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ブロッサム  作者: 小島もりたか
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彼方へ 2

 この不思議な島で暮らすようになって、およそ一月が経過した。

 島はブロサッムの家――巨大な桜の木を中心とした楕円形をしており、外周をゆっくり歩くと一日掛かる程度の大きさをしている。

 島の南側、楕円の広い方を向いている面には対岸が見えている。およそ四百モルト――二百メートル――先にある海岸線は、近いようでとても遠く感じる。形的には島に閉じ込められていると言ってもよいが、不思議と向こう岸に興味は湧かなかった。

 桜の木の裏を数分歩いた先には、枝を広げた桜の木と同じくらいの大きさの泉がある。清水が湧き出るその泉が、この島の水源だ。そこから二方向に水が流れ出て、この島の川を造り出している。


 相変わらずブロサッムは素っ気ないが、それが逆に私の変なツボに嵌まってしまったらしい。私は彼女に対して無駄に絡みたくなるようになってしまった。


 今もブロサッムの日課の島の巡回をしながら、彼女の手を握ってみたり匂いを嗅いだりしている。

 彼女は怒ることも面倒臭くなったのか、私になされるがままだ。


「――なんというか、お前って結構変態だよな」


 ブロサッムの着ている服のフードから顔を出して、ラドンが呆れたように呟いた。


「ブロサッムの肌が触っていたくなるような、もちスベ肌で、匂いが良いのが悪い」

「にしても、触るなよ、嗅ぐなよ……。一応、嫁入り前の身だぞ?」

「僕がブロサッムをお嫁に貰えば万事解決のことじゃないか!」


 何を当たり前のことを、と言っていると頭に手刀を入れられる。ついでに鼻をつねられる。


「ハクヒ、貴方のご主人は、前からこんなのだったの?」

《いえ……もっと聡明で、落ち着いた方でしたが……》


 ハクヒも困惑したように答える。

 一体記憶を失う前の私はどのようなキャラをしていたのだろうか……? 疑問には思っているが、今はもう、ハクヒのことさえ思い出してしまえればいい気がしてきている。それほどまでに、私は今の生活に充実感を覚えていた。


 一部の住人達には人間だからと、私が怨みのせいで臭いからと嫌われてはいるが、仲良くしてくれている者達も少なくない。


 今の私は記憶を失う前より遥かに幸せだと、妙な確信だけはあった。


 そんな私の心の状態を知ってか知らずか、ブロサッムは口を尖らせながら毒づく。


「さっさと記憶を取り戻して、さっさと元の居場所に戻りなさい」

「えー、酷いなぁ……」


 後ろから抱き締めたい衝動と、白いうなじにかじりつきたい衝動を抑えながら――これは流石に島から追い出されかねない――、再び彼女の手を握り、指を絡める。


「それにしても、君は本当に良い匂いだよね。僕はブロサッムの匂い以上に良い香りのものを嗅いだことがない自信がある」

「そんなにか?」


 呆れたようにラドンが言う。


「間違いない」


 私はもう一度ブロサッムの匂いを嗅ぎ頷く。ブロサッムは甘酸っぱいような桜の匂いをしている。それはもはや桜の花でできてきるのではないかと思えるほど、純粋な桜の匂いだ。かじりついたら桜の蜜の味がするのではないかと勝手に妄想している。


「お前って地味に鼻がいいよな」

「ブロサッムの匂いに関しては嗅ぎ分ける自信があるな」

「どんだけだよ」


 苦笑いするラドンに、私は胸を張って見せる。


「ブロサッムの匂いなら、この島の範囲ならどこに隠れられても一直線に見つけられる自信がある」


 すごいな、という言葉を期待していたが、誰も言葉を返してくれなかった。あれ? と一人と二匹を確認すると、皆冷たい視線を私に返してきていた。そう、ハクヒまでもだ。


《主……流石にそれは……》

「きもっ」


 ブロサッムは私に軽蔑の目を向け、絡めていた指を振り払った。そして盛大に私と距離を開ける。


「お前あれだよな。外見が悪くないからまだマシだけど、マジで、本当に変態だよな。これで見てくれが悪かったら、速攻でお縄だな」

「そこまで言うか? 僕は事実を言っただけなのに」

「なぁハクヒ、マジでお前のご主人は犯罪者じゃなかったのか?」

《犯罪者ではなかったのですが、むしろ遊びが少な過ぎて心配していた程で……》

「マジかよ?!」

《なんでしょうねぇ……》

「これはあれだな、目覚めたな。変態に」

《そうなのでしょうか……。まあ、ブロサッム様には申し訳ないですが、私にとっては以前の主より生き生きとされているので良しとしましょう》

「それ、私は損しかしてないじゃない!」


 二匹の会話の裏で私と攻防を繰り返していたブロサッムが声を荒げる。瞬間、私がブロサッムの手を掴んだ。私の勝ちである。ブロサッムは振り払おうと試みるが、今度は振りほどかせない。


「君も僕を好きになればいいんだよ」


 そういって無理矢理繋いだ手に口付けをする。ボッと音がしてもおかしくないくらい急激に、彼女は顔を真っ赤にさせた。

 意外な反応に私までも少し頬を赤くしてしまう。それほどまでに彼女の反応は可愛らしかった。


「馬鹿! さっさと島から出てけ! この女たらし!」




 午後九時になった。この島に住む生き物達が一斉に闇に隠れる時間だ。闇に潜り、眠りに落ちる。

 この島に住む者達のほぼ全ては光の民ではない。それはブロサッムとラドンにも当てはまる。


 寝巻き姿のブロサッムは眠たそうに、椅子に座る私の前に立った。


 あえて口にはしないが、私はこの時間がとても好きだった。――彼女と深く繋がるこの僅かな時間が。


「――なんか、そんなに嬉しそうに待たれると、やる気が失せるわ」


 彼女は苦々しげに呟く。


「え、顔に出てた?」


 隠していたはずなのに、恥ずかしいことである。僅かに頬が熱くなるのを感じた。しかしこれはもう、開き直るしかないだろう。


「君には不服かもしれないけど、僕にとっては貴重な時間だからね」

「もう一々臭いから、黙って――」


 言うや否や、彼女は両手で私の顔を掴んで私に接吻をした。


 彼女の柔らかい唇の快感で力が抜ける。爪先から頭の天辺にかけて甘い電流が走る。彼女の舌が絡む。私はなされるがまま快感に酔いしれる。

 やがて身体全体を不快感が包み始める。熱を帯びたドロドロしたものが身体を中を這っている。それは熱と同時に痛みも伴った。ジリジリと身を焼く、火傷のような痛みだ。

 この段階になって思い至る――この痛みは常に私を取り巻いているものだったと。感覚が慣れて何も無いように感じているが、思い返すと確かにこの痛みは常に身を苛んでいる。


 それらが身体の中心付近――胃の腑に集まる。この感覚は胸焼けに近い。


 ドロドロとした熱の一部が胃から食道を上る。そして吸い込まれるように口付けをする彼女の口に入っていく。


 上る熱は食道を爛れさせる。もちろん、口も痛くて痛くて堪らない。


「――っ」


 もちろん、同じものを口に含んでいる彼女も同様の痛みを伴っているはずだ。

 しかしこんな時でも、私の顔を包む彼女の手は優しい。私への気遣いで満ち溢れている。嬉しいのと申し訳ないのとで、彼女を抱き締めたいと毎度思うのだが、この時の私は、痛みで指一つ動かすことができない。なんなら、瞬きすらできない。


 彼女の手が、唇がみるみる冷たくなっていく。顔色も明らかに蒼くなっていく。


「――っ!」


 彼女の口が冷や水と同じ温度になってやっと、彼女は私から口を離した。それと同時に身体を包んでいた痛みが消える。金縛りから解放されたばかり人のように、身体は呼吸を乱している。思い出したように冷や汗が滝のように身体を流れた。


 ブロサッムは呼吸を整えている私に背を向け、机に置いてあったフラスコ瓶に口に含んだものを吐き出した。


 吐き出し終わった瓶には、赤黒い、血が固まる直前のような、半流動体の物が並々と入っている――これが私を取り巻いている『怨み』が物質化したものらしい。


 一通り吐き尽くした彼女は、流れていた汗を豪快に腕で拭って一息吐いた。


「今日もありがとう」


 心底感謝しながら言うと、彼女は光に透かされた桜の花のような笑みを私に向けた。


「まだまだ先は長そうだけどね」

「あとどれくらいかかりそう?」

「合計で一年くらいだから、十一ヶ月ってところかしら」

「それは長そうだ」

「本当よ。勘弁して欲しいわ」


 汗で額に髪をつけながら、彼女は苦笑いした。


 始めの頃こそ、ラドンも同席してこの儀式を行っていたが、最近は『俺はもういらないだろ?』と同席しなくなってしまった。


――こんな時に限って、なんでラドンがいないのか……。


 二人だけの空間を改めて意識してしまって、私は逆に困ってしまう。気持ちを落ち着けていないと、彼女を押し倒してしまいそうだ。そして、その白く滑らかなうなじに――。


 私は小さく首を振ることで、妄想を断ち切る。


 それだけはいけないことだと、分かっているのに。時折、どうしようもなく妄想してしまう。


「あ――」


 そしてそんな彼女は不用意に私に近付く。頼むから、こんなに餓えた私に不用意に近付かないで欲しい。


 彼女は私の耳元に手をやった。


「もう枯れかけてる」


 そう言うと、私の許可を得ないまま、私の耳からピアスを外した。そして関心しながらそれを私に見せる。膝が触れる程に、彼女との距離は近い。


「見て、もうこんなに傷んでる」

「君は……」


 私は小さくため息を吐く。


「君はなんやかんや、無用心だ」

「何言ってるの。替えを持ってくるから、そのままちょっと待ってて」


 彼女は真顔でそう言うと、パタパタと部屋を出ていった。すぐに真新しい若葉のピアスを一対持ってくる。彼女と同じ、綺麗な黄緑色をしたピアスを。私は着けたままになっていたもう一方のピアスを外して待っていた。


 新しいものに付け替えると、彼女は安心したように笑んだ。


「葉っぱのピアスが一ヶ月で枯れるなんて初めてだわ」


 この葉っぱのピアスはこの島の関係者であることを示すのと同時に、持ち主を守護すると先日説明されていた。それが異常な早さで効力を失っている……。


「僕への怨みはそんなに強いの?」

「そうね。本当に、あなたいったい誰にそんなに怨まれてるの?」

「それは記憶が戻ってからでもわかるかなぁ」

「わかるわかる。ここまでのだと、本人にも態度があからさまなはずよ」


 彼女は汗を掻いた私に清潔クリーンの魔法を遣うと、「明日は小忙しくなるから」と言って寝室に降りていった。


 私は伸びをする。儀式の後はある程度の眠気――光の民も極度の疲労がある場合は眠くなる。ただし睡眠時間は短い――があるが、今日は何となくまだ眠りたくない気分だった。


――小忙しいとは、いったい何があるのだろう?


 ぼんやりと明日のことを考えつつ、本棚から一冊の分厚く古い本を取りだし、ベッドに寝転ぶ。外装が革でできているこの本は、魔術の指南書だった。


 どうやら私は魔法に関する記憶も綺麗に抜け落ちてしまっている。それは怨みの主が、魔法遣いとしての私を酷く恐れているためらしい。


 二人の見解だと、記憶を失う前は自身の魔力で怨みの影響を無意識に抑えられていたようだ。しかし、深傷を負った際に隙を突かれ、記憶ならず魔力までも封印されてしまったのだろう、とのことだった。


――私は何をしていたんだろうな。


 こんなに誰かに怨まれるということは、私はきっと碌でもないことをしていたのだろう。


――そうだな、きっと拷問をしていたんだ。


 私はとても残酷な拷問師だったのではないだろうか。だからきっと、拷問した相手にこっぴどく怨まれて、こんな風になってしまっている。毎日酷い生活を過ごしていたから、今の生活がとても輝いているように思える。


 他人事のように思いながら、指南書に目を通す。どれも一度目を通すと、そういえばそうだったな、と思える内容だが、目を通すまでその考えに至ることがない。不思議な感覚だが、その感覚に慣れてしまえば退屈な作業になってしまう。


 そんなもんだから、気が付いたら寝てしまっていた。


「――二時か」


 約五時間――今日は良く寝た方だった。光の民としては、相当寝た部類に入る。何故かはわからないが、私は光の民の割にはかなり寝ることができる体質らしい。ちなみに、平均的な光の民はよっぽど疲れていても一時間程で目が覚めるらしい。


 辺りはまだ静けさを保っている。島の住人達が目覚め始めるのは午前六時頃なので、深い眠りに落ちている頃なのだろう。


 窓から入ってきた風が淡い桜の花の匂いを纏い、レースのカーテンをゆったりと揺らす。桜の花の色を吸った太陽光が、淡く部屋の中を照らす。


 自分の音しかしない、酷く静かで平和な、幸せで出来たような世界。


 私はその空間で、ブロサッムがよく口ずさむ歌を小さく口ずさむ。一食――午前零時頃の食事のことだ。食事はおよそ六時間間隔でとり、一日の最後、午後六時頃の食事は四食と言う――も食べずに指南書に目を通していると、あっという間に午前五時になった。のんびりと皆で食べる二食を準備し、料理ができたころにブロサッムとラドンが居間に出てきた。


「おはよう」

「おはよー」


 ブロサッムは欠伸をしながら、ラドンは欠伸で挨拶を返してきた。



 二食を食べ終え、家事を片付けているとドアをノックする音か聞こえた。


「あ、来た来た。ノエル手が放せないから出てくれる?」

「わかった」


 来客なんて私がここに転がり込んでから初めてのこである。どんな者が来たのだろうと少し不安に駆られながらドアを開ける。


「――はい」


 そこには小麦色の健康的な肌に、綺麗な空色の髪をした少年が立っていた。歳は十五くらいだろうか。年齢の割には少し小柄だ。彼は私に驚いたらしく、エメラルド色の瞳を持つ目を大きく見開く。一瞬後に露骨に敵対心溢れる表情に変わった。少年の分かりやすさが面白い。


「あんた、誰?」

「僕は今ここでお世話になってる者だよ」

「ここ、人間が立ち入り禁止なの知ってる?」

「知ってるよ。でも君も人間だろ?」

「俺は人魚の血が半分流れてる」


 なるほど、と私は納得していると、彼は私を押し退けて家を覗いた。


「ブロサッムいるんだろー?」


 すると、家の奥からブロサッムの声が返ってくる。


「いるわー。庭で待っててー」

「はーい」


 少年に鼻息も荒く一睨みされる。私はどうすべきか悩んでいると、更に声が聞こえた。


「ノエルはこっちに来て手伝ってー」


 更に少年に一睨みされた後、私はブロサッムに呼ばれるまま家を上がった。ブロサッムの家は一応三階建てなのだが、三階に上がるのはこれが初めてだった。特に禁止はされていなかったが、今まで何となく上がる気にならなかったのだ。


 三階は入り口用の扉もなく、階段から直接部屋が続いた屋根裏部屋になっていた。意外なほどの明るさに私は目を瞬かせる。明るさの原因は天井に取り付けられた幾つもの窓だった。この様子だと、屋根の半分はガラス窓でできているだろう。天井に電灯はなく、明かりは外からの光のみで補われているようだ。

 部屋の側面には壁が見えないほどの棚が取り付けられ、ガラクタのような物から本、何かしらの器具、箱がところ狭しと並べられている。


「すごいな、これは――」


 そうして床には、宝石箱が並んでいた。数は二十程度ある。多くの箱は蓋が開けられ、見ると中には丁寧に封魔石がしまわれていた。

 ブロサッムはそれらの箱の蓋を一つ一つ丁寧に閉めてまとめているところだった。


「こんなに多くの封魔石をどうしたんだ?」


 思わず問い掛ける。大きさにもよるが、小さな封魔石でも一つで家が建つ程の価格がするはずだ。それがざっと換算するだけでも五十個近くある。

 驚いている私に、ブロサッムはそっけなく答える。


「見つける度にできるだけ回収したの。さ、ノエルも手伝って。これ全部とあそこにある箱を全部庭に下ろさなきゃいけないから」


 困惑しつつも、私は彼女の指示通りに動いた。

 側面の窓に荷物を纏めると、彼女は魔法で窓から荷物を下ろした。ついでに庭を確認すると驚いた。十人近くの人がいるではないか。皆背格好に統一感がなく、肌の色や髪の色もバラバラだ。ただ一つ、皆一様に私とやブロサッムと同じ、葉っぱのピアスを着けていた。皆丁寧にブロサッムの荷物を受け取る。


「こうやってね、今日が来るまで日向ぼっこしてもらっていたの」


 荷物を下ろし終えた彼女が落ち着き払って言った。恐らく、封魔石のことを言っているのだろう。

 彼女と共に三階を下りる。


「なんで石なのに日向ぼっこ?」

「封魔石はね、元々は私達と同じ、身体があって自由に動ける生き物だったのよ」

「生き物だったの?」

「そう。そして、今も生きてるの。石にされた肉体の中で」


 ブロサッムは淡々と説明をする。


「それこそ、あれは怨みの塊のようなものよ。そしてあれには寿命がない。石になった者は苦痛の中で悠久の時を生きる……」


 私は言葉を失った。そんなことは聞いた覚えがなかった。魔法と自分に関すること以外は忘れていないはずなのに。


 部屋に並べられていた美しい装飾を施された石達は、誰かの無惨な姿ということになる。


――人間はあれを富の証しとしている……。


 頭から血の気が退いていくのがわかった。


「唯一、封魔石の楔を断ち切ることができるのが、火の国にある霊峰クスウェディアヌス山よ。クスウェディアヌス山の火口に石を入れることで魂を解き放つことができるの」


 一応、救う方法があったことに私は安堵する。しかし――


「人間は火の国には行けない?」

「そう、あそこは竜族や限られた種族しか生きられない灼熱の世界ね。それに、クスウェディアヌスの火口である頂上は、年に一度しか登ることができない。それも竜族でも力のあるものがやっと登れる程度の険しさよ」


 ブロサッムが私に振り向く。真っ直ぐに私を見つめる彼女の感情は窺えない。


「今日は竜族がクスウェディアヌスで浄化したいものを回収しに来る日なの」


 なるほど、と私は納得した。外に集まった人々は回収物を持ってきているのだろう。



 庭に出ると、見覚えはないが知っている気がする紅の髪と浅黒い肌をした青年がいた。僅かに長い髪を小さく一括りにしている。彼は、荷物を下ろすときにはいなかったはずである。

 知らない間に私は彼の顔をまじまじと見ていたのだろう、彼は照れたように琥珀色の瞳を細くした。


「ノエル、俺だよ」


 聞き覚えのある声に私は目を瞬かせる。


「――ラドン? ラドンなのか?」


 紅の髪の青年――ラドンは安心したように笑んだ。


「そうそう。正解」


 ここで私はある疑問に思い至る。


「ラドンは人間だったの?」

「んにゃ、俺は純潔な竜族だ。竜族も人型になるって知らなかったか?」

「――あぁ、いや、知っていた。何となく結び付いていなかっただけだ」


 私がそう答えると、空色の髪の少年が噛みつく。


「いや、知らなかったんだろ?」

「まあそうかもしれないな」

「あんまり噛みつくと格好悪いぞ、フォート」

「でも――」


 フォートが言い訳しようとした時である、突風が桜の花を大きく巻き上げた。空を見上げる。ブロサッムが呟く。


「きた――」


 視界に鈍い紅が広がる。巨大な竜――その気になればこの巨大な桜の木を薙ぎ倒せそうだ――が、桜の花を散らしながら舞い降りてきた。口には大きな籠をくわえている。皆、突風に吹き飛ばされないように踏ん張る。風圧で家の窓が割れないか少し心配になった。


 竜は盛大に下りると、小さく両翼を畳み、地に座った。籠を傍に置く。

 ラドンが竜の傍に寄る。竜は地に響くような声で言った。


「達者にしていたか、ラドン」

「もちろん。親父も元気にしていたか?」

「そうだな。ブロサッムも達者だったか?」

「はい、おじさん」


 ブロサッムもラドンと同様に嬉しそうに頷いた。

 ノエル、とラドンが呼ぶ。自然とラドンの父と目が合う。ラドンよりも深い琥珀色をしている。口が少しつり上がったように見えた。微笑んでくれたのかもしれない。


「俺の親父、ファフニール。こうやって世界を廻ってクスウェディアヌス山に持っていくものを回収するのが仕事だ」

「こんにちは。ラドンとブロサッムにお世話になっているノエルという者です」


 ファフニールは長い首を曲げて私に顔を近付けると、鼻をひくひくとさせた。


「君は色んな者に怨まれているようだ」

「そうなんだよ。お陰で毎日大変なんだ、ブロサッムが」


 皆が粗方ファフニールに挨拶を終えると、籠に荷物を入れていった。といっても、魔法を遣ったので、五分もかからなかったが……。


 それから、皆で地面に布を敷いて、それぞれ持ち寄った料理を広げた。ちょっとした宴のようだ。私達はファフニールの一番近くに座った。フォートもくっつき虫のようにブロサッムの隣に座る。距離が少し近い気がしたが、ブロサッムは気にしていないらしい。


 人型になったファフニールとラドンはよく似ていた。何も知らずに会っていたら、恐らく兄弟と勘違いしていただろう。パーツが近いのもあるが、そもそもファフニールはとても若く見えた。少なくとも人間だと三十代に見える。

 それを言うと、ファフニールは低く笑った――ラドンと見た目は似ているが、落ち着き具合は段違いだ。ラドンは陽気な若者という雰囲気があるが、ファフニールには戦士のような雰囲気がある。


「竜族は人間と比べると遥かに長命だからな」

「確か二千歳まで生きるんでしたっけ?」

「正確には千六百程だ」

「千六百――」


 改めて聴くと、それはとてつもない数値のように思えた。人間は長命でも百年程しか生きられない。いったいそれはどれ程長く感じるのだろうか。


「ファフニールさんは今何歳なんですか?」

「私はまだ五百と少しだ」

「ちなみに俺は百歳くらいな」

「なんというか……ラドンでさえ、もう人間の一生分生きていたんだな……」


 それは妙に感慨深かかった。ラドンの気さくさから、とても近い感覚になっていたのだが、実は結構遠い存在だったとは……。

 ラドンはそんな私にけろっと笑う。


「竜族からしたら、俺はまだまだ餓鬼の年齢なんだけどな」

「そういえば、ブロサッムは何歳なんだ?」

「私はまだ十八よ」


 人間的な年齢が出て来て、私は思わず目を瞬かせた。


「たぶん、ノエルもそれくらいだよな」

「それくらいとは、何故断定できない?」

「記憶がないんだよ。怨みのせいで」


 なるほど、とファフニールは頷いた。


「それ故この島に辿り着いたのだな。怨みを祓うのならば、この世界ではブロサッムが一番適任だろう。安心して祓ってもらいなさい」


 嬉しそうにもじもじとするブロサッムを横目に、私は「はい」と返事をした。



 様々な世界を廻るファフニールの話はとても壮大で、興味深く、耳を傾けているだけであっという間に時間が経っていった。


「それでは、私はそろそろお暇しよう」


 ファフニールは徐に立ち上がると、鞄から一通の手紙を取り出した。それをブロサッムに手渡す。


「ワイバーンからの文だ」


 ブロサッムは受け取ると、心底嬉しそうにそれを抱き締めた。そして、彼女も家から魔法で呼び出した手紙をファフニールに渡す。


「私からも、お願いします」


 ファフニールは温かい目をしながらそれを受け取る。


「確かに、承った」


 それを鞄にしまうと、ファフニールは竜型に変化した。


「ラドン、ブロサッムを頼んだぞ」

「もちろん」

「ノエル、それだけの怨み、何かの因縁があるだろうが、強くあれ。少しずつでも解決するがよい」

「はい」

「フェリアスの民よ、今は辛い時期だろうが心を一つにして闘われよ。お主達がこの聖域の最後の砦だ」


 フォートを含む今日初めて会った人々――フェリアスの民というらしい――が、瞳の色も強く頷いた。


「皆、運命の行く末でまた会う日まで、健勝であれ」


 ファフニールは最後にそう言うと、私達の言葉も待たずに飛び去ってしまった。私達は彼の後ろ姿を言葉もなく見送った。



 解散の雰囲気が漂い始めた頃、一番年老いた男性が私の所にやってきた。歩く姿勢は比較的にしっかりしている。年老いたとはいっても、まだ老い先はさほど短くないだろう。真っ白な髪に、真っ白な長い髭を蓄えた老人は、真っ黒な瞳で私を見上げた。


「私はモノローグと言います」

「初めまして、ノエルです」

「ノエル殿は記憶がないと聞きましたが、いつ頃からないのでしょうか?」

「だいたい一ヶ月前からです」


 モノローグは桜の木で若草を食んでいるハクヒを指差す。


「あの天馬は貴方の天馬でしょうか?」

「そのようです。ハクヒ自身がそう言っていました」

「人間で、天馬の声を聴けるということは、貴方はさぞかし高尚な魔法使いだったんでしょう」

「実際はどうあれ、今は全く使えませんがね」


 私が乾いた声で笑うと、モノローグは言うべきか迷ったように黙った後、口を開いた。


「私はノエル殿を知っているかもしれません」

「何だって?!」


 私が驚いたのと同時に、フォートや他のフェリアスの民とと話していたブロサッムとラドンが勢いよく振り向いた。どうやら一応聞き耳をたてていたらしい。


「私を知っているのか?!」


 勢いよくモノローグの肩を掴む。揺さぶりかけて、寸前でなんとか止めた。

 モノローグは歯切れ悪く答える。


「しかし私の記憶が正しければ、本来貴方はここにいないはずなのです」

「どういうことだ?」


 モノローグは私の顔を確かめるように見ると、俯いた。そうして深くなり始めている顔の皺をより一層深くさせる。


「ノエル殿はセレスティアル国の国王の名はご存知ですかな?」

「――いや、知らないな」


 セレスティアルという言葉は耳馴染みがあったが、不思議と国王の名前は愚か国についても思い出せなかった。


「ノエルと言います」

「国王……?」


 何故か顔色を失うブロサッムとラドンにモノローグは慌てて手を振った。


「名前は偶然かもしれません。しかも、国王が行方不明なんて話も聞いたことがありません」

「そう、そうよね……」


 安堵したようにブロサッムは溜め息を吐く。しかしモノローグは不安を付け足す。


「しかしながら、顔が似ているのです。瓜二つと言っていいでしょう」

「行方不明でも、その情報を漏らさないようにしている可能性はあるな……」


 ラドンが呟くと、フォートが私の腕を力強く握った。血が止まりそうな程に。フォートの声は氷点下まで落ちていた。


「こいつが国王なら、今すぐ殺すべきだ」


 ガツンとラドンがフォートの頭に拳を落とす。相当痛かったのだろう、フォートは暫く地をのたうち回った後、ラドンを睨んだ。


「だってそうすべきだろう?! それが本当ならこいつは俺達の敵だ!」

「まだそうと決まった訳じゃないだろ」


 低く唸るように言ったラドンの声は、ファフニールの声に似ていた。ラドンは一息吐くと、顔を蒼くしているブロサッムと私を見て笑んだ。


「まあ、もしそうだったとしても、実際を見て心変わりしてくれるかもしれないだろ。安心しろ、ノエル。俺達はお前がそのピアスをして、島の関係者に危害を加えない限り、お前を害さない」

「……ありがとう」


 頷いたものの、私は自分のことなのに、蚊帳の外にいる気分だった。そもそもセレスティアル国が思い出せないのに、そこの国王かもしれないと言われても何も実感が湧かない。

 むしろその国王とブロサッム達が敵対していると聞いてしまうと、モノローグの勘違いであることを望んでしまう。


 モノローグが取り成すように言い直す。


「そもそも私の勘違いかもしれませんので、あまりあてにはしないでくだされ。それに、顔は似てると言ったものの、印象は全く正反対でしたからの」

「正反対とは?」

「国王は生きることに飽いているような、どこか膿んだ顔をしておりましたが、貴方はとてもいい顔をしております」


 それは、記憶を失っているせいでは? と言いかけて止めた。何故か私よりブロサッムの方が思い悩んだ顔をしていたからだ。



 暴れるフォートを引き連れて、フェリアスの民達はぞろぞろと帰っていった。

 三食を手早く作って、ブロサッム達の寝仕度を手伝っていると午後八時になっていた。


「ノエル……」


 食後、未だに不安そうな顔をしているブロサッムがゆらりと立ち上がって私を呼んだ。


「なんだい?」


 できるだけ穏やかに問い掛けると、彼女は私の手を引いた。肩にはトカゲに戻ったラドンが乗っている。


「こっち」


 手を引かれるまま、家の外に出た。外に出るとハクヒがそっと後ろをついてきた。桜の木を越えて泉に辿り着くと、ほとにり座った。

 彼女を出迎えるように、さわさわと周りの草木が揺れる。

 ブロサッムが透明な声でいつもの歌を口ずさむ。草木も彼女の歌に合わせるようにさわさわと揺れた。静かな旋律に声に耳を傾ける。会話のない静かな時間も、この三人――正確には一人と二匹――といるととても幸せに感じるのが不思議だ。


 ここへ来る以前の記憶はなかったが、今感じている幸福感は一度も味わったことがないことだけは、不思議と確信できた。

 私にとって、今が最高の時なのだと……。


「――」


 ふいに彼女が私の手をキュッと強く握った。振り向くと彼女の目が青白く光った。


「――あぁ」


 辺りの景色が一変する。

 それは光の粒子が飛び交うキラキラとした世界だった。赤や緑、青、茶色い光が踊るように浮遊している。特に青と緑色が多かった。

 ブロサッムの歌に合わせて緑の光が草木を撫でていく。青い光は水辺で、茶色い光は地面で跳ねた。赤い光は私を取り巻いて、くるくると廻っている。空からは黄色い光が霧雨のように降り注いでいる。よく見ると、私の足元でも黄色い光が跳ねていた。

 私の周りだけ、薄黒い靄がかかっている。視界の端にどす黒い腕のようなものが見えた。これはきっと怨みだろう。


――彼女は本当に出迎えられていたんだ。


 彼女の歌で喜ぶ光達。彼女は光達に愛されているように思えた。


 驚きと喜びで笑顔のまま固まってしまっていた私に、ブロサッムが微笑む。歌うのを止めてしまったのが少し寂しい。光達は歌の余韻を楽しむように、まだ踊っていた。


「この光が精霊。赤は火、青は水、緑は風、茶色は地、黄色が光――見覚えある?」

「――ない。こんなに綺麗な世界は見たことがない」


 彼女の笑みに悲しみが混ざる。私にはそれが堪らなく悲しい。


「ここまで精霊達が集まるのは、光の世界ではここだけよ」

「他の場所には集まらない?」

「少し集まる場所はあるけれど、種類も量もここに比べると全然少ない」

「何でそんなに違うの?」

「ここは穢れが特に少ないから……」

「穢れ――」


 この島に来てから何度も聞いた言葉だ。この島の住人は「穢れ」や「清浄」等の言葉をよく使う。

 ラドンが言葉を紡いだ。


「精霊は穢れ――血や怨みとかを嫌うからな。精霊だけじゃない、聖獣達も穢れが苦手だな」

「怨みって、僕は相当怨まれてるみたいだけど大丈夫なの?」

「大丈夫じゃねえよ。ノエルが来てから明らかに精霊の数は減ったな」


 あっけらかんとラドンは言う。


「それは――」

「でも、それはお前のもので、祓えばすむことだ。それに俺達はそれも承知の上でお前の面倒をみてるんだ」


 言葉を選び損ねている私に、ブロサッムら微笑む。


「つまり、あなたもハクヒも、あなたの怨みで気に病む必要はないのよ」

「――ありがとう」


 私ら二人に――この島の住人に心底感謝をした。私はこの美しい島を護らなければいけない。


 憂い顔でブロサッムが光達を見る。


「本当の意味でこの島を穢れさせないためにも、何としてもセレスティアル国の進行を止めないと」


――だから私がセレスティアルの国王かもしれないという疑いがかかったとき、フォートやフェリアスの民、ブロサッムの顔色が変わったのか。


 私がそこの国王だとすると、私はこの島の関係者の敵中の敵ということになる。

 国王は知っているのだろうか、この島の美しさを、神秘さを、特別さを……。


「本当に、私がそこの国王だと都合がいいのに」


――そうしたら、そんな馬鹿みたいな真似は止めさせられる。


 呟いた私をブロサッムが驚いたように振り向いてから、笑んだ。


「ノエルはきっと違うわ」

「なんで?」

「あなたの魂は美しいもの――」


 何故か彼女は泣きそうな目をしていた。何も言葉にできなくて、私は彼女を抱き締めた。


 ラドンがトンボに変化して精霊達と遊んでいる。ハクヒの目が少し暗い気がしたが、その時の私は気に留めなかった。


 私は今この時、この幸せな時間をずっと覚えておきたい、忘れたくないと心底思った。

 この美しい神秘的な島を、精霊達に祝福されたこの島を、聖獣達の寄り所となる場所を、私もブロサッム達と共に大切にしたいと思った。


 できることなら、このまま、記憶を思い出せないまま、ずっとここに居続けたい、ブロサッムとラドンとハクヒと共にここであり続けたい――そう心から思った。


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