第三十六話 内緒
八月十五日の午前十時ごろ。
「水は少なめでいいよ」
「これだと濃すぎませんか?」
「大丈夫。こんなもんで」
真菜は薬缶の蓋を閉じて火にかけ、ミルの中に入っている、先程自分が手ずから挽いたばかりの豆を示した。
「とりあえず今あるやつ挽いちゃったけど、珈琲豆も買ってあげるんだよね?」
「うん。川上さん多分、もっと苦い方が好みでしょ」
「そうなの。私の好みはこのくらいの味が軽い奴だから」
川上の誕生日プレゼントとして、雪本は、川上が好むようなほろ苦いアイスコーヒーを贈ることにした。
製品を買ったり店を紹介したりするのではなくて、川上好みの方法で、雪本が淹れて飲んでもらう。真菜にはその講師を勤めてもらうことにした。
「ホント、ナイスアイディア。一回マスターしちゃえばずっと淹れてあげられるしね」
「はい。そう思って。まあコーヒー豆の相場はわからないんですけど、三千円とか超しちゃっても『俺も飲みますから』で押し切っちゃう」
「なるほど、そういう事もあるわけか」
「賢いでしょ」
「かしこーい」
雪本にしても真菜にしても、朝から妙に意気込んで早口で、時たまこうしたくだらない笑いがキッチンに響いてうるさかった。共有するためだけにあるような笑いを繰り返しながら、だんだん自分が真菜の笑い方につられてくるのが面白い。
湯が沸くと、真菜はペーパーフィルターをドリッパーの上に乗せ、その下にポットを置いた。豆をそっとフィルターに入れて、薬缶を手に取った。
「よく見ててね」
細長く伸びた注ぎ口をそっと傾け、豆の中心に小さな円を描く。
「ちょうど豆全体に水分がいく程度ね。フィルターまで濡れるようじゃ入れすぎだよ」
ふっくらと、水分を含んだ豆が膨らんできた。チョコレートケーキを焼く様子を早回しで見ているようだ。見ている自分の胸の奥が、同じようにふっくらと膨らんで、いい香りで満ちていくような錯覚がした。
「あ、そうだ。氷を準備しておいて。できるだけたくさんね」
雪本はハッとして、冷凍庫から氷を二十個ほど取り出して大きめのボウルに入れ、真菜の傍らに置いた。真菜は集中した様子で、再び静かに湯を注いだ。今度は香りは立ったがあまり膨らまなかった。その有様も真菜はじっと見ていた。とても真剣で柔らかな眼差しだった。そしてふと、傍らに置かれた氷に目を止め、すぐに雪本を見た。思ったよりすぐ背後にいたからか、やや目を瞠って笑った。
「ありがとう」
珍しく照れているのを隠すようにして雪本の背を押す。
「雪ちゃんもやってごらん」
薬缶を手に取ると思いの外重く、重心を取るのが難しかった。もたつく間に豆の山はみるみるしぼんでいく。少しだけ焦ると、ゆっくりで平気だよ、と真菜が言葉をかけてくれた。
一呼吸深く吐いて、ゆっくりと吸い込む。苦い香りが肺に満ちて、自分の中で膨らんだものがジワリとほどけていった。そのままそっと湯を落とすと、少し量が多すぎた。
「難しいでしょ」
真菜は見透かしたように雪本の背を撫でた。
コーヒーを抽出し終わると、すかさず氷を投入してかき混ぜる。急速に冷やすことでそのうまみを閉じ込める。この方法だと程よく苦みが出るのだという。
氷がいくつか溶けるとコーヒーの濃度は適切になった。初めに水を少なめにしたのはこの為だったようだ。
真菜は一口飲んで機嫌よく笑う。
「初めてにしては上出来かな」
「ほとんど真菜が作ったようなものだし」
「雪ちゃんの味は雪ちゃんがこれから練習して見つけてくものだからね。今すぐできてもつまらないよ」
口に含むと苦かったが、しっかり味わえばうまみも甘みも広がる。これよりもよいと思える味を見つけなければならないし、それを作れるようにならなければならない。
「じゃあ私、コーヒー入れる用の水筒もプレゼントしようかな」
「専門のってあるの?」
「専門っていうか、コーヒーに向いてる素材ってのはあるよ」
「じゃあ俺も一緒に探したい」
「いいね、この後一緒に行こうよ。ていうか、他の物もいっぱい見てこよ。私だって雪ちゃんといっぱい買い物してやるんだから」
「真菜は川上さんに何あげるの?」
「例のDVDはもう注文してて、お酒と、あと良ちゃん好みのお皿とかコップとか、それこそカップとか買ってあげようかなって」
「――カップ?」
「そう。分厚い口のカップ」
真菜は屈託なくふざけて笑った。雪本は、不思議と恐れを感じずに尋ねた。
「ねえ、ペアマグとか買ったことないの?」
「え?」
真菜は素っ頓狂な声を上げた。
唐突な質問に打って出たのには理由があった。
川上の部屋で、ついこの間、うっかりと見つけた、マグカップふたつ。ペアマグと判断するのが最も自然なそれについて、真菜が認知しているかどうか確かめたかった。
しかし真菜の答えは、拍子抜けするほどあっさりしていた。
「ペアマグ?良ちゃんと?」
「うん」
「ないよ」
「ないの?」
「良ちゃんシャイだし、あんまりそういうのしたがらないし」
少なくとも真菜の記憶ではそんなものを拵えた覚えが無いようだった。であれば、あのマグカップとカトラリー類は、純粋に他のものと同じような、川上が溜め込んだコレクションのうちの一つなのだろうか。
考え込んでコーヒーにもう一度口をつけると、真菜がしげしげと雪本を眺めていた。目を合わせると真菜にしては珍しく、逃げた。雪本の手元辺りに視線を逃がす真菜を、敢えて問い詰めず、待つことにした。
少しして、真菜が雪本の手元をつついてきた。
「雪ちゃん」
「うん?」
「ちゃんと聞いてほしいんだけど」
真菜がそう言って、再び視線を持ち上げる。怯えを多分に含んでいる目に、雪本のほうまでつられそうになった。
「良ちゃんの事また好きになっちゃったみたい。でも雪ちゃんの事も好き。良ちゃんも雪ちゃんも好き」
雪本は一瞬、ゾッと心臓の温度が下がったのを感じたが、その後変に頬のあたりがむずがゆくなって、気がつくと熱くなっていた。
真菜はなぜか、泣き出しそうな雰囲気で、それでも目元をやや赤く染めていく。
「私はできれば……今のままの生活でいて欲しくて。愛想つかさず、これからも、一緒に暮らしてもらえたら嬉しいんだけど」
「愛想つかすとか、ないよ。暮らすのも全然――」
雪本はそこからなかなか次の言葉が出なかった。
雪本と川上と、思いの程度に差はあるのか。
川上へ再燃したなら、雪本の方への熱は幾分なりとも減ったのか。
そんな言葉は無視できないほど頭の中をガンガン響き回っていた。
同時に、反対の端の暖かい言葉も際限なくあふれ出しそうになる。思いが募りに募りすぎて、膨らんで膨らんで、落ち着いて息をするのが難しい。
「雪ちゃんのおかげだろうね」
よりによって真菜は、そんなことを言った。
「雪ちゃん、良ちゃんのこと好きでしょ。見てればわかるんだよ。良ちゃんのいいところをたくさん、雪ちゃんが見つけなおしてくれて、」
言葉が終わるのを待たず、真菜の手を握る。グラスを握っていた手は少し冷たくて少し濡れていた。その分雪本の胸の中に閉じこもっていた熱が真菜に向けて噴き出していくのを感じる。
「真菜さん、好きです」
「うん」
「絶対に離れてやらない。死んでもしがみついてやる」
「うん」
「絶対だよ、冗談じゃないからね」
握る手に力がこもると、真菜も強く握り返した。
「私も好き」
痛みは確かに心臓の片方を刺すのに、川上に対する親しみは消えない。いい誕生日を迎えて欲しい、そこに自分もいたいと思う。それでいてなお、真菜がもっともっと、より一層、果てしなく、可愛くてどうしようもない。
その時、幸福だと思った。
川上の為に、真菜に教わって、湯を注ぐ時。豆が抱えきれる程度の暖かな水を湿らせる時。豆がたっぷりと、一滴も逃さず過不足なく膨らむ時。そこに宿るもの、温かさも苦さも全て、まぎれもない幸福だ。膨らんだ後で静かにゆっくりと満ちていく、抽出された一滴一滴は、幸福の記憶だった。口に含めばより深く、香り高くよみがえる。
幸福を得て、二人を含んで、区別の意味を失いながら、そのすべてが一つ一つ、自分自身をかたどっていく。
「良ちゃんにはまだ内緒よ」
真菜が人差し指をその淡い色の唇に当てる。
「うん」
雪本は頷きながら、その仕草を真似した。




