彼方へ 1
外が騒がしい気がして、私は目が覚めた。
「――っ!」
誰かが焦ったように小刻みに玄関を叩いている。叩いているというか、引っ掻いていると言った方が適切かもしれない。
「誰だろう?」
隣では丸くなったラドンがすやすやと寝息を立てている。私は起こさない様に地下の寝室を出ると、玄関へと足早に向かった。
様子からすると緊急の呼び出しであることは分かりきっていた。眠たい瞼をこじ開けて、玄関を開ける。
「どうしたの?」
玄関を開けた途端、顔の真ん前に大きな白い顔があって私は反射的に飛び退いた。
――天馬。
その天馬は純白な上質な毛並みに赤黒い汚れを携えて、息を荒げながら言った。
《主人が! どうかお助けを!!》
「主人とは人間よね……」
私が助けると契約している範囲のことを考える。しかし、焦りきった彼の顔を見ると、彼の主人と彼との絆は深いように思える。
「――まぁ、いいでしょう。どこにいるの? 連れていって」
《私の背にお乗りください! お連れいたします!》
気の動転しきった天馬の背に乗るのは少し恐ろしかったが、滑らかに動く彼の背は、寝巻きが汚れることを考えなければ悪くなかった。いざ走り出してみてると、焦りはあったものの、私への配慮は欠かさずにしてくれていたのだ。
彼が私を連れていった場所は、川の畔だった。少し近づいただけでもわかるこの腐臭に、私は露骨に顔をしかめた。
「貴方のご主人はどれだけ怨みをかっていたの?!」
姿を見つけるなり、私は腐臭で挫ける脚を勇気づけながら、岩のすき間を縫うように倒れている男性に駆け寄った。岩の回りが赤い。明らかに刻一刻を争う状態に思えた。
「治癒!」
私の魔法ですぐに彼の傷口は塞がったが、彼がすぐに目を覚ますことはないように感じた。なにせ気配だけでも分かる怨みの量だ、きっと何かしらの後遺症が残るだろう。
心配そうにことの成り行きを見つめる天馬に私は言う。
「一命はとりとめたわ。だけど、この怨みの量だから、いつ目覚めるかもわからない。とりあえず私の家に運んでくれる?」
《ご好意、感謝いたします……》
深く頭を下げる天馬の背中に、彼の主人を乗せる。彼は常に背中の主人を気遣うように走った。
「これで、よし――」
二階の客間に天馬の主人を横たえさせた頃に、眠たそうな顔のラドンが現れた。
「また録でもなさそうなの拾ってきたな」
「これも仕事です」
「かなりの怨みだな」
「だよね、見なくても分かるなんて相当だよ」
「誰なんだ?」
「さぁ、まだ訊いてない」
######
――ここは?
気がつくと私はどこかの寝台に寝かされていた。窓から射す木漏れ日は薄い桃色を帯び、優しいまろやかなものになっている。
柔らかい桜の花の匂いがあたりを埋めつくし、ここにいるだけで胸が幸福感で満たされる。
誰かがこちらにやって来る気配がした。ゆっくりと静かに部屋の扉が開かれる。
「――っ」
私は現れた人物を見て、思わず息を呑んだ。
桜色の柔らかい髪、桜の若葉のような瞳、透き通るような白い肌――桜の妖精に違いない、と私は思った。
彼女は特に微笑みもせず、業務的に口を開く。
「起きたのね」
「ここはどこだろう?」
「ここは私の家よ」
「言い方が悪かった。ここはどこの村だろうか?」
「特に名前はないわ」
まだ未開の土地があったのだろうか、と私は内心驚いた。私の僅かに驚いた様子を見て、やっと彼女は薄く笑んでくれた。
「今度は私から。貴方はどこの誰?」
「私は――」
思い出そうとして、何も思い出すことがないことに気がつく。全て墨で塗り潰されたかのように、あるはずものが見えない。
――私の名前……? 私はいったいどこから来た誰なのだ?
私の様子を見て、彼女は痛ましそうに私を見た。
「貴方は誰かに追われてここに辿り着いたのよ。貴方の愛馬、ハクヒが貴方を助けたの」
「ハクヒ……?」
思い出せそうで思い出せない自分に腹が立った。
「何故? 何故思い出せない?」
柔らかくひんやりとした手で、彼女は私の手を握った。部屋の姿見まで私を連れていく。
彼女と、銀色の髪に琥珀色の瞳をした男が鏡の中に現れた。彼女より頭ひとつ分身長が大きい男は、不健康そうで酷く顔色が悪い。隣の彼女はただ肌が白いだけだが、男は貧血でもあるかのように肌が青白い。
――これが、私?
彼女はゆっくりと口を開く。
「見て――」
もう見ていると言おうとした矢先、彼女の目が青白く光った。
「ど、どういうとだ……?」
彼女目が光った途端、鏡に映った男――私の肩に何人もの人間がヘドロになったようなものが現れた。それらは半分宙に浮きながらも、私の肩にすがり付き、幾つもある顔は呻くように口をパクパクさせている。肩だけではない。それらは私を覆うように全身にまとわりついている。奇跡的に顔の付近だけ、ヘドロ達がいなかった。それが鏡越しに自分を認識できた理由だった。
よくよく観察してみると、部屋中に障気のような霧が漂っている。鏡が微かに霞み、鏡に映った自分達の姿はさらに霞んで見える。
紫と茶色が混ざったような霧が漂っているのに、腐臭がしないことが不思議でならない。
視界の端にヘドロの姿が映った。どうやらこれは鏡越しに見えるものでもないらしい。しかし振り払おうとしても、触れた感覚は微塵もない。手はすかすかとヘドロ達の中を通りすぎてしまう。
「これでもマシになったのよ」
彼女は辟易としたように言った。彼女の瞳が元の若葉色に戻ったかと思うと、異様な世界は閉じていた。
「さっきのは何だ……?」
「貴方に向けられた怨みよ」
「怨み? 僕の?」
「そう、貴方の。恐らくあれのせいで貴方の記憶が飛んでるわ」
「何故私はそれほど怨まれているのだ?」
「それは私が聞きたいわ」
彼女はぷいと顔を逸らすと、コップを差し出してきた。中には濁った緑色の液体が入っている。
「薬、飲んで」
「それとハクヒが心配しているから、顔を見せてやんな」
彼女の着ていた服のフードから突然、ゴツゴツとしたトカゲが現れて私は驚いた。そんな私を見てトカゲは笑む。
「記憶が戻るまで心配だろうけど、ゆっくりしていきな。俺はラドン。こいつはブロッサム。宜しくな」
「よ、宜しく……」
ブロッサムよりかなり愛想よくしてくれるラドンに私は少し安堵した。
――トカゲとは話すことができる生き物であっただろうか?
そんな疑問を持ちながら、ブロッサムから受け取った薬を恐る恐る口にする。
「――苦っ」
「良薬は口に苦いな」
「貴方の傷の痛み止めと、治療用の薬よ」
――傷?
ブロッサムが私の疑問に答える様に、自身の脇腹と裏腿、左肩を示した。服を捲ってその確認すると、なるほど、ほとんど治りかけだがそれなりに大きな傷痕ができている。
「看病してくれたんだな。すまない、ありがとう」
「ハクヒに頼まれたからよ」
彼女は僅かに頬を赤く染めながら部屋を出ていく。ラドンが彼女の肩の上で手招きしていたので、私も薬を一気に飲み干してからついていくことにする。
苦い、水分を補給したはずなのに、口の中の水分を全て咽の奥に持っていかれた感覚がする。私はこっそりとむせた。
彼女達と家の玄関を出る。出てすぐに一頭の天馬が目に入った。天馬の毛はあまりに白く、それ故に頭上に広がる桜の花の色を反射して薄く桃色に染まっている。優しいが濃厚な桜の香りが鼻を刺激した。
天馬が私に駆け寄り、世話しなく鼻先を私の腹に押し付けたかと思うと、やがて安心したように大人しくなった。
彼がハクヒなのだろうと分かったが、どうしても彼の姿を自分の記憶の中から見つけられないことがとても申し訳ない。
「すまない、僕はお前が思い出せない……」
そっと天馬の顔を持ち上げ謝罪する。
天馬は私の言葉を理解しようだ、一瞬憂いを込めた瞳を私に向けると、再び私の腹に顔を埋めた。
「――貴方、ハクヒと念話できないの?」
心底意外そうにブロッサムが言った。
「念話とは何だろうか?」
「魔法に関する記憶もなくなってるのね……」
ブロッサムは面倒臭そうに肩を落とすと、ハクヒに顔を向けた。ブロッサムとハクヒは互いに口は開いていないが、会話するように暫し顔を見合わせる。
「――なんだ、そもそもハクヒとは話せてなかったのね。外の人は魔力があっても聖獣と話せないなんて、勿体ないわ」
「聖獣と話せるものなのか?」
「もちろん。ちょっとコツがいるけどね」
「教えてくれ!」
私の食いつきに彼女があからさまに退いたのが分かった。私は気にせず続ける。
「ハクヒに色々と訊きたいんだ。君を通じて話すより、直接訊いた方が早いだろ?」
ブロッサムは少し考えてから頷いた。
「……それもそうね。それに彼、貴方について何も教えてくれないの。『私からは言えない』って」
そうしてハクヒに微笑む。
「あと、主人と直接話せる方がハクヒも嬉しいか」
ハクヒは肯定するように嘶き、前肢で地を掻いた。
そうして私の念話の特訓は始まった――といっても、特訓は二時間程で終わった。聖獣の声は風の囁きのように繊細で、ブロッサムに意識するように言われてやっと気がつくことが出来た。
言われなければ全く認識できないが、一度認識できてしまえば比較的簡単に聞き取ることが出来る、ハクヒの声はそんな繊細な匠の業のようなものだった。
ラドンがニヤニヤと笑う。
「お前、記憶がなくなる前はかなり高位の魔法使いだったんだな。だからこんなに勘がいい」
「――そうなのだろうか?」
「あぁ、間違いない。聖獣との念話の感覚なんて、人間は小さい頃から磨いていないとそう易々とできるもんじゃねぇからな」
初めてハクヒと意思疏通出来た時、ハクヒが言った言葉は私への謝罪だった。
《このような目に合わせてしまい、申し訳ありません》
《折角助けてくれたのに、記憶をなくしてしまってごめん》
《いえ、私がもっと上手く導けられたらよかったのです……》
私はなおも謝り続けるハクヒの頭を軽く叩いた。
《僕はお前に感謝の気持ちしかないよ。それに、以前はこうしてお前と話せなかったんだろ? なら、むしろこうなって良かったじゃないか》
ハクヒははっと顔を上げると、照れたように鼻先で私の腕を撫でた。
《光栄です》
しかしながら、ハクヒは私の境遇については頑として教えてくれなかった。辛うじて教えてくれたのは名前だけである。これでもかなり交渉した結果だ。
「僕の名前はノエルというらしい」
「ノエルね……まぁ、外で有名だろうが私は知らないんだけどね」
「俺も俺も」
軽く笑う二人に、私は改めて問いかける。
「ここは地図的にはどこに位置するのだろうか?」
「光の世界の最東端、セレスティアル国の領海内にある島よ」
「セレスティアル国……」
教えてはもらったものの、その国がどんな国なのかが分からない。とりあえず、この世界の一番東に位置することだけは理解できた。
「やっぱり、感覚的なことは身体が覚えてるけれど、知識的なことの大半は忘れてるみたいね」
「そのようだ」
私はブロッサムに苦笑いする。動物や木々の名前、言葉等の生きるに必要なことは覚えている様だが、他の文化的な知識は忘れてしまっているらしい。
ラドンがヘラヘラと笑う。
「それにしても、ハクヒにはもっと感謝しろよ。本当はここは人間の立ち入りが禁じられているんだからな。ハクヒが禁忌を侵してもお前を助けたいって連れてきたから、お前は助かったんだ」
「禁忌? 人間の立ち入りが?」
「ここは聖獣や精霊の島だからな。人間は入れてはいけない規則にしているんだ」
「何故?」
「人間が来ると土地がよく穢れるからな。人間は無駄に生き物を殺しすぎる。もちろんそんな人間ばかりじゃないのは重々承知だけど、一纏めで制限した方が規律が保てる」
「ならハクヒは僕を連れてきて良かったのか? 僕のせいで何か罰せられる?」
私が早口に問いかけると、ハクヒが落ち着けと言わんばかりに鼻を私に押し付けた。その様子を見てブロッサムが微笑む。
「今回はまぁ特例にするわ。天馬は心から決めた主人が死んでしまったら、後を追って死んでしまうと聞くしね」
「ハクヒ……」
主人が記憶を失ってもなお、従ってくれている従順な天馬に私は心を大きく揺さぶられた。
――私はそんなにできた人間ではないだろうに……。
ハクヒの頭を抱き締めると、ハクヒは嬉しそうに嘶いた。
《必ず、お前を思い出すから待っていてくれ》
《主が健やかであれば、私にとって何も問題はありません》