第五十八話 会議 ②
「お金とか生活の事については、問題ないんじゃないかな」
真菜は言った。
「今だって、バイトしながら貯めてるっちゃ貯めてるし、なんだかんだうちの実家はまだまだ儲かってる。仮にうちの親が私を追い出して、お金も出さなくなったとしても、それこそもうちょっと狭い家でも全然暮らせるわけだから、どうにでもなると思う。―で、お金のこと以外についてだけど、私は、全部話しちゃってもいいんじゃないかなって」
「全部」
川上が確認する用に繰り返すと、真菜も正面から頷いて返した。
「私の浮気とかもそうだし、雪ちゃんについても、雪ちゃんがいいなと思うところまで、話しちゃっていいんじゃないかなって。……あと、全然関係ないけど、いい加減映画見たいから、帰ったらすぐがいいです。できれば」
川上も雪本もつい笑った。
「そう」
「うん。どんなにつまんなくてもいいからそろそろ見たい。これ以上引き延ばしたらハードル上がってしょうがないもん」
「失礼だな、本当に……」
川上は呆れたように笑いながら、雪本に問い直した。
「雪本は?どう思う?」
雪本はこの先、上手に飲み進められる気がしなくて、半分ほど残ったアイスコーヒーを飲み干した。少し頭が痛くなったが、その分、気持ちは落ち着いた。
「気持ちとしては、俺のこと全部話してもらってそれで応援してもらえたら、凄く嬉しいよ。でも一番大切なのは、ここで川上さんと真菜が、本当にお付き合いしていられなくなったりだとか、結局みんなバラバラになっちゃったりとか、そういう事態にならないようにすることだと思う」
グラスを弾くと、いい音がした。川上が買ってきた酒のグラスは、どんな音がするだろう。
「年齢の事が一番気になる。今、このタイミングで、『未成年の恋人がもう一人いるから結婚はちょっと考えられません』っていうのはやめてほしい。何が起こるかわからないから。……でもそれって逆に言えば、二十歳にさえなっちゃえばいいってことだから」
自分でも驚くくらい、あっさりと笑った。作ったのではなくて、言葉と一緒に自然と出てきた笑みだった。
「だって、そうでしょう?成人してる男二人と、成人してる女一人が同棲してますって、それってもう、勝手にやってろって感じじゃないですか」
「そうね、そうだそうだ」
真菜は開いた目の中に、悪戯っぽい光をちらちらさせて笑った。
川上に視線を向けると、真菜と雪本を、どこまでも柔らかい目で見つめていた。
「俺だって、堂々としてたい気持ちはあるから、話の流れで『もう一人がいるんですよー』くらいの事は匂わせてもいいけど……いや、期待してるけど。でも、そこどまりにしてほしい。三年とか四年とかたって、俺が二十歳で、お酒を飲んだら、その時また考えたいです。それまではバイトなりなんなりやって、出来るだけお金をためて、二人の負担にならないように準備しておきます」
呼吸が深まるのを感じながら、雪本は言い切った。
「今、焦ることは何にもない。むしろ、ゆっくり構えているのが、今の俺の役目なんです。きっと」
不安はゆっくり押し流されて、自分の最も深い位置から納得できる答えが残った。
と、その時、川上の目から涙が零れる。なんて時に泣くんだ。いっそ腹立たしくなった雪本を、真菜が傍らからつついた。
「映画は?どう思う?」
「俺もそろそろ見たいです」
「うるさいよ」
川上はそう言って、笑いながら涙を拭いた。自分でもいけないと思っていたのか、拭けばきちんと収まっていた。
「雪本」
「はい」
「お前に頼みたいことがある。ちょっと待っててくれ」
川上はそう言って、席を立ち上がると、廊下に続く扉へと向かった。
「映画を見ながらどうしても食べたいものがあって。ご馳走は用意しなくていいって言ったのに、悪いな。材料は買ったから」
「買ったの私だけどね」
真菜が冷やかした。今日のアルバイトの帰りに、川上から依頼されて、用意してきたのだという。
川上はすぐに戻ってきた。手には一冊のノートを持っていて、あるページを開いていた。そのノートが何のノートであるか気が付き、雪本は思わず駆け寄った。
「見たことがあるよな」
「——はい」
受け取った。古いが、極めて状態のいい、リングノートだった。以前川上がコピーを持っていた、川上の母親の料理ノートの原本だった。
川上が開いていたのは、雪本が以前、川上が作っていた分を途中から引き継いだ、ビーフシチューのページだった。
「前に一度、俺も作ったことがあるけど、この間お前が作った時ほどうまくいかなかった。多分お前の方が、これについては向いてるんだと思う。——ほら、こことか」
川上が指さした位置には、コピーの時にはわからなかった、薄い鉛筆でのメモ書きがあった。
「後から付け足したコツなんかも書いてある。こっちを見たほうが、もっとうまくいくと思う。預けるよ」
雪本は、遠慮する言葉を失うほど、そのノートを手放したくないと思った。サインペンのように見えていた筆記が、実はボールペンで書かれているのに気づくと、奇妙に感動した。
「…………カフェで出してほしいって言うのは、これ?」
雪本は真菜に聞こえないように、そっと問い掛けた。川上は少しだけまばたきを増やしながら、目を見て、控えめに頷いた。雪本はからかおうとして、やめた。
「ありがとうございます。ちゃんと作ります」
雪本のその言葉に、川上は唇を噛んで、黙ってノートを最後まで捲った。すると、最後のページにある、明らかに新しい記載を指さした。
「えっ」
「何、どうしたの」
雪本が声を震わせると、真菜が駆け寄って、笑みを消した。川上も決して笑ってはいなかった。最後のページには、川上の実家の住所と電話番号が記されていた。
「もし、不安に思うことだったり、気になるようなことがあって——そうしようと思ったら、ここにかけてきていいよ」
「川上さん」
「父が出ても、正直に名乗っていい」
「じゃあ、私も」
真菜が言うと、川上がポケットに入れていたペンを出してやった。真菜は心持ち不安定な書き心地を笑いながら、実家の住所と電話番号を書き記して、雪本をじっと見た。
「いざっていう時、全部めちゃくちゃにしちゃっていいから。雪ちゃんさえよければね」
ノートを持つ手が震えた。言いたいことが浮かんでは、端から消えて、心ばかりが虚しく膨れる。最後の最後に浮かんだ言葉だけが消えずに残って、心の中に確かに吸い込まれていく。たった一つの言葉で、零れそうなほど満たされた。
真菜の目を見た。
「好き」
真菜は正面から受け取って、ぼろぼろ泣いて、抱き着いてきた。
「私も大好き、雪ちゃん」
「うん」
「行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
「すぐ戻るね」
「うん」
そう言って身体を放すと、真菜は、雪本が次に何を言うかわかっているように笑った。雪本は、多分彼女の予想通りに、川上を見て言った。
「好きです」
一切予期していなかったのか、川上は目をうろうろさせた。
「——川上さん」
「雪本」
「真面目な話の時はふざけるなって言ったじゃないですか」
近所迷惑になってもおかしくないくらいの声が出た。嗚咽のせいでうまく制御できなかった。
「ちゃんと話してください」
「悪い。一瞬、よくわからなくなって」
雪本も、そう言われてしまえば、さらに言葉を重ねる気力が無いので、川上を必ずしも責められないと思った。ごめんなさいと謝ろうとした時、川上は真菜よりずっと穏やかな力で雪本の背に手を回した。
「ありがとうな」
「川上さん、」
「本当に、ありがとう。これからも頼むよ。俺もお前は好きだから」
川上のその言葉に抵抗するように、思い切り息を吸い込んで気丈な声を出した。
「誕生日の事なんですけど」
「うん?」
川上が驚いたのが、声音以上に心臓から感じられた。雪本はおかしくなりながら、あやすように川上の背を軽くたたいて、身体を放した。
「キーケース、覚えてますか」
「ああ、あれ」
「地下街のじゃなくてもいいんです」
雪本は首を横に振った。
「その代わり、三つ下さい。川上さんと、真菜と、俺で持ちましょう」
「いいよ、わかった」
川上がすぐに頷く。真菜は至極まじめな顔をして川上をつついた。
「地下街のって、おいくらくらい?」
「ふざけてる場合か」
川上は緊張がほぐれたせいかいつもより鋭く吐き捨てた。しかし真菜も食い下がる。
「ふざけてないよ。お金大事だもん」
「地下街のは高すぎるので——」
雪本は遮りながらノートを椅子におき、食器を重ねて笑った。
「もっと手ごろで、いい感じのを探しに行けばいいですよ」
それから雪本が食器を洗い、真菜が荷物をまとめる間、川上はシャワーだけ浴びて着替えた。
新しく着た服は、グリーンに近い深い色味のジーンズに、落ち着いたカーキ色のロングカーディガンを羽織って、いかにも川上らしかった。本人の趣味で選んだだけの服装に、雪本はようやく、真菜が川上の料理を中断させてまで、何を提案したのか理解した。雪本も雪本で、偶然ではあったが、黒のカーゴパンツに白い半そでのクルーネックのTシャツ姿だった。
「良ちゃんの父さん、今から行って迷惑にはならない?」
「むしろ今か今かと待ってるらしいから、早く行ったほうがいいだろうな」
玄関で靴紐を結びながら、川上は笑った。先に靴を履いて待っている、真菜も笑った。
「じゃあきっと、今日のうちに話が始まるだろうね」
「多分な。こっちも、まともに話してからじゃないと安心して眠れないだろうし。今日中にケリはつけたい。寝ておいてよかったな」
川上はわざわざ雪本に向かって振り返った。真菜がにやにやと笑った。
「はい。寝ないで待ってます」
雪本が真面目にそう答えると、川上は、仕方がないというように苦笑いして、真菜にも向き直った。
「お前も寝るなよ」
「寝たらつねって」
「小学生じゃないんだから自分で起きてろよ」
川上はそう言って、背筋を伸ばして立ち上がった。
「行ってきます」
「後は頼んだよ」
川上と真菜が順番に手を振った。
「はい、行ってらっしゃい」
川上も真菜も振り返らなかった。雪本も玄関に長居せず、今日こそ、テレビ番組を開拓してみようとリビングに向かった。




