第三十七話 八月十八日その①(花火大会の出欠)
八月十八日。
川上と真菜の休みが珍しく一致した。二十一日はいずれにしろ三人で過ごすことが確定していたので、この日に関しては自宅に戻って掃除することに決めた。戻るのは一週間ぶりだったが、その際の手入れがよかったからか、それほど埃も溜まっておらず、軽く床と家具を拭けばそれで済んでしまう。朝九時に来て、九時半を少し過ぎた頃には全て終わっていた。冷蔵庫も空っぽ、水回りも使っていないのだから当たり前と言えば当たり前で、これだけの短時間で済んだのも想定の範囲内だった。
主目的はコーヒーを淹れる練習をすることだ。
真菜の家から許可を取って借りてきたコーヒー豆と道具、そして事前に専門店で少量ずつ購入してきた数種類の豆を取り出し、薬缶に湯をためて火にかける。
十六日、十七日も練習をしてはいたが、家で練習をすると川上に見つかりそうになってハラハラさせられる場面も多く、最適な珈琲豆を探す時間もある程度は必要だったうえ、当日にふるまうご馳走のメニューを練っていたこともあって、うまく集中しきれなかった。今日、駅をいくつも隔てた自宅でなら、誰に見られる心配もなく、練習し、豆を選ぶことができる。
雪本は一つ深く息を吐き、真菜の家でたびたび世話になっている種類の豆を、ミルの中に入れた。はじめは湯を豆に注ぐ工程で一番緊張していたが、コツさえ掴めば、多少かったるそうな挙動ではあるものの、膨らんでくれるようにはなった。今はミルで豆を挽く時に一番緊張してしまう。砕く時の感触と香りが心地よくて、熱中するうちハンドルを回すスピードを上げすぎたり、長くやりすぎてしまったり、とにかく加減が難しい。
ハンドルを回し始めた。その感触と香りにやはり引き付けられながらも、飲む川上にそれを伝えるのだと言い聞かせて、冷静に、真菜が淹れてくれた一杯を思い描いた。
*****
午後三時五十分。
高校の傍らの自然公園に入ると、先日東井と話したベンチに、見知った人影を捉えた。
「あれ、泉美さん」
「雪本君、待ってたよ」
泉美は悠然と手を振って微笑んだ。もともと褐色気味の肌が、見ない間にさらに焼けたように見えた。
「え、待ってたの? 俺こそここで東井を待つつもりだったんだけど」
「私もちょっと、東井君と雪本君に伝えたいことがあって。大丈夫。用が済んだらすぐ帰るから。お邪魔虫は退散しますって言いながら帰るから」
「言うのね?東井もいる前で?」
「あったりめえよ」
「それはもう期待しちゃうな」
泉美はくすくすと笑った。
八月五日に会って以来、東井とは概ね日に四、五通のメッセージのやり取りをしていた。雪本は言える範囲での生活の様子などを報告し、元気にやっていることをアピールした。東井からの話題は自身の部活の様子や、家族間での出来事が主だったが、時折、榊の名前が出た。
以前ほど頻繁ではないが、未だに榊は浜上と共に帰ることがあるらしい。榊は浜上から交際を申し込まれ、それを断ったはずだが——。
本当は一週間前に帰宅した際も東井と会おうとしていたが、東井側の都合が土壇場で合わなくなって見送られ、十八日——つまり今日の四時に今度こそ会おうと取り決めた。
その日から今日にいたるまで、東井側の状況を先んじて聞き出そうと、それとなく試みたが、なかなかそれ以上の情報は出なかった。東井が単純に忙しい時期だったのかもしれないし、東井は文面上のやり取りでは比較的慎重なところがあるので自制をしているのかもしれなかった。
*****
アイスコーヒーを全種類まともに淹れられるようになったのは二時頃だった。そこからどの豆がいいかで悩み、そして一時間後に決めた。
ふと、思い立った。
「泉美さん泉美さん」
「はい、なんでしょう」
「ちょっとさ、お手伝いしてもらっていい?」
「何のお手伝い?」
雪本はリュックを漁って自分の水筒と紙コップのパックを取り出した。
「え、何々?なあにこれ」
泉美が物珍しそうに食いついた。
「あのね、カフェごっこ。ちょっと感想貰えない。——あ、大丈夫。これ、昨日に買った新品で一回も使ってないから。口付けてないから」
「え?これ何、お茶が入ってるの?」
「ううん。アイスコーヒー。豆挽くとこからやったの。十分前に入れたばっかり。東井に味見してもらおうかなと思って」
「すっごいね、そんな特技あるんだ」
「いや、最近始めたばっかりで」
「セルフ自由研究ね? いいなあ。え、私お客さん役やればいい?」
「うん。もしよければ」
「是非」
紙コップに注いでやって差し出すと、泉美は一気に飲んだ。
「わ、思ったよりしっかり苦いね」
「ごめん、大丈夫」
「大丈夫。というか、すっごくおいしいよ。私結構苦いのも好きだから、全然平気」
「濃すぎたりしない?」
「どっちか言うと、ちょっとだけ薄いかな」
言われてみれば、氷を多く入れすぎた気もした。泉美の舌はかなり正しいようだった。
「泉美さん、コーヒー好きなの?」
「うん。お気に入りの喫茶店があってね。石崎ちゃんとも行くし、あとは、榊君と部活の話とかするのにも使うよ。——雪本君、石崎ちゃんと行ったことあるんじゃない?」
「ああ。あの目立たないとこの、すっごいがっつり純喫茶って感じのところでしょ? あそこいいよね、長居しても怒られないし」
「そうそう。種類も豊富でさ。榊君も何でも行ける方だから、全部飲みたくてしょうがないみたいよ」
「何それ」
「美味しいのがわかってるなら飲んでない味があるのは気に入らないんだって」
「いくらかけるつもりなの」
雪本と泉美は忍び笑った。公園の奥深くで周囲に人がいるわけでもないのにできるだけ声を潜めてしまう。本人さえ知らない榊の愛嬌を、大声で話すのは勿体ない。
すると、遠くからがしゃがしゃと大きなバッグを揺らしながら走る人影があった。その人影はこちらに軽く手をあげた。
「雪本、ごめん、遅くなった」
東井は少し離れた位置からそう呼びかけて、小走りでやってきた。
途中まで歩いて、待ち合わせ相手を目にしてから小走りになる人間もいるが、顔を流れる汗や息の乱れ方からすると、むしろここまで必死で走ってきて、雪本の姿を見つけてやっと小走りになったという風に見えた。
「遅くなったって、ちょっとじゃん。ごめんね、変に急がせて」
東井は膝に手をついて息を整え、ふっと視線を上げて、泉美の姿に一、二歩後ずさった。
「わ、ごめん、気づかなかった」
「んーん。私の方こそ、勝手にお邪魔しちゃってごめんね。二人に連絡があって来たんだよ」
「俺と東井を待ち伏せしてたんだって」
「ええ、言ってよ」
「いいの、私も思い付きで、休憩がてら待っていただけだから。伝えたいことがあったのは本当だけどね」
できれば直接話せたほうがいいと思って。
そう言うと、泉美はスクールバックから手帳を出した。
「えー、八月二十六日、土曜日。陸上部の有志で集まって、花火大会に参ります。お二方、ご出席されませんか」
「……ん?陸上部の集まりじゃねーの?それ」
東井が肩にかかったショルダーストラップを握り握り尋ねると、泉美はけろりとした顔で
「うん、でもバスケ部の女子とかにも話行っちゃってるし。そこはあんまり厳密じゃないかな。……ほら、陸上部とバスケ部って、友達同士の子が多いじゃない?」
「まあ、ね……」
「俺は良いの。もう陸上部じゃないけど」
「もちろん。引退直前の三年生も来るから、高野さんが来るのが嫌じゃなければね」
「いいな。行きたい理由が増えたな」
それはよかった、と笑いながら、泉美は曖昧に方角を指さして、
「ここからちょっと歩くけど、おっきな神社があるじゃない?」
「ああ、花火大会って、あそこのか」
雪本は納得した。去年の同じころには、雪本の自宅の窓から見ることができたので、概ねの位置と規模はわかっていた。
「雪本は見たことある?」
「結構がっつりした規模だよ。十分くらいは打ちあがってたと思う」
「マジで、すご」
東井が前のめりになった頃合いを、まるで見計らうようにして、泉美はどことなくそそくさと付け足した。
「それでね、もし来るんであれば、甚平とか浴衣で着てもらえたらなおよしって感じなの。もちろん強制じゃないんだけどね。少なくとも陸上部ではほとんど全員和服のつもりみたい」
「……なんか、陸上部にしてはそう言うノリ珍しくない?俺は嫌じゃないんだけど」
「鋭い。——そもそも、言い出しっぺは一年生なんだ。これまでちょっと気恥ずかしかったりしてそういうイベントできなかったって上級生も、乗っかりやすくなってるんじゃないかな」
「ああ、なるほどね。いいんじゃない、たまにはそういうの」
雪本に続いて、東井もうなずいた。
「うちの部もうちの部で、そこまではしゃぎすぎる奴いないから、ちょうどいいかな」
「あ、ただ、バスケ部が何人来るかは未知数かも。まだ数名に話が行ったばっかりだから、これからどれだけ広まるかくらいかな。それがもし不安だったら——」
「いや、俺は、雪本とか榊がいるなら全然いい」
「うん。もちろん、榊君も来るね」
泉美は二人のスタンスを咀嚼するようにうなずいて、もう一度、明瞭に言いなおした。
「甚平とか浴衣とか、用意するのが難しければ、全然、お洋服で良いからね」
「そう、それさ——」
雪本が口を挟むと、泉美は既に含みのある笑みを浮かべていた。雪本は何となく先が読めていたが、一応、改めて聞くこととした。
「それ——妙に強調するけど。何かあった?」
「いやいや全然、本当に強制じゃないんだよ、みんなはね。ただ若干一名、和服を着てくる契約を結んじゃったうっかりさんがいて」
「だから、要は、榊でしょ」
「あはは」
泉美は開き直ったように笑った。雪本も笑った。
「発案者の一年って、つまりは、浜上さんなんでしょ」
「なんだそれ」
東井は急に練習の疲れを思い出したような顔をしていた。泉美は笑いながらも補足する。
「でも、もちろん浜上ちゃんだって、榊君に強制したわけじゃないんだよ。……『ダメもとで浴衣着てくれって言ったら、通っちゃった』んだってさ……」
「もう、二人で行きゃあいいのに」
「それはごもっともなんだけど、あの神社の花火大会って、結局、うちの高校の人がいっぱい来るからさ。二人で来てるのを目撃されるってのもね」
「今更じゃないの?」
東井の率直な言葉を、泉美は真正面から受け止めて、聞き返す。
「東井君、東井君は、榊君と浜上ちゃんの事どのくらいまで知ってる?」
「浜上って子が榊に告白して、榊がそれを振って、でも、まだたまに二人で帰ってる」
「ちゃんと全部聞いてるんだね。よかった」
泉美はそう頷いて笑った。不思議なもので、東井はそれだけで多少落ち着くところがあった。
「私も、浜上ちゃんの考えを全部聞いたわけじゃないから、ここからは私の予想っていうか妄想だけど。……告白して、フラれて、その次は大勢と一緒に花火大会に誘って、そこで和服見て……っていうのは、そういうことなんじゃないかな。ダメもとの思い出作り。わかんない、浜上ちゃんの事だから思い出作るついでにいろいろ仕掛けはすると思うけど」
「タフな子なんだ」
雪本の言葉に、泉美は笑いすぎずに頷いた。
「うん。度胸と根性、すごいよ」
「じゃあ榊も、バッサリ振ってそれで終わりの方がいいんじゃない」
東井は腕を組んで首を鳴らした。
「榊もそうだけど、浜上さんって子も、なんか、余計悪目立ちしてない?」
「榊君はともかく、浜上ちゃんは割と大丈夫だと思うよ。浜上ちゃんは、秘密はしっかり守るけど、そうでもなければ質問されたことには正直に答えちゃう人だし。でも榊君は基本、コメントを控えちゃうんだよね。どちらかって言ったらみんな榊君に注目してる。いろんな意味でね。……もしかしたら、わざとやってる節あるかもしれないけど、榊君」
「わざと?」
「疑問、苦情、好奇心、あるならこっちに向けてください、無視しますから。みたいな感じ。尻尾切り戦法」
泉美は両手で小さくハサミを作って、チョキチョキ、と動かした。
「勿論、これも私の妄想ね」
「でもそれ、自分を尻尾扱いする?普通……。それこそ、よっぽど大事な人のためとかだったらわかるけど」
東井は魚の骨がのどに刺さったような声で言った。
「——なんでそこまでするかって、それくらい聞けないもんかな」
「もし本当に尻尾切りなら、多分、『なんでそこまでするか』ってことを、一番に隠したいんじゃない」
雪本は苦笑いした。
「……本当の気持ち知られるより、よそに勝手なこと言われた方がましだと思ってたりしてね」
「まあ、秘密主義って大体そんな感じだしね」
泉美も首肯する中、東井は首をひねったままぽつりとつぶやいた。
「自分の本音を話すのは嫌だけど他人に好き勝手言われるのは平気です。って……それ、通んなくない?」
「その通り」
噛みしめるように泉美は言った。
「だからまあ、うっかりさんなんだよね、そういう意味でも。なんだかんだストレスためちゃってるとは思うんだ」
嫌な思いをしそうだったら、すぐに言ってほしい。
少し前、榊と電話した時、雪本はそう伝えた。
榊はそれに、キリがないだろうと答えた。
キリがないなら、それこそ切り落としてしまったほうが早いし確実かもしれなかった。
端から見て痛々しくとも、榊にとってはそれが一番安全で、かつ快適な、一つのやり方なのかもしれない。根本的な解決にはならないかもしれないが、根本は根本だからこそ変えるのが一番難しいのだし、まして、根本を——首を切ってしまうわけにもいかない。
泉美が突然、パンと両手を打ち合わせ、けろりと笑った。
「ま、妄想なんだよね。で、どうかな、出席する?」
「出席する」
東井がはっきりとした口調で言った。
「でも、途中で帰るかもしれない。それはそれでいい?」
「もちろん。それは大丈夫。一応帰り際に、連絡してくれれば平気」
泉美は雪本に視線をよこした。
「雪本君は、どうする?」
雪本はその時、初めて、意識して泉美に目を合わせた。眼鏡越しでわかりづらかったが、その細い一重瞼に覆われた瞳は無遠慮なほどこちらをまっすぐに見ていた。
眦はかすかに三日月型で含みがある。石崎の言うところの「目で勝負する」ことを知っている目だった。
「俺も行こうかな。東井と一緒に途中で帰っちゃうかもだけど」
「了解」
泉美は頷いて立ち上がると、
「それじゃあ、私はこれで——」
と言って立ち去ろうとし、振り向いて、何か言おうとして、へらへら笑ってそのまま小走りに去った。
「言わないんかい」
「えっ?」
「いや、なんでも……どうする?多分、今日話す予定だったこと、大体話せちゃったよね」
「そうなんだよなあ」
東井は少し悩んで、東井の帰宅ルートを歩き始めた。雪本はそれについていくことにした。




