第一章 幻想狩人
「嘘!? あり得ません! 確かにここに停めたのに!」
焦ったように声を上げ、アデリナはあたりをきょろきょろと見回す。いくら探したところで、見通しのいい道路の中央で、車などという大きな物が見つからない以上、近くにないのは明らかだ。
(まあ確かに、停めたんだろうな。ここに)
アデリナがうなだれたその足下のアスファルトには、四輪のタイヤ痕が残っていた。よほど慌てていたらしい。急ブレーキの跡もくっきり残っている。
ただし、そこにあるべき車本体はない。
「最低です……。人の物を盗るなんて、あり得ません」
「今の時代に、そんなこと言うか?」
世界各国で貧富の差があり、治安の悪い地域は、いつの時代でもあった。
しかし、世界が本当の意味で変質したのは、僅か四十年ほど前の話だ。
まず、唐突にアフリカ大陸東部に巨大な塔が現れた。忽然と。前ぶれなく。
一番目の塔が現れると同時に、世界各国に、それよりは小振りの、しかし明らかに同類と思われる塔が乱立した。
塔が一体何であるのか、調査団が組織され、派遣する前に、答えが与えられた。
――塔から魔物が沸き出したのだ。
それはまさに、『魔物』としか呼べないものだった。古くからある伝承、伝説、物語、そういったものに酷似した姿を持つ、魔物たちだった。
魔物の大半には言葉も通じず、非常に好戦的だった。当然のように、戦争が始まった。いや、戦争とは呼べなかったかもしれない。魔物による、一方的な虐殺だ。
塔の質量をはるかに超えて、魔物は今も吐き出され続けている。
人類は自分たちを滅ぼす物を吐き出し続けるその塔を、『災厄の塔』と名付けた。
人類滅亡の危機にあって、各国は国の垣根を越え、全ての情報・人材を共有し、魔物討伐のための組織を立ち上げた。
それが世界再生機構。『幻想狩人』と名付けられた、魔物を殺す軍人を集めた場所だ。
人類は紆余曲折を経て、魔物への対抗手段を手に入れた。しかしまだ若い技術は問題も山積みで、幻想狩人の数も魔物に対して圧倒的に足りていない。
重点的に守られるのは未だ都市部のみで、世界再生機構の手の届かない地方では、魔物に襲われ町が壊れ、人が死に、焼け出されている。
世界中、いたる所で治安は悪化した。都市部ではなんとか警察機構が復活したが、それ以外の場所はほぼ無法地帯と化している。有志ボランティアで自警団がいる町は、かなりの優良と言える。
そんな状況であるのだから――
「車なんて宝の山、持ち主がいなけりゃ盗られるに決まってるだろ」
おそらく今頃は、梗のバイクも同様の被害に遭っているだろう。梗の方は分かっていて置いてきているので、取りに戻ろうなどと無駄なことは考えていないが。
今、梗とアデリナがいるのは、日本の首都・東京の北にある埼玉県だ。崩れ落ちた赤いタイル舗装の歩道を見上げながら、梗は溜め息をつく。
あの後、町を抜けて車を止めてある場所に戻る――と言い出したアデリナに、梗はこの反応を予想していた。
(俺も、外に出たばっかの頃はそうだったな)
戦うだけで、それ以外の知識には乏しくて、政府機関に安全に保護してもらえていた頃は、知らなかったことだ。
梗の視線の先には、駅名が斜めにかかった看板がある。その下の、かつて駅の入口だった場所は、崩れて入ることさえ一苦労という有様だ。もっとも、今更入ったところで目ぼしい物は何も残っていない。何年も前に強奪され尽くしたはずだ。
もちろん、電車などという平和の象徴のような、便利な移動機関は動いていない。制度がなくなってすでに久しい。
「最悪です。さっきの町に、車って売ってるでしょうか」
「こんな田舎に売ってると思ってるのか? 万一売ってたら、それはお前が盗まれたやつだな」
さすがに塗装は変えてくるだろうが。
「それなら、取り戻せばいいんですけど……。だって、窃盗は犯罪ですよ」
「それでもいいが、世界再生機構の備品売買は重罪だ。証明されれば、関わった奴は全員世界再生機構預かりの『厳罰』だな」
それは、極刑を宣告されるよりも、犯罪者に恐怖を与える単語だった。
世界再生機構に害を与えた場合、犯罪者は人体実験の素材にされる。それが『厳罰』だ。
幻想狩人をより安全に、強力に運用するために、臨床実験はどこの支部でも積極的に行いたがっている。
命を脅かされる危機を前に、大分揺らいではいるものの、人道的な倫理観はまだ活きている。無条件の人体実験は世論が難しい。しかし、犯罪者は別だ。
備品を盗んだとなれば、間違いなくこちらの厳罰行きになる。
「……」
アデリナは沈黙した。表情は重い。納得はできなさそうだが、そこまでの罰を望んでいる訳ではないようだった。
例え犯罪者であっても、倫理的にうなずけない、という者も多い。しかし人道を優先することを、今世界は許していない。
世界再生機構の規律に対する厳しさは、所属しているアデリナも良く分かっているだろう。
(実際には、内側以上に、だがな)
梗はそれを知っているが、いちいちアデリナに突き付けてやるつもりもなかった。世界再生機構の対応も、理解できなくはなかったので。
「……なら、売ってはくれるでしょうか」
「買い戻す気か? 現金は?」
「現金は、ないです」
「じゃあ無理だ」
「……最悪です」
アデリナは再び、がっくりとうなだれた。
それから勢いよく顔を上げて、縋るように梗を見た。
「そういえば、貴方はどうやってここに来たんですか?」
「残念だが、俺の足も今頃お前の車と同じ運命だ」
「うぅ……っ。最低です」
「そうか?」
何度目かの落胆の息をついたアデリナに、梗は冷笑を浮かべつつ、疑問形でそう言った。
「え?」
一瞬、何を言われたのか理解できずに、アデリナは呆けた表情で目を瞬く。
「困ってるなら、くれてやればいい。俺たちには金を稼ぐ手段があるんだから。仕事に就けない奴にとっちゃ、拾い物を売りさばくのは大事な収入源だ。今の求人倍率知ってるか? ――何でもいい。金になるなら何でもしなきゃ、食うもんも食えずに死んじまう奴が大勢溢れてる。……こんな時代でも、持ってる奴は持ってるのにな……」
「……」
アデリナは、自分のまだ新しいスカートの裾を掴んで、少しばつの悪そうな顔をした。幻想狩人に与えられる、強繊維の特殊隊服だ。
洋服だって、原料の生成・採掘・栽培から命がけ、工場の多くが失われ、生産ラインが荒れ、価格は高騰。
満足に手に入れられなくなっていることを――知識としてだけなら、知っていた。ただし、アデリナの知識は大分控えめに抑えられたものだったが。
「で、でも。足がないと困るじゃないですか。私たちのスムーズな移動は、皆さんの役にも立っているはずです」
「ああ、そりゃそうだな」
今度は、梗も否定しなかった。それにほっとした顔をして、アデリナは未練を吹っ切り、立ち上がる。
「分かりました。誰か、善良な人の糧になったんだと信じます。器物破損の罪と減俸は、甘んじて受けましょう」
「普通に、襲われて破損したことにすりゃいいんじゃないか? 移動中に襲われるなんてよくあることだし」
「うっ……」
一瞬、アデリナは心が揺れる様子を見せた。しかし、強固な意志で首を横に振る。
「駄目ですっ。幻想狩人は、いかなる時分においても、与えられた任務を全うする責務があります。私の現在の任務は極東支部に帰投することで、任務ではない魔物討伐の優先度は、任務よりも低いです。任務外の魔物討伐で本来の任務に支障をきたしたのですから、そちらの罰も受けないといけません」
「……そうだったな」
アデリナの述べる規律に、梗は自然に、冷笑を浮かべた。
(そうだ。そういう所だ、世界再生機構ってのは)
人命よりも、まず、規律。
一人よりも、組織。
何のために戦っているのか、見失いそうになるぐらい、徹底的な規律。
「空郷さん……?」
「いや、何でもない。それで、これからどうするんだ。――端末はどうした? 支給されてるだろ。それで連絡付けて、迎えにきてもらえばいいだろう」
「車に、置きっぱなしです」
「……そうか」
どうやら本当に、アデリナは着の身着のまま、無一文で飛び出したらしい。
(それだけ、懸命に助けようとしたってことだけどな)
任務外で、それによって支障をきたせば罰則を受けるのを承知で、人を助けるために飛び出した。
「途中まで、一緒に行くか?」
「え?」
「俺がキメラ討伐の仕事を受けたギルドは、ここからだと極東支部までの通り道にある。そこまで一緒に来るか?」
「そ――、それは……」
アデリナは答えをためらい、意味もなく靴の爪先で地面を掻いた。
服の上等さと反して、靴は使い古された代物で、素材も作りも雑だった。それは町の人間が厚意でアデリナにくれた靴だからだ。融合のさい、靴を脱ぎ忘れて自分の爪で駄目にしてしまったようだった。
彼女の葛藤が、梗には手に取るように分かる。