秘密〈前編〉
「お前に、盗られるような秘密があったのか?」
イリグが骨付き肉を齧りながら言った。
あんまりなもの言いに、私の身体がぴくりと跳ねる。
仮にも婚約者が暴漢に襲われたのだ。
もう少し労わりの言葉があって然るべきではないか。
いや、その前に肉を置け。
夕食時の店内は、どのテーブルも賑やかだったが、私はなんだか知らない世界に一人でいるようで、心細かった。
「そもそも、神殿に何の用だったんだ?その日は、お前と隣町に出かける約束をしていたんだぞ」
もしゃもしゃと咀嚼しながら、イリグは問い掛けるが、私も首を傾げるばかりだ。
何故と言われても記憶がないのだから。
イリグの一方的で、やや威圧的な質問を全て分らないで返すものだから、彼の機嫌は次第に怪しくなっていった。
というか、私はなんでこの男と結婚しようと思ったのだろう…。
どうしてか、そんな大事なことさえも忘れてしまっているようだ。
急に居心地の悪さを感じて、私は俯いた。
私のぼんやりとした態度に苛立ったのか、イリグは咀嚼していた肉をビールで流す様に勢いよく煽ると、息を吐いた。
「しかし、神殿といえば、神官長も可哀想な男だよな」
いきなり話題がかわったことに、やや怪訝に思いながらも、私はただ黙っていた。
イリグの声音が何となく不穏で、嫌な感じがしたからだ。
「皆あの人のことは悪く言わないけど、あの人はこの街を、この街の人たちを恨んでいるんじゃないかって、時々思う」
イリグが私の反応を窺うように、ちらりと視線を寄越した。
「…どうして」
すっぽりと記憶の抜けた私に、イリグは説明するように言った。
この国はハルシャマという女神を崇める一神教で、創世神でもある女神は、この国の人々の心の拠り所だ。
あちこちに女神を祀る神殿があるが、この街の神殿はハルシャマ大神殿といって、女神の名を冠した国で一番古い、いわばハルシャマ信仰の総本山だ。
この神殿に仕える神官たちの頂点が神官長なわけだが、この神官長は卜占によって、五歳から十歳くらいの男の子が選ばれる。
神官長に就任すると、それ以降は女神の“夫”として仕えなければならない。
他者との過度な接触―特に、異性とは女神の嫉妬を買うとして、厳しく禁じられていた。
無論、結婚もできず、文字通り生涯を女神に捧げる。
「神官長に選ばれたばっかりに、結婚はできないし、好きな仕事に就くこともできない。遠出すらできなくて、ただ神殿の中で、伴侶である女神に生涯仕えなければならない」
「俺だったら耐えられない。自分を選んだ街の人を恨むよ」
絶句している私に構わず、イリグは身を乗り出して、言った。
「だからさ、俺は神官長が羊狩りの犯人じゃないかと思ってる」
自分の思い付きに興奮しているのか、潜められた声が上擦っている。
「きっと盗んだ秘密を集めては、俺たちを嗤っているんだろう」
私は言葉を失った。
冷たい布を私の額にのせ、安心させるように微笑んだ神官長の顔を思い出していた。
なんでこんなに優しい人が、そんなことできるだろうか。
記憶を無くした私に優しかったのは、目の前にいる婚約者じゃなくて、神殿で冷たい飲み物を渡してくれた、あの人だった。
静かに激昂する私を余所に、イリグはもう一つ爆弾を落とした。
「まあ、お前は神官長の幼馴染みだから、そんなこと思いもつかないんだろうけど」
…幼馴染み?
空色の瞳、銀色の絹糸のような真直ぐな髪の毛…。
さっき見たあの人の姿を思い出すが、既視感は感じない。
ただ、あの白檀の香りは…。
急に店内の騒がしさが遠ざかる。
私は、随分色んなことを秘密と一緒に葬ってしまったのではないだろうか。
昨日の私とは、もう別人のようだ。
何故イリグと一緒になろうと思ったのかもう全然分らないし、思い出したとしても以前と同じには戻れないだろう。
「イリグ、私は貴方なんかと結婚しない」
それだけ言い放つと、私は絶句するイリグを残して店を出た。
頭はまだ混乱しているが、妙にすっきりした気分だった。
*
ランプにそっと火を灯すと、部屋の闇を駆逐して、仄かだが温かな光が寝台と小さなテーブルと椅子しかない部屋に広がった。
見覚えのある部屋で、少なからず安心する。
何気なく窓の外を見ると、家々の隙間から小高い丘の上にある神殿が遠景に小さく見えた。
なんだか酷く疲れてしまった。
記憶が零れ落ちているせいで、自分の行動に自信が持てない。
目覚めてからこっち、雲の上を歩いているようで、ふわふわと現実感がなかった。
顔を洗おうと水を張った桶には、見慣れたはずの自分の顔が映っていたが、何処か他人のようによそよそしく感じる。
手を浸して洗顔すると、早々にベッドへ潜り込んだ。
明日も階下の叔母がやっている生花店での仕事がある。
うとうとと微睡みながら、盗られた秘密を取り戻せば、この千切れてバラバラになった紐のような記憶も
一本に繋がるのだろうか、などと益体もないことを考える。
そもそも、イリグが言ったように、私にはそんな大それた秘密があったのだろうか。
*
控え目なノックの音で目が覚めた。
寝惚け眼を擦りながら扉を開けると、朝日の中、私とは対象的にすでに身嗜みをきちんと調えた、エルマが立っていた。
「おはよう、トナミ」
淡い栗色の、柔らかそうにウェーブした髪の毛が、日の光を纏って煌めいている。
エルマは幼い頃から、一番仲の良い友だちだ。
「ごめん、起こしちゃった?」
「ううん、もう起きる時間だったから」
「昨日は大変だったわね」
眉根を寄せたエルマに、私は曖昧に微笑んだ。
「…なんかいい匂いがするね」
「あ、分かった?お見舞いを兼ねて、パンを持ってきたの。焼き立てよ」
エルマが抱えた籠の中身をひょいと見せてくれると、こんがりときつね色に焼き上がった大きなパンが二つも入っていた。
思わず鼻をひくつかせた私を見て、エルマが笑う。
「入って。朝ごはんまだなら、一緒にどう?」
「嬉しい。そのつもりだったの」
エルマを椅子に座らせると、私は慌てて洗顔を済ませた。
黒く肩までの髪の毛は真直ぐで、櫛を通すと殆ど寝癖もとれる。
買い置きしてあったチーズを切り、蜂蜜と先日作ったばかりのレモンジャムをテーブルに並べ、ミルクを二人分コップに注ぐ。
「やった。トナミのレモンジャム大好きなの」
エルマはそう言うと、焼き立てのパンの上に、薄い黄色のレモンジャムをたっぷり載せて齧り付いた。
しばらく幸せそうに咀嚼していたが、当初の目的を思い出したのか、はっとして切り出した。
「ねえ。それより、もう大丈夫なの…?」
私は苦笑して答える。
「うん。何ともない。ただ、羊狩りに遭ったせいか、記憶が曖昧なところがあるの」
エルマは驚いたように私を見た。
「例えば?」
「私は本当にイリグのことが好きだったのかな?」
ジャム付きのパンを取り落しそうになったエルマに、慌てて皿を差し出した。
私は少し迷って、昨夜のことをエルマに話すことにした。
「…確かに、トナミのことがずっと好きだったのは、イリグの方ね。結婚するって聞いたときは本当に驚いたもの。トナミは全然そんな素振りを見せなかったし、何となくだけれど誰かと結婚するなんてことないような気がしていたの」
エルマは短い息を吐いた後、困ったように笑った。
温かそうな榛色の瞳が揺れている。
「でも、イリグのことは五番目くらいには好きって、トナミ、言ってたよ」
「…五番目」
自分の言葉ながら苦笑が漏れる。
なんだか大変な悪女に思えて苦々しい。
「でもトナミは昔から、一番好きなものに飛び付くんじゃなくて、二番目、三番目を選ぶようなところがあったよ」
「…そうなの?」
「うん。控え目というか…、何かを諦めているような感じだった」
エルマの言葉を意外な心もちで聞いていた。
これも記憶が曖昧なせいかピンとこない。
まるで他人を評されているようである。
三枚目のパンに手を伸ばし、健啖家ぶりを発揮していたエルマは、蜂蜜の瓶を見つめると、不意に口を開いた。
「…そうそう。羊狩りといえばね。盗られた秘密は、蜂蜜のような琥珀色をした丸い飴玉みたいな形をしているんですって」
*
エルマとの朝食を終え、階下に降りると、すでに叔母のラダが早朝の市場で仕入れた花々を運んでいるところだった。
「遅れてごめんなさい」
私の姿を認めると、叔母は安心したように笑った。
「元気そうで良かった。昨日は災難だったね」
「ええ。でも、もう平気」
早くに両親を亡くした私を、店の上に住まわせ、花屋の手伝いをさせてくれるこの叔母は、親代わりのようなもので、何くれとなく気を配ってくれる。
私が、椅子に掛けていたエプロンを締め、花の入ったバケツを運ぼうとすると叔母が慌てて止めた。
「今日は休みな。そのつもりで私が来たんだからね」
私は困って肩を竦めた。
「でも、本当にもう何ともないの。…ただ、後で神殿に行ってもいい?神官長にお礼を」
私の言葉に叔母が笑いながら言った。
「ああ!ちょうどいい、いつもの配達がてら行っておいで」
「…配達?」
きょとんとした私を不思議そうに眺めながら、叔母が色とりどりの大きな花束を差し出した。
「そうだよ。毎日、女神に備える花をあんたが神殿に届けてくれるじゃないか」
私は瞳を瞬いた。
神殿に花を届ける…?
叔母が不審がると思ったが、私は思わず尋ねていた。
「私は毎日、神官長様にお花を届けていたの?」
幸いにも叔母は、私の言葉を気にした様子もなく、
「なに言ってるんだい。あの方はお忙しいから、他の神官様たちが受け取っていたに決まってる。
それしても、神官長様はお綺麗なだけじゃなくて、本当に出来た方だよ。
うちみたいな小さな店を昔馴染みだからって、贔屓にしてくれて。お蔭でうちは安泰さね」
と、歌うように言った。
私は神官長の薄い湖面のような瞳を思い出して、小さな花をたくさん付けた空色の可憐な一房をとって、花束に加えた。
「そうだ。もうすぐ、女神の誕生祭だろ?この花輪も見てもらって来ておくれ」
叔母はそう言うと、大きな花冠を両手が塞がった私の頭上に載せた。
ふわりと良い香りが私の鼻に届いた。
*
そろそろ中天にかかろうかという陽の光を浴びて、白亜の神殿は眩しいほどだった。
参道の階段を上って、神殿の中へ入るが、そこからどうやっていいかがさっぱり分らなかった。
恐る恐る、前を通りがかった神官服を着た若い男の人に声を掛けると、
「ああ、花屋の娘さんですね。ご苦労様です。いつもは裏門からいらっしゃるのに、今日は珍しいですね」
と言って、破顔した。
私は、記憶が混濁してからこっち、癖になっているような曖昧な微笑を返して、花束が入った花籠ごと彼に手渡した。
若い神官は花に顔を近づけると「良い香り」と私に再び邪気のない笑顔を見せた。
優しげな様子に勇気づけられて、私は彼に尋ねた。
「あの、神官長様はどちらにいらっしゃいますか?昨日、助けていただいたので、お礼を言いたいのですが…」
「ちょうど、お祈りも終わったところですので、呼んで参りますよ。中庭ででもお待ちください」
そう愛想よく言うと、回廊の向こうの木々が揺れる場所を示した。
回廊に囲まれたその庭は、中央に小振りな噴水があり、ちょろちょろと水が流れている様子は見ているだけで涼やかだ。
あまり高くない木々が木陰を作っていたので、そこに腰を下ろすことにした。
座ると、ふかふかと生えた緑の草が柔らかい。
なかなか神官長は現れなかった。
あの美しい湖面のような静かな青色の瞳を思い出すと、何故か急に怖くなった。
叔母が誕生祭が近いと言っていたのを思い出した。
祭事と神殿は無関係ではないだろうから、忙しいのかもしれない。
だったら尚のこと、言付けだけをして帰ればよかったと後悔する。
そう思うと、もう居ても立ってもいられず、誰か他の神官を見つけて、伝言だけを残して帰ろうと立ち上がった。
「トナミ」
ぎくりとして、声があった方へ振り返ると、案の定、そこには神官長がいた。
急いで来たのだろう彼は少し息を切らして私に近づくと、滲むように微笑んだ。
「待たせてごめんね」
神官長の服は、先ほどの若い神官の白い布地に金糸の刺繍の長衣とは違い、深い紺地に銀糸の複雑な模様が縫いこまれた衣を纏っていて、それが彼の銀髪に映えて良く似合っていた。
近づいた彼からは、やはり白檀の香りがした。
「…いえ。昨日は、ありがとうございました。そのお礼だけを言いに。お忙しいところお呼び立てして、すみませんでした」
私は彼の顔を見ることが出来ずに、俯いたまま小さく言葉を紡いだ。
「…トナミ?」
神官長の息を飲んだような声音に、思わず顔を上げた。
「…記憶、戻っていないの?」
そうだ。彼とは幼馴染みだったことを失念していた。
…二人の時は、もう少し親し気に話していたのだろうか。
私は素直に打ち明けた。
「ええ。まだ、記憶が混濁していて…」
言ってしまって、はたと思い付いた。
神官長のことは何一つ、覚えていないのではないか。
昔からの親友のエルマのことは覚えていた。
婚約の経緯は分らないが、イリグのことも。
亡くなった両親に、その後、世話をしてくれた叔母のこと。
でも、幼馴染みの彼のことは?
秘密を盗られ、目覚めてからの記憶しかない。
「…敬語、止めない?君と僕、昔からの友だちだったんだよ…」
彼が傷付いたような顔で言ったので、私は慌てて話題をかえた。
「私は友だちの貴方に、何か相談していませんでしたか?…例えば、秘密にしていたこととか…」
言いながら、肩を竦めた。
初対面のような相手に敬語を使わないのは難しいようだ。
「…どうだろう。会っても取り留めのない話ばかりだったし。…秘密を取り戻したいの?」
「取り戻したいというか…不便なんです。記憶が曖昧で。この盗られた秘密を取り戻せば、貴方のことも思い出すでしょうか」
俄かに強い風が吹いて、中庭の樹々がざわめいた。
噴水の水を巻き上げ、細かな水の粒子がトナミの頬を濡らした。
「…どうだろうね…」
風が、神官長の絹糸のような髪の毛をも揺らし、その一部が彼の顔を隠したので、どのような表情で彼が呟いたのかは分からなかった。
「
そういえば、花嫁衣装は縫い上がったの?」
思い出したように言った彼の声音は、気持ちを切り替えたように唐突に明るかった。
私は、思わず顔を顰めた。
今朝方、エルマに話したことをもう一度説明しなければならない。
楽しい話ではないので、イリグとは結婚しない旨を端的に伝えると、彼はその大きな瞳を瞬かせた。
何か言いたそうにしていたが、ついに絞り出すように「…そう」とだけいった。
彼の蒼い色の瞳を眺めていると吸い込まれそうで、あまりにも見事なので、硝子玉で出来ていると言われても信じてしまいそうだった。
たなびく髪の毛を彼が押さえると、左目の目尻に黒子があるのが見えた。
その上品な顔立ちはとても自分と幼馴染みとは思えない。
「私は貴方に何か言っていませんでしたか?」
黙り込んでしまった彼に気詰まりを感じて、つい尋ねてしまった。
「何も。ただ、突然結婚すると。花嫁衣装を見せに来ると約束してくれたよ」
ふと、そういえば結婚式はいつだったのだろうと気になった。
「結婚式がいつなのか知っていますか?」
神官長は驚いたように私を見た。
自分の結婚式さえ覚えていないのかと思われているのだろう。
「…三日後、女神の誕生祭の日だと聞いたよ」
彼はひっそりと微笑んで言った。




