プロローグ
――耳鳴りがする。
亀裂が入り、凹凸の激しいアスファルトの道を、原付自転車で走りつつ、青年はイライラと舌打ちをした。
軽犯罪など取り締まる余裕のなくなった法治国家のなれの果ては、バイクのノーヘル走行になど関心を向けない。そもそも、通報されようにも外壁の外をふらふら歩いている人間など、そうそういるはずもない。
青年の年は二十歳に乗るかどうか、ぎりぎりの所。短く刈った黒髪が、それでも風になぶられ暴れるのに任せたまま。
昼中の強い日差しを防ぐための、サングラスの奥の瞳も黒。身長こそ百七十の半ばとやや高めだが、その顔立ちは典型的な日本人と言えた。
作りそのものも、決して悪くはない。美青年と形容するには甘さが足りないが、精悍で理知的な印象を与える容貌をしていた。
【どうした、梗の旦那。またご機嫌斜めだねえ。あれか、そろそろケツが痛くなってきたかィ。そりゃ仕方ねえ。どこもテメーの身を守るので精一杯。地方はどんどん荒れてく一方さァね。あーあー、嫌な時代になったもんだ。って、おっといけねえ。俺は以前の時代とやらを知らなかったな】
「……」
カラカラカラ、と骨の音を立てて笑う道連れを、梗は無言でにらみつけた。
――うるさい。心の底から、うるさくて耳障りだ。
梗の視線の先にいたのは、全長二十センチほどの、人形じみた丸みを帯びたフォルムのガイコツだ。とはいえ、実際にこんな人形を作る制作会社があれば、どこをターゲットにしたのかぜひ問い質したいし、センスを疑わざるを得ないだろう。
すり切れた暗緑色のフード付き外套を頭からすっぽり被り、その下の骨だけになった体を被うのは、黒地に金糸と銀糸で刺繍のされたローブ。こちらは外套と比べると、大分まともな上物だ。
そして手には、ガイコツ自身の全長よりも少し長い大鎌を携えている。
そんなモノが周囲をふよふよ漂い、先程からずっと中身も何もない騒音をまき散らしている。
【え? 知らないくせに時代を語るなって? いやいや、とんでもねェ。知らねえからこそ、知るってのがおもしれえもんなんだよ、旦那。頭のある生き物は何でもそうさ。俺の頭にあるのは魔力による蓄積機能だがね。
何せ、じーさんばーさんの口癖ときたら、二言目には『昔は良かった』ばっかだろう? そりゃあ興味も湧くってもんさ。俺はわりと初期に生まれてるから、大体のところは分かるつもりだがね、生活や感情となるとそうはいかねえ。ぜひこの目で見たかったもんだねえ。同胞たちの一番の失敗は、観察をおろそかにしたことだァね。先々じゃあ取り戻せない状況を、何でもっと大切に観察しなかったのか……】
「うるさい」
【おっと! ギルドを出てから初めて返ってきた相槌が、『うるさい』とは悲しいねえ! さてはアレだな、梗の旦那も『昔は~だった』とか言うクチかい? そいつァいけねえ。人生は常に流れてんだ。いや、たまにゃあ振り返るのもいい。そこで発見できることもきっとある。時間をおいてからでしか見つからねえもんもあるだろう。だが大切なのは、立ち止まらねェことだ。テメェが今いるのが現在だってことを忘れちゃ――】
「お前の! 声自体がッ! うるせえっつってんだよ! ついでにカタカタいちいちうっせえ!」
【そいつァ仕方ねえ。何せ骨しかねえから、ダイレクトだ】
「口で喋ってる訳でもないのに、何言ってんだ」
相方がどうやって音を発しているのか、梗は詳しいメカニズムを知らない。だが喋るのに口を動かす必要は、絶対にないはずだ。そもそも、ガイコツには舌がない。
しかしそんなことはどうでもいい。梗にとって重要なのは、なぜかこのガイコツは喋る時に人間の真似事をして口を動かし、喋りはもちろん、骨の音までうるさい、ということだった。
梗の苛立ちを受けて、カタカタカタ、とガイコツは愉快そうに笑う。
「なあ、お前の下らない考察を、今俺のために役立てる気はないか?」
【下らない? 梗の旦那、下らねェことなんざありゃしねえ。思索ってのは、人生を豊かにしてくれる。人生ってのは――】
「何でお前みたいなうっとうしいのが、俺と相性いいのかってことだッ」
【そりゃ、俺と旦那が似てるからだろうさ】
「似てねえ!」
似ているのなら、この騒音も少しは楽しめているはずだ。断じて楽しみたいとは思わないが。
【ははっ。見た目はそりゃ似てねェな。ん? いや、もしかしたら似てる可能性はあるかもしれねえか。確かめてみるかィ、梗の旦那。何でも、ひと昔前は犯罪捜査で役立った、骨から復顔する技術があったらしいじゃないか。それでちょちょいっ、と。あ、それとも旦那が骨んなってみるかィ? 手間的には、そっちのが大分かからないねェ】
「そんな下らないことのために死ぬ気はない」
顔をしかめて、梗はガイコツの提案を一蹴した。
(そんなこと、どころか――)
どんな有益な理由であっても、誰かのために、自分の命を使う気はない。
死ぬ気はない。何より、死にたくない。
だから梗は、ここにいる。
【……おっと】
「何だ?」
【嫌な風が吹いてきたねえ。血臭だよ、旦那】
「……」
ガイコツの告げた言葉に、梗はちらり、とバイクに残るガソリンの残量を確認した。まだ大分ある。
しかし、ブレーキをかけ、足を止めた。
【おや】
その梗へと、ガイコツは楽しげな声を上げる。
「プロス。行くぞ。力を貸せ」
【いいのかい? バイクも買ったばかりだろう】
「仕事すりゃ、すぐ金は戻ってくる」
外しておいた所で、どうせ大した防犯の役には立たないキーをそのままにして、梗はバイクから降りた。
次いで、袖口から一枚のカードを引き抜き、宙に放る。カードは途中で光に包まれ、球体になった。そしてぽんっ、と音を立てて球体が弾けると、そこには青と白の毛並みを持った、翼の生えたウサギが現れた。
絵柄が何もなくなったカードだけを回収して、ウサギを見下ろす。
「アカネ。頼む」
――まだ、口にすると複雑な気持ちになるウサギの名前を呼ぶと、アカネは軽やかに地面を蹴り、梗の腕の中へと収まった。
先程とったばかりのウサギの形を崩し、光の鎖となって、プロスへと伸びる。
プロスはその場で洒落た仕草でくるりとターンをして、その全長をぐんと伸ばした。
基本的な格好はそのまま。身長だけが百八十程に伸びた。鎌を肩にかけて腕で支え、プロスは己に伸びてくる金の鎖を黙って受け入れる。
鎖によって全身を緩く戒められながら、プロスは梗へと一歩近付き、手を伸ばす。同じように腕を伸ばした梗の手の平に、ひたり、と骨の冷たい感触が伝わる。
【我が魂は、視ずの海より湧き出し、識り、還るモノ。我は識ろう。故に在ろう。円を描く、太一の魂よ!】
「我が身に宿れ、《デスサイズ》プロストコルネルロ!」
軽く指先が触れているだけだったプロスの手が、瞬間、溶け入るように梗の手の中へと押し込まれた。
その現象は、指先だけに留まらない。指先から手首、肘、そしてほとんどゼロ距離になった空洞の眼窩の奥で、梗は確かに、プロスが笑うのを見た。
自身の内側にプロスが入り込むと同時に、梗の肉体にも変化が起きる。全身を保護するかのように、服の上からプロスの骨が浮かび上がる。
背骨はそのまま、元の骨格を被うように。前面に伸びてきた骨は、まずは首周りに。続いて胸板の始まりと終わりに。本来その位置には存在しない腹部にも、腰の両脇から補強するように骨の鎧が生まれた。
肩や腕、脚にも、互い違いに絡まり合う、骨による装飾が浮かび上がる。最後に現れたのは、プロスが身に着けていたローブ。動きの邪魔にならないよう、梗が身に着けた今は腹の少し上で左右に分かれた、足首までのロングコートになっている。金糸と銀糸の刺繍はそのままだ。
風をはらんで布が打ち鳴らす、ばさりという重たい音に、梗は一度閉じた目を開く。そして、自身の体に委ねられた大鎌を手に取った。
身体の変化を馴染ませるように鎌を一薙ぎして、梗は一気に、駆け出した。
身体は軽い。滑るように疾駆する。さっきまで足として使っていたバイクよりも、はるかに速いスピードで。
羽根のように――というより、骨のように、か。
(……下らね)
うっかりどうでもいいことを考えて、梗は自分で、たった今思い浮かんでしまった下らない例えを頭の隅に追いやった。
ややあって、優れた聴覚が人の悲鳴を拾い上げる。
(まだ居る)
それは、梗にとって不幸中の幸いと言える情報だった。
(ん……)
近付いてきた戦場から聞こえてくる音に、梗は違和感を覚えた。悲鳴が減って、金属同士の擦れ会う時の音がした。それと、肉の焼ける臭い。焼け始めの時の、不快な臭いがする。
外敵から町を守るために建てられた外壁を一跳びで飛び越え、内側へと入る。外敵と全く同じものと融合しているため、排除するかどうかを機械に探られるが、ほんの一瞬だ。
(何がどうなってどっちが焼けてる臭いだか、さっぱりだな。プロスは五感はあまり良くはないし。魔力生物なら別だが、生身は目視しないと情報がないから、面倒だ)
【そりゃ仕方ねえ。何せこっちはガイコツだ。どこもかしこも骨ばかり。神経なんざありゃしない】
(別に、文句を付けた訳じゃない。より警戒するべきだな、ってだけで)
そう梗が心の中で弁解すると、聞こえてくる訳のない、カタカタ、と骨を鳴らす笑い声が聞こえた気がした。
魔物の中では五感の鈍い方に入るデスサイズだが、それでも、人間よりはずっと優れている。鈍い五感の代わりのように、魔力探知に関しては魔物の中でも群を抜いている。梗はすぐに音と臭いの正体を、自分の目で見つけた。
「……幻想狩人が」
音の出所の一方は、獅子の頭と虎の胴、蛇の尾を持った、複数の動物を掛け合わせて一つにした魔物――キメラ。身の丈はゆうに二メートルはあるだろう。焦げた臭いの出所もこちらで、その身体に多くの火傷を負っていた。
もう一方は、少女だった。まだ女性と呼べる年齢ではない。背の半ばまで届く、艶めくブロンドを陽光で輝かせ、青の瞳で魔物を射る。西洋人だ。
その身体は、今は頭部から獣の耳を生やし、手足が獣毛に覆われ、獣の爪を持っている。
「業火!」
少女は、どうやら手足の爪でキメラを牽制しつつ、火の魔術で打撃を与えているようだった。しかし、相手も獣型。属性の相性は悪くなさそうだが、動きが素早く、なかなか致命傷には至らない。
だが遠目から見ても、キメラには余裕がなさそうだった。このままなら、十数分後には息切れを起こして少女が勝利を収めるだろう。
とはいえ、梗にそれまで黙って見て、待っている理由はない。
滑るように音もなく近付くと、少女の魔術を跳躍して避け、地に着陸したキメラの首を、持っていた鎌で切り落とした。
横倒しになって痙攣するキメラの体が、黒い光で輝く。このまま放っておけば、弾けて消えてしまう。
「っと」
袖口から引き抜いた紙製のカードを、キメラへと投げる。さきほどアカネが出てきたカードと、全く同じ物だった。
厚めに作られたカードは、吸い込まれる様にさくりとキメラに突き刺ささり、弾け飛んだ光が、全てカードへと吸収される。
後に残ったものは、ぽたりと地面に落ちたカードのみ。
近寄り、梗がカードを拾い上げると、無地だったはずのカードにはキメラの絵柄が浮かび上がっていた。
「捕獲完了、っと」
キメラの姿が消えると、寸前まで戦っていた少女と向かい合う形になって、目が合った。突然の助太刀に少女は驚いていたようだったが、驚きが去ると、すぐに好意全開で破顔した。
人懐っこい、可愛らしい笑顔だった。
「ありがとうございます。助かりました」
少女は、ごく当たり前に滑らかな日本語を使って話す。
「いや」
「私、中央第二支部から転属してきました、アデリナ・ガレマといいます。極東支部の方ですよね? どうぞ、アデリナと呼び捨てて下さい。これからよろしくお願いします」
にこにこ、と満面の笑顔のまま、アデリナは自己紹介をする。自分を指してのしぐさなのか、胸元に添えられた手につい、目が行った。
――大きい。
続いてぺこり、とお辞儀をした。それからしゃんと背筋を伸ばす。その一連の動作で、無防備に大きく弾んだ。やはり、大きい。
「あの、お名前を聞いてもよろしいですか?」
「空郷梗だ。所属はない。闇ギルドを転々としてる」
「……はい?」
アデリナの表情が、にこにこ笑顔のまま凍りついた。
「今、何て?」
「だから、世界再生機構に所属してない犯罪者だっつった。じゃ、そういうことで」
「ちょっと待って下さい」
くる、ときびすを返し、立ち去ろうとした梗の後ろ襟首を掴み、アデリナは低い声で引き止める。息が苦しい。
「え? 所属してない? 所属してないって言ったんですか? 今。幻想狩人が! しかも、キメラの首を一撃で落とせるような実力者が! 世界のために戦える力を持った人が! その役目を放棄してるって言いました!?」
「そう言った。だったら何だ」
「あり得ません! そんなの、許されません!」
【あら! 調教!? 調教ね! 聞き分けのない子にはムチを与えてあげましょうねえ。それともロウソクが好き? 石を抱きたい? それとも歯に酸? 爪に針でぶっすり? あぁっ。若くて逞しい男の体に打たれる荒縄! ス・テ・キ】
ぽんっ、と音を立ててアデリナから分離した、上半身が美しい人間の女性、下半身が蛇の尾を持つ虎の姿をした魔物――スキュラが恍惚とした様子でそう言った。
名前の元となった神話とは大分違う様相だが、あえて近いもので表現するならば、という理由でこの名がつけられた。
「違うから!」
変態的なスキュラの言葉を、アデリナは赤くなって否定する。魔物が変態的なのはデフォルトなので、梗は黙って聞き流す。
梗が無言で流したのが、余計に居た堪れなかったのか、アデリナは顔を赤くしたまま、きっ、と強くにらみつけてくる。
――嫌な予感がした。
(明音も、言い出したら聞かない時、こういう顔してたな)
そして、嫌な予感は大体的中する。
「更生です!」
びしりっ、と梗を指さし、アデリナは宣言した。