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第四十二話 ふたり旅行 ①(新幹線)

 午前九時二十三分頃。

 発車数分前の新幹線の中で、窓際の席の川上が、水筒片手に目を細めた。

「旨いな」

「よかった」

「マンデリン?」

「はい。わかりますか?」

 頷きながら川上は再び水筒を傾けた。真菜が選んだその水筒は、片手でやや余る程度のずんぐりとしたシルエットだが、目立ちすぎない程度にエンボスが入っており、深いチャコールグレーは細かな光沢を湛えていて、洒落ていた。

 口に含んでゆったりと瞬きをした川上が、酷く穏やかに微笑んで雪本に視線を合わせる。

「自分で挽いたのか?」

「はい。真菜に挽き方を教わって、あと、淹れ方と冷やし方も。一週間くらい練習しました」

「だとしたら、上達が早い。もういっそアイスコーヒーはお前に頼むかな」

「はい。いつでも言ってください」

 冗談のつもりだったのか、川上は少し目を瞠った。そして何も言わずに小さく笑って、ぼんやりと窓の外に目をやった。

 今の言葉の何が冗談に聞こえたのか、雪本には分からなかった。

 だから頗る苛立った。

 きっぱりと響き渡る発車ベルに促されながら、駅の景色が新幹線の窓を惜しむように撫でつける。

「水筒は、真菜が買ったんです」

「見ればわかる」

「はい。だから俺が買ったのは、豆だけで。ちゃんと三千円以内にしました」

 雪本は分かりやすく冗談をなげつけた。当然に川上は笑った。薄い唇が日に焼けて少しばかり荒れていて、工事現場のバイトで日光にやられるのだろう、はた目にも痛そうだった。切れ長の二重瞼が、晴天の青い影を受けて、川上らしい均衡を丁度保っている。そのすぐ上まで明るい金色の前髪が伸びていた。会った時から僅かに伸びた毛先には不揃いな癖がついて、小麦色に焼けてしまった顔に、首筋に、半ばまとわりついていた。

 川上が不意に小さく笑った。目許の知性が痛みに変わり、均衡は崩れた。

「カフェを開きたいんだ」

「カフェですか?」

 川上は窓辺に視線をやったまま頷いた。

「自分で店舗を用意して、家具や器を一つ一つ選んで、料理も出して―本当に、小さな店で、いつかできたらで構わないんだけど」

「コーヒーは?」

「そりゃ、出すよ」

川上は雪本の軽口に丁寧に忍び笑いで返して、さらに小さい声で続けた。

「そこに真菜がいることを、たまに想像したりする。俺は実際、あれだけしっかりしたコーヒーは淹れられないし」

 たまに想像したりする、だけでは飽き足らなかったのだろう。

 雪本は少なくともそう確信していた。川上の部屋で見たカトラリーセットを思い出したのだ。冷静に考えれば、カトラリーのセットを、入れ物ごと保管しておくというのは珍しい。他にもランチョンマットやラグの類が山ほどあった。趣味で集めてしまったというなら自分の部屋にでも敷いておけばいい。しかしそうではなく、ただとっておいてあった。

 あれらの物品は、一種の『サンプル』なのだほう。加えて思い返せば、猫の絵のついた二つのマグカップは、あまり高価なものではなさそうだった。ペアグッズと『サンプル』の間の、どっちつかずの欲求でつい手を伸ばしてしまっただけの、捨てるに捨てられない無駄買いだったのかもしれない。

 川上は新品の水筒を指で軽く、ゆっくりと叩いていた。その指は昨日、一晩中真菜を捉えていたのかもしれない。そう思い至った瞬間、不意に、川上を酷く近くに感じた。次に真菜を恋しく思って、それでもここに川上がいることで、雪本の真菜への恋しさを半分預かって貰えているような気がしてならなかった。その感覚は、ほとんど違和感に近い、やや心地の悪い代物で、小さいのに居ても立っても居られないような『何か』だった。

「アイスコーヒーなら俺が淹れられますよ」

 雪本がそう言うと、普段ならすぐに逃げる川上の視線が妙にまっすぐ雪本を見据えた。

「ホットも練習するつもりですけど」

川上は今度こそ軽く声をたてて笑った。

「料理も手伝うか」

「死ぬほど品数多くてよければ」

「客単価が高くなる」

「よくないですかね」

「それくらいの店の方が好きだ。真菜がいないならお前に頼むかな」

「真菜がいても手伝いたいです」

 川上はまた答えずに微笑んで、結局目を伏せた。再び水筒に口をつけ、蓋を閉じると、仕切りなおすようにして、今日泊まる宿の話を始めた。

 雪本は川上の保護者然とした話ぶりに、年少者らしい態度で頷いて見せながら、川上の荒れた唇に爪を立てる、小さな暴力の想像をしていた。


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