第五十九話 会議 ③
数時間後、八月二十九日の午前二時。
川上から電話がかかってきた。
「もしもし」
『もしもし。悪い、遅くなったな』
「全然」
雪本は首を横に振った。
「お洗濯干したり、キッチン周り拭いたりしてたら、あっという間でした」
『そうか』
「テレビもだんだん面白くなってきたし」
『ああ、そうか』
川上は暢気に、納得したような息をついた。
『深夜にリビングにいる事なんて、ほとんどないもんな』
「はい。だってテレビ側なんて特に、真菜の部屋がすぐそこだし」
『わざわざ言わなくたってわかるよ』
『ねえ』
電話越しに、真菜の声も聞こえた。酷く楽しげで、雪本はその声だけでもう半ば安心していた。
『早く本題に入らないと、お父さんお家で待ってるよ』
「今、外なんですか?気を付けて」
『ありがとう』
真菜は嬉しそうに返事した。しみいるような声だった。しかしそれさえ吹き飛ばすように、すぐにからからと笑う。
『でも大丈夫、街灯はしっかりあるところだから。ド田舎だけど』
川上はすぐに反撃した。
『西口家よりは都心に近い』
『田舎かどうかってそういう事じゃなくない?』
「声大きくない、大丈夫?」
雪本が笑いながらも指摘すると、川上は素直に声の大きさを控えた。
『ごめん。……話は終わった。長話にはなったけど、詳しく話し込んでただけで、揉めてたわけじゃない。理解してくれたよ』
言い方こそあっさりとしたものだったが、緊張から解放された安堵が勝って、声には疲労が見えた。
「お疲れさまです」
『ああ』
『本当に、ほとんど全部、まるっと聞いてくれたの。私の性格の事とか、良ちゃんが顔を変えたわけとか』
「お父さん、なんて言ってたんですか」
『自分が怒ることではないし、どんな事情があったにせよ、軽はずみに顔を変えたのは息子自身の責任だから、あなたが謝るべきことじゃないって』
真菜はそこで一度言葉を切り、川上に、言ってもいいよね?と尋ねた。
川上は静かな声で、
『雪本』
と改めて声をかけてきた。
「はい」
『父から、伝言がある』
雪本はその一瞬、世界中の目に自分が見定められているような、変な衝撃に襲われた。
『"君の事だけ、他の二人越しに聞いて知った気になるわけにはいかない"』
よく似た声が、よく似た声の持ち主の言葉を届ける。
『"もし君の都合が整って、その時君が二人とまだ一緒にいるなら、電話や手紙でも問題ないから、一度は話をする機会が欲しい"』
「……俺のことを、話してくれたの」
尋ねると、真菜が寂しそうに
『もう一人と一緒に暮らしているってことだけね』
と答えた。
『性別もろくに伝えられてないけど』
「いいよ、勿論」
真菜の声に、同じだけの冷静さで返せないことが悔しかった。しかしそれ以上は、自分ですら知られるのが怖かった。
何かを察してか、否か、川上は、
『返事がもしあれば、答えておくよ』
と投げかけてきた。
「……返事……返事か……」
答えようとして、うまく声が出なかった。『その時君が二人とまだ一緒にいるなら』、その言葉に傷ついてもいた。
川上の父が本当にそう言ったにせよ、父に言われたことを要約した川上がそう表現したにせよ、決して浅くない痛みがあったことには違いなかった。
全てを話しきれず、寂しそうな真菜の声を聴いて自分もまた寂しかった。
そうしたすべてが、れっきとした現実であると突き付けてきて、雪本は冷静にならざるを得なかった。
「ありがとうございます。そう伝えてください。それしか言えない」
『わかった』
『明日の夕方には、帰れちゃうと思うから、ビーフシチューお願いね』
「わかりました」
川上の憎たらしいほど落ち着いた声を、場違いな真菜のはしゃぎ声を聞いて、なおそこにある幸福を、冷静なままで感じていた。




