第三十五話 首元および急冷法について
翌、八月十三日。
川上は正面から雪本をじっと眺めると、雪本が羽織っているグレーがかったブルーのロングカーディガンの端をつまんだ。つい一時間ほど前に買ったばかりのもので、どちらかと言えば川上の好みによせて購入したもののうちの一着だった。
「本当に似合うな」
「やっぱり?」
そう返すと、川上は苦笑いした。
「自覚があるのか」
「着ていて楽しいです」
「ならよかった」
最後に買ったもので、雪本がその日元々来ていた物との相性が良いのもあって、そのまま着ていた。
真菜の家の最寄り駅から三駅ほど行ったところに、衣料品店が多数入った大きなショッピングモールがある。二人はそこで二時間ほど買い物をして、また電車に乗って、今度は二駅分だけ戻って、先週に真菜と雪本が見つけた例の和食居酒屋を訪れた。
「夏服って、もう安くなってるんですね。真夏も真夏なのに――」
「九月に入ってもまだまだしばらく暑いのにな」
ありとあらゆる夏服が大幅に値下げされていたことで、雪本はプレッシャーをさほど感じずに自分の欲しいものを試していくことができた。
その一方で、秋物のチルデンニットをこっそりと眺めていたら川上に見つかっておごられてしまうというようなこともないではなかったが、それでも欲しい気持ちが勝ったおかげで息苦しさは感じなかった。楽しい買い物だった。
「首回りが開いている方が好きなんだな」
「はい。首がきついとむずむずするんです」
「……”それ”は、平気なのか」
川上は雪本のネックレスをためらい交じりに指さした。真菜からもらったものであることは以前に話していた。
「デザインは気に入ってたから、頑張って慣れました」
「正直だな」
その言葉がどこにかかったのか読み切れずにいる雪本を見て、川上は背筋を伸ばして笑いなおした。
「実際、首元が開いてる方が好きなら、そういうのがある方がバランスが取れるよ。お前は特に、細身だし。何もないと少し寂しいかもしれない。――でもお前、いうほど普段、首回り開いてない気がするけど。お母様には伝えなかったのか?」
「向こうの厚意で送ってくれるから、余程じゃなきゃ注文つけないじゃないですか」
「まして、ファッション業界の方相手だとな」
「ええ。……ただ、それだけじゃなく、首回りを開けたくないっていう気持ちもあって」
さて、どう説明したものかと思っている間に、川上は既に頷いていた。
「なるほど」
「はい。気にしなくてもいいと言えばいいのかもしれないですけど、なんとなく着づらくて。……でも最近は、あんまりそういう事が気にならなくなって。もちろん、変なことにならないように気を付けてるし、用心はしてるんですけどそうじゃなくて」
雪本は川上の目を見た。川上は聞き届ける準備ができているようだった。それでいて雪本が何を言おうとしているかもわかっているようだった。だからこそ言葉にしたいと思った。
「俺は、そういう格好が着ていて楽だし、そういう風な格好をしてたい。そのうえで……変な事態に巻き込まれるのは嫌だけど……そういう格好をしている自分は好きだから、それでどんな目で見られても、きっと楽しいんです。見られるだけなら。そういう自分を、見せる分には。だから今日、凄く嬉しかったし楽しかったし、またこういう機会が欲しい」
「そうか。だったら良かった」
川上はまっすぐに雪本の目を見てそう言った。
「来た甲斐があったよ」
「ありがとうございます」
と、川上は、礼を言われることなんてないけど、と、視線を伏せてしまった。いつもよりも不器用なしぐさだった。
「俺も今日、何か買うつもりだった。それこそ何か……この顔に合うような」
「はい」
「うん、でも」
視線を伏せたままの川上は、次の言葉を出すのにやや時間をかけた。
「……なんというか、うまく見つけられなくて」
「ピンとくるものが無かった?」
「いいや。いいなと思えるものはいくつもあったよ。普段は着ないようなもので、見る分には好きなようなものが、合わせてみると意外といけてしまったりとか――」
川上は、数回瞬きをしてから言った。
「服は好きでも、着た後の全身が嫌なんだ。どの店に行って、何を合わせてたってそうだ。多分ずっとそうなんだろうな、ずっと……」
そこで不意に言葉を切ると、雪本に目を合わせた。
「やめようか」
「え?」
「このまま話しているとよくないと思う。――また何かあったら困る」
先日”何か”あったばかりだ。次という次は、真菜が許さない以前に、川上が自分で自分を許さないだろう。雪本も少し、自分が川上の核心に踏み込みすぎたことを反省する。表には極力、出さないように。
川上は背もたれに背をつけ、雪本から距離をとると、メニューを改めて開く。既に二人はそれぞれ昼用のセットを頼んでいた。食後に軽いデザートと『当店自慢』のコーヒーが付いてくる。
「本当に、最近は水出しが人気なんだよな」
ほとんど独り言のように川上が呟いた。川上はつい数分前も同じことを言って、結局、店員にはホットで注文していた。
「川上さんは、やっぱり水出しが好きなんですか?苦味が好き?」
「そうだな。甘いものも好きだけど、基本的には」
「コーヒーって、酸味があるものもあるじゃないですか、そういうのはどうなんですか?」
「酸味も少しあるのが好きだけど………最後に苦みが残るくらいのバランスが好きっていうか…………難しい。なんだかんだその時々で飲めると言ったら飲めるしな」
雪本は頷きながら、川上の言葉をひっそり頭に叩き込んでいた。




