かちかち山のタヌキを助けたら、耳元でかちかち火打石を鳴らされるようになった件
俺の名前は服部シンゴ。西の高校生探偵でも何でもない、やれやれ系属性の童貞ニートだ。引きこもり歴五年の俺には引きこもりでありながら日々の生活で磨き上げられた対人スキルが備わっていて、家を出ようと思えばいつでも出られるのだが、あいにく気がのらない為、今日もまた部屋の中で日課のラジオ体操に勤しんでいる。
「ふー、良い朝だ。さて、寝るか」
こうして健康的に体を動かし、母親が扉の前に置いていった質素な朝ご飯で腹を満たしたら、ようやく俺の就寝タイムがやってくる。朝八時に寝るのが俺のモットー。社畜の兄貴が俺の部屋の扉を蹴って出勤するのを見送ってから、満たされた気持ちで俺はベッドに入る。そしてここからが、俺のリラックスタイムの始まり。目を閉じて、深呼吸を二回。すうはあ、すうはあ。ここで大事なのは鼻から吸って、口から吐くこと。手足が良い感じに痺れてきたら、準備OK。そして『さらば現実』と心の中で唱えると、あとは勝手に意識が遠のき、俺は今いる世界とは全く別の世界へとトリップしている。
「今日はどこかな。この前は年上系だったから幼馴染の美少女がいる世界がいいなぐへへ」
こんな感じで、いつからか俺はそのありあまる才能の一部を眠っている間に発揮させることができるようになった。あまりにありあまり過ぎているから、起きている時に発動させると世界が滅ぶ危険性があるので、あまりにありあまり過ぎている才能は夢の中でのみ発動させることにしている。
さてさて。意識が遠くなってきたぞ。と思ったら、ぷっつり。俺はあっという間に別の世界の扉をくぐり、次の瞬間、妙な効果音で目を覚ました。
”ぽくぽくぽくぽく……ちーん”
なんだ、このお経がセットで聞こえてきそうなBGMは。それにこの暗闇。何も見えないぞ。と思ったら、どこからか煙がもくもくと湧いてきて、視界が真っ白になった。なに、この凝った演出は。今までにない展開に俺は驚きを禁じ得ない。
”ぽくぽくぽくぽく…ちーん”
すると、幼女のキュートで舌ったらずな声が『はじまりはじまり~』と聞こえ、ちゃちゃ!という変な効果音まで入った。お。今日は幼馴染じゃなくて幼女ルートか。たまには嗜好を変えてみるのもいいかな。じゃない。なんだ、この始まり方は。今まで見てきた世界はまるで現実みたいにリアルで、最初から俺の知らない俺としての生活が勝手に始まっていたというのに今日のは全然違うじゃないか。
『もぉ~はじまるよぉ~?』
幼女の声がまた聞こえた。ふくれているような、そんな感じのあまーい声だ。うーん。あまーい。じゃない、可愛い。むちゃくちゃ可愛い。
『もうはじめていいよねぇ~?』
幼女は俺の答えを求めている。俺は瞬時に「いいともー!」と元気よく答えた。幼女を悲しませるなんて、俺のポリシーに反するからね。
『わ~い。じゃあ、はじめま~す。あ、そうだ。この世界はぁ、クリアしないと出られないから注意してねー!』
う。鼻血でそう。なんて可愛い妹なんだ。お兄ちゃんを誘惑するなんていけない妹だなあ。これはあまーいお仕置きが必要かな?っていうか、クリアってどういうことだ。いや、どうせ妹を攻略したらクリアとかそういうことだろう。なんて考えていたら、急に俺の視界を覆っていた煙が晴れていき、視界が薄っすらと開けていった。おお!ちっちゃいシルエットが見えるぞ。このくらいの身長ってやばいよなあ、ジャストフィットだよなあ。よーし。俺が君のお兄ちゃんだぞぉなんて思いながら両腕を広げて待ち構えていると、小さな茶色の塊がくるりと愛らしく振り返った。
「な……な、なんじゃこりゃあああ」
可愛い幼女の姿ががらがらと音を立てて崩れていく。俺の目の前にいたのは、二本足で立つ、でかいタヌキだった。それも横にでかい。デブだ。食いすぎのデブタヌキ。口の周りが真っ白になっている。同じく真っ白になった手には食いかけのおまんじゅうがしっかりと握られている。俺はその場でフリーズした。
「むむむむむむ!?」
デブタヌキは俺の顔を見て、まんじゅうみたいなまん丸の目を更にまん丸にすると手に持っていたまんじゅうを一気に口の中へ放り込んだ。で、のどを詰まらせた。おい。そこはびっくりしてまんじゅうを捨てるところだろう!何故、食べた!?というか、タヌキってどういうこと!?俺の妹は幼女じゃなくてタヌキなの!?俺はもう何が何だか分からずパニックになって、タヌキの背中を一生懸命さすってやった。
「…むむむむむむむむむむむむ!!!!!っぜえはあぜえはあ」
「どうした、大丈夫か」
「ぜえはあぜえはあ…っさするんじゃなくて、叩けよ!」
「え」
「死んじまうだろーが!!おいらが死んでもいいのか!!!」
「え…え…そ、そりゃあ死んでほしくはないけど」
「んだろう。今度からは気―つけろよ」
「…はい」
やっぱり違う。あの時聞いた幼女の可愛らしい声じゃない。俺より低い声だし、こんなにでかい態度のやつ…って、ん?俺はタヌキの下半身に茂る暗闇を見て絶句した。性別さえ違うじゃないか。
「ところで、いつからそこにいたんだ、おめえ」
「…いや、たった今、来たばかりで」
「ふうん、そうかい。おいらの後をつけてくるなんて、おめえは村のもんか?」
「…む、村?」
「あいにくだが、今日獲ったイモは全部食っちまったぜ。取り返そうと思って来たんなら、諦めて家に帰りな」
「いや、俺はイモなんて別にどうでもいいし…ていうか帰れるなら帰りたいんだけど」
「ん?イモがどうでもいいって、おめえ変わってるやつだなあ。今日獲ってきたイモがある畑のじじいなんて、クワ振り回して、鬼みたいにおいらのことを追いかけるのによお。イモじゃなけりゃ、こんなところまで何しに来たんだ?」
「…何しにここに来たかなんて俺が聞きたいよ」
「つくづく変なやつだなあ、おめえは。…ははあ。さては狐がおいらを化かそうとしているんだな」
「いや、俺は服部シンゴっていうれっきとした人間だけど」
「ははは。名前まで人間の真似をしてやがるのか。シンゴ、かあ。うめえこと化けてるもんだなあ。だがちーっと髪の毛が足りねえみたいだな。おめえみたいな年頃の村の男はもっと、黒い毛がふさふさしてるもんだが」
「……遺伝だよ」
俺の心はずたぼろに引き裂かれた。
「まあ、それ以外はまるで見分けがつかねえ。見事に化けていやがるな、シンゴ。おいらが言うんだから、間違いねえ」
タヌキは立派な腹をぽんぽこ叩いた。これが腹太鼓ってやつか。というか、俺、今ナチュラルにタヌキと話してるんだけど、どういうこと。
「おいらはこれからもう一度、あのじじいのところに行くんだがよ。おめえ、ちょっとおいらについてきてきてくれないか。シンゴが一緒なら、あのじじいも油断して、おいらにたっぷりイモを食わせてくれるに違いねえ」
何か面倒くさそうな出来事に巻き込まれそうな予感がしてならない。だが今の俺にはちっとも元の世界に帰る予兆みたいなもんが感じられないので、ここはこのタヌキの言う通りにして物語を進めるしか帰る方法はなさそうだ。……。これが巷で噂のタヌキルートってやつか。
「……ま、まあそれくらいなら」
「よおし。決まりだな。んじゃ、今から行くから、シンゴはおいらの後ろを歩くんだぞ」
「…うん」
言われた通り、俺はタヌキの後ろに回り、のそのそと歩き出した。タヌキはというと、上機嫌に鼻歌を歌っている。音痴だ。聞いていて不安になる音色だ。俺は耳を塞ぎながら、大人しくタヌキの後をついて行った。
しばらくすると、タヌキの言った通り、こじんまりとした村が見えた。こ、これは…!まるで昔話みたいな懐かしさを感じさせる光景だ。胸の奥底から何かが込み上がってきて、じーんと熱くなる。俺は一体全体なんて世界に来てしまっているんだ。
「ほれ、あそこがじじいの家だ。隣の畑でイモやら野菜を作ってるんだ」
「へえ」
タヌキが質素な家を茶色の丸い手を動かしてひょいひょいと指している(らしい)。
「おや。じじいはいないみたいだな。喜べ、狐。イモよりもっと良いもんが食えるかもしれんぞ」
「俺、狐じゃないんだけど」
「ああ、今はシンゴだったな。じゃ、見つからないうちに行くぞ」
タヌキはにししと悪役顔で笑うと、小走りになった。俺もやれやれとため息を吐いてその後を追っかける。タヌキは“じじい”の家にまんまと入り込み、俺も恐る恐る中へ入って行った。
「ねえ、タヌキさん。これってまずいんじゃないの」
家の中は思った通り、昔話に出てくる家そのもの。小さな囲炉裏があって、台所と思われる洗い場みたいなのが作られているほか、目立った部屋はない。当然、電気やそういった類のものも見当たらない。
「シンゴは小心者だなあ。ちょいとそこらの物をちょっと頂戴して帰るだけのことよ」
「それを泥棒って言うんだけど」
タヌキは「おお!」と歓声を上げながら、片っ端から置かれていた野菜やら何やら食べ物を見境なく腕に抱えている。いいのかね。
「なあに。おいらにかかれば、こんなもの一日で食べきっちまう」
タヌキががははと大きな笑い声を出すと、がらりと後ろの戸が開いた。
「おや、誰だい?」
顔を出したのは腰の曲がった老婆だった。顔中しわだらけだが、どこかおっとりとした優しそうな雰囲気が伝わってくる。
「…なんだ、ばばあか」
タヌキがあからさまにほっとした顔を浮かべた。
「あ、すみません。お邪魔してます」
俺は一応、人ん家ということで礼儀をわきまえた。おばあさんは困ったような顔をしてタヌキを見ると、困った声で言った。
「おやおや。またおまえさんかい。じいさんにあれほど追いかけられて、こっぴどく叱られたっていうのに、懲りないねえ。友達まで連れてきたのかい」
「うるせえ、ばばあ。黙ってろ」
「ちょ、そんな言い方はないだろう。ちなみに俺、こいつの友達でも何でもないです」
「じいさんがもうすぐ戻ってくるよ。そしたら、おまえさん達は捕まって今度こそ殺されちまうかもしれないねえ」
「え、俺も!?」
この世界のルールはじじい…じゃない、じいさんに捕まったらOUTってことか?いやはや一体どんな世界だ。じゃあクリアというのは、じいさんから逃げ切ることなのか。……。俺は決してこんな世界を望んでないぞ。普通の日常を美少女に囲まれて過ごすという男のロマンを堪能すべくだな…うんぬんかんぬん。俺が必死でクリアの条件を考えていると、タヌキは持っていた野菜を地面に置いて、どこからか調達したロープで、あっという間におばあさんを縛り上げた。
「な、何してるんだよ!」
「見てのとおり。じじいを驚かしてやるのさ。ばばあ汁を作ってやろう」
「は?!ば、ばばあ汁だって?」
「ひいいいいいいいい」
タヌキはこれまたどこからか見つけてきたこん棒を持って、おばあさんの前に仁王立ちになると悪役顔で高笑いした。いや、もろ悪役だよ。ていうか、そんなことしたら殺人者じゃん。あ、タヌキだから殺人獣になるのか?ってこの場合、俺も共犯者じゃないか。というかばばあ汁って何だよ…すんごいネーミングだな。いや待てよ。どこかで聞いたことがあるフレーズだ。ばばあ汁…ばばあ汁…喋るタヌキ…何だっけ。思い出しそうで、思い出せない。ここまで出かかっているんだけど。
「こ、こんなことして、じいさんとウサギがおまえさんを懲らしめるだろうよ」
ん?ウサギだって?…ばばあ汁にウサギ…意地悪なタヌキときたら…うわあああああ!!
「かちかち山!!」
「何だ。おいらの山がどうかしたか」
タヌキが不思議そうな顔で俺を見てきた。やっぱり、そうか。そうなのか。この世界は俺が小さい頃に聞かされた日本昔話の世界なんだ。確か、意地悪なタヌキがばばあ汁をこさえてそれを飲んだじじいにキレられ、こらしめられるっていうヘビーな話だったはず。おいおい。さらっとカニバリズムぶっこんできてるし。昔話怖すぎだろ。
「何でもないならそう言えってんだ。よおし。今からおいらはおまえでばばあ汁を作るぞ。じじいをうんと驚かしてやろう」
「おい待て!!」
こん棒を振り上げたタヌキが俺の叫びでぴたりと手を止めた。おばあさんは可哀そうなくらい、ぶるぶると震えている。ここでタヌキにばばあ汁をこさえさせるとまずいんじゃないか?
「駄目だ、やめろ!おまえがそれをすると、非常にまずいことになる!」
「はあ?何言ってるんだ、シンゴ」
「BAD ENDなんだよ!!つまり、ここでおまえがおばあさんをその、ばばあ汁にしてしまうとおまえ自身が死んでしまうんだ」
「……どういうことだ?」
「ウサギ!ウサギがいるだろう、かちかち山に。そいつがじいさんとタッグを組んで、おまえを殺しにくるんだよ」
「まじかよ」
「ああ!」
タヌキは「それはまずいな」とかぶつぶつ言いながら、こん棒を持つ手をおろした。俺はタヌキの気が変わらないうちに急いでばあさんの縄を解いてやる。
「…ありがとや」
「いえいえ。当然のことをしたまでです」
「もうすぐじいさんが帰ってくるよ。おまえさんらは早くお逃げ」
「あ、はい。おい、タヌキ」
「あ、ああ」
タヌキは下に置いていたものを抱え直すと、えっさほいさと戸口に足をかけた。なるほど。手が使えないなら、足を使うのか。器用なこった。タヌキががたがたと扉を開けると、時すでに遅し。目の前に一人の鉈を持った老人が立っていた。
「お…お…!!!」
「じじい!!!」
俺とタヌキが顔を引きつらせると、じいさんは鬼の形相で片手に持っていた鉈を天高く振り上げた。
「こんの性悪タヌキがああああ!!今度という今度はばあさんにまで悪戯しようとしおってえええ!!!えええい許さんぞおおおお!!!!」
す、すごい。このド迫力。俺は完全に怖気づいたが、タヌキはさすがというべきか、こんな状態のじいさんを目の前にして、さっと表情を戻すと、からかい混じりに声を掛けた。
「やーい。今夜はばばあ汁にしようと思ったが、あのばばあじゃ食える身も残ってなかったわ。おいらは舌が肥えてんだ。だから、ばばあ汁はやめにしてやった。感謝しろよ」
そう暴言を吐くなり、タヌキは一目散にじいさんの脇をすり抜け駆けだした。出遅れた俺は慌ててタヌキの後を追った。後ろでじいさんが何やら叫んでいるが、この場から逃げることが先決だ。俺は山へ入って行くタヌキを追いかけて、全速力で走った。
「ぜえはあ。ぜえはあ。ま、待ってくれ…」
だいぶ林の奥まで来ると、タヌキが立ち止まった。俺は息も絶え絶えでタヌキに追いつくと、その場に尻もちをついた。
「これくらいで疲れるなんて、シンゴ、おめえもまだまだひよっこだなあ」
「…ぜえはあぜえはあ」
「しっかし、じじいもしつこいなあ。結局おいらが全部持ってきちまうっていうのに、バカなやつだなあ」
タヌキは先ほどの戦利品をその場で並べると、満足げに胸を張った。それをするから、じじいもしつこいんだろうが。と言いたかったが今の俺の口は呼吸するので精一杯だった。
かちかち。かちかち。タヌキは二つの石を手にして、それらを打ち付けた。何度か石を打ち付けていると、火花が散った。
「おいらは焼いて食べるのが好きなんだ」
タヌキは上機嫌で集めてきた小枝に手際よく、火をつけた。そこへ戦利品のイモをぽいぽい放り込んでいく。これでひとまず、ばばあ汁ルートは回避されたはずだ。ということは、タヌキがウサギに成敗されることも多分ないだろう。結果的にタヌキの命を救ってやったんだから、これで俺はクリアということになって、この世界から脱出できるはずだ。さあ、来い。幼女。今すぐにでも、俺をもとの世界に戻してくれ!!
*『おじいさん・おばあさん家』*
「あんの馬鹿ダヌキめ。今日という今日は絶対に許さん。ばばあ汁などどぬかしおって」
「…じいさん、落ち着いて」
「いいや、許さんぞ。あいつはばあさんを縄で縛ったんだ。危うく死んでしまうところだったんだぞ」
「それは本当ですか」
白いウサギがぴょこんと耳を立てて、おじいさんの話を聞いていた。
「ああ。本当だ。ばあさんをそんな目にあわすなんて、いくらなんでも酷すぎる。あいつをこのまま野放しにしちゃおれん」
「私がおじいさん達の仇を打ちましょう」
ウサギは立ち上がり、言った。
「おお、おお!わしらの代わりにあいつを懲らしめてくれ!!」
「任せて下さい。あのタヌキに地獄を見せてやりましょう」
「…気を付けるんだよ」
ウサギとおじいさんは復讐の鬼と化した。
*『ところ変わって、かちかち山』*
「…ふう。腹も膨れたし、食後の運動と行こうか」
「え?また出かけるのか?」
「おいらは忙しい男なんだ。一分一秒も無駄にできないのさ」
そう言うと、タヌキはよっこらせと立ち上がり、満腹になった腹をぽんと叩いた。タヌキが獲ってきたのはまんじゅうと数本のイモと根菜類だったがそれもほとんど、タヌキが見事に平らげてしまった。俺はタヌキの戦利品を分けて貰いながら、お迎えが来るのを今か今かと待っていた。だが、三十分経っても一時間経っても、幼女の声はいっこうに聞こえてこない。どういうことだ。まだ続きがあるっていうのか。
「おい、行くぞシンゴ」
タヌキに促されて渋々俺も立ち上がった。タヌキはさっさと山を下りていき、俺は迷子にならないようタヌキの後を追いかけた。
黙ってタヌキについて行くと、今度は村ではなく、海岸の方に出た。爽やかな海風が俺の頬を撫でる。一体、ここで何をしようというんだ。タヌキは波打ち際までとことこ歩いていくと、その場でしゃがみ、貝殻を拾い始めた。
「…何してるんだ?」
「だから言っただろう。運動だって」
「………」
どこから突っ込めばいいのか。全然、動いてないじゃないか。そんなツッコミは腹の中に留めて、俺は黙ってタヌキの側にしゃがみ込んだ。黙々と貝殻を拾い続けるタヌキの隣で、俺は砂を掘っていた。特に意味はない。ただの時間つぶしだ。すると、遠くから誰かの呼ぶ声が聞こえてきた。
「おーい、おーい」
「なんだ?」
タヌキが顔を上げた。俺も声のした方を見る。
「おーい、タヌキさーん」
とことこと小走りに近付いてくるシルエット。ぴょんと伸びた長い耳に、白い姿はまさしく白いウサギそのもの。やっぱり、物語は続いているのか。俺はがっくしと肩を落とした。
「こんにちは、タヌキさん」
「おめえはじじいんとこのウサギじゃねえか。おいらに何の用だ」
「まあまあ、そう言わないでよ。私、今から魚釣りに行くんだけど、タヌキさんもどーお?」
「魚釣りぃ?おめえとおいらがか?」
「うん。どちらがたくさん魚を釣れるか、勝負しよう」
「面白そうだな」
「でしょ、でしょ」
タヌキは最初こそ警戒したような様子を見せていたが、ウサギが魚釣りというキーワードを口にした瞬間、にまにまと顔を弛め始めた。おい、明らかにウサギの罠ってみえみえじゃないか。そう簡単に相手の策にのってどうする。
「今日はやめとけって。魚なんて獲っても、腹いっぱいでもう食べられないぞ」
「おいらは食べれる」
「よーし、決まりね!じゃあ船を見に行こう」
このデブタヌキが!!俺のことは見事にスルーして、ウサギは話を進めた。いろんな意味で。タヌキはもう完全に乗り気だ。この展開はまずいだろう。
「ちょっと待て。もう少し考えてからにしろって」
「おいら、このでっかい船にする!」
「じゃあ、決まりっ!私はこの小さい船にしようっと」
「ははは。おめえは馬鹿だなあ。おいらの船の方が大きいぞ。おめえのそんな小さな船じゃ、たくさんの魚を釣るなんて無理だな」
「あ、そっかあ。失敗しちゃった。でも、タヌキさんには負けないよ」
「おい、その船はやめとけって」
タヌキが乗ろうとしているのはタヌキ色…じゃなくて茶色のどこからどう見ても大きい泥船だ。反対に、ウサギの船は小さいながらもしっかりとした作りの木の船だった。
「心配するなって。シンゴはおいらが勝つところをここで見てな」
「さあ、海へ出よう」
俺の話なんかタヌキはちっとも聞く素振りも見せず、意気揚々とウサギと共に船へ乗り込むと海へと繰り出していった。ばばあ汁云々のくだりで俺、ウサギに殺されるってちゃんとあいつに教えたよな。一体、どういう記憶力をしているんだ。三歩歩いたらもう忘れやがって!
とりあえず、この先の展開は分かっていたから俺は黙って二人が海へ漕ぎだすのを見ていた。案の定、タヌキの乗った船はしばらくすると泥が溶け始めて、沈みだした。その様子をウサギが腹を抱えて笑いながら、見ている。どうだ。言わんこっちゃない。
「あははは。ざまあみろー!じいさまとばあさまの仇だ!!」
「うわあ、シンゴー!助けてくれシンゴ―!」
「……」
タヌキの乗った船がぶくぶくと泡をたてながら沈んでいく。あれ。これどうやったら、クリアになるんだ。あいつが死んだらクリアか?いや、まさかな。ここで見捨てたら、確実にBAD END行きになる気がする。
「…世話が焼けるなあ。なんで俺、こんな世界に来ちゃったんだろう」
「助けてシンゴー!溺れるよシンゴー!」
「あはははは、いい気味だ!そのまま死んじまえ!」
俺は近くにあったもう一隻の木の小舟に駆け寄ると、それを押して海へと出た。ついに完全に船が沈み、あっぷあっぷしているタヌキとそれを笑顔で見下ろすウサギの構図を目にしながら、俺はこれが昔話ってやつかとドン引きした。これでタヌキまでもが沈んでいけば、かちかち山の昔話はめでたし、めでたしになる。だがそれでは結局昔話の通りで、クリアも何もない。俺は船についていたオールで船を漕ぎながら、溺れるタヌキのすぐ側まで近付いて行ってやった。
「おい。言っただろ、ウサギに気を付けろって」
「うう、シンゴー」
「助けてやってもいいが、金輪際、もう人間に悪さはするなよ」
「うんうん、分かったから早く助けてくれえ!!お、溺れちまうう!」
「こいつはこう言ってるが、助けてもいいか?」
「えー?助けるのお?助けたらまた悪さするよ、こいつ」
「しない!!もう絶対にしない!!良いタヌキになるから!お願いだから殺さないでくれ!!盗みもいじわるももうしないよお!」
「…って言っているけど」
「うーん。どうしようかなあ」
「み、水が!早く、助けがぼがぼがぼがぼ」
「そっち側の気持ちも分かるけどさ、こいつの命までは助けてやってくれないかな」
「え~。でもなあ」
「お、おぼれぶくぶくぶくぶく」
「ま、いっか。このくらいで許してやってもいいかな」
「よし。じゃあ、助けるぞ」
「………」
ウサギの許可も得たので、沈んだタヌキを両手で引き上げてやる。船の上にのせると、タヌキはぐしょぐしょに濡れた顔で「ご、ご△○め×□さい」とろれつの回らない口調でウサギと俺に謝った。こんなに早く改心するとは驚きだが、昔話は展開が早いし、こういうもんかと納得する。
その後、陸にタヌキをおろして、ウサギと一緒にじいさんとばあさんの家へ行った。タヌキは今までの悪さを謝り、これからは畑の手伝いなんかもウサギと一緒にすると宣言し、じいさんとばあさんの許しを得た。
『クリア~~めでたしめでたし!』
どこからともなく、天の幼女の声が俺に降り注いだ。よし。これで帰れる。俺はガッツポーズをすると、タヌキを呼んで別れの言葉を言った。
「俺、もう行くよ」
「どこへ行くんだ、シンゴ」
「俺の世界に帰るんだ」
「そうか…よくわかんないが、おめえには助けられたな。礼を言うよ」
「ま、いいってことさ。もう悪さはするなよ」
「……ああ」
「なんだ、その間は」
「へへへ」
そう言って俺たちはまるで親友のように熱い抱擁を交わした。たった数時間のことだったが、目の前のタヌキと別れるのが名残惜しく思えた。
「また会おうぜ、シンゴ」
俺の意識はその瞬間弾けた。気が付けば俺は、朝、目を閉じた時と同じようにベッドに横になっていた。枕元の目覚まし時計を見ると、時刻は八時十分。あれから、十分しか経っていない。体感時間では数時間以上のことに思えるのに。まあ終わったことをあれこれ考えても仕方がない。人生には回り道というものが必要なんだ。これがその回り道だったと思えばいい。
そして俺は今度こそ、楽園へと旅立つべく、目を閉じた。心の中で『さらば現実』と唱える。するとあら不思議。意識がすうっと吸い込まれる独特の感覚が俺を包んだ。これこれ。俺は期待に胸をときめかせながら、異世界の扉が開くのを待った。だが、しばらく待ってみても、目の前に可愛い幼女や綺麗な幼馴染が現れることはない。どうしたんだ、俺。すると、頭の中で、いや耳元で“かちかち、かちかち”という音が鳴った。何かをこすり合わせるような音だった。何だ、この音。どこかで聞いたことがあるぞ。“かちかち、かちかち”。ああ、まさか。そうだ。あのタヌキが火をつける時に鳴らしていた火打ち石の音にそっくりだ。
『ぴんぽんぱんぽーん!タヌキさんから伝言でーす!狐は人間じゃないから、おいらは悪さができるんだ!シンゴは馬鹿だなあ!だそうでーす!』
幼女の声でお知らせが入る。だが今の俺にはそれも素直に喜べない。“かちかち、かちかち”、と音は一定の感覚で鳴り続ける。
(あ、あいつ…!)
俺はとうとう、我慢できなくなって目を開けた。そこは異世界でも何でもない、俺の部屋でただの現実が見える。火打ち石を打つ音はもう聞こえない。試しに目を閉じてみると、またどこからか、“かちかち”とあの音が聞こえてくる。おいおい。勘弁してくれ。素晴らしき俺の異世界ライフを返してくれ。
(…やっぱり、あいつを沈めとくべきだったか)
俺はぎりり、と歯ぎしりをして憎たらしい性悪ダヌキの顔を思い浮かべた。今度会ったら、ただじゃおかない。俺はそう固く決意して、もう一度深呼吸をして呼吸を落ち着けると、目を閉じた。火打ち石の音をなるべく意識しないよう、すうはあすうはあと鼻から吸って口から吐くを繰り返す。身体から力が抜けていくのを感じながら、俺は『いざ異世界へ』と唱えた。今度こそ、意識が遠くなっていくのと同時に火打ち石の音もまた遠ざかっていく。よしよし。成功したか。俺は安らかな寝息を立てて、夢の世界へと旅立っていた。幼女の声で『ボーナスターイム!』という非常に嬉しくないアナウンスが響くのは、あと数秒後のこと。
おしまい。