第三十四話 二つの約束
午後十一時半頃、雪本が自室を出ると、リビングから出てきた川上と鉢合わせた。
「ああ、そうだ、丁度良かった。雪本、明日の事だけど」
「あ、はい」
「予定通り行けそうだ。珍しく、期日通りに給料が来たから」
「本当ですか」
服を買いに行く約束をしていた。とはいえ川上は給料が入るのが遅くなることもあるので、保留になっていたのだ。
「ギリギリまでわからなくて、悪いな。他に用事が入ったなら、そっちを優先してくれていいから」
「大丈夫です、空けてました。でも、それこそ明日は、俺が自分で払ってもいいんじゃないですか」
「俺が誘って行くんだから、全額とはいかなくても、少しくらいは出させてほしい。俺もどうせ何かしら買いたくなるから」
川上は雪本に目を合わせると、少し笑みの色を変えた。
「プレゼント、考えてくれてありがとう。無理をしないでほしいだけで、ありがたいと思ってるし、嬉しいよ」
「え?」
「説教の前に礼を言えって、真菜に言われた。その通りだと思って」
川上はばつが悪そうに笑いながら、リビングの扉を軽く振り返った。まだ明かりがついていた。
「川上さん」
呼びかけると、川上は再び雪本に焦点を合わせた。返事をするように首を少しかしげながら、いつになくまっすぐな落ち着いた目をしていた。雪本はむしろかすかに勢いが付きそうな自分を、慎重に深呼吸して抑えた。
「DVD見るの、俺もいてよかったんですか」
「――ん?」
川上は目を丸く見開いて、そのまま聞き返した。言葉の意味が入ってこなかったという顔だった。
「お酒飲んで、映画見て、って」
「あ……、一応、お前が酒飲むのは駄目だよ、わかってるだろうけど」
つい声に出して笑ってしまった。笑われている川上はただ首を反対側に捻るだけだった。
「雪本?」
「ごめんなさい。――いや、ごめんなさい。わかりました。ごちそう作りますね。おつまみの方がいいですか」
「ああ、任せるよ。ただあんまり手が込んでると見るのが遅くなるし、ほどほどにしていい。必要なら、俺も前もって何か用意するし――」
「メイキングまで見るかもだし、何時間見るかわからないですもんね。わかりました」
「ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございます。映画楽しみにしてます」
川上はそこで、やっと気づいたように苦笑すると、ためらいながら雪本の肩に軽く手を置いて通り過ぎた。
「おやすみ」
「はい。おやすみなさい。明日は……」
「お互い起きた時間で考えよう、それでいいか?」
「はい」
川上が自室に入って扉を閉めるのを、軽く頭を下げて見送った。
リビングに入ると、真菜がⅬ字ソファに寝そべっていた。雪本が入ってきた物音でチラリとこちらを向いたが、両手で頬杖をついて眠そうだった。
「遅くない?」
「立ち話しちゃって」
「眠いよ。立ち話するくらいなら良ちゃんもつれてきちゃえばいいんだ」
そう言うと真菜はごろりとソファから身を起こすと、雪本の手を雑に引き始めた
「そんなに眠い?」
「ちょっと。まあでも、すぐ覚めるけどね。明日朝からご出勤なの」
「そっか、ごめんなさい。――ああ、じゃあ、俺も一緒に起きます。明日」
「いいの?七時とかだよ?」
「うん。ちょっと早く起きてたくて」
「あらら、なんかご用事?」
「服を買ってもらうんです」
「えーっ」
真菜は川上の部屋まで聞こえそうな大声を上げた。
「なにそれ、私だって雪ちゃんに服買ってもらってないのに」
「だって俺、六つ下だもん」
「何よ、じゃあ昼に起きたっていいじゃん」
「俺はまあ、最悪良いですけど、真菜さんが困るんでしょ?」
真菜は部屋の扉を開けた。暖かい色の光に包まれて、真菜は機嫌の悪い猫のように目をすがめてふざけた。
「こいつ、舐めてやがるな?」
「でもそうでしょ?お仕事でしょ?」
「えい」
力任せに雪本を押した。雪本はベッドの端に勢い、座り込んだ。
「虐待だ」
「そうだよ」
真菜はいつの間にかベッドのさらに奥の方から回り込んで、雪本の顔を見下ろしていた。
「今日は虐待する日に決めました」
暖かい隠れ家のような風景の中に、些か下世話な忍び笑いが二人分響いた。
真菜の部屋は川上よりはシンプルだが、少しずつ家具の面差しが柔らかい。私物はリビングやキッチンにも置いてあるうえ、部屋にはウォークインクローゼットもあるので、ベッドのほかに部屋に出ている家具と言えば、せいぜいドレッサーと、スタンドテーブルくらいなものだった。白を基調にしていて、間接照明も花のような作りをした繊細なデザインのそれであり、カーテンも淡い色のレースを重ねたような軽やかで美しいものだった。
「真菜」
「うん?」
真菜は長い髪を右肩の方でまとめて、前に流していた。
「最近、忙しそうだし、疲れてたら申し訳ないんだけど」
「どうした?何でも言って?」
「しあさって、バイト無いよね?」
「うん」
「お昼くらいに、何時間か貰えない?教えてほしいことがあって」
「教えてほしいこと?いいよ。なんだろな」
「ありがとう」
「お安い御用。でも、その代わり、明後日の雪ちゃんの時間、午前も午後も頂戴ね」
「何それ」
真菜は口答えする雪本の髪に指をさし入れて、気まぐれに持ち上げて見せた。
「いいなあ、こういう髪」
「普通でしょ」
「柔らかい。ふわふわサラサラ。私の髪形、こういう髪だともっと綺麗にサラッといくのになあ」
真菜が無心で雪本の髪を触っているので、雪本もそのままにしておいた。視界の端に揺れる光が目に入る。ドレッサーの上のアロマキャンドルだった。
真菜は形の美しいアロマキャンドルを見つけてはコレクトするのが好きらしい。一度たりとも同じ香りが漂っていたことはなかった。大きなドレッサーの上には、香水やハンドクリームがいくつもいくつも並んでいる。香水の瓶もハンドクリームの入れ物も、どれもこれもが扱いを誤ると壊れてしまいそうな繊細な作りをしているのに、その色どりや輪郭が、不安定な光を受けて、混じらないままに揺れて揺れて、人の視線を吸い寄せる。
「もう少し伸ばして、パーマかけたりとかしてみたいけどな」
「やらないの?」
「校則で禁止」
髪をいじっているのと反対側の真菜の人差し指が雪本の唇に触れた。
真似をして真菜の顔に手を伸ばし、左頬を支えるついでに右の親指で唇をなぞると、右肩の方から垂れた真菜の長い毛先が首にあたってくすぐったい。開いた方の手で髪留めをほどいて、髪を耳にかけてやる。お互いにお互いの唇から指をそっとどけた。




