第五十七話 会議 ①
冷房もつけずに眠っていたせいで、二人してえらく汗をかいていたので、雪本から真菜の順番で入浴を済ませた。雪本が風呂から上がると、川上はまた本を読んでいた。
「俺、もうご飯作っておいた方がいいですか」
「ああ――悪い、大丈夫。俺が作るよ。ただ、真菜が着替える時間がどうせかかるだろうし、あいつが上がってからで間に合うだろ」
雪本は、それでも、他に身を置くべきだと思える場がどこにもなく、川上の囲んでいるダイニングテーブルに、今朝と同じく座った。
「クイズは、もうできたのか?」
「はい、あれはもう」
「そうか。はかどったんだな」
「そわそわしちゃって」
雪本が正直にそういうと、川上は笑った。
「そんな焦ることじゃない。しっかり話し合って来いって、向こうもそう言ってきてる。そんなかしこまることないよ」
「お父さんとは、何を」
「これから話す。真菜が来てから話しても、遅くないことだから」
「わかりました」
雪本はそう頷いて、一瞬黙った。そして、思い出した、というように切り出した。
「真菜、文化祭、見に来てくれるんですね」
「ああ。仕事も開けるってさ。俺も開けるよ」
川上は笑って頷き、またしばらくして唐突に、ああそうだ、と声を上げた。
「前、カフェを開きたいって話したの、覚えてるか」
「勿論」
「よかった。……お前さえよければ、頼めるか」
「え?」
「真菜がいても、お前にも、手伝ってもらいたい。お前に頼みたいメニューがあるんだ」
川上はそう言って、中央に置かれたひまわりをそっと避けるようにしながら、右手を差し出した。あまりにらしくない振る舞いが、しかし、金髪と華やかな顔立ちで、見た目ばかりまとまっている。雪本は見入ったのを隠すように毒づいた。
「それ、真菜にはそもそも、声かけてるんですか」
「あ――」
本当に忘れていたのか、きまり悪そうに笑う川上が手を引っ込めるのを、無理に捕まえて引っ張った。ひまわりの入ったグラスにあたって、川上が慌ててもう片方の手でグラスを支える。
「なんだよ」
「お受けします。はい、決まり」
「お前、真面目な話をするといつもふざけるけど、よくないぞ」
川上はそう言いながら、ただ無理につかんでいるだけの雪本の手を、正面から握りなおした。
「よくない?」
「うん。おまえのためによくないよ」
「ごめんなさい」
川上が手をそっと放して、たしなめるように軽くたたいた。雪本も大人しく手を放されたまま、頷きだけ返して、無意味にテレビをつけて眺めた。川上もつられて、ぼうっと見ていた。
それから十分もしないうちに真菜が入浴を終え、川上は夕飯を作り出した。真菜は思いのほか着替えに悩まなかったようで、すぐに、柔らかそうなコットン生地のオフホワイトのブラウスに、同じく白のリネンのワイドパンツを合わせて部屋に来た。
「見てみて、妖怪真っ白女」
「よくいるから、大丈夫。似合ってるし」
「よくいるとかやめて」
「カフェで見る時って、さっきみたいな恰好が多いからあんまり気づかなかったけど、真菜さん、白っぽいの好きだよね」
「カフェだと汚れちゃうからね。でも白ってさ、素材とかデザインが引き立つ気がして、何か好きなの。良ちゃんとなんか買いに行くと、いっつも色足される」
そう言って、真菜は、ふと何かに気が付いたように、料理中の川上に歩み寄った。
「良ちゃんも多少、汗かいちゃったよね?」
「ん?ああ、まあ、多少は。でも風呂とか入るほどじゃないから――」
しかし真菜はコンロの火を一旦止めて、川上の肩につかまって背伸びをし、何か耳打ちした。何事かささやかれた川上は、一瞬、真菜の格好をじっと見て、わかった、と頷きながら、コンロを再び灯した。
「じゃあ、食事の後に軽く流してくる」
「うん」
炊飯器のブザーが鳴って、川上が雪本と真菜に声をかけた。
「もうできるから、食器とか頼む」
午後七時ごろ、夕飯は完成した。
茄子と豚のみそ炒めと、大根とほうれん草と豆腐の入った味噌汁と、白米。
量自体はそれなりにあったが、無くなるのはあっという間だった。
真菜や雪本は言わずもがな、川上も昼食を取れておらず、さらに約二時間の道を往復してきたこともあって、かなり空腹だったらしい。
「眠くならない?」
「ちょっと怖いな」
群を抜いた早さで完食した後、川上は苦笑いした。
「じゃ、手っ取り早く」
と、真菜が冷蔵庫に入れてあった、水出しのアイスコーヒーをグラスに注いで配った。一口飲むと、ほろ苦さとともにある甘みが、頭をむしろ引き締めるような気がした。
「父と話してきた」
川上は切り出した。
「結論から言えば、俺と真菜の交際を支援すると明言してくれた。ただ、条件付きだ。一つ目は、俺と真菜の気持ちが確かで、互いに真剣であること。二つ目は、毎日を安全に、健康に送っていく保証がきちんとある、もしくは、保証を付ける算段があること。三つめは、真菜と父が直接会話をする機会を設けること。……俺が整形をした時、父は酷くショックを受けて、その弾みで真菜にも俺にも強く反発した。その時の態度の事をじきじきに謝罪したうえで、お互いの認識を確認したいんだそうだ」
真菜は懐かしそうに微笑んだ。
「あの人らしいなあ。私は正直、あんまり、謝られるようなことでもないと思ってるから恐縮だけど……」
川上もやや苦く笑いながら俯くと、そのまま雪本に、まっすぐな視線を向けてきた。
「父には、『結婚にすぐ踏み切れない事情がある』って伝えてある」
「え」
「これは、真菜と話して決めたことだ」
真菜もグラスを持ちながら、緩やかに頷いた。
「こういうことは事前に言っといたほうがいいだろうしね。……雪ちゃんさえよければ、雪ちゃんの事、そっくりそのまま話していいのよ。良ちゃんのお父さんにも、うちの親にも」
「そんな」
「少なくとも、今は、『結婚がすぐにはできない』以上の事は何も伝えていないよ」
川上がそういうと、真菜は小さく笑った。
「お父さん、多分、ほとんど動じてなかったでしょ」
「うん。そこはなんていうか、流石だよ」
「でも」
雪本は遠慮しいしい、突っ込んで聞いた。
「でも、川上さんのお父さん、整形の時はすごく動揺してたんですよね」
「だって、今でも母さんにぞっこんでしょう、良ちゃんの父さん」
川上は真菜の言葉に頷く。
「母の面影が消えるって言うのは、心臓を抉られるようなもんだったんだろう。父は確かに、母の事になると今でも弱い。今日だって母の話になったら泣いた。だけどその分、母を愛しぬいている自信がある。病弱な母と結婚する時、色んな意味で止められた人だ。母が亡くなったときには、再婚をすすめられた人だ。父の為に、母の為に、息子である俺の為にと、色んな人が色んなことを言ってくるのを、全部きちんと受け取って、何一つとして従わないで来た人だ。結婚ができないくらいの事じゃ、びくともしない」
川上はテーブルの上で、腕を組んだ。
「だからこそ、父がそれでも反対をしてくる時は、現実問題としてお互いにとって危険があると判断できる時なんだ。経済的にも、社会的にも、身体の上でもリスクが無いと判断できるかどうかが一番重要になると思う。後は、何をどこまで、こちらが話しておきたいか。それだけ整理しておきたい」
雪本はふと、川上が整形をして、別人の顔になってしまった時、川上の父が過剰なほどに拒絶反応を起こした理由も、半分はそのあたりにあるのではないだろうかと思った。
もちろん、半分以上は、最愛の女性の面影を奪われてしまったことに対するものだとしても、残りの半分は、地に足のついていない精神状態で整形をしてしまった息子に対し、大きなリスクを感じたことが理由だったのかもしれない。




