第五十六話 寝て待つ二人
目が覚めると、玄関のカギを、幾度か回しなおす音が響いていた。妙に慌てているようだった。目の前には、色気のないキャンパスノートと、つまらないシャープペンシルが、ラフな質感のローテーブルの上に乗っているのが見えた。体を起こすと、テーブルにつけていた頬が熱かった。アースカラーを基調とした衣服が綺麗に整列してあるラックといい、おもちゃのランタンといい、部屋全体でとられた柔らかな調和を、雪本の手荷物が壊しているのが、妙にあからさまに浮き上がって見えた。
背後で扉が開かれ、同時に何か小物が落ちた音がした。振り向くと、真菜が自分で落とした川上のコレクションをそそくさと元の位置に戻しながら、へらへら笑った。
「どこいるのかと思ったら」
真っ黒なオフショルダーのブラウスに白いショートパンツを合わせていて、この部屋の中で輪郭がくっきりして見えた。
「何してたの、雪ちゃん」
「文化祭の準備です」
「ああ、それがそうなの」
「川上さんから聞きました?」
「うん。聞いたよ。絶対見に行くからね」
「よかった」
真菜から頬に口づけを受けて、雪本は笑みで返した。
「頑張って、全部終わらせた」
「えらいじゃん。何時間くらいやってたの?」
「―あれ」
記憶を辿ると、いつ眠ってしまっていたのかはおろか、いつ川上の部屋に入ったのかも詳しくは思いだせなかった。
「ねえ、お腹すかない?ご飯食べよーよ。昼食べてないでしょ」
「うん―」
真菜が背中に手を回してくるのを、逆に捕まえ返して床に倒れ込んだ。真菜がくすくす笑って抜け出そうともがいた。
「何、疲れちゃった?」
「うん」
「私はお腹すいたの」
「うん、お腹すいた」
「行こうよ」
響きあうように笑いながらそれでも立ち上がらずにいると、真菜はわき腹をくすぐってきた。今度は雪本が身をよじって後ずさると、傍らにある川上の布団に背中が当たった。
「ぶつかっちゃった」
「崩れてないよ」
「平気か」
布団の方に首をひねった雪本のズボンを、真菜が小さく引っ張った。
「これ、着てくれたんだね」
「うん。着やすい。ありがとうございます」
「部屋着じゃないよ」
「それはそうだけど」
雪本が花火大会に行っていた日、川上がグラスを買ってきてくれたのと同様に、真菜も雪本にお土産を買ってきてくれていた。七分丈のボトムスだった。末広がりでゆったりとしているが、素材にはハリがあって、シルバーとネイビーのチェック柄で、肩から掛けられる紐がついていた。
「なんか、こういう可愛いの、あんまり着たことなかったから。外で着るの緊張しちゃって」
「ええ、勿体ない」
「川上さんの持ってるのと、似てるし」
そういうと、真菜は無邪気に笑った。
「だって、似てるから買ったんだもん」
「ええ」
雪本は不意を突かれて笑った。
「じゃあ、二人で着て並んでどっか出かけたらいい?」
「うん。そうしよ」
真菜はさっぱりと頷いた。
「それでね、雪ちゃんにも、私の服選んでもらうんだ」
「何それ」
真菜のえくぼを懲らしめるように軽くつまむと、真菜は懐くようにして体を寄せてきた。
「あとね、旅行も行きたいな」
「三人で?」
「三人でも、二人ずつとでも」
えくぼを挟む雪本の指に抵抗するようにして、真菜は雪本の胸元に顔をうずめた。首筋に噛みつかれるのを、じっと目を閉じて感じていると、真菜の腕時計の針の音がやけに遠く感じて、慌てて目を開ける。
「寝たの?」
「ごめん」
笑うと涙が出た。真菜がすぐに目元をぬぐって、寝ちゃおっか、と囁いた。
数時間後、また玄関の鍵の音で目を覚ました。同時に目を覚ましたのか、少し前から起きていたのか、真菜は雪本と目が合うとニッコリ笑った。ウッドブラインドから差し込む光が、もうすっかり赤くなっていた。
リビングの扉を開けて、暫くあっちこっちを歩き回る気配があった後、とうとう川上は自室の扉を開いた。
「―は?」
「良ちゃん、おかえり。とんぼ返りお疲れ様」
真菜が暢気に伸びた。
「今何時だね」
「夜の六時だけど―」
「おおお、六時間も寝ちゃった。頭痛くなってない?雪ちゃん」
「いや―頭は平気だけど、背中が痛い」
「そりゃ―」
川上が眉間に深いしわを寄せながら口を挟んだ。
「そりゃ、床で寝たら、それは―」
「だって、お布団に寝るわけにいかないし」
「はい」
雪本がそう返事した瞬間、腹が鳴った。
「食ってないのか」
「あ、いや―」
「食べさせてないのか?」
「いや―私は、食べようよって言ったんだけど」
「ふざけるな」
川上が一喝すると、流石に真菜も雪本も、姿勢を正した。居住まいを正されたら正されたで、川上は怒る矛先もなく、ただ息をついた。




