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第二十八話 寂寞

「明日ですか」

 突然の電話に応対した川上が、珍しく、少しばかり大きな声を出した。

 榊との電話を終えて一時間半。

 雪本の作った料理を囲んで、美味しいとか旨いとかの言葉が飛び交っていた食卓は、にわかに時を止めた。

「……いや、明日は……」

礼儀正しくも、かなり正直に意思をにじませる声を絞り出しながら、川上は真菜と視線を合わせた。真菜はその瞬間はっきりと眉間に皺を寄せて、声に出さずに「断って」と言った。

「はい、あの……そう言われても、俺ももう用事を入れてしまっていて……手伝いたいのはやまやまですけど……」

しかし、川上の持つ電話越しにかすかに聞こえてくる声は、気の毒なくらいに上ずっていて、しつこく粘るのも本当に困っているからだろうと察せられるものだった。

「他の人はいないんですか。……いえ、私用です」

 真菜が思い切りため息をついて雪本に目配せした。雪本もなんとも言えず首をかしげるしかなかった。カルボナーラのチーズが早くも冷えてフォークに重くのしかかっているような気がした。

 川上はしばらくじっと相手の話を聞いて考えを巡らせ、やがて目を閉じた。

「……わかりました。……いえ。仕方ないです。すみません、こちらこそ」

電話を切った。

「明日の映画、俺はいけない」

「仕事?」

「ああ」

 観念は電話中に済ませたらしい川上がサラダを頬張る。慣れない大口を開いたもののうまくいかずに、端から危うく零しかけて押さえた。

「でも、休みだったんですよね?」

川上は雪本の言葉に一度手を止め笑った。やや目許がひきつった。

「もともと入る予定だった方の子供が体調を崩したんだ。他の人もちょうど家族旅行で出払ってる」

 確かにそれでは、川上の映画鑑賞を理由に断れないだろうと思った。そう、すぐ判断できることがまた、何とも痛ましかった。

 真菜が冗談交じりに冷ややかな声で言った。 

「家族旅行キャンセルさせればいいのに」

「仕方がないだろ」

「家族旅行だって私用じゃない、仕事できるんだから、断ったってクビにならないよ?」

「いいよ、俺はあとでどうとでもなる」

 川上はいつものように窘めたが、それはどこかで本気でなさそうな雰囲気を持っていた。

 真菜と川上の間に、家庭というものを築くことができない一因は真菜の実家のかたくなさにもある。

 だからこの時の真菜のわがままさは、義務的な性質を強く孕んでいるだろう。せっかくのデートがふいになったことへの礼儀だ。そして川上はそれを毅然とした態度では退けられず、ただし同調もできない。雪本の前ではできないし、雪本がいなくとも多分できないのだ。真菜もそれを重々理解しているだろう。

 真菜はその分栄養を取ろうと言うように、力強く鶏のグリルを頬張った。綺麗に一口で入れて、うん、美味しいと言って、飲み込む頃にはもう笑っていた。笑みに頷いて、雪本は皿に一つ残ったベーコンを口に入れた。どれだけ噛んでも塩気が薄かった。


*****

 夜の十一時半すぎ、ノックの音と、真菜の声がやけに密やかだった。

「入ってもいい?」

「大丈夫」

 やけに忍び足で、片手に持っていた青いマグカップを差し出す。

「夜なんだけど、アイスコーヒー作っちゃって。もしよかったら」

「ありがとう、もらう」

雪本にカップを手渡す寸前、真菜の手が何かに引っかかったように少しもたついた。

「あ、ごめん」

真菜はバツが悪そうに笑んだ。真菜が持っていた部分は変に熱かった。

「あのね、あしたの映画のことなんだけど」

「うん」

「ごめん、実はもう予約取っちゃってるのよ。ていうか、良ちゃんがもう、取っちゃってたみたいなのよ」

「ああ、まあでも、そりゃそうか」

「どうせ日本じゃ大して話題になってないんだから当日でも見れるって言ったんだけど、そしたら余計に意地張っちゃって」

 雪本はつい忍び笑ったが、その笑いも手短に抑えた。意地を張っても1人で見に行こうとはしない人間である川上が、よりによってその映画をただ1人鑑賞できないのが一層気の毒だったのだ。

「三人分、ぜーんぶキャンセルはもったいないからさ、私たちだけでも見に行こうよ。評判は本当にいいみたいだし」

「わかった。お昼からだっけ」

「ん。一時にはおうち出ようね」

言い終わるか言い終わらないかのタイミングで真菜の人差し指と中指が雪本の頬を軽くつまんだ。やはり常より熱い気がする指先から、ボディクリームか何かの甘い香りがした。

「それか、お友達でも呼んだら?」

「えっ?」

「映画。興味ありそうな子がいたら呼んじゃってもいいんじゃない?そしたら良ちゃんの分もキャンセルしないで済むもん」

「いや――いや、本気?」

「冗談」

 あまりに簡単な返答が却って頭に入らず、じっと目を見返すと、真菜が手を叩いて笑った。

「真っ青。そんな慌てることないじゃん」

「ちょっと」

「わかったわかった」

 真菜は立ち上がり、少し折れてしまった丈の短いルームウェアの裾を直した。太もも全体がうっすらと赤かった。

「じゃあ、お休み」

「お休みなさい」 

 真菜が室内を出て行くと、雪本は作業を再開した。

 川上と真菜の八月のシフトが概ね決まったので、それを整理しながら、自分の日程を立てていたのだ。

 川上と真菜はやはり、二人揃って休みになる日が少なかった。そのうち半分くらいを雪本自身のマンションに戻って掃除をして東井や榊に会う日として設定していく。

 一旦まとめ終えると、何故か八月の後半に固まってしまったので、前半のうち川上だけが仕事が休みである日のいくつかを代替しようかと考えたその時、川上の部屋の扉が開く音を遠くに聞いた。

 今日は川上の番であったと思い出した。


*****


 昨日、自分が何時に眠ったのかは覚えていなかったが、少なくとも目を閉じたらあっという間だったわけではなかった。途中何度か起きたような、一度も起きなかったような気もしたし、リビングの方―さらにその奥にある真菜の部屋の扉辺りからごくわずかに音を聞いたような、ただの自分の寝返りの音で目が覚めただけだったような気もしたし、ぐっすり熟睡している夢の中で聞いた音を取り違えているような気もした。

 どの可能性も平等な重さだけあるのが不意に鬱陶しくなって、雪本は立ち上がった。

「おはよう、雪ちゃん」

 リビングに座っていた真菜が、コーヒーを両手で持って笑いかけてきた。少しだけ声に張りがなかった。

「川上さん、早いんだね」

「うん。工事現場じゃないから、これでもまだ遅い方なんだけどね。――雪ちゃん、朝ごはんいるでしょ、待ってね、雪ちゃんの分今作ったげる」

雪本は首を振った。

「いいよ。自分でやれるから」

「ええ、でも、すぐできるよ」

「でも、疲れてるでしょ」

「え?」

「いや」

何故かためらった。

「ほら、真菜だって昨日、バイトあったし。ちょっと顔色悪い」

「そう?」

「俺が作ればよかったね。それか、どうせならいっぺんに、一緒に食べればよかった」

「だって良ちゃん、起こすなっていうんだもん」

 真菜は空になったカップを持って席を立った。雪本は、川上が使っていったらしい食器の置かれた席の隣の椅子に腰かけた。誰にも座られていないので少しひんやりした。

 不意に、昨日の晩からずっと息をひそめていたような、筋肉痛めいた感覚が襲った。

「雪ちゃん、パンでいい?」

自分の食器を既にシンクに運んだ真菜が、川上の分に手をかけるのを掴んで止めた。つい触りたくなった。真菜はそこに何があるかわからないように首を傾げた。

「どうしたの?」

椅子に腰かけたまま真菜を見上げる。

 今、おぼろげながらも伝えたいと思っている感覚が、何の衒いもない真菜の目に晒されてみると、変に粗くて、風が無数の穴を通った。

 重心がどんどん真菜に吸い寄せられて足が浮き、頭ばかりが重くなるようで、思わず俯く。穴だらけの感覚が表面ばかり焦げていき、手首を掴む指に力を込めると、一瞬後には真菜の腹のあたりに顔を包まれていた。

 真菜の手が優しく髪を撫で、背をそっと押さえつける。額には真菜のお気に入りのワンピースが当たって、薄い素材の向こうのみぞおちを感じた。鼻先をギャザーがくすぐり、背後に回った手首から、つけたばかりの爽やかな柑橘系の香水が、母性で上がった真菜の体温に蒸発して、俄に華やぎだした。


 雪本はそのまま背に、腰に手を回す。みぞおちに響く真菜の鼓動が少しだけ速くなった。 




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