第三十九話 八月十八日その➂(服に思うこと)
家に帰ると五時半ごろだった。見たことのない服を着ている真菜が玄関前の廊下をうろうろしていた。
「あ。雪ちゃんおかえりー。これから、前に行ったピザ屋さんに行こうとしてるんだ。帰って早々で悪いけど、すぐ出られる?」
「はい。大丈夫です」
「って言っても、今良ちゃん待ちなんだけどね。今日お洋服買ったから着てこーよって話になったんだけど、なんか組み合わせでグダグダ悩んでるみたい。……良ちゃーん、雪ちゃん帰ってきちゃったけどー」
「悪い、あと一分」
真菜はその困り切ったような声を聴いて、とても楽しそうに笑った。
「真菜、まだ川上さんには内緒にしてるの?」
「え?」
「そんな顔してたらバレるよ」
真菜はわざと眉間に皺を寄せて口を尖らせた。二の腕をすっぽり隠すような白いパフスリーブのブラウスの上から、ベージュ色のウエストを絞ったデザインのジャンパースカートを重ねていた。
「雪ちゃんこそ、そんな顔してたら、私のお洋服可愛いと思ってるのバレるよ」
「うん。死ぬほど可愛い」
「いや、そこは同じ顔してよ」
「巻き込まないで。……あ、そうだ、ごめんなさい、一瞬リビング行けますか」
慌ててスニーカーを脱ぐと、真菜は返事もそこそこにすぐさま踵を返してリビングの扉を開けた。
ジャンパースカートの背中はコルセットのようなデザインになっていて、同じ生地のリボンがついていた。背面の裾だけ緩やかなプリーツになっている。
「本当にかわいい。この服」
「すごく頑張って良ちゃんと私とで好みを妥協しあった成果」
「俺もやりたい」
「こないだはお洋服買わなかったもんね、いいよ。今度絶対ね」
真菜が溶けるような幸せそうな顔でこっちを見た。
川上に向けるものと同じ種類のもので、けれど少し違っていて、それをほの暗い満足とともに受け止めつつ、雪本はリュックサックから水筒を取り出す。
真菜が川上に水筒を買いに行った時、同時に雪本にも買い与えてくれたものだ。
真菜がその日、川上のプレゼントを買い漁っていたこともあって、敢えて川上用のものより手ごろなメーカーのものをリクエストしたが、デザイン的には一番気に入ったものを買ってもらったので、雪本は十二分以上に満足していた。
「これ、ありがとう。今日のMVPだよ」
「そう?よかった」
手早く二つのグラスに水筒からコーヒーを注ぎ、一つを真菜に手渡す。雪本も自分の分を取る。キッチンの隅で二人、言葉も惜しんで忙しなく乾杯した。
真菜が目を閉じて、静かに口に含んだ。嚥下の音が聞こえない程丁寧に飲み込むと、目を開き小さく拍手する。
「ちょっと薄いけど、それでもわかる。最高」
「よかった」
「雪ちゃんも飲んじゃいな、その水筒洗うから」
雪本は空になった水筒を手渡し、自分のグラスに口をつけた。
とん、と背を押すような苦みが爽やかに口に入ってから、うまみがはじけて、飲んだ後にはいい香りが漂っている。
「グラス空いた?貰っちゃうよ」
慌ててグラスも渡した。
なんとか真菜が洗い終わると、丁度川上が入ってきた。
「……玄関にいないから、先に行ったのかと思った」
「あ、着替え終わった?見して見して」
真菜がそう言ってちょこちょこと走りながらさりげなく川上の視線をキッチンからそらさせた。
「なんだ、結局今日買ったものだけであわせてるじゃない」
川上はまとわりつく真菜にたじろぎながら、すぐ雪本を見た。雪本も走り寄った。
「俺も見して」
「大したものじゃないよ」
川上が斜め下に視線を逸らすと、その斜め下あたりでちょうどテーパードパンツの丈感を見ていた真菜が睨み上げた。
「大したものでしょ、どんだけ買うまでに時間かかったと思ってんの」
川上は白いリネンのシャツに、ダークグリーンのテーパードパンツを履いていた。テーパードパンツには、太いブラックと細いグレーのラインからなるチェック柄が、うるさくない程度に入っていて、やや光沢が感じられる。
「よくない?上品できれいだし、やっぱ白シャツ似合うじゃん。店員さんもめちゃめちゃ褒めてくれてるのに。ちゃんと決まってるよ。ね、雪ちゃん」
「はい。ズボンも似合ってるし。あと、なんだろう、ちょっとかわいいです」
率直な感想を言うと川上が表情をこわばらせた。真菜が手を叩いてまで笑った。
「狙ったけど言わなかったのに」
と言うや否や、すぐ逃げるように扉を開けて、どうぞ、と言いたげな目でニヤニヤしながら促した。川上がとっさに雪本を探したので、雪本も川上にどうぞ、と手でうながした。川上は問答無用で雪本の背に手を回して前方へ押し出した。
「行くぞ。お前、玄関の鍵開けっ放しだった。気をつけろよ」
「はい、すみません」
真菜が我先にと廊下に飛び出て、川上と雪本の視界に躍り出てしたり顔をする。
「人を待たせといて、ねえ」
その言葉に川上が何か言い返そうとするのを、また逃げるようにして、真菜が靴を履き、扉を開ける。外は少し暗くなりかけていたが、まだ日が落ちてはいないようで、遠くに虫の声が聞こえる。真菜は逆光のなか朗らかに笑って言った。
「雪ちゃんのも似合ってるよ」
雪本はふいに、柔らかいものが込みあがって笑った。川上と一緒に選んだ、オープンカラーのゆったりとしたシャツを着ていた。この間買った物の中で唯一、白いものだった。
トップスの色が全員白い。一日別行動をしていたからこそ、不思議に嬉しかった。




