第二十七話 榊との電話 ② (家族について)
『切る』
「やだ」
『どうせ帰り道なんだろ』
「それでもまだちょっと歩くんだもん」
いっそ切ってしまってもいいところを、わざわざため息まで寄越してくれたので、雪本はむしろ思い切ってごねはじめた。
「だって俺、今日、ホントだったら榊と東井と昼くらい食べに行こうかと思ってたんだよ。ていうか、今度行こうよ。次からはちゃんと連絡するからさ」
『そんな暇あるのか』
半分聞きたくなさそうな、半分興味を引かれたような声だった。
「全然あるよ。だって、彼女も、彼女の彼氏もどっちも働いてるもん。言うほどずっと一緒ってわけじゃないし――それに、逆に言うとさ、俺は働いてるわけじゃないからこそ、自分でわざと用事作んないと、ずっとあの家にいれちゃうんだよ。─例えば三人揃ったとしてね、三人ってことは、誰かいなけりゃ二人じゃん?」
榊は、そういうことか、と、控えめに笑った。
『じゃあお前から遊びに誘われたら、思い切り盛り上げた方がいいな』
「なんで気遣いの相談を本人にしちゃうかなあ、性格悪いなあ」
その軽口に合わせるように、榊は乾いた笑いをけたけたと短く響かせた。雪本はさらにそれを本気ととったように笑った。どこまで行っても見え透いた、育ちの良い冗談だった。
「もう宿題終わってやることもないし、家もこまめに掃除しときたいんだよ、夏休みの最後の方とか沙苗さん帰ってくるっていうし」
『もう帰国されるのか。前よりスパンが短い気がするけど』
「よく覚えてるね。そう、随分頑張ってくれたみたいで」
その時ふと、今日しでかした失態を思い出して言葉が出なくなった。ほかの人間相手ならば、思い出してもそのまますぐに忘れて会話を続けられただろうが、榊は例外的に、その失態について十二分に話せる相手だったのでつい立ち止まってしまったのだ。
いざ話そうとすると、その話題があまりにも榊側のテリトリーであるので、むしろ躊躇われるような所もないではなかったが、結局、話すことにした。
「今日、沙苗さんと電話してね」
『うん』
榊はそれまでの不自然な沈黙と、違和感のある話題展開にも極めて冷静に相槌を打った。雪本は話を続けながら、その鷹揚さに育ちの良さを見てとって、やっぱり素直だと思っていた。
「その中で父さんの話になった。で、榊にちょっと意見聞きたいなと思ったんだけど。親を苗字で呼ぶのって、どう思う?」
榊が押し黙った。耳をそばだてれば電話越しに榊の頭が回転する音が聞こえてきそうだ。
『……あくまで、榊家の感覚になるけど』
鉋で散々丸く削った後のような語り口だった。
『そもそも家の人間とそうでない人間を区分して、双方に然るべき礼儀を払うために、下の名前で呼ぶ習慣が着いたんだよ。その経緯があるからこそ、もし榊家でそういう事があったら、それはもう、とんでもない話になるとは思う』
「そうだよな、やっぱり」
『ただ、あくまで、その経緯があるからそう思うって言うだけだ。ほかの家にはほかの経緯が当然あるだろうし。……雪本は? そもそもどうしてそういうことになったんだ』
「あのね、結婚する前、沙苗さん、ずっとお相手のことを名字にさん付けで呼んでたんだって。仕事上っていうか、業界的に先輩だったとかで。その癖が結婚しても離婚しても抜けなくってさ、俺もたまにそれがうつっちゃいそうになってたんだよ。といっても、そんな、普段から呼んでるわけじゃないんだけど」
『え?』
「普段はお父さんって、呼んでるよ。本人の前で本人を苗字で呼び付けたこともいっぺんもなくて」
『内心ではそう呼んでいたのが今日うっかり外に出たってことか』
「そう」
すると榊は、ごく一瞬言葉を飲んだ後で、しっかりと言った。
『それが一番問題だろ』
「え?」
全く想定になかった言葉を喰らって思わず歩みも止めると、榊は穏やかに、しかし淀みない口振りで続ける。
『内心では日常的に苗字で呼んでいて、沙苗さんが苗字で呼んでいることについても特に問題視をしているわけじゃない。けれど実際口に出したらその途端に不安になった、だからこうして話している。――この状態そのものが一番危なっかしいと思う』
雪本は再び歩き始めた。しかし、すぐに道をUターンした。曲がる方角を早々に間違えてしまったのだ。
「沙苗さんが、父さんを苗字で呼ぶのは、それこそそういう経緯があるからで。俺とあの人の間にそういう経緯はない。だから呼んだら、多分傷つける。……当然、父さんって呼んどくべきだとは思うんだ。あの人たち、家にあんまりいられなかったから、多分そういうのすごい気にする」
『沙苗さんは気づかなかったんだろ。あとは、お前が"そういうの"を気にしてないなら、今後も上手くやっていけばいいだけだと思うけどな。榊家だって例外が無いわけじゃないし』
「そうなの?」
『お祖母様の名前は、うちの人間は誰も下の名前で呼ばない。呼んでいいのは、お祖母様の夫の、一信さんだけなんだ』
「どうして?」
『お祖母様ご自身がそう望んだから。下の名前を呼び付けるなんて馴れ馴れしいこと旦那以外にさせてたまるかって』
「でもそれだと、ほら――見分けとかの問題は?」
『まあ、もちろん面倒はあったけど。それでも案外、どうとでもなってるよ。美祈さんも私も子供の頃からそれですっかり慣れた。どう呼ぼうと、どう関わろうと、それだけで家族としての価値を推し量れる訳はないし。話を聞いただけではあるけど、少なくとも俺は、雪本のご両親の呼び名や関わり方について、なにかしら歪みのようなものを感じたことは一度もない』
「そう――」
『それでもお前は今こうやって、その話をもって来て、まだ納得をしていないわけだ』
鋭く回る頭の回転と裏腹にその声は速度を落とし、雪本を追い詰めきらない距離感をキッパリと確保した。
『お前自身がどうしたいか、それに尽きると思う』
「──そうなんだよなあ」
暑くなってきた。西日に照らされ目元に汗が落ちるのを手の甲で拭う。
『結局丸投げるようで申し訳ない』
「丸投げとか─―そんなんじゃないだろ。こっちこそごめんな、長話になったし。そろそろ忙しいんじゃない?」
『いや、こっちは全然』
「そう。こっちもまだ結構ある……」
視界半分の甲の暗闇を眺めるともなく眺めているうち、あまりの不毛な暑さに目を閉じた。そのまま佐原を呼ぶ情景を思い浮かべようとして、何も浮かんでこなかった。そもそも呼びかけてから何を話そうなどと鈍臭いことばかりでラチがあかず、人通りの少ない道を選んで早足に入り込んだ。
「俺はダメだな」
『他の人間もみんなダメなんだろ』
建物と建物の間の道で生まれた日陰が、音もなく体を包んだ。
「……ああ、そうだ。榊。東井がね、不安がってた」
『不安?』
「実はもう、お前が浜上さんと付き合ってたりするのかなってさ。東井って、ちょっとほかの人と帰り道が違うじゃん。お前とか俺とかがいないとほんとに一人になっちゃうから、結構寂しいんだと思うんだよ。せめて伝えて欲しいって感じなのかな。 もしまだ、暫く帰れなさそうなら、それだけでも言ってあげて」
『悪い、わかった』
「なんも悪くないよ。ていうか、お前が東井と帰れないなら、こっちでちゃんと東井の様子見るくらいはできるから、大丈夫。二学期以降もあんま心配しないで。連絡さえしてやれば、あいつもちゃんと、そういう心づもりでバスケ部と適当に一緒に帰れるだろうし」
つい思い出して、雪本は思わず噴き出した。
「今日は石崎と泉美さんと帰ろうとしてたけど」
『は?』
「二人は二人で、浜上さんに置いてけぼり喰らってる状態になっちゃったみたいで。それで寂しいもの同士って感じかな」
『確かに。石崎なんて、前からつるんでるもんな。じゃあなんだ、東井から聞いたっていうより、その三人から聞いたって感じか』
「そう。……まずかった?」
『別に。まあ、多少驚いたけど』
榊は飄々と答えたが、その乾き方に神経質な感触が見え隠れした。
「変な騒ぎ方はしないと思うよ、石崎も、泉美さんも」
『もちろん。そんな心配はしてない』
「二人して、恋愛沙汰で好き勝手言われると面倒なのは俺の件で十分わかってるだろうし」
『だから』
「ごめん」
『……』
「そんくらいわかってるよな、ごめん」
一瞬息をのんだ榊は、言葉のないまま一息だけ浅く吐き出した。電話越しで聞く限り、ため息というより、一呼吸分の動作が乱れたという方が近い印象だった。
『もういい。浜上さんが嫌な思いをしなければそれで』
電話口で通知音が聞こえた。
それがきっかけなのか否か、榊はしばらく黙った。雪本もそれに合わせるように耳を澄ませた。
電話越しに、軽く画面を叩く音が何度か聞こえた後、榊が、耳を澄ませている雪本を知っているかような控えめな音量で告げた。
『悪い。急だけど、通話する用ができた』
「わかった。切るね。じゃあ、なんかあったらすぐ連絡して」
『なんかあったらって……』
「お前が嫌な思いしそうだったら、愚痴で良いから、すぐ言って。愚痴るのが嫌だったら、パシリでもいいからさ」
嫌な思い、と、一度だけゆっくり復唱すると、間もなく榊は少し笑った。
『そんなの、キリがないだろ』




