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第二十六話 榊との電話 ① (恋の噂について)

 真菜の家の最寄り駅に戻り、スーパーで食材の買い足しをした。午後四時半という時間帯からか夕飯の買い物をする人々でレジはごった返している。

 

 一つの列の最後尾に並ぶのと、榊から着信があるのと、殆ど同時だった。 

「もしもし」

『同棲おめでとう』

「東井に聞いた?」

『ついさっき――今出先か』

「ああ、ごめん。うるさいか」

『いや。確認したいことがあるんだ。今ちょっと話せるか』

「大丈夫」

『新学期はどうする』

「どうするって?」

『学校』

「……学校?」

要領を得ずオウム返しすると、榊は居心地悪そうに息だけで笑った。

『同棲して、家にいたくて欠席するとか、そういうことはありそうか』

「ああ、ごめん、そういうこと」

 学校や部活動を欠席しがちだったのは、石崎の件の影響によるものだったので、石崎と和解して退部までした今となっては、欠席する理由は基本的にはないはずだった。まして榊に協力させてまで欠席するくらいなら風邪か何かをでっち上げて簡単な仮病で欠席した方が道理にあっているのだが、万が一にもどうしても、真菜や川上と接する上で数日の休みが欲しくなった時に使える手段は残しておきたかった。

「まだわかんない。基本、普通に登校するつもりだけど、もしかしたらってことがあるかもしれない。ごめん、その時はすぐ連絡するよ」

『わかった。もし休むなら、三日前にはわかってると助かる。診断書もぽんぽん出せるわけじゃない』

「うん。ありがとう。ごめん。─あと、そうだ。連絡遅れてごめん。結構バタバタしちゃってて─本当は今日榊と東井に一緒に話すつもりだったんだけど、ほら……今日お前、いなかったからさ」

『ああ、そうか』

榊の声が内気そうに揺れた。

『じゃあこっちのことも』

「聞いた。浜上さんだっけ?もう解散したの?」

『じゃなきゃ電話しない』

「そっか、そりゃそうだ。……嫌なら答えなくて全然いいんだけどさ、榊」

『答えない』

「お前はぶっちゃけ、その子のことどう思ってるの?」

押し込んだ問いに、榊が鈍い沈黙の後

『どうって』

と返した。

 雪本は眼前に伸びる列を見た。広い店舗で作られるレジ前のそれは、長い割に人数自体は大したことがなく、密度がない上で物静かでつまらない。

 雪本は声に含む笑いを少しだけ多くして、いかにも気楽そうに続けた。

「いや、だからさ。その子がなんでお前と一緒に帰りたがるのか、とか、逆にお前はその子と帰りたいのか、とか?」

一人レジが済んだのか、列がまた少し前に出る。ついでにこっそりと声のボリュームを落とした。

「その辺どう思ってるの?お前から見た素朴な感想でいいんだけど」

『嫌なら答えなくていいんだろ』

榊はやや早口だったが、語尾に少しばかりの迷いが見えた。

「もちろん。そしたら俺は俺の中で勝手に想像するだけだよ」

『おい』

「東井に言うとかじゃなく、ね。ただ俺が勝手に想像して決めつけるから。榊ってこういうつもりなんだろーなって」

 ゆっくりとため息をこぼして、榊は随分長い沈黙に入った。

 再び話し始めた頃には、雪本はもう三人分ほど前に進んでいた。

『帰る理由自体は確かにあったんだ』

抑揚を固辞したような声だった。

『部活や委員会のことで色々話し合うこともあるし、勉強の相談を受けることもある。実際、話したことを無駄にする人でもないし――。ただ、本当にそれがメインだっていう風にも見えなかったし、色々噂も届いてきてた』

「きて『た』?」

『今日、正式に』

あえて殊更淡々と話す榊に、雪本は柔らかく「ああ」と返事した。

「そうだったんだ。……言われたのは今日が初めてなんだよね」

『言われたのは。それで……」

「断ったんだろ。――あ、ごめん、そろそろ会計だ。タイム」

 一旦マイクをオフにしてズボンのポケットにしまい込み、代わりに二つ折りの財布を開いて会計に向かった。電話を切られているかもしれないとおもったが、会計を済ませ、カゴを持って荷物を詰める場所に移動してから確認すると、まだ通話が繋がっていた。

「もしもし、ごめんごめん」

『いや』

相変わらず抑揚の無い榊の声は、しかし、表面だけ平らなまま追い詰められて直径が狭まり、核の部分に肉薄してしまっているような具合に、心做し弱かった。

「断ったんでしょ?違うの?」

なお問い詰めると、榊は諦めたように笑った。

『断ったよ、悪かったな』

「悪いなんて言ってないよ。だって、好きじゃないんだから、当たり前じゃん」

『別に』

榊がまた申し訳なさそうに軽く笑い、その声に雪本は、なにか取り逃がしたような感覚になった。

『好きじゃないって訳でもない。そういう恋愛的な目では見られないって言うだけで――』

「一緒に帰るのも話をするのも楽しいって?」

『楽しいし、実際、過ごす時間として無駄とか、そういうこともない』

「これからまた話しかけられたらどうする?」

『は?』

榊は突然虚をつかれたような声を上げた。

『話しかけられたらも何も、普通に同じ部活だし、話はするよ』

「じゃあ、また一緒に帰りましょうって言われたら?」

『別に用事がなければ、帰るよ』

「え、帰っちゃうの?」

『帰るよ、別に。断る理由がない』

「ふった相手だってことが、結構つらくない?」

言ってから失言であることに気づいてももう遅かった。一瞬の間があってから、榊の小さな笑い声が、クスクスと長く聞こえてきた。

「ごめん、今のなし、なしっていうか、違う」

『いや、いいよ別に、分からなくはないし』

「俺だってね『あー好かれてるな』って分かってても、一緒に過ごして楽しい人とかいなくないし」

『いや、俺に弁明されても』

「聞いて、頼むから」

『そう感じたところで悪いことじゃないだろ、それこそ』

榊はまだ半ば笑いつつも、着地点を見定めたようなトーンで言った。

『ふってしまった相手と一緒にいても平気なんて言うのも多分、そこそこ気持ち悪いだろうし』

「そうかな、普通に優しいって言うか、人間力じゃないの、それこそ」

『……浜上さんが離れたがっているようなら、もちろん距離をとるし、また交流を持とうとするならそれでもまったく問題ないんだ。だからこそ、一緒に帰るだとかそういう、本来はあっさり乗れたような誘いがあったとして、それを相手の好意を理由に断れない。自分が逆の立場だったら、そういうのは苦しいだろうと思って。……そう、だから、気持ち悪いは気持ち悪いんだよな』

「気持ち悪いって……そんなことないだろ」

『浜上さんがどうとかじゃない、ずっと自分の問題なんだ。考えれば考えるだけ自分の方にばっかり話が進む感じがして』

呼吸を整えるように笑った。

『それが心底申し訳ない』

「浜上さんに?」

その問いには、榊は答えなかった。


 雪本が食材を手提げにまとめてスーパーから出ると、寒すぎるくらいの空調の建物から出たばかりの体を、湿度を伴った熱気がむしろ優しく包んで、自動ドアからは閉まり際に涼しい風の餞別があった。あまりに身近な爽やかさに、雪本はつい笑った。

「素直だなあ、榊」

『素直ならいいわけじゃない。ロクでもない本音なら黙ってろって話だろ』

「いや、だから、それがもう素直なの」

 榊は少し面食らったように黙った。その沈黙がまた素直で、雪本がまた笑うと、わざとらしいほど乱暴な舌打ちが聞こえた。

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