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第四十九話 花火大会 ③ (コンプレックスの入口)

「高野さん、飲み物買ってきてくれるって言ってたけど、何かいるかな?」

「今はいらない」

 泉美の問いかけに、榊が俯いて答えると、片側だけ耳にかかっていた前髪が落ちて影を作った。彼は普段はやや長いその前髪をまっすぐ下ろしているのだが、今日は少し根元から立ち上げて片側に流していた。目元がいつもより晒されている。もともと固くて癖のない黒髪であるので、そこまでしてもあまり華美にはならず、転じて、清潔感が損なわれずに済んでいる。

 浴衣は黒かった。日に当たると深緑にも見えるような艶のない黒地に、白い縦縞が入っているだけのシンプルなデザインで、ごく一般的な高校生ないし大学生向けの大量生産品だった。何の変哲もない普通の浴衣が、過不足なく完全に似合っているからこそ、そのいで立ちには文句のつけようが全く無かった。

「久しぶり」

雪本が声をかけると、榊は小さく会釈して、開いていた文庫本を手提げにしまった。

「似合ってるね」

その言葉には答えなかった。

 それまで黙っていた東井が、挨拶もなしに切り出した。

「お前、浜上さんと付き合わないんでしょ?」

「付き合わない」

榊は抑揚を押し殺すように答えたが、東井は容赦なく

「でも今、そういう風には見えないよ」 

と言った。

 榊は先ほどよりもわずかに目を細めただけだった

。目端の利く東井は、恐らくその変化にも気が付いて、黙ってゆっくり腕を組む。

 泉美の忍び笑いが、膠着した沈黙を少しだけ温める。

「榊君ね、もともと、浴衣着るのに慣れてるんだって。だから逆に、浜上ちゃんのリクエストにもOK出しちゃったんだよ」

「ああ、なるほど。もともとハードルが低いんだ?」

雪本は敢えて、東井ではなく泉美の方に声のトーンを合わせた。そこでやっと榊は頷いた。

「一信さんのお下がりをもらっているから。いつも部屋着代わりにして——」

「でも、今日着てるのはそのお下がりとは別なんだろ」

東井がまた尋ねた。榊はさらにうなずいた。

「一信さんのはいくら何でもあからさまに物が良すぎて嫌味になるし、部屋着として使ってる物を着て外に出るのは……」

「はた目にはただの浴衣だよ、そんなに目が肥えてる奴なんかいない」

「待って、東井君」

泉美がやや焦ったように遮って補足する。

「部屋着ってことはさ、それ着て寝たりとかもするじゃない。東井君がもし、好きな人が浴衣を着てきてくれた時、それが普段、寝る時に着てるものだってなったら、ちょっとびっくりしちゃわないかな?いろんな意味で」

 東井は流石に一旦言葉を呑んだ。榊は泉美の補足に対し訂正をしなかったが、そうだと首肯することも拒んでいるような態度でますます俯いた。

 雪本は半ば無駄になるのを覚悟しながら声をかけた。

「良いと思うよ。そういうタイミングで浴衣買いなおす人っていっぱいいると思うし」

 やはり榊は何も答えず、反応もしない。左腕の袖の中に右手の指先を隠して、自分自身の脈拍にだけ耳を傾けるような態度だった。

「でも……」

 東井の声には、静かな苛立ちの気配がちらつき始めていた。

「……榊はさ、さっき言ったような理由を、全員に説明して回れるわけじゃないんだろ。だったら、今お前の行動を見て、誰がどう思うかとか考えなきゃいけないんじゃないの」

「考えてる」

 東井はしばらく、榊からの追加の言葉を待ったが、それ以上の説明や弁明は何も無かった。だから東井は東井で、結局核心をつかなければならなくなった。

「じゃあ、榊。今日浜上さんに誘われて、ここに来てるじゃん。浴衣着てきてくださいねって言われて、本当に着てきてるじゃん。俺から言うのもあれだけど、めっちゃ似合っててほんとにかっこいいと思うよ。浜上さんだってそう思うよ、かっこいいって。どう見たって浴衣は新品だし、髪形だっていつもと違うし、かっこよくしてきたんだなって周りからも思われるよ。……でも、告白されたら振るんでしょ。どうすんの、それでいいの」

「東井」

雪本が袖を掴んで制止しても、東井はむしろ逆上したように振り払う。

「俺はもう、友達が好き勝手言われんのが嫌なんだよ。絶対に嫌だ。せめて何を思ってんのか本当のとこは分かっておいてやりたいんだよ」

 雪本はつい黙ってしまった。これまで東井はどれだけ雪本を案じ続けてきたのだろう。それは東井自身にしか分からないが、そんな東井をサポートしてきたのが榊だった。東井の、不安や気遣いをフォローし続けてきた榊が、今この状況に陥っている。東井がこの数週間で抱えた混乱は、思っていたよりずっと深かった。 

 すると、榊が不意に口を開いて、奇妙に淡々とした態度で言い放った。

「どうでもいい」

「…………」

「私が何を着てどんな見てくれになっていようが——それで多少良くなろうが悪くなろうが——どうでもいいのに」

 長い沈黙が寝そべったのを、勝手に仕切りなおすように榊は首を横に振った。

「浜上さんの希望だし、嫌なわけでもないから浴衣は着てきたよ。それで今日どんなふうに何を言われても、誰に何を思われても、浜上さんと付き合うつもりはない」

「…………それ…………お前は、どうするの」

「どうもしないだろ。誰かが何か悪いことを言ったとして、それが浜上さんに行かなければいい」

「でも……お前、お前は、他のやつからなんか言われるの、嫌ではあるんじゃないの」

榊は平然と東井を見返したまま、右手の先を、左腕の裾のさらに奥へと隠した。

「もちろん……嬉しくはないけど。我慢はいくらでもできる。結局どうでもいいことだと思う」

「ああ——ああ、そう、そうか」

東井はどうにか納得しようと、必死に息をついていた。

「——じゃあ、聴くけど、今日のお前見て、浜上さんが勘違いしたらどうするの。周りも勘違いして、両想いなんじゃないかとか、そういう変な騒ぎ方したらどうするの。それで普通に浜上さん振ったら、もっと大騒ぎになるよ。それは浜上さんにとって、お前にとっていいことなの」

 その言葉に、榊はなんとも歯切れの悪い表情をした。歯切れが悪いというよりは、消化をし切れないものを無理やり飲んでしまったような、落としどころのない痛みを浮かべていた。

「仮に……そういう風に、浜上さんにとって、どこかでよくない形に回ったとしても、それは、どんな選択肢を取ろうとそうなんだよ。あくまでも今回の事は浜上さんが希望を出してくれたことだし、それを断ったら断ったで、浜上さんにとっては嫌なことかもしれないから」

「……なんでお前がそこまでしなくちゃならないの。どうしてそこまでしてあげたいって思うの。……浜上さんだから?」

「——いや」

「いつまで浜上さんの言うこと聞き続けんの?」

「いつまでって」

榊の声が明確にすり減っていた。東井はしかしそれ以上に必死だった。

「いつか、好きじゃないのに付き合っちゃうみたいなことになるんじゃないの」

「それはない」

「じゃあどこまでだったら言いなりになんだよ」

「言いなりじゃない」

 榊はやや声を張り上げて、周囲に素早く視線を配った。泉美と雪本のほかは誰もいないのを確認した榊の目と、そんな榊を観察していた雪本の目が不意にかち合う。榊はすぐにその視線をそらしたが、雪本は一度見てしまった榊の目がどうしても忘れられなかった。

 助けを求める訳でもなく、敵意を向けるでもなく、恥ずかしがるでもない。ただ目が合ってしまった事実にショックを受けているような。

「じゃあ、なんでわざわざ浴衣着てあげたわけ」

「だから」

榊はどうにか東井の目を見た。

「だから、それは、浜上さんがそう希望を出してくれたからで」

「その希望をうけて、お前自身はどう思ったの」

「だから……どうもこうも、」

その点については本当に、全くピンと来ないらしい榊は、珍しく苛立たし気に声を荒げる。

「浜上さんが浴衣を着たくて、物のついでで言ってきたのかもしれないし、物珍しさでってこともあるかもしれないし、どっちにしたって、結局私は着慣れてるから」

「そんなん格好いい榊が見たいから言ってきたに決まってんじゃん」

東井が強く断言すると、榊は極めて苦しそうに笑った。

「いや……そんな」

「告白するくらい榊のこと好きなんだからさ、そりゃそうだよ、それ以外ないじゃん」

「——いや——」

「はたから見てればそうなんだよ、それに榊が、思いっきり格好良くなって答えてあげたようにしか見えないんだって」

 東井の声が真正面から榊を打ち据えて、榊の視線は瞬きと同時に自身の手元に落ちる。

 もうこれ以上は問答を続けてはいけない。雪本が東井の肩を叩くと、東井はふっと、おかしなほど簡単によろけた。振り向いた時の東井は、もう幾分か冷静になっていた。

 その時だった。

「下らない」

榊がそう呟いた。酷く体をこわばらせ、じっと手元を見つめていた。

「見た目とか、恋愛がどうとか、私の()()()()()のものに、はたから見て何か意味があるわけない。どんな格好をしようが、それで多少良くなろうが、たかが知れてるのに。——わざとだらしなく着てくればよかったのか」

泉美が半歩前に出た。なにか声をかけようとしていたのかは分からない。榊は彼女を遮るようにして、手元だけを見つめたまま、独り言のように言った。

「そもそも誇ってないものを、勝手に騒がないでほしい」


 それ以上は、誰もなにも言わなかった。雪本も、今この瞬間かけられるような言葉は、なにひとつ見つけられなかった。


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