。息も出来ない。それどころか、体のすべてが動かなくなった。視線を動かすと周りの物すべてが止まっていると分かった。

 一体、何が起きた?!

 目の前のルイスもまるで一枚の絵のように微動だにしない。動くのはこの思考と両の眼球だけ。


「!」

 すぐ横に人の気配を感じる。

 視線の端に、金糸と浅葱糸の刺繍が施されたヒイラギ様の衣服の裾がなびいているのが見えた。紺色の絨毯が敷かれた床には『環』のオリクトが金色に輝いている。


「キャトラよ、我との契約を反故にし親子で国外逃亡を企てておるとは大層なことであるな?」


 古めかしい口調の、ぼんやりとしていたがそれは間違いなくヒイラギ様の声だった。

 私は必死に眼球だけで辺りを探る。本当に何もかもが止まっている。風さえ感じない。


「我としては貴様が逃亡しようとも構わぬのよ。貴様が『環』の外へ出でた瞬間に契約は子へと移るのでな。アトラは言うておらぬようだが、契約はキャトラの血と、我、つまり『環』の間で交わされしもの。ただの紙切れ一枚とでも思っておったろう?愚か者よ。貴様が逃げようとも、そして死のうとも、それにおるルイスがキャトラとして契約を引き継ぐのだ。まさか『晶』を手にするとは思ってもおらなんだが、嬉しい誤算とはこのこと。…さあ、エリオス・キャトラ、貴様の選択はどちらも同じ結末へと繋がっておるぞ。この盤面、どうしたものか?」


 低い笑い声がねっとりと耳にまとわりつく。

「…初めからルイスも飼い殺すつもりで…」

 声が出た。

 いつの間にか動けるようになっている。

 辺りを見渡したがヒイラギ様の姿はなかった。


「父上?」

 ルイスが不思議そうに眼を瞬かせる。

 ヒイラギ様の声は聞こえていなかったようだ。


「ルイス……すまない、すまない……」

 私はルイスの手を取り、そして思い切り抱きしめた。

 こうなったのは仕方がなかったとしか言いようがない。エノテイアと言う大国にすがった時点で私の運命はもう取り返しがつかなかった。けれどあの時はこれが最善だった。後悔したり何かのせいにするような愚かな考えはもう持ちたくない。


「何かあったのですか?」

 ルイスは私のただならぬ様子を察して心配そうに肩を撫でてくれた。


「私もおまえと共にエノテイアを離れるつもりだったが、共にはいけない理由が出来てしまった。私はエノテイアに残る。おまえだけ行きなさい」


「な?!何故です?共に来て下さらないのですか?私だけが国外逃亡すれば父上は責任を問われてどのような責を受けるか…!」

 ルイスが珍しく声を荒げた。


 突然、バンッ、と勢いよく窓が開いて強風が吹きこむ。

 そこに現れたのはユーリだった。

 刀を手にユーリは血相を変えて私に走り寄ってきた。

 所々争った形跡があり、頬からは血を流している。


「ヒイラギが?来た?!今すぐ逃っ…」

 ユーリは私の肩を掴んで、そしてハッと何かに気付いて表情を曇らせた。

「遅かった…みたいですね」

 ユーリは眉をひそめ、ゆっくりと刀を収める。


「いや…初めからそう言う契約だったようだ…」

 私は苦笑いを浮かべて右手に禍々しく瞬く『環』の印に視線を送った。


「ユーリさんはどうされたのです?父上も、一体どういう事ですか?」

 ルイスは困惑した様子で私とユーリを交互に見比べる。


「私の所に子飼いが二人来た。しかも将官の。適当に応戦したんだけど、ただの足止めだったみたい。まさかあの人自ら来るとはねぇ…動けないだろうと甘く見てた…」

 ユーリは忌々しそうにため息をつく。


「私がエノテイアと交わした契約は書面上の物ではあったが、同時に『環』と交わされたものだったようだ。私が故意に破棄すればルイスへと強制移行する…」


「従属の印か…。それは血を辿る『環』の印だ。貴方になんらかの事態が起きれば自動的に最も近い血縁者へと印が移行する。つまりルイスだね。それがある限りどこへ逃げようとも『環』の一端として管理下に置かれます。本当に性質(たち)の悪い呪いだ」


 永劫の従属とは、私個人ではなく、この身に流れるキャトラの血と結ばれたものだった。オリクトそのものが解くか、『環』の所有者が代わるまで永遠に逃れることが出来ない深く、長く、恐ろしい契約と言う名の呪いだ。


「え?…父上は、つまり人質と言うことですか?私は、どうすれば…」

 ルイスの顔は混乱と困惑に顔を青ざめさせた。


「そんな顔をするな、ルイス。これはまだ詰みの一手前だ。ここからどうすればいいかまだ考える余地がある。私なら、このままおまえを国外へ逃がす。旅をして色々な国へ行き、色々な人と触れ合うべきだ。おまえは賢いがもっと様々な見識を深めた方が良い。私はこの国に縛られることを自ら願い出てそれを利用した。だがおまえは違う。自由な手を考え、そして実行する権利も時間もある。ほら、まだ諦める局面ではないだろう?」


「……」

 ルイスは大きな瞳を涙をにじませながら数回頷いた。

 私はその涙の粒を指ですくう。涙でぬれた紫水晶の瞳はなんと美しいことか。ライナとの別れ際も同じことを考えていたことを思い出す。

 愛する者と別れの挨拶も出来ずに死を迎えることもあるこの無常な世界で、私は二度も愛する者と直に触れ合い別れを告げることが出来る。こんな幸せなことが他にあるだろうか。


「ユーリ、すまない。私の代わりにルイスの手助けをしてやって欲しい。私がすべきことを貴殿に頼まなければならないことはとても申し訳なく思うが…」


「気にせず。私にも自分の目的がありますから、むしろ私なんかで良いのって感じですけど。貴方が寄せてくれた信頼に足るだけの努力は約束するよ」

 ユーリは真剣な眼差しで右手を差し出した。


 私はその手を取って固く握りしめる。

「ありがとう」


「あのさぁー、感動のお別れのとこ悪いんだけど、もう人間クサくて聞いてらんないから会話をぶった切るよー?」

 人を小馬鹿にしたような気だるげな声が空気を一変させる。


「!」

 振り返ると所々傷だらけの、似たような顔立ちの少年が二人窓際に立っていた。


「まったく、おまえが油断したから無駄な時間と労力を費やしたではありませんか」


「うるさいよ、セレオ。あいつのオリクトとは相性が悪いんだ」


「アイネル卿にセレオ将位…」

 ユーリを襲った子飼いの将官とは彼らだったか。

 セレオ将位はエノテイアの軍部を担う騎士庁のトップで、魔晶騎士の称号を持つ。国内の騎士で最も強いと言われており、当然私など歯が立たない。二人も相手となれば当然、勝ち目などあるはずもない。なんとか隙を作ってルイスとユーリを逃がさなければ…。


「うーわ、もう来た。面倒だな…」

 ユーリは心底鬱陶しそうにため息をつく。


「ねえ、エリオス、僕らを困らせないでくれる?そのオリクトはエノテイアの所有物だって言ったよね?キャトラの血統もそう。ルイスだけ逃がす?そんなこと許されると思ってんの?」

 アイネル卿が不気味な微笑みを浮かべながらゆっくりと歩み寄ってくる。


 私はルイスを背後に隠すように傍らに置いてあった剣を手にとった。

「?!」

 が、剣はガシャンと音を立てて手から滑り落ちた。

 何だ?と、私は手を握り締めてみると、甲には環の印が瞬いていた。

 私の意思とは反するところで、剣を持つ手の力が抜けるのだ。


「キャトラ、『環』の従僕であるおまえが我々に剣を向けることは出来ませんよ」

 セレオ将位が右手を掲げていた。制御された?

 印とはそういう機能まであるのか。この身体さえも簡単に操作できると。私は忌々しく奥歯を噛みしめた。


「…仕方ないな…。エリオス、お酒ある?この部屋」


「は?酒?キャビネットに葡萄酒ならば…」

 ユーリの唐突な問いに私は訳が分からないまま壁際のキャビネットに視線を送った。


「葡萄酒ね、悪くない。それでもぎりぎりかどうかだけど、そうも言ってられないか…」


「?」

 私が困惑しているのも構わずユーリは刀を抜くと大きく振り下ろして空を切った。

 一瞬にして白い靄がアイネル卿らを包み込み視界を奪う。

 二人は警戒してすぐに一歩下がった。


「アトラ、結界を」

「言われなくても!」


 アイネル卿が手をかざすと金色の光が瞬いて靄はすぐに晴れた。

 しかし、目の前にいたはずのユーリの姿がなかった。室内を見回すと、ユーリはキャビネットの前で二本目の葡萄酒を飲み終える所だった。

 彼は一体何をしている?


「?何の真似ですか」

 セレオ将位が私と同じ疑問を口にする。

 ふざけたように見える態度に、セレオ将位はユーリをきつく睨んだ。

「っふー…ルイスの生まれ年か…良い葡萄酒なんでしょうけど、ぜんっぜん味がしないこの瞬間だけは何年生きても忌まわしいと思うな」

 ユーリは息をついて空っぽになった葡萄酒の瓶を机に置いた。

 唇を軽く拭い、にやりと微笑む。


「馬鹿!!オリクトだよ!」

 アイネル卿が気づいて叫んだ瞬間、ユーリの足元から仰け反るほどの光が湧き上がった。

 これまでの白い靄とは比べ物にならないほどの質量の魔力だ。

 私ですら畏怖に体が震えている。これがオリクトの本来の力だと言うのか…。


「いくら私でも貴方がたを守りながらあの二人と戦うのは正直しんどい。このままルイスを連れて飛びます。貴方の代わりにルイスの身は必ず守りますからご安心を」


「飛ぶ?…転移を扱えるのか?!分かった、頼む!」

 私は理解するとすぐにルイスを引き寄せ強く抱きしめた。

「ルイス、もしどうして良いのか分からなくなったときは自分の本心とよく向き合い、正しいと思うことを選び取りなさい。決して無理はしないように。おまえは私に似て何かと自分のことを犠牲にしがちだからね」

 髪が顎をかすめる。大きくなったな。もう抱き上げるのは難しいだろう。


「…はい、はい…多くを学び、多くを得ていつか必ず父上の元へ戻ってきます…。だからどうか、父上もご無事でいてください…」

 ルイスは震える声で必死に言葉を紡いだ。

 白い靄が少しずつルイスを包んで、温もりが薄れていく。

「行ってまいります、父上」

 最後にルイスは微笑んだ。私の大好きな表情の一つだ。


「ああ、行ってきなさい、ルイス」

 ふわりと舞い込んだ風で靄が晴れると同時にルイスの体の感触も消え失せた。

 小さく息を吐く。

 こんな形での別れになるとは思いもしなかったが、とりあえずは一安心か…。


「!!!」

 ふいに頬を思い切り何かに殴られ体が仰け反った。

 視界にちかちかと光が飛んでいる。

「クソ!やっぱりあいつを放置するんじゃなかった!!ふざけやがって!!おいエリオス!おまえ何したか分かってんのかよっ?!」

 アイネル卿が怒りに唇を震わせながら私に怒声を浴びせる。


「キャトラに八つ当たりしても仕方ありませんよ。まさかあれが転移を出来るとは…ヒイラギ様も把握していませんから相当な無理をしたはずです。二人分ともなれば魔力の消費も桁違いですからそう遠くへは飛べません。大聖堂へ戻りすぐにも追跡隊を組織しましょう。はぁ、アシュフォード卿には二人で頭を下げる必要がありますね」

 セレオ将位は気怠そうにため息をつく。


「…エリオス、おまえへの処分は追って下す。大聖堂からの通達が出るまで自宅謹慎、どこへも行くなよ。まあ、印がある限りどこにもいけないだろうけど」

 アトラは苛立たしげにそう吐き捨てると、床を転がってきた葡萄酒の瓶を思い切り踏み割ってテラスから出て行った。


「……」

 私は二人を追うようにテラスへ出る。

 澄んだ青い空を見上げて、まだこの手に残るルイスの温もりを思い握りしめた。

 あの子はきっと大丈夫だ。ライナに似てとても強い心を持っている。

 遠く離れた地から、ただおまえの無事を祈り続けよう…。




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