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第六十話 急遽

 昼の十二時を少し過ぎた頃。

 真菜からの電話で起床した。

「おはようございます」

『あ、寝てたんだ』

「はい――昨日、あのあとシチュー作って、それから寝たから」

『寝てから作ればいいのに』

「眠気が飛んじゃったんだもん」

真菜はごめんごめん、と笑った。駅にでもいるのか、電話越しに雑踏が聞こえていた。

『私たち、今から電車乗るよ。二時くらいには着いちゃうんじゃないかな。何か買っていくものあるかって、良ちゃんが』

「ご当地ものとか、なにかある?」

『あるかなあ。本当は、良ちゃんのお父さんが一番知ってるだろうけど』

雪本は枕に頬を押し付けながら、忍び笑った。

「俺が電話かけて聞いてみようか」

『いいんじゃない?だって番号、教わってるもんね』

『何の話してる』

川上が勘よく割って入ってきて、真菜と雪本は声を揃えて笑った。

「大丈夫です。帰ってきたら起こしてください」

『まだ寝るの。まあでも、気疲れしちゃったか』

「うん……」

また遠ざかりかける意識の中で、真菜から電話を替わられたらしい川上の声が聞こえた。

『ゆっくり寝ていていいよ。映画中に寝られたら困る』

「わかりました。お土産、よさそうなのあったらまた連絡ください」

『じゃあ、繋げたままにして、ちょくちょく声をかけるよ、寝てたら寝てたで構わない』

「はい、ありがとうございます」

そう返事をしながら、もう瞼が落ちかかっている自分をなんとなく感じていると、メッセージの通知音が鳴った。川上がもう目ぼしいものでも見つけたのかと、画面を見ると、それは沙苗からのメッセージだった。

『おうちいないけど、大丈夫?今どこにいますか?』

 雪本は咄嗟に立ち上がった。

「川上さん、待って、川上さん」

どうした、と、川上はすぐに真剣な声音になった。

「今日、沙苗さんが」

『ああ』

川上は大きく声を上げた。

『言ってたな、確かに、二十九日だって』

『あっ』

川上の声に、真菜もすぐ気が付いたようだった。

『でも、確か、夕方って話じゃない?ぎりぎり間に合う?』

「それが、思ったより早く来れたみたいで、もう家についてる」

『とにかく、いったん帰れ。それしかないだろ』

「はい、ごめんなさ――いできるだけ、すぐに戻るんで」

『いいよ、もとは三十日の予定だったのを、どさくさで早めたこっちが悪い』

 川上はそう言いながら、落胆を隠そうとしなかった。真菜はそれを気遣ってか、むしろ能天気に言った。

『お母様、どのくらいおとまりするの?』

「日本にはもう、二週間くらいいる予定のはずです。こっちでも仕事があるから……。でも別にホテルを取ってるとかで、今日いっぱいから明日の夕方くらいにかけてかな」

『それくらいなら、いいじゃん。平気平気。お土産ありったけ買って帰るから、好きなだけいてもらいなよ』

それでいいでしょ、良ちゃん。と真菜が尋ねると、川上は先ほどよりは明るい声で

『焦らずゆっくり帰っておいで。待っておくから』

と答えた。雪本は引っ張り出したリュックを、ありったけ力を込めて掴んだ。

「ごめんなさい、本当」

『そんな声出すことないだろ』

川上はさっきまでの自分を棚に上げて、すっかり宥めるような声になった。

『せっかくお母さんがいらっしゃってるのに』

「はい。母にも申し訳なくて」

『ならさっさと行くしかないよ』

「はい。行ってきます」

『行ってらっしゃい』

『気を付けてね、雪ちゃん』

 電話を切ると、とるものもとりあえず沙苗にこれから向かう旨を連絡して、それ以上追及されるのを恐れてスマートホンごとリュックサックの奥の方へと詰め込んだ。

 財布とハンカチと、自宅と真菜の家の鍵があることを確認して、そのままリビングへ飛び出ると、ダイニングテーブルに置いてある川上の母の料理ノートが目に留まって、考えるより先に最後のページを開く。

 自分の家の電話番号と住所を書き込むだけ書き込んで、転がるように家を飛び出した。

 鍵だけは落ち着いて閉めた。ドアノブまで引っ張って、開かないことを確認した。 


*****


 二十分後。

 雪本は自宅マンションの階段を自室のある六階まで一気に駆け上がり、息を切らした。

 まともに走らなくなっておよそひと月が立とうとしている。高野を追いかけまわした頃に比べて、健康状態こそよくなったかもしれないが、走る力はうんと衰えているようだった。

 まだ息が整わない、まだ少し拍動が早いと、ゆっくりゆっくり深呼吸を繰り返して、言い訳の余地がすっかり消えてしまってから、雪本は自室のインターホンを押した。

『はい。雪本ですが、どちら様ですか?』

モニターが付いているので、確認できていないわけはなかったが、沙苗はつんと言葉尻を上げた。

「はい……。雪本です。雪本直哉です」

『どこに行ってたの?』

雪本は、インターホンの前で黙り込んだ。

『冷蔵庫、空っぽだし。一日や二日の話じゃないよね?』

「…………はい」

それだけの返事をするのに、もう一分が立とうとしていた。

「ごめんなさい」

『ごめんなさい?行っちゃいけないとこに行ってたの?』

それでもなお黙り込むと、沙苗は得意げに断言した。

『女か』

「いや、」

『やだ、本当にそうなの?』

 沙苗はすぐにドアを開けた。

 玄関前のフローリングから前のめりになってドアを開けたので、着ていた淡いブルーのノースリーブワンピースは裾が広がり、美しかった。腰を引き締める細いリボンの直径からして、そのウエストは二十近く年下であろう真菜のそれと遜色がないほど引き締まっているのがうかがえる。雪本よりもややつり目がちな目尻は相も変わらずぴんと張っていて、薄い唇に楚々とした笑みを浮かべた。

「お帰り、直ちゃん」

雪本はつい、怒られていることを忘れて頬を緩めた。

「ただいま、沙苗さん。お昼はもう食べましたか?」

「食べちゃった。お腹すいてたの」

「ごめんなさい」

「まあ、一緒がよかったのは本当だけど、急に早く帰ってきちゃったのは、こっちの都合でしかないからね」

沙苗は雪本を迎え入れながら、振り返りざま、寂し気に眉を下げた。

「もっと怒ったほうがいい?」

「――えっと」

「彼女さんがらみの事で男の子にがみがみ言ったりして、嫌われちゃうのは、ちょっと怖いな。佐原さんに代わりに叱ってもらいましょうか」

「嫌うなんて」

「冗談」

沙苗は口を閉じ合わせながら喉を鳴らすようにころころと笑って、それから厳しい目で見つめた。

「――もう、十八も近いのはわかるけど、それでもまだ社会に出てはいないんだからね」

「はい」

「実際、元気にしてるみたいだし、変なことに巻き込まれたんじゃないのはわかってるけど、だったらそれはそれで連絡しておいてくれなきゃ心配するし、本当にまずい時にだって気づけなくなっちゃうのよ」

「はい」

「直ちゃん、多分そのくらいはわかってやっていたよね。わかってやったんだから事情も多分あるんだろうけど、それでも、駄目なものは駄目」

「はい……」

 沙苗がローテーブルの付近に、ちょこんと正座をしたので、雪本もそれに倣って、そのまま頭を下げた。

「本当にごめんなさい」

 沙苗は、すぐには何も言葉をかけてこなかった。雪本が話そうとしていることを待ってくれているようだった。

 観念するしかない。雪本は頭を上げて、まっすぐ目を合わせて続けた。

「夏休み入ってからだけど、よそのおうちに居候してます。向こうは向こうで、実家暮らしではなくて。三食毎日とってもいるし、好きな時にここに帰って、掃除とかもちょこちょこしてました。夜遅く出歩いたりとか、そういうこともしていません。危ない目にも合ってません。……二学期からも、そういう状態を、ある程度続けていけたらって考えています。相談しないで、ごめんなさい」

「なるほど」

 沙苗は落ち着いて聞いていた。流石に雪本も、相手が成人であることまでは言えなかった。人数についてはぼやかしはしたものの、三人であることを明言したわけでもない。しかしこれ以上語れることは、本当に何もなかった。

 沙苗はふと、気になったように言った。

「私は今日、いていいの?」

「え?」

「一応は泊っていくつもりだったけど、言ってきた?」

「勿論、それは……」

「ああ、そう」

沙苗はほっと息をついた。

「なら良かった。今日はいっぱいお話しできるのね」

「それは、もう、沙苗さんさえよければ」

雪本も首が千切れんばかりに頷いた。

「でも、ごめんなさい、夕飯の準備がまだできてなくて」

「ああ、ミネストローネ?これからでも間に合うし、私も手伝うけど…」

 沙苗はそこまで言って、ふう、と遠慮がちなため息をついた。

「あのね、お昼、ラーメン食べたんだけど」

「ラーメン?」

「特盛にしちゃった」

 沙苗はあっけらかんと笑った。この近くにあるラーメン屋と言えば、背油系のスープが絶品でチャーシューも分厚い割に価格が良心的であるという、日頃みっちりしごかれている運動部員が通い詰める類の店舗が一つあるばかりだ。

「美味しかったけど、それで……」

「ああ、食事の話は」

「違うの、そうじゃなくて」

 沙苗は首を横に振りつつ、涼しげに笑った。

「ラーメン屋さんの近くに美味しそうなお寿司屋さん見つけて、久しぶりに食べたくなっちゃったんだけど、駄目かな?」

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