第四十四話 ふたり旅行 ③ (旅館/客室)
部屋はロビーより暗い色の木を中心にそろえられていた。やはり窓は大きくガラス張りだったが、遠くの方に山と海があるばかりなので、外からこちらの様子をうかがうものはいない。それに今は、ウッドブラインドが窓の半分を覆っていた。
従業員の説明を聞き終わると、川上は窓の傍らにある肘掛椅子に座った。しましまの光が、刻み込むようにして川上の横顔を這った。
「悪かった」
光と影が交互にかかっているせいで、表情が読み取りづらかった。沈黙をどう思ったか、川上は重たい口調で声ばかり穏やかに続ける。
「ああいうのが、あまり好きじゃないんだ」
「川上さん、ああいうのっていうのは……」
応じた声は発した自分で戸惑うほどに固かった。
「見ず知らずの人から話しかけられるのが、嫌ってことですか?」
「ああ、いや」
椅子に預けていた背中を、かすかに引き上げながら、川上は答えた。
「そういうのはむしろ好きな方だよ。ただ」
「顔につられて話しかけてくる人が、嫌いですか?」
「……いや……」
そうしてしばらく、虚空に言葉を求めるように黙った後、藪から棒に振り払うように立ち上がる。
「俺はちょっと、歩いてくるよ。」
逃がすか。雪本もすぐ立ち上がった。
「俺も行きます」
「無理についてくることないよ、疲れてるだろ。五時過ぎには帰ってくる」
「無理はしてません。川上さんさえよければついていきたいだけなんですけど」
川上はほとんど癖のように笑った。
「わかった。じゃあ、そのまま夕飯に行くから、一応羽織れる物を持ってこいよ。日が落ちたら寒くなるかもしれない」
「……」
雪本が黙ると、安堵するように
「どうした?やめておくか?」
と顔色を伺い、ゆっくり、なだめすかそうと距離を詰める。
「川上さん」
雪本は、こちらに歩み寄るうちにウッドブラインドの影を脱した川上の目を見て言った。
「ついてきてほしくないなら、ちゃんとそう言って下さい」
「……」
「一人になりたいんじゃないんですか。それとも本当に、誰か一人でも側にいたほうが、マシですか。俺でもいいですか」
「…………言い方が悪かったのかもしれないけど」
川上は、その掌を雪本の肩の上に置いた。手の震えが雄弁に過ぎて、雪本まで呼吸のリズムに乱れが起こるほどだった。
「俺はただ、無理はしてほしくなかっただけだよ。お前が来たいなら、どうせ一緒に来ているんだし、一緒に歩けばいいだろうし」
「そうじゃない。そんな話をしたいわけじゃない。川上さんを責めたいわけでもない」
「雪本」
「俺だって今、こんな時に、川上さんに無理させたくない。川上さんが一人になりたいならそれでいいんです。でもついていきたい気持ちはある。だから」
「雪本」
「断るならちゃんと、断ってください」
「……」
「旅行だってそうだし、三人で暮らそうって言った時だって、自分がどうしたいかは何にも言わないで……でも保留したまま、今もこうしてここにいる」
「それは、お前だってそうだっただろ」
「違います。今は違う」
雪本はほとんど叫ぶようにして言った。そうでなければ声にならないような気がした。
「俺は、真菜と川上さんと三人でいたいです。真菜がもし他の人と結婚するんだとしても、それでも絶対あきらめないし、真菜が帰ってきてくれるまで川上さんと待っていたいって、俺はそう思ってます」
言い終わると、深呼吸を繰り返すのを我慢できなくなった。なぜか指先が冷えてきていた。
川上は、どこか落ち着きのない目を隠すように伏せ、その薄い唇でとびっきり痛々しい笑みを作った。
「ありがたいことだけど、でも、雪本。俺は俺で、一人でも平気だ。お前と同居なりなんなりをすること自体は構わないけど、お前が変に気を遣う必要なんかない。それこそ、無理してそんなことを言われても、俺がつらい。お前はともかく、俺はもう慣れてるよ。そういう風に、自分でしたんだ」
川上は、雪本の肩にもう一度手を乗せた。今度は震えていなかった。その分、ほとんど重みを感じさせないまま離れていく。
川上は雪本の傍らにあるベッドの端に、極めて浅く腰かけた。
「顔をいきなり変えてから、色んなものの取り返しがつかなくなった。もう、どうにもならない。真菜の浮気だって、最初の一回以外は全部許可つきだし、別れたければ別れていいよなんてそんなことまで言ったんだから、何を言う資格もない。今どんなことが起こったって、俺が文句を言う筋合いはないんだよ」
そう言って川上は、立っている雪本を半ば眩しそうに見上げた。
「俺は、俺が何をすべきかわからないんだ。何をするのもふさわしくはないと思う。だからせめて、お前や真菜の意見くらいは大事にさせてほしい」
雪本は、川上の顔を見た。改めて、まじまじと見た。二重の切れ長の瞳に、形の良い、スッと通った鼻筋。顎のラインの端正な、雪本と同系統の、やや西洋じみた華やかな、川上でない誰かを模した顔立ち。その顔が、これ以上ないほど上品に、5年前の夏合宿の、生まれつきの本来の顔で写った写真と、同じように笑っていた。
雪本はその時、昨夜の真菜の顔を思い出した。その時自分がどれだけ泣いたか思い出した。
「川上さん」
「うん?」
川上がいつものように首を軽くかしげるのと、雪本が川上の襟首を両手で思い切り掴むのと同時だった。
状況を飲み込めないように目を瞬かせる川上を、さらに力を込めて引き寄せる。
「川上さん」
ようやく雪本に焦点の合った川上が、衝撃に痺れたような固まった目で雪本の双眸を射抜いた。
「川上さん。ごめん。でも今日は、その気になったらバンバン殴るし蹴る」
「雪本」
「だから川上さんも、俺に全部やり返していいですよ。言いたいこととことん言いあおう。それでなんかあったらしょうがない。それはもう、お互いが悪いってことになるでしょ」
乱暴に手を離すと、川上は酷くむせながら、さしてよろけずしっかりと立っていた。
「俺が嫌いなら、さっさとそう言えばいいよ。顔だけでちやほやされて、それが気に食わないんならそう言えばいい。俺の顔が嫌いなら、そう言えばいい」
「違う」
「違うの?じゃあなんでロビーで俺を置いていったの」
「ああいうのが嫌いだからだ、そう言ってるだろ」
「でも川上さん、俺だけじゃないよ、ロビーでは、川上さんだって見られてたんだよ。声をかけたいって思われてたよ。もしそれが嫌なんだったら、なんか対策考えよう。もし本当に、それが嫌なら、なんとかしようよ、ちゃんと考えよう」
「ちゃんと考えようって……考えたってどうにもならないだろ、この顔はこの顔だし、俺が自分でこうしたんだから」
「どうとでもなるよ。川上さんが自分で選んだことなんだから。自分で撤回したっていいんだよ。それこそ、元の顔にだって戻していい。戻せるのかはわかんないけど、近づけるくらい……」
「いまさらそんなことしたって、誰が救われるわけじゃないだろ」
「そんなのは当たり前だよ」
川上がその目の光を強くするのを見据えながら、雪本は声の震えをできうる限り抑えて、言った。
「いまさらそんなことしても、川上さんのお父さんとか、絶対喜ばないと思う」
川上は拳を固く握った。白目の血管が赤々と燃えあがる。川上が手を上げる寸前に出す確かな危険信号だった。二度ほど痛い目を見た雪本にはよく分かる。真菜は絶対に分からないのだろう。だから何という訳では無い。ただの事実で、真菜と雪本、各々の胸に積もった川上の記憶だった。
「前に、買い物に連れていってくれたじゃん。その時に川上さんは、自分の目と他人の目が混じったら、苦しくなっていくだけだって言ってくれたよね。だったら絶対わかってるはずだ。川上さんが今、元の顔に完全に戻れたって、『真菜とつりあってないな』って、『浮気されて当然だ』って思って終わりだ。『A先輩に比べたら全然だ』って、お母さんそっくりだった顔に向かって、そんなことしか考えられない」
肯定しているのか、否定しているのか、川上はそれには言葉を返してこなかった。雪本が歩み寄ると、勝手なことに、今度は川上が一歩下がった。
雪本は川上が下がるよりずっと早足で近づいて、拳を戒めていた片手をどけさせる。
「空けてた方がいいと思う。これからすっごい酷いこと言うから」
「雪本」
「川上さんは逃げたんだ。辛くて嫌なことがあって、自分の顔が嫌になって、顔だけ捨てて逃げようとした。でも上手にできなかった。ちゃんと自分を整理しておかなかったから、顔と一緒に、色んなものを捨てちゃったんだ。でも川上さん。まだなんにも終わってなんかないんだよ。まだ、まだ考えなきゃいけないことは沢山ある。なんとなく顔変えて、それで後悔したんでしょ。なんとなく人の言うこと聞いてたら駄目なんだよ、また後悔するに決まってるじゃん」
川上の手が雪本の襟首をつかんだ。しかしその力は、雪本が川上にしたのに比べればずっと弱かった。
そしてまだ、雪本に対し返す言葉は持たないらしかった。
それが心底悔しくて許せない。まだ言うべきことは山ほどある。だからこそ冷静に話続けようとしたが、力を込めれば込めるだけ声が歪み、震えつづけた。
「……そうやって、川上さんは、今度は『人のせい』で不幸になるんだ。俺を傷つけたくなくて、嫌いって言えなくて、出て行けって言えなくて、真菜の事独り占めしたいとか、真菜の浮気が許せないとか、そういう当たり前のことを勝手に一人で我慢して、なんにも言ってくれないで」
「そんなことお前に言って何になるんだ」
「言わなきゃなんにもならないんだよ」
「だから」
川上は、雪本が既に泣きはらしているのを見て、言葉を止めた。
「……川上さんは……川上さんは、いつもそうだ。……俺が何か、言ったからとか、立場がどうとか……俺のためにどうとか、そんなことばっかり。気づいてよ、川上さんがそうやって勝手に我慢してる間、相手は一人ぼっちなんだよ。ずーっとずーっと、真菜も、俺も、勝手に一人で幸せになって、バカみたいじゃん。こっちはただ川上さんといるのが楽しくているだけなのに」
川上の手が襟首から離れようとするのを強引に止めて、直接首に押し付ける。
「真菜が好きなんでしょ。だから今辛いんでしょ。それは俺だってそうだよ」
「雪本」
「でも俺は、そんな理由で川上さんと一緒にいたいわけじゃない。俺が普通に、川上さんと一緒がいいから、真菜を待つなら川上さんと一緒がいいって思ってるから、そう言っただけです。川上さんの為になるかどうかなんて、そんなの俺が決められることじゃない。だから……だから、川上さんは、どう……」
ゆがみきった視界から、瞬きの拍子に、川上の顔が消えた。川上の襟首にあったはずの手は、いつの間にか解け、間抜けに宙ぶらりんになった。川上の手もまた雪本の首をいつの間にか離れ、雪本の背に回っていた。
「雪本」
川上の声が妙に遠くに聞こえた。自分の呼吸の音ばかりが激しく耳の奥を渦巻いて、ところどころしゃくりあげたりむせたりして、やかましかった。
「思ったより力が入ってたかもしれない。入れないようにしてたつもりだけど」
「川上、さん」
「今は、息整えてくれ」
お願いだから、と、川上は言った。声が震えていた。
雪本は妙に安堵感があって、呼吸が落ち着いて暫くしてからも、そのままぼんやり、そうしていた。川上はやがて、そろそろ重いよ、と、きっぱり言った。




