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第五十二話 花火大会 ⑥ (もうひとりの主役)

「おーい、お二人さん」

後ろから泉美の声がしたかと思うと、榊の頭が後ろからペットボトルで思い切り小突かれた。鈍い音が鳴って、榊はやや前のめった。

「はい、これ飲んで。栄養補給」

スポーツドリンクだった。塩分が強く、甘みの抑えられている種類だった。

「俺甘いほうが好きなんだけど」

「さっき雪本くん好きなの飲んだでしょ。我慢して」

泉美は改めて、榊にスポーツドリンクを差し出した。

「榊くんも、ちゃんと飲んで。知恵熱でちゃうよ」

 泉美のその様子が、変に母親じみていた。それは榊が、ドリンクを受け取る時に、歳不相応なほどハッキリと、安堵の表情を泉美に向けたからそう見えたのかもしれなかった。

 泉美は端的に伝えた。

「もう、来るよ」

「わかった」

 榊は頷きながら立ち上がると、雪本にも泉美にも背を向けてドリンクを飲んだ。一口だけでふたを閉めて踵を返し、ベンチに置いた手提げから手拭いを取り出して、ペットボトルの水滴を手早く取る。たったそれだけの何気ない数秒の間に、榊の状態の一つ一つが、雪本の五感に訴えた。呼吸に伴うわずかな体の動き。目元に落ちた髪を指がすくいあげる音。強張った頬からは、緊張と不安が、はっきりと見て取れる。

 隣で言葉を交わしはじめた時には感じ取れなかったすべてが、ベンチと川辺の一メートル強を飛び越えてくる度に、雪本はその場の風を心地よく感じた。今日、ここにきて本当に良かったと思っていた。

「お待たせ」

 石崎が、一人の少女を伴って、川辺の入り口から声をかけた。榊がそれに丁寧な会釈を一つ返す。石崎は途中で歩みを止め、少女だけが遠目にも白い腕をゆるく振りながら歩いてきた。

 その少女が、浜上だった。

 浜上は、噂から想像していた以上の容貌の持ち主だった。白い肌に、ガラス玉のような光を放つ瞳の印象で、どこか人形じみている一方、濃い睫毛に縁取られた目を大きく瞬かせる様や、景色やら人間やらをちらちらと捉える素早い視線の動きからは、野生動物のようなニュアンスも感じられた。下駄に慣れていないのか、道に傾斜が付いたとたん、ややよろめく。榊は手際よく歩み寄って、浜上がそれ以上歩かなくていいように対応をとった。浜上は浜上で、そうした榊にすぐ気が付いて、苦笑いしつつ、飄々と会釈する。

「どうも。さっきぶりで」

「どうも」

榊は先ほどより、さらに丁寧に会釈した。浜上はさらに、もう一度お辞儀した。

「ごめんなさい、待たせました」

「いや、こっちはどのみち、早くついてたと思うから。手当してたみたいだけど」

「ああ、コンちゃん」

浜上は軽く後ろを振り返りながら、首を鳴らした。ストレートのショートボブが涼し気になびいた。

「最近タイム良くなったって、調子こいて、くじいただけです」

「ならよかった。やたら痛そうに倒れたから―」

「コンちゃん、ちょっとかまってちゃんだから」

 そう言って浜上は、榊に視線を合わせた。榊との身長差から見るに、東井より二、三センチばかり高そうだった。

「『何時から榊さんと一緒なの』って言われましたけど、どーしましょ。必ずしも最初からじゃなくて平気ですよ、それこそ、雪本さんとか東井さんとか来てるなら、花火上がるまで時間潰します」 

 榊は少し視線を伏せて思案するそぶりを見せた。浜上は平然と答えを待っているようで、真剣に見つめすぎてまばたきを忘れていた。それに気づいているのか、いないのか、やがて榊は柔らかい声で返した。

「雪本は途中で帰るかもしれないし。最初からの方が、都合がいいかもしれない」

浜上は、やや意外そうに眼を開いた。

「ですか」

「大勢で歩くのは苦手だし」

「もしかして、花火大会とかそう言うの自体嫌いです?」

「いや、そういう事じゃなくて」

榊はやや口ごもり、ためらいがちに笑った。

「狭いところを、人ごみに気を遣って歩くのが下手なんだ。慣れてなくて」

「慣れてない、って」

「よく人にぶつかるから、一人でだってうまくすすめない」

浜上は、榊のキリの悪い笑みに、つられるように頬を緩めた。

「なるほどね。了解です。人は私が押しのけます」

「そういうことでもないんだけどな」

二人はそう言いながら、なんとなく近づきつつくすくすと忍び笑った。すると浜上が、また周囲に一瞬視線をよこして、榊にもう一歩近づいた。

「今日ってどうなんですか」

浜上がそう言うと、榊も周囲に視線をよこし、ややあって、浜上に正面から目を合わせた。

「浜上さん、浴衣はあまり着ない方?」

「わかります?」

「足のさばき方が」

浜上は非常に聡く、もう目を伏せていた。

「却って危ないか」

「多分、転ぶと思う」

 榊は迷いのない仕草で、一歩、浜上から距離を開けた。

「はぐれないようにはするから」

「わかりました。()()()()()()その方が良いですね」

浜上のその言葉に、榊は笑みだけ浮かべた。雪本は榊が憎たらしく思えて仕方がなかった。

 浜上は榊の左袖を軽くつまんで、ひらひらと弄んだ。

「やっぱり、黒かあ」

不遜な声音は反抗的にすら聞こえたが、榊は浜上のそうした態度が欠片も気に障らないようで、のんびりと

「大体男物は黒っぽいから」

と返した。浜上はしたり顔で笑う。

「だと思って、白にしました。似合ってるでしょう」

自分から言ってしまえば損であることを、わかったうえで道化ぶっているようだった。

「どうせ何色でも似合う癖に……」

榊は半ば、本心から妬ましそうに苦笑すると、

「でもその色は特に好きだな。良いと思う」

と言った。浜上も浜上で、

「そう、よかった」

とだけ返す。

 その後は二人して、平気で沈黙に入り、ぼうっと川辺などを見ていた。どこか油断でもしているかのような沈黙のあり方だった。

 浜上は白い浴衣を着ていた。榊の言う通り、良い白だった。そこに、冴え冴えとした紺碧の線で柄が入っているようだったが、遠目には花の一種であることしかわからない。涼しく清潔だがどこか慎ましいその組み合わせを、深く鮮やかな赤い帯できりりと締めて、ついと立っている。こうして榊と浜上とが並び、自然な呼吸で共にいてしまうと、本日のダブル主演の佇まいとしてこれ以上は望めないくらいに説得力があった。

 ふと、川辺の外が、今までとは比べ物にならない程騒がしくなった。榊が神経質に眉を顰めた。

「うちの学年か」

「だと思います」

浜上も遠慮なく、心持ち顎を上げながら、騒ぎの方角に視線を流した。

「二年の男子女子何人かで、かき氷屋に寄ってくとか言ってたから、その人たちが今来たんでしょ」

「ごめん、様子を見てくる。ついでに間鍋さんたちにもいい加減、挨拶してこないと」

「わかりました。じゃあ、神社までいったん別々にしましょう」

「うん。どっちが先かわからないけど、それぞれ現地についたらすぐ連絡するってことで」

「競走ですね」

「下駄で急ぐのはどうなんだろう」

「早く行け」

 浜上は薄く笑いながら榊を押しやった。榊も大人しく押し出されながら、やかましい同学年の群れの方角へ振り返ると、いつもの険しい顔になっていた。そのまま泉美にも雪本にも、石崎にも目をくれず、荷物だけまとめて早足で雑木林の方へ出ていく。

 榊が出た直後、むしろ騒ぎは大きくなったが、榊が一言二言声をかけると、水を打ったように静まった。

「次期部長は伊達じゃないね」

と泉美が笑った。二年で副部長を担当した場合、規則上、三年生では部長や女子マネージャー長になることが確定する。榊は一年生の六月時点で、次の副部長への就任を打診されていた。もちろん歴代最速の記録である。

 石崎がからころと音を立てて寄ってきた。

「怖い、怖い怖い」

「榊が?キレてた?」

「うん。あのね、言葉だけ優しい」

「そりゃ怖いわ」

浜上も笑いながら歩み寄ってきた。すると泉美が、藪から棒に浜上のわき腹を掴む。

「なあに、この柄」

泉美はいじわるに笑った。

「ごめん、ごめんごめん、ほんとごめん」

浜上が心底申し訳なさそうに言いながら、すばしっこく避けた。石崎はけらけら笑った。浜上の浴衣の柄は、近くで見ると、どこからどう見ても菖蒲柄だった。

「可愛かったし、勝負強くなるとかいうし―」

焦って余計なことを口走ると、浜上は自分で勝手に気づいて、勝手にふくれた。石崎は口を両手で押さえて笑みを隠し、泉美は急に物分かりよく手を離す。

「あとはほら、言うて私、泉美あやめちゃんが大好きだから?」

浜上があてこするようにおどけても、泉美はにやにや笑って相手にしなかった。

「浜上ちゃん、お飲み物いる?」

石崎が思い出したように切り出した。

「さっき泉美ちゃんと部長さんが買い足してくれたから、まだまだあるんだけど、とってこよっか」

「ああ、じゃあ」

浜上が頷くと、泉美がもの言いたげに口を開いた。石崎はしかし笑って遮る。

「泉美ちゃんはずっと働きっぱなしだし、ちょっとくらい休んどいて、私大丈夫」

と言って、泉美の返事も待たずに、また踵を返して元気よく走っていった。

 浜上は雪本に視線を合わせた。

「多分、話すの初めてですよね」

「そうだね。正直、見覚えもなかったかも――」

「私も私で、一学期ちょっと、休みがちだったんで。もしかしたら練習被ったのも一回くらいだったんじゃないかな。浜上慧です。改めまして」

「どうも、雪本直哉です」

「挨拶遅くなってごめんなさい」

「いやいや、しょうがない。今日はもう、榊以外全部背景だ」

「ホントですよね」

浜上はいっそ憎々し気に言い切った。

「あいつだけ制服浴衣にならないかな」

泉美が景気よく笑っても、浜上は澄ましていた。しかし榊と話していた時に比べれば、表情はうんと幼く素直だった。やはり榊を前にしては相当背伸びをしているらしい。

 雪本はふと、どうしても聞きたくなった。

「浜上さん、榊のどの辺が好きなの?」

「どの辺?」

浜上は目を丸くした。泉美が『おお』とつぶやく。

「答えたくなかったら、全然平気なんだけど」

「いや、大丈夫ですそれは」

気前よく、浜上は頷いた。声にも気負いがなかった。

「どの辺、どの辺……どの辺だ……雰囲気イケメンみたいなとこあるし、どこって言うと難しいけど――ああ、そうだな」

 浜上は手を打って、そのまま袖をまくり、力こぶを作るようにして白い二の腕をむき出した。浴衣に本当に慣れていないのか、雪本に肘を向けるようにしたせいで、危うく中が見えかかったが、大して気にしていないようだった。

「この辺かな」

「ああ、筋肉とか?」

「あ、いや、違くて。いや違くないけど。筋肉素敵だけど」

浜上は、自身の腕周りをぐるりと指で示した。

「この辺の肌がホントすべすべでひんやりしてて」

「君それ絶対よそで言うなよ」

「え、ダメ?」

浜上は聞き返しながら、腹が立つほど可愛らしい笑みを浮かべた。

 泉美も笑ってしまっていたが、流石に

「ここだけの話にしようね」

と釘を刺した。

 雪本はふと、浜上が示したのが、右の腕であったことが気になった。先程榊の袖をとった時は傷のある左袖を狙いすましたように掴んで振っていたが、そこから何か垣間見たのだろうか。榊はそれを、抵抗もせず、どう認識していたのだろうか。

 浜上は袖を戻しながら、しかし冷静に笑った。

「あ、でも、気になったきっかけはあるかもしれない。榊さんって、自分の事たまに『私』って言うじゃないですか」

「ああ、いうね」

「ボンボンだからそう躾けられてんのかなとか、なんとなく思ってたんですけど、違うらしくて」

そういうと、雑木林の方を眺めて、くすくす笑った。

「榊さんのおじい様が、私って言うのを聞いてて、それがうつっちゃったんですって。『ああ、おじいちゃん子なんだなあ』って。―まあ、そんなところです」

 浜上は目もとに笑みを残して、また平気で黙って、雑木林の方角を向いていた。端正な横顔は甘い落ち着きに満ち溢れ、直視がはばかられるほどだった。


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