嘘
ある日、南寺交番に119番通報が入った。「南寺一丁目のアパートで若い女性の死体が発見された」通信官が言った。南寺交番に詰めていた双子の巡査は直ちにパトカーに乗り込むと現場に急行したが、彼らが現場に到着したのは、鑑識の到着から10分も後のことだった。というのも、パトカーをどちらが運転するかで、二人の間に言い争いが起こったからだった。鑑識チームの後塵を拝したことについて、双子の巡査はさらに10分ほど、言い争いをした。ひどく晴れた土曜日の朝だった。
同じ119番通報は時を移さず、所轄の巡査部長の携帯電話を鳴らしていた。しかし、ちょうどその朝、巡査部長は所用により横浜のシティホテルに宿泊中であったので、現場に到着するためには、たとえ120キロでぶっ飛ばしても、少なくとも1時間以上必要であった。それで、死体の第一発見者である40代の小太りの男は、貴重な土曜日の午前中をすっかり台無しにされたのだった。
巡査部長は現場に着くとすぐに双子の巡査が駆け寄ってきて報告を行った。双子の一言一句正確な報告は以下の通りである。
兄 大変な事件です!
弟 意外な事件です!
兄 思いもよらないことで――我々が現場に到着すると……
弟 我々が現場に到着すると……
兄 おい、伊東正彦巡査、僕に報告させてくれ。
弟 いや、だめだよ。僕が報告する。君にはうまく報告できないよ。
兄 君はこんがらがって、うまく思い出せないよ。
弟 思い出すよ。本当だよ。邪魔しないでくれ。僕が報告するんだ。邪魔するなったら。ああ、巡査部長殿、どうぞ伊東和彦巡査に邪魔しないようにおっしゃってください。
兄 いいえ、いいえ、私が今から、順序立ててお話しますよ。我々が119番通報を受けますと、そう―――直ぐに駆けだしました……もう口出ししないでくれよ、伊東正彦巡査。私が順序立てて話しているんだから。よろしいですか、私は現場に誰よりも早く駆けつけました。
弟 私が運転しました。
兄 ええ、伊東正彦巡査が運転しました。で、現場に到着すると、通報通り、若い女性の死体があるのを確認しました。私は、これは間違いなく死んでいるなと確信しました。そして、ええ、そうです、彼女は確かに死んでいました。
弟 脈がなかったのです。
兄 脈がなかったのです。
弟 それに瞳孔もしっかり開いていました。それで、私は第一発見者に対して手順通りに尋問を……、ねえ伊東和彦―――ここのとこは口出ししないでくれよ、お願いだから……。で、間違いなく彼が第一発見者でした。彼は、自分が第一発見者だとはっきりと認めました。
兄 彼は、向かいのアパートに住んでいるのです。
弟 近所に住んでいるのです。彼は、死体を見つけると実に驚きました。あまりに驚いたので、彼女が本当に死んでいるのかどうかしばらく判断できませんでした。しかし、そのうちに、死んでいるに違いないと分かり、すぐさま119番通報したのです。
兄 第一発見者の名前は山口彰男です。
弟 いいえ、名前は山内彰男です。職業は会社員です。年齢は43歳です。
兄 いいえ、いいえ、山口彰男です。彼ははっきりとそう名乗りました。この耳で聞いたのです。
弟 いいえ、いいえ、確かに山内です。御覧ください、私はこうして手帳に書きつけています。この手帳には、私が一時間かけて聞き出した全ての情報が入っています。そして、以上までの報告が全てです。もちろん、御覧の通り、現場は到着したままの状態に完全に保ってあります。
兄 しかし、君の手帳には山藤彰男と書かれている。
弟 間違いです、間違いです。私は訂正します。正しくは山口彰男です。
兄 いいえ、確かに山内です。山内彰男です。いずれにしても彰男という名前は間違いありません。
以上の報告を巡査部長は一言も口を挟まずに聞いた。そして、最後に「なるほど」とだけ言った。それから、第一発見者の山藤彰男氏に対して尋問を行った。この尋問を一言で記すと次のようなものになる。
【通り一遍の尋問】
「なるほど、結構です」
尋問を終えると彼は満足そうに言った。それで、さらに鑑識からの報告を受けたわけだが、彼はこの報告の後でも「なるほど、結構」と言った。それから彼は、何やら考え込んでいる様子で、しばらくの間アパートの八畳の部屋を行ったり来たりしていた。そして、彼は唐突に、立ち止まることもなく「つまり、報告と尋問を総合すると……、特に不審なことはない、そういうことになるな」と独り言のように言った。巡査部長の様子を黙ってうかがっていた現場の人々は一斉に例外なくうつむいた。巡査部長は続けた。「ということは、つまり……彼女は自然死した、ということになるな」
やはり、現場の人々は黙ったままで、自分の靴の先を見つめていた。まるで地雷を踏みつけてしまった人のように、誰もが身動き一つしなかった。
巡査部長は黙りこんでいる人々をぐるりと見回してから、とうとう宣言した。
「結論としては、これは事件ではない」
「そんなバカな!」
一人の若者が我慢できずに叫んだ。
巡査部長はこの若い刑事ににこやかに訪ねた。
「一体何がバカだと思うのかな?」
若い刑事は上ずった声で、早口に「だって、こんなに若い人が自然死であるなんておかしいじゃないですか」と言った。
巡査部長は笑顔を崩さずに「どうして?」と尋ねた。
それで、若者は「つまり……、彼女が若いからであります……」と答えた。
巡査部長は「ふふふ」と声に出して笑った。すると、若者の隣で双子の巡査も同時にくすくす笑った。さらに、後ろのほうで、鼻で笑う声が聞こえたので、若い刑事は顔を赤くして恥じ入った。巡査部長は子犬の頭をなでてやる時のような優しい表情を浮かべると、若者に対して「君の言うことは間違っていないかもしれないな。君、名前は?」と言った。
若い刑事は驚いたように顔をあげて、「宗像士朗、巡査であります」と答えた。
「よし、覚えておこう」と巡査部長は言った。「君の意見を入れて、この死体は検死に回すことにしよう」彼はそういうと、鑑識の一人に頷いてみせた。
それから巡査部長は宗像巡査の横をゆっくりと歩いて、通りすがりに若者の肩を軽く叩き、何か言おうとした。しかし、結局は何も言わずに、現場を離れて行った。宗像巡査は顔を輝かせて「恐縮であります」と声を張り上げると、去っていく巡査部長の背中に深々と頭を下げた。その隣で双子の巡査は互いに目配りをし合い、それと同時に、にやりと笑った。