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第四十五話 ふたり旅行 ④ (散歩)

 午後五時半ごろ。

 ようやく陽が落ちてきた。市街地もやや遠い宿の周りは日差しがきつい。防寒用にと抱えてきたパーカーを、雪本はむしろ紫外線避けとして使う羽目になった。

「うどん屋さんってもう閉まるんですね」

「なんだ、今から食べるつもりだったのか」

 川上は申し訳なさそうに笑って言った。

「遅くても4時には閉まるよ、昼がメインなんだし」

何とはなしに視線を落とすと、雪本のスニーカーは、無意識のうちにか、偶然そうなっていたのか、その川上のスピードに綺麗に合わせて動いていた。

「明日早めに出て、食べに行こうか?」

 川上の問いかけにうなずくと、自分の脚が少し早まってしまったので、今度は意識して川上に合わせて、それから再び視線を持ち上げた。

 青々とした力強い田園風景はこれ以上ない程夏を謳歌し、それでいて騒がしいものは何もなかった。道は広く、川上と横並びで歩いても、占領せずに済んでいた。

 川上はリネンの白いシャツを羽織って出てきていた。数日前、真菜と二人で服を選びあったという、あの日に真菜から贈られたシャツだ。一度家に戻って荷物をまとめていた時に、荷物にくわえたらしい。

 真菜に選んでもらったシャツを、真菜がいる時は羽織れずに、ここまでひっそり連れてきてしまったのだ。

 歩いていると雪本の右手の甲に、川上のシャツの裾が当たる。その度川上に視線を向けると、かち合うこともあれば、かち合わないこともあった。少しずつ空の色は変わった。 

 雪本はそんな風に、一秒ごとそれぞれに、初めから今に至るまでひっくるめるようにして、噛みしめていた。

 川上が足を止めた。

「ちょっと、見ていいか」

「顔を?」

「首」

 川上がややむきになったように言いなおすのがおかしくて、ネックレスを外すのに手間取った。川上は雪本の髪を軽くどけながら、首の傷跡を見た。

「痛みは?」

「ないです」

「本当に?」

「そんなにひどいですか?」

「小さいけど、痣になってるよ」

 そう言う川上の首筋にも襟首を掴まれた跡が残っている。川上が、髪をどけているのとは反対の手を雪本の首に持ってくる。

 触れられた瞬間に首筋に鋭い感覚が走り、背筋まで駆け抜け、思わず身を震わせた。

「悪い」

川上はすぐに雪本の首筋から手を離した。

「腫れてるかと思って」

「大丈夫、そんなに痛くは……」

 答えながら雪本は、そっと息を整えた。もともと首回りに何か触れるのが好きではない。それでもここまで過剰な反応をした経験はなく、雪本にもそれ以上、川上に弁解することはできなかった。息が整っても心臓のリズムはやや乱れたまま、なかなか元に戻らない。心当たりはほとんどなかった。川上の指が思っていたより冷たかったとか、その程度の小さな想定外はあったが、案外そんなものの積み重ねで驚いてしまう物かもしれなかった。

 川上はふと、初めて気が付いたようにして、手に取っていた雪本の髪を眺めた。

「明るい」

「光に当たると結構、明るく見えます」

「染めたら綺麗に色が出るだろうな。俺はこの色にするのに、結構苦労してるから羨ましい」

風が立って、川上がすくいあげるように持っていた雪本の髪がすりぬけた。

「柔らかすぎて掴み損ねた」

「真菜みたいなこと言いますね」

 川上は噴き出して笑いながら、雪本のネックレスを雪本の手から取って、丁寧に留め具をつける。

「ありがとうございます」

雪本は頭を下げ、下げたまま告げた。

「ごめんなさい、川上さん。嫌なことを言ったし、俺の方こそ、痛い思いをさせたし」

「許さないよ」

川上の声は静かだった。

「許さない。今日、お前にされたことは一つも許してやらない。痛いし、きつかった」

 踵を返して、宿の方へと歩を進める川上の隣を歩くのがためらわれ、幾分進むまで止まる気でいると、川上はすぐに振り向いて、呆れたような早足で戻ってくる。雪本の背を大きな手で押し出した。

「疲れたのか」

「いえ。大丈夫です」

「じゃあ行こう。日が暮れる」

「はい」

 雪本は、ことさらゆっくりと歩いた。川上の手の感触がより確かになる。川上は手を下ろさずにそのまま背を押し続けたが、時折雪本の歩みが遅くなりすぎると却って力を弱めた。

 途中で川上が立ち止まった。

「ありがとう」

「え?」

 背に添えられていた手が離れた。川上に向き直る。

 川上は笑っていた。目をまっすぐに合わせ、高い背を姿勢よく伸ばして、二重瞼の目元の華をそのままに、涼しく目を細め、荒れた唇の端を穏やかに持ち上げて。

 今までに見たどの笑顔より、芯から整い、美しかった。

「顔を変えたら、環境も、人間関係も、全部変わった。跡形もないくらい変わった。何もわからなくなって、昔と今がつながらなくて。もとの自分は死んだようなものなのかもしれないって思って、それでやり過ごしてきた。真菜が浮気した時も、お前が来た時も、今回の見合いも、多少落ち着いていられたのはそう思ってきたからだ。自分はもう、別の誰かになったのかもしれないって……」

 逆に言えば、だからこそこそ、真菜の浮気を咎めることができず、雪本の同居を拒めず、見合いを止めようという意思を示すのをためらってきたのだろう。

「でも、それは間違ってた。実感がわかなかっただけで、俺はずっと息をしてた。自分で死のうと決めないうちは、人は死なない。自分でなろうと思わない限り、別人にだってならないんだ。俺が顔を変えた時は——どうなろうなんて、考えられてなかったし」

川上は肩を回しながら、深呼吸した。

「俺はずっと変わってない。ずっとずっと、さっきみたいに、辛いとか苦しいとかって、じたばたしてるだけなんだ」

「嫌な思い、たくさんさせて、すみません」

「そう。だから許さない。許して忘れたくない」

川上は雪本に頭を下げた。

「ありがとう。お前がいてくれてよかった。今日だけじゃない。俺にとって、雪本がいるのは、多分いいことなんだ。この先どんな状況になっても」

「真菜がもし、他の人と結婚しても?」

川上はあっさりと頷いた。

「お前さえよければ、いてもらったほうがいい。——そりゃ、嫌なことが無かったわけじゃないけど、それはお互い様なんだろうし」

「そうですね」

雪本の返事に、川上は微笑みをすこし強張らせた。怯んだようだった。それがどうにも、印象的で、雪本は自分の軽口がやや恥ずかしくなった程だった。なんとなくいてもたってもいられず、雪本は闇雲に川上の背を押すように、半ばしがみつくようにして、ふざけた素振りで歩き始めた。

「俺も川上さんの事、許さないことにします。ロビーで置いてかれたこと、絶対に忘れません」

「悪かったよ」

「はい。だから、さっき言ってもらったことも忘れません」

「さっき言ったこと?」

 雪本はいよいよ緩んだ笑みが押さえられなくなった。川上はその表情を見て、すぐに察しをつけたのか、やや不安げに表情を曇らせた。

「俺がいるのはいいことなんですね」

「お前のそういうところは、嫌だよ」

「はい。でもうれしかったし」

 川上は試すような目で雪本をまじまじ眺めた。雪本はそれをそのまま見返した。自然と真剣な顔になってしまって、川上の方がこらえきれずに噴き出した。

「お前、真菜に似てきたよ」

「真菜からも言われます、川上さんに似てきたって」

 川上は困った笑いに逃げながら、雪本の背をまた押し始めた。

 なんとなく、真菜が恋しくなって、スマートホンを取り出すと、真菜からメッセージが来ていた。

『今終わりました。色々あったんで省略しますが、私も相手もその気がないので、普通にナシになりそうです、お騒がせしました。旅行の写真あったら見せてね』

 考えるより先に手が動いた。カメラを起動させインカメラで一枚とった。ちょうど夕日と田園風景と、何事かとスマホを覗いた川上の表情がしっかり収まり、そのまま送信した。

 川上はそのまま、トーク画面を見ていた。雪本もそのまま見せてやっていた。真菜は送った画像にすぐ反応してメッセージを送ってきていた。

『めっちゃいい景色だね!』

『どこ?』

『そろそろお夕飯?』

『なんか食べた?』

『ちょうど今空き時間なんだけど、電話していい?』

 許可を待たずに、真菜から電話がかかってきた。雪本は迷わず電話に出た。

『雪ちゃん!ねえ、そこどこ?』

「どこだと思います?」

『なにそれ、もったいぶること?ねえ、良ちゃんは?元気してる?』

「うん。……でもちょっと今、飲み物飲んでるから、まだ話せないかも」

『そっかそっか、じゃあ待ってね、そこがどこかあてるから。で良ちゃんに答え合わせしてもらうの』

「いいよ、そうしよっか」


 雪本はそう言いながら、声も出せずにうずくまっている川上の背に手を置いた。


 川上は泣きはらした顔をどうにか上げて、礼を言うように笑って見せた。

 



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