第五十五話 父親からの電話
八月二十八日。
午前十時ごろ。
ノートを閉じて首を鳴らすと、川上が、雪本の右手の先を二回、トントンと叩いた。
「そろそろ出ようか?」
「はい、ちょうどキリがいいし。―でも、ほんとにいいんですか」
雪本がそう答えると、川上はうん、と柔らかく目じりを細めて、読んでいた文庫本にしおりを挟んだ。
カフェに出勤する真菜に合わせて早めの朝食をとっていた際、明後日の三十日は全員が家にいるので、今度こそ、川上の誕生日祝いに用意した映画を見ようという話になった。改めてご馳走を用意すると雪本が申し出ると、川上が買い出しだけでも手伝うと言ってきかない。真菜は暢気に、どうせ暇なら二人の方がいいね、と、川上に同調した。
「散歩みたいなもんだから、本当に、気にしなくていいよ。今日は歩きやすいだろうし」
川上は金縁の眼鏡をしまいながら言った。
「確かに。晴れてはいるけど、気温はちょっと下がってきたみたいですよね」
雪本は、朝に見たニュース番組の天気予報を思い出していた。
数時間前、真菜を見送った後の事。
川上は本を片手にソファに腰かけ、テレビをつけて、暫く流してすぐに消した。それから十分もしないうちに、雪本が作業をしていたダイニングテーブルの席に座って、結局そこに落ち着いた。ソファで読むより姿勢が楽だからと言っていた。
「お前の誕生日は、どうしようかな」
「まだうんと先です。二月だもん」
「なんだ」
川上はバツが悪そうに肩を落とした。
「冬って言うから、十二月やそこらかと─」
「それでも早いですよ」
「まあ、そうだけど─」
苦笑いを浮かべながら立ち上がって、ふと、雪本の持っていたノートを指し示した。
「そういえばこれ、何してたんだ?勉強って風でもなかったけど―」
「ああ、これ―文化祭の準備です」
「文化祭か」
「うちのクラス、カフェみたいなのをやるんですけど、クイズに回答することで、食べられるメニューが変わってくるみたいな、そういう仕組みで。俺、クイズを考える係になっちゃったんです」
「それ、大変だな」
「でも俺が一人でやるんじゃなくて、三人くらいで手分けしてやるから、まだ大丈夫そうです。結構面白くて。本当はクイズさえ考えておけば、当日何したっていいんですけど、これだったら客寄せとかも頑張ろうかなって」
「ならよかった」
雪本は、川上が浮かべた笑みを真似しながら、ノートを握りしめた。
「一般のお客さんも、見にこられるんで」
「いいのか?」
「はい、もし良かったら─」
雪本は強すぎるくらいの勢いで頷いた。
「もしクラスの人間になにか聞かれたら、知り合いだって言えばいいだけだし─」
その時、川上のスマートホンに着信があった。川上は、本当に申し訳なさそうに眉を下げながら、発信元を確認して、目を強ばらせた。
「雪本」
「はい?」
「ちょっと、いいか」
川上は人差し指を口の前にかざしながら尋ねた。雪本は頷いて、身動きを立てずじっとした。川上はスマートホンをテーブルの上に置くと、スピーカー機能をつけてから受話した。
「もしもし」
『─もしもし』
電話越しの声は、川上のそれとほとんど区別がつかなかった。雪本はその一瞬で、電話の相手を察しうることができた。
「久しぶり」
『久しぶり。よかった、切られるかと思った』
「俺は、切る理由がないよ」
川上は、面と向かって話している時と大して変わらない表情で言った。
「父さんは、最近元気にしてる?」
『元気も元気。酒も控え始めたから余計に元気モリモリだよ。いつまでたっても料理がうまくならなくて困ってる、でもそれくらいなもんで』
強ばりが解けたらしい川上の父親は、本来の調子を取り戻したのか、川上ではありえないほど軽快に小気味よく喋る。
川上はくすりと笑った。
「ならよかった」
『ああ、大丈夫。俺の方はいいんだ。─なんだ、いきなり電話をかけてこういう話からはいるのもなんだかなって言う感じだけど─お前、西口さんのお嬢さんとまだお付き合いしてるのか?』
川上は、反射的に黙ってしまった。考える間もなく核心に触れられ、反応が取れなかったというように見えた。川上の父親は、優しい早口で
『いや、いやいや』
と言った。何かしら誤魔化す間を与えなかったというようにも聞こえた。
『それが、悪いってんじゃなくて、確認をしたくて』
「─付き合ってるよ」
川上は、やや背筋を伸ばした。
「今、彼女の家で電話に出てる」
『そうか─』
今度は父親の方が黙った。しかし、ただ口ごもったというには、あまりに長い沈黙だった。川上は慎重に、背筋を伸ばしたままで待った。
『実は、何日か前に、西口さんのご両親から、こっちの方に連絡があって』
「は─?」
『お前、西口さんのお嬢さんと、別れる予定だとか、別れなきゃいけない理由だとか、特にないんだよな?』
その際の語尾の震えで初めて、川上の父親が心の奥深い部分から怒っていることが察せられた。
西口家の両親に怒っているのだ。
『戻って来れないか?』
「父さん」
『俺にやれることがあったら……。とりあえず一旦、話をできないかな。もし良ければ、お嬢さんも─』
川上はその時、真っ直ぐに雪本の方を見つめていた
「俺は─」
川上が乾いた声を振り絞ったとき、雪本は首を横に振った。川上は目を瞠って、口をきけなくなった。
『住むところは変わってないから』
「ああ―」
『今日明日は休みにしてるし。お前の都合のいい時に来てくれていいよ』
川上の父親は、返事が少し恐ろしくなったように、電話を切った。
川上は目を瞬かせながら、どこにも重心を寄せられないようにして立っていた。
「行ってきてください」
「でも」
「だって、今のまま生活してたって、真菜のご両親はきっとまた何か言ってきますよ。川上さんの実家ってここからどのくらいですか」
「一時間半、かかるかどうか」
「じゃあ、今すぐ行ったほうがしっかり話せますね」
廊下へと続く扉の方へ川上の腕を弱く押すと、川上は、不思議な目で雪本の顔を見た。無数の感情に引き合われているようでも、ただ見ていたいだけのようでもあった。雪本が心地よく笑うと、川上もつられた。
「できるだけすぐ行ってきて、すぐ帰ってきて、映画を見られるようにするよ」
「はい」
「でもスケジュールがどう動くかわからないから、ご馳走は今回はいい」
「はい。わかりました」
川上は一度リビングを出ると、五分も経たずに玄関に立った。雪本が見送りに出ると、もとから着ていたシンプルな白いTシャツの上から、雪本の部屋に置いてあった、ライトブルーのロングカーディガンを羽織っていた。真菜が選んだテーパードパンツと合わせていた。
「秋っぽい」
「そうかな。気温に合わせたつもりだけど」
川上は平気でそう言って、雪本の肩に手を置いて笑った。親指が首筋にあたって力んだ。
「文化祭は見に行く。真菜も誘うよ」




