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第五十一話 花火大会 ⑤ (恋)

「榊ッ」

川を避けるのを忘れてスニーカーがやや濡れた。その声に弾かれたように、榊は一瞬だけ視線を持ち上げ、すぐに逸らした。

「どうした、頭痛い?」

「別に、大したことない」

榊は緩慢な仕草で時間を確認した。

「もう、こんな時間か」

「でも出発まではまだまだでしょ?俺ここにいていい?東井が女の子と話してて、置いてかれちった」

 榊が気だるげに頷く。雪本は机ひとつ挟んで向かいのベンチに座った。

 しばらくすると、榊が読んでいた文庫本を閉じ、雪本に自分の座っている側を指し示す。

「そこだと日が当たる」

「あ、いいの」

 雪本は榊の隣に座るものだと思って立ち上がったが、榊も雪本と同時に立ち上がった。そして榊ひとり、厳しい日に晒される川岸の方に移動して、器用に浴衣の裾を捌いてかがんだ。

「榊は、そっちで暑くないの」

「さっきまでそこにいたし」

 雪本が榊の座っていた位置に腰を下ろすと、心做し榊の体温が残っていた。そういえば榊は、雪本が日焼けに耐えられない体質であることを知っていた。

 気取られないよう様子を伺うと、榊が膝の中に顔を埋めていた。しかしそれもわずか数秒のことで、すぐに顔を上げたので、雪本も榊が置いていった文庫本を片手に川岸へ寄って行った。

「お前、なんかいつもこれ読んでるよね」

雪本の言葉に、榊は横目で一瞥して、首をひねった。

「いつもってほどか?」

「夏からずっとじゃない?」

「ああ。……まあ、あまり集中しては読まないから。もう何度も読み終わってるし」

 夏目漱石の『行人』だった。雪本は読んだことこそなかったが、国語で二三度名前を聞いたことがあったので、作品の存在自体は知っていた。

「面白いの?」

「読みたければ貸すけど」

「読み切れるかな」

「読まないなら」

榊は温度のない声で言って、手を差し出した。

「悪いけど、濡らしたくないから」

「あ、うん。ごめん。勢いで持ってきちゃった」

 そうして、本を受け取ろうと、伸ばされた榊の()()()見た瞬間、考えるより先に掴んで捕らえていた。榊が振り払おうと激しくもがく。

「放せよ」

「見せて」

 勢い任せでほとんど命令のようになった雪本の声を浴びると、榊は引っぱたかれたように固まって、もがくのを辞めた。

 榊の左腕には、細かな内出血による斑点が無数に現れていた。バレーボールの授業でレシーブをしすぎた時の跡にも似ていたが、そうした自然な付き方をしたものでないことは明らかだった。

 浴衣の袖で隠れる肘裏辺りから二の腕にかけてが特に酷く、所々、爪を深く押し当てた跡がある。

「今日に始まったことじゃない」

榊は半ばムキになったような激しい口調で言った。雪本の返事はそれに比べれば情けないほど平坦なもので、

「何が?」

と尋ねるのがやっとだった。

「元からよくやる。単に、癖なんだ」

 雪本は、自分がその榊の説明を信じているのか疑っているのか、よく分からなかった。榊の声は変な場所でせき止められたように固く、触れる腕はこの夏日の中、さらに風邪を引いたように熱かった。

 榊が今度こそ腕を振り払った。そして雪本の目を見ずに、戻してくる、とだけ言ってベンチの方へ本を戻しにいった。

 もしかしたら榊はそのまま川辺を出ていくかもしれないと思ったが、不思議なくらいあっさりと、榊は再び雪本の隣にかがんだ。

 目立たない二重まぶたが、今日ばかりは前髪に隠されることも無く晒されている。彫りが浅く幅もそれほどない二重の線は、むしろ、三白眼の鋭さと目の切れ長さに、どこかしら冷たさを足すような形で、淡々とした雰囲気を纏わせる原因にもなっていた。和服は榊のそうした鋭利な雰囲気をさらりと包んで、角をとり、静かにまとめあげていた。

 雪本は周囲を見回した。雪本と榊の他は、川辺には、誰もいなかった。

「榊さ」

「何」

榊はやや油断したように、反射的に雪本の目を正視した。

「好きな人いるだろ」

「……」

「浜上さん以外に、好きな人」

 その時榊は、目に浮かんでいた一切の感情を消して、ただ沈黙した。

 しかしすぐに、バツが悪そうに小さく笑った。

 黙ってしまった以上、隠しようもないと、すぐ判断したようだった。

「なんでそう思う?」

「浜上さん、いい人そうなのに、それでも付き合わないって断言してるからさ。そうかなって」

「それだけ?」

「それ以外に身に覚えでもあんの?」

榊はその問いには答えずに、

「何様なんだろう」

と呟く。

「好きな相手がいて、他の人間から告白されて、断って。そういうことをしている自分が、自分で心底気持ち悪い」

「気持ち悪い? なんで?」

雪本の質問に、榊は声を出してまで笑った。

「『なんで』もなにも」

「分からないから聞いてるんだけど」

そこまで聞いても、榊は雪本の言葉のほうこそ理解できないように、おかしそうに笑って首をひねった。

「分かるとか分からないとか、そんな大層な話じゃない。単純に、生理的に、恋愛だなんだの土俵にあがること自体が冗談にしかならない奴だっているだろ」

「何それ……。何、榊がそういう奴だってこと?」

「それ以外ないだろ」

榊は、東井に問い詰められていた時に比べて何倍も気楽そうな様子で言った。

「そんなこと、誰かに言われたの」

極力動揺が伝わらないよう努めつつ、雪本は問いかけを止められなかった

「もしかして、好きな人とかに言われた?」

「いや……」 

質問を受けて、榊は噛み締めるように続けた。

「もし相手からそんなことを言われたら。少なくとも、いつも通りの生活はできていないと思う」 

 榊はそこで、一旦時計を見た。まだ集合時間まで余裕があることを確認すると、川の流れを見るともなく眺めながら言った。

「簡単に言えば、ヒステリー持ちなんだよ」

「榊が?」

「自分でも知らなかったくらいだけど……感情がエスカレートしやすいって言った方が近いか。元々考え込みやすいのを、適当に流して切り上げてやってきたのが、急に上手くいかなくなった」

「好きな人が出来てから?」

「あまり言わないで欲しい」

「え?」

「『好きな人』みたいな、そういうことを」

言わないで欲しい、と、榊は笑った。その笑みには照れや恥じらいの類が一切なかった。

「その人には、気持ちは、言わなくていいの?」

「言わない方が絶対にいいと思ってる」

「どうして?嫌われてるわけじゃないでしょ?」 

「知らないし、知りたくない。ただまあ、どの道、言ったらまず嫌われるよ。その人にも好きな人がいるし」

「だからって嫌われるってなんでわかるの、そんなに脈ナシなの?」

「脈とかいう次元じゃない。相性とかいう話でもない。普通に、魅力不足というか、人間力不足みたいな、そういう類のいちばん酷いものだと思う」

雪本が言葉を挟もうとするのを、榊は遮った。

「自分でそう思ってる。客観的にも、そう判断できる要素は沢山あるし、実際、比較さえしたら取り立てて誇れる要素なんてない。自分でだって別にもともと、特別自分を好いてはないから」

榊はそこまで一気に喋って、また新しい笑顔を作り直した。

「だから、正直もう、どうでもいいと思ってる。何かしら期待していた時期も無くは無かったけど、何を期待してたかなんて思い出せないし、思い出しても嫌になるだけだから」

「そりゃ……」

声が震えた。榊知理という人間を面と向かって貶められることの息苦しさは、想像を軽く上回っていた。

「そりゃ、誰だって、恋愛したら、見ようによったらバカバカしいくらいの期待をするもんなんじゃないの。見ようによっちゃそれがすっごい大事なことかもしれないだけで」

「バカバカしいって自分で思う以上、相手からだってそう思われることを考えるだろ」

「でも浜上さんは、榊に、そういうふうに思って欲しくて告白してきたんじゃないの」

「だから分からないんだよ。浜上さんの気持ちが。自分が恋愛ごとで色々と際限なく悩むから、せめて浜上さんにはできるだけのことをしたいとは思う。でもどれだけ考えたところで私が浜上さんの立場なら絶対私を選ばないから、浜上さんにとって何が必要な事なのかも想像できてはいないと思う。……それでも浜上さんは、割とはっきり具体的にものを言ってくれるから、それにだいぶ助かったところもあって」

「つまり、何が必要か、具体的に言ってくれるから?」

「そう。だから私もそれにこたえられた」

「何をリクエストされたの?」

 榊は不意に黙り込んだ。

 雪本は一瞬ゾッとしながら、咄嗟に笑った。

「なに、聞いちゃまずかったの」

榊はしばらく、考えて、今度は笑みもつくらず、

「どうでもいい」

と言った。

「浜上さんさえいいなら、何でも話すよ」

「怖いよ。いいよもう。さすがに()()まではないでしょ」

()()?」

榊はふと、目を丸くして尋ねた。しばらくじっと考えて、そして意味を理解して、慌てて首を横に振った。

「いや、それは」

「ああ、ないのね。良かった」

「流石にそこまで趣味のねじ曲がった人じゃない」

榊は変に糸が切れたように笑った。本当にありえない冗談を言われたような反応だった。

 ひとしきり笑って少し落ち着くと、今までで一番いい笑顔で榊が切り出した

「これはまだ考えているだけだけど、転校しようかとも思ってる」

「転校?」

「今のまま学校にいても、ろくなことにならない気がするし、どうにもならないし、浜上さんにも申し訳ないから」

「榊は転校した方が気が楽なの?」

「すごく楽になると思う。――逆の可能性もあるか」

 雪本はもう一度だけ、周囲を確認した。川辺にはやはり、雪本と榊しかいなかった。

「榊」

「何」

「告白しなよ」

榊が目を合わせた。雪本は自分でも驚くほど落ち着きながら、同じ言葉を繰り返した。

「告白しちゃいなって。転校するなら、いいじゃん。告白してから転校しちゃえばいいよ」

「まだ考え中だって言ったろ」

「じゃあ、転校しなくても、告白しよう。大丈夫だからさ。絶対大丈夫だから、言っちゃおう。結果が着いてくるかどうかはそりゃ、別問題だけど、お前が怖がってるようなことは絶対起こんない。お前を貶めるようなやつは、ここにはいないんだよ」

 榊の目は、瞬きを忘れたように雪本を見ていた。

 雪本と自分自身を、いっぺんに見ているようだった。


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