1-6
「開いてるよ」
返事は間を置かずに返ってきた。扉を開いて中へと入る。
「早かったね」
「部屋にいずらくてな。誰かのせいで」
「あの子のせいだろ」
悪びれなくそう言って、雪は足を組み替えた。露わになった太腿の肉感は、成熟した女にのみ許される、しっとりとした柔らかさと婀娜っぽさが同居している。
招かれるままに、梗は雪の隣に腰かけた。
「でも、明日んなったら悪かったって伝えといてよ」
「? 本気か?」
「や、嫌いだけどね。けど、さっきのはただの僻みだからねェ。分かってんだけどね。非常事態ん時に、優先順位がつけられちまうってのは。あたしん所は田舎だったし、金もなかったからねェ」
ふーっ、と大きく煙を吐きながら、雪は梗へとグラスを押しやる。
「もうあたし等外の人間はお国になんざ期待しちゃないけど、助かってる人間が大勢いるのは確かだからね。あたしが、その内側に入れなかったってだけで」
「……」
「あーあ。何でこんなんなっちまったかねェ」
「さあな」
「古い写真なんかにゃ、あの塔が映ってない風景が沢山あるけど……綺麗だよねえ」
つぃ、と視線を上げた雪につられて、梗も顔を上げた。目線の先には、一枚の風景写真が額縁に入れて飾られている。今はもう絶対に撮ることの叶わない、かつて富士山と呼ばれていた山の完全な姿が映っている。
今は、日本で最大の災厄の塔が建ち、山のてっぺんから不格好な塔の先端が突き出た、無様な姿になり果てている。
「戻らないのかねェ。戻らないんだろうね」
「戻る気は、しないな」
梗にとっては、生まれた時から災厄の塔は普通に存在するもので、魔物も同じだ。『戻る』という単語にこそ、違和感を感じる。
魔物がいなかった時代の方が、夢物語だ。
雪もおそらく、梗と同じだろう。それでも魔物がいなかった頃を正常としたいがために、あえて『戻る』という単語を使っているのだ。
「面倒臭い話は終わりにしようか」
話を振った雪の方から、そう話題を切り替えて、手付かずだった梗のグラスに自分と同じワインを注ぐ。白だ。
「甘い方が好きってのは、子供だからかねェ?」
からかうような言い方に、少しだけむっとして。
「味より、色が嫌いなだけだ」
「気にしすぎだよ」
「分かってる」
しなだれかかって来た雪が、顔を持ち上げ、瞳で誘う。応じて顔を落としかけ――ふと、アデリナの寝顔が脳裏に過ぎり、ためらった。
数秒ためらった後、梗はそっと雪の体を押しやった。
「梗?」
「悪い。今日は止めとく」
「何でさ?」
「明日、アデリナに微妙な目で見られる気がする」
「気付きゃしないよ。それに、ただの行きずりだろ。何気にしてんのさ」
その通りだ。極東支部に届け終われば、もう関わることもない相手。
「そうなんだけどな。どうも俺は、あいつの兄に似てるらしいから」
――そしてアデリナが、少し明音に似ているから。
「……はん」
興が冷めたように、雪は梗から身を離し、鼻で笑った。
「卑怯な男。あたしが家族の話持ち出されるの嫌いだと知ってて、言うんだから」
「卑怯と言われても。別に口実にした訳じゃないんだが」
「知ってる。気が乗らなきゃ、あんたはきっぱりそう言うもんね。だから卑怯なんだよ。女に不満を飲み込ませる男なんだから」
「そういう雪だから、一緒に飲める」
「……嫌だね、本当。弱くってさ。本当は『だから?』って笑い飛ばしてやりたいのに。あたしは、もっと強く在りたいんだ、本当は」
「強く、か」
(強く在るってのは、どういうことなんだろうな)
ぼんやりと、そんなことを考える。考えてから、すぐ様後悔した。
【そりゃ、テメーに嘘つかずに生きるってことじゃあないかィ、旦那】
「あらら。うるさいのが出てきちまった」
黒い光の球体が弾けて現れたプロスの姿に、いよいよ気分が白けたのか、雪は肩を竦めてグラスに残ったワインを勢いよく煽った。
「雪、二階の仮眠室借りるぞ」
「好きにしな」
【強さの定義ってのは、難しいねェ。物理的な話なら、梗の旦那は間違いなく強いと言っていいだろう? しかし俺が思うに、そいつァ最低条件だ。下手すりゃ必要ねえ時だってある。本当に強ェってのは、必要な時、必要な力を持って、振るえることだと思うんだが、どうだろうね? 暴力然り、権力然りだ】
席を立った梗の周囲を漂いながら、ペラペラと――もとい、カタカタと滑らかにプロスは言葉を紡ぐ。
【だが何をもって強さとするのかは、やっぱ人それぞれってなっちまうだろうねェ。旦那、あんたはどうだい。強いってのは、どういうことだと思ってる?】
「勝てるってことだろ」
暴力にも、権力にも――折れそうな、自分の弱い心にも。
【明快だね】
梗の返答に満足したのか、プロスはすっと掻き消えた。
(何にでも、勝てりゃ強いさ)
もっとも、そんな強さは人間には持ちようのないものだったが。
(――……。俺は、どうだろうな。強く在りたいのか?)
強ければ勝てる。負けなければ、奪われない。大切なものを守ることができる。それは道理だ。
だが――
(いまさら、何のために?)
かつては、理由があった。今よりももっと、優れた力を求める理由が。
しかし、今の梗にはその情熱を支えるだけの理由がない。自身の目に映る相手を守るだけの力なら、もう十分持っている。今のままで、十分だ。
――そりゃ、テメーに嘘つかずに生きるってことじゃあないかィ。
ついさっき聞いた、プロスの言葉が再生される。
「……本当、うるせえ」
嘘をついている自覚も、弱く、諦めている自覚も、梗にはあった。
ただ動き出すだけの気力を持てないだけで。
「――どこに、行ってたんですか」
翌朝、三〇二号室に戻った梗を迎えたのは、アデリナの、少し怒ったような声だった。
「二階の仮眠室だ。そう言っただろ」
「一緒に休みましょう、って言ったじゃないですかっ」
「やめとけ、とも言ったな」
「――~っ!」
握った拳を、太腿の脇でふるふると震わせる。
アデリナが何をそんなに怒っているのか、梗には理解できなかった。
「ゆっくり休めて良かっただろ」
「私一人だけゆっくり休んでどうするんですかっ。それだったら、始めから私が仮眠室ででも廊下にでも床にでも寝てましたっ」
「……」
「恩人を追い出すとか……っ。最低です。あり得ません」
「いや、なんか、悪かった」
梗としては、何もアデリナの良心に呵責を与えたかった訳ではないのだが、思った以上にアデリナは律義な少女だった。
気持ちが昂っているせいか、瞳に薄っすら涙まで浮かべているアデリナの頭に手を置き、軽く撫でる。
「っ!? !?」
「あ」
びっくりして目を見開き、頭を押さえて飛びずさったアデリナに、梗も反応の激しさに驚き、次いで、罪悪感を抱いた。
「悪い。つい」
「つ、つい!? つい!? ついって何ですか!」
「妹が拗ねてた時とか、なだめるのによく――」
言いかけて、後半、梗は言葉を濁した。『なだめる』などと言ったら、いい気はしないかもしれない、と思って。
しかし、アデリナは顔を赤くしたまま、取って付けたような笑みを浮かべて。
「そ、そうですか。妹、妹さん。わ、私も兄に、たまにやられてました。あ、あは。あははっ」
「そうか」
「び、びっくりです。それだけです」
まだ鼓動の早い心臓を、なだめるように胸に手を当て、アデリナは大きく深呼吸をした。
「用意ができてるなら、飯食いに行くぞ」
「あ、は、はい!」
うなずき、梗に続いて部屋を出ようとしたところで、低めのサイレンの音が建物の外から響き渡る。
嬉しくないことに、そのサイレンは、誰もが覚えがあるものだった。
『世界再生機構・極東支部より緊急警報です。関東上空に、リストナンバー〇二一八の魔神種が確認されました。付近の住民の皆さんは、防壁外への外出をお控え下さない。繰り返します――』
「魔神種か……」
これから移動しようとしている時に、厄介なのが来た、と梗が顔をしかめ、アデリナの様子を窺うと。
「〇二一八……ッ!!」
低く呟かれたアデリナの声は、震えていた。
強張った表情と同じく、溢れるほどの怒りで。