第二十三話 三人暮らしのある日
八月四日。
「あ」
真菜が目を瞠った。程よく薄暗い店内から、やや古びた窓ガラスの向こうに金髪の長身を見つけると、雪本は席を立って扉を開いた。
「お疲れ様です」
「ああ、悪い」
「遅いよ」
「長引いた」
川上はやや疲労のにじむかすれ声でそう言いながら、雪本の隣の席に座った。座面の高い椅子の上で、長すぎる脚が少し邪魔そうだった。
「何か頼んだのか」
「飲み物だけ。食事はまだです」
「大分待っただろ。雪本だけでも食べさせろよ」
「一時間待ったよ」
真菜は肘をついた方の手で非難がましくグラスを揺らしながら言った。三杯目だった。
「でも、雪ちゃんが良ちゃん待ちますって」
「まだ八時だし、全然平気ですよ」
「普段食べるより遅いだろ。あんまり食べるリズムを崩すな。俺も時間を守るようにするから、お前もちゃんと食事をとれ」
「はい、すみません」
*****
川上は今、一人暮らしの自宅から布団を持ってきて、雪本と真菜と共同生活をしている。
まず初めに決められたのは食事のルールだった。真菜や川上は仕事があり、特に川上は時間帯がばらけ、行きが早朝の時も、帰りが深夜の時もあった。
そこで、川上のシフトを最優先にし、川上が厳しい日は真菜と雪本の都合に基づいて、朝食と夕食を作る当番を配分した。
今日は雪本が食事を作る日だったが、川上の帰り時間が読めなくなった段階で、真菜が外食を提案して今に至っている。
「お腹減ったなあ、何食べよっか?」
「豚肉がいい。ほら、これ」
パプリカやトマトなどが一緒に添えられた豚肉の塩焼きの写真を、関節の目立つ川上の指がトントンと叩いた。
「あ、これ私も食べたい」
「雪本は食べるか」
「あったら食べます。あと俺、これ食べたい」
川上が店員を呼んで注文を済ませると、真菜が頬杖をつきつつ尋ねた。
「今日、家具屋さんの方だったんでしょ?」
川上はうなずいた。
「最近色々あって、人手不足だ。シフトが乱れやすくて」
「あんまりひどくなるようだったら辞めちゃったら。工事現場の方もあるんだし」
川上は、週に数回工事現場のアルバイトをしているのに並行して、また週に数回インテリアショップでも働いていた。
工事現場は割りこそよいものの肉体的な負担があるため、比較的軽作業で短時間勤務も可能なバイトも入れておく、というスタンスであったはずが、最近ではインテリアショップの方がシフトの自由がきかなくなってきているらしい。
「明日は工事の方ですよね?」
「ああ。だからそう遅くはならない。七時にはまず帰ってると思う」
「よかった。じゃあ、明日こそ、俺が作りますね」
「ありがとう。……ああ、そうだ。明後日のシフトがなくなったんだ、明後日は俺が作る」
「なくなったの?」
真菜が心底物珍しそうに言った。
「じゃ、二連休?よかった、久しぶりじゃない?」
やや控えめに口角を上げた川上が
「この間店長のシフトを変わったから、その埋め合わせだってさ」
と、白ワインに口をつけながら付け足した。機嫌がよかった。それと同じくらい、目元に疲れが見えた。
真菜は雪本越しに、自分の事のように笑った。
「私も明後日は何にもないや。やったね。みんなお休みの日か」
真菜の言葉に、川上はややあってグラスを置き、ポケットの中のスマートホンを取り出した。
「映画を見ようかと思って」
「映画?」
「隣駅の映画館なら明後日の予約が取れるな」
すると川上は「迷わぬうちに」というようなしぐさで雪本を見た。
「行くか。三人で」
「え、いや――」
「あ、いいじゃんいいじゃん」
真菜の弾む声に振り返ると、カルーアミルクの甘い香りをほのかに漂わせて、楽し気に目を緩ませていた。
「それとも雪ちゃん、何か予定ある?」
「何も――でも、せっかくなんだから、二人で――」
「それは雪ちゃんがいない日に時間が合えばでいいよ」
迷いなくハッキリと、真菜はそう言った。川上も、今度はしっかりと重心の降りた様子で、雪本を見据えた。
「こういう時にお前を外すくらいなら、まず三人で暮らさないよ」
「雪ちゃん、夏休み入ってからまだ全然出かけれてないでしょ」
二人の言葉は尤もだった。しかし、川上と真菜の休みが被り、なおかつ雪本が何かしらの用事を作って家を空けるというタイミングなんて、この先どれだけあるか分かったものではない。少なくとも現時点では、夏休みいっぱい丸ごと、川上と真菜と過ごす以外の予定は何も入っていなかった。
「あ、でも映画の趣味が合うかな」
真菜の言葉に、川上が思い出したようにスマートホンを操作した。
雪本に差し出した画面には、その映画のポスターが映し出されていた。ややひんやりした重みのある色彩が特徴的だった。フランスの映画で、いくつかの賞を受賞しての日本上陸ということもあってか、その宣伝文章にやや硬い高慢な気配はあったものの、あらすじを読んだ段階で続きが気になった。また、川上がこの映画をどういう理由で見たいと思い、実際に見てどんな感想を抱くのかが気になった。
それが決定打になって頷くと、誰よりもまず川上が安堵した色を見せた。
真菜はすぐにスマートホンを開いて、映画の予定をカレンダーに打ち込んだ。雪本もジーンズの右ポケットに入れている端末の輪郭をなぞった。
母の沙苗が日本に帰国する日を再度確認したくなったのだ。
*****
翌、八月五日。
雪本は真菜の部屋を一旦出て、電車を乗り継ぎ、自分が一人暮らしをしていた部屋に戻った。留守にすることが多くなり、また今後も何度帰ってくるか未知数だったので、ここらで一度本格的に掃除をしておこうと思ってのことだったが、もともと家具が少ない上こまめに掃除していた甲斐あってか、埃はさほど溜まっていなかった。
密閉されていた夏の空気を窓から逃がして一息つくと、時計が午前十時頃を指している。
沙苗に電話をかけることにした。
向こうは夜の八時ごろなので、運がよければ仕事が済んでいるかもしれないと思ったが、実際はまだ仕事中だった。
『でも平気、皆でだまーってパソコンいじくってるって感じの職場じゃないしね。どいつもこいつもバタバタしてるから、全然へっちゃら』
「すみません、突然」
『いいのいいの』
沙苗は軽快にそう言った。突然で予期していなかった電話に、却ってはしゃいでいるようだった。
『はー、いいねえやっぱり、会うのが余計に楽しみになっちゃう。疲れも吹っ飛んじゃった。ありがと、直ちゃん』
「前よりもお仕事忙しそうですけど、大丈夫ですか?」
『そうなのよね、最近ちょっとバタバタしてて。……やりたいことがやっと軌道に乗って、その影響でって感じなの』
「そうだったんですか」
沙苗は三か月ほど前に新プロジェクトに携わった。構想をいくつも抱えつつ新しい情報をさばかなければならない、と珍しく弱音らしいものをこぼしていたが、ついに自分の狙いを達成するタイミングを得たようだった。
「おめでとうございます」
『うん。だから連絡もまちまちになっちゃって――ただでさえ全然会えてないのに、ごめんね』
「俺は全然平気です、沙苗さんがやりたいことできてるって聞けて、そっちが嬉しい」
雪本は、電話口で心から頷いた。
自分の中で希望を練り上げ、具体的な行き先を見定め、なすべきことを積み重ねる沙苗が、また一つ、順当に夢を叶えているのが清々しかった。
沙苗がアッと大声を上げた。
『そう、佐原さんも最近大きい仕事が入ったって』
「佐原さんが?」
言ってから弾かれたように口を手でふさいだ。その一瞬でひどく息が乱れ、油断した後悔と、沙苗に気取らせまいとする力みで、思わず指の端っこを静かに噛みしめる。
幸い、沙苗は途切れることなく話を続けた。
『先月お仕事した相手と、話が合ったらしくてね、随分気に入られたんだって。今が一番仕事が楽しいって言ってたよ。来週、写真たくさん送ってくれるって。私が日本に戻る時、一緒に見ようね』
「はい。――あの、確認なんですけど、沙苗さん」
『うん?』
「日本に帰るのはいつごろになりそうですか?」
『あ、えっとね、八月の……二十九日かな』
「わかりました、何か食べたいものとか」
『そうだなあ』
沙苗は一瞬悩むそぶりをして、すぐにはにかみながら言った。
『やっぱり、ミネストローネかな。直ちゃんの美味しいから』
「いつもそれじゃないですか」
『いいじゃない、美味しいんだもん。直ちゃんさえよければ』
「もちろん、全然平気です。じゃあ、八月の二十九日に」
『うん。楽しみにしてるね。ああ、ごめん、呼ばれちゃったや、行かなきゃ』
「はい。沙苗さん、体に気を付けて。忙しくしすぎて体壊したらおしまいだから……」
『はーい。それじゃあね』
通話が切れると、雪本はうずくまって、強張っていた息を開放した。途端に汗がにじんでくる。家に帰ってからこっち、窓を開けるだけ開けてエアコンをつけていなかったのだ。起動させると、その冷気の広がりのスピードに驚く。
真菜の部屋の広さを不思議な形で再認識しながら、雪本は掃除機を引っ張り出しに立ち上がった。
佐原というのは、沙苗の元夫で、雪本の実の父親だった。
結婚していた頃から沙苗がちょくちょく「佐原さん」と呼んでいたので、雪本もそう呼んでしまいそうになることはこれまでもあったが、沙苗にも佐原本人にも、誰相手にも「佐原さん」なんて実際に口に出したことはないのに、なぜ今日に限って口を滑らせてしまったのだろう。
時間とともに「お父さん」と呼んでいたその習慣まで薄れ始めたのかと思うと、内臓の中がひんやりとするような、嫌な罪悪感があった。
*****
中学二年の冬の事だった。
佐原はその日も仕事が夜遅くまでかかっていて、酷く疲れていそうだった。
作っておいたビーフシチューを温めなおそうとする雪本を、玄関に立ったままの佐原が呼び止めた。
「沙苗と離婚するかもしれない」
少し驚いて、それから返事に迷った雪本の沈黙を、どう受け取ったのか、佐原は視線を伏せ、声を震わせた。
「ごめん。直」
佐原は同年代の男と比べて、十数年分若く見える童顔の持ち主だったが、それだけに、悲しみにつかりきったような彼の表情は、いよいよ痛々しかった。雪本は佐原の姿を見ていられず、焦点をずらしながら、もっとも確認したかったことをまず尋ねた。
「喧嘩をしたとかじゃ、ないよね?」
「違うよ」
佐原がきっぱりと否定して、雪本は全身に安堵が巡るのを感じていた。本当に正直なことを言ってもいいのなら、二人が憎みあって別れたのでなければ、それで十分だった。
沙苗と佐原は、二人とも激務についていた。
二人とも自分の仕事を愛していた。
しかしそれ以上にお互いがお互いの事を愛していたし、さらにそれ以上のうんと絶対的な愛情を、一人息子に全力で注いでいた。
少なくとも雪本にはそうした実感が確かにあった。
雪本が小学校を卒業するまで、二人は仕事を相当セーブし、できうる限り家族の時間を確保するよう必死になっていた。むしろ二人の方では息子が家を出ていくまでその状況を続けようとさえしていたが、中学に上がった時点で、雪本の方からそれを制止し、頼み込んだ。
『二人の好きなように働いてきてほしい』
一人息子からそう告げられた二人の間で、どんな話し合いがあったかは知る由もないが、結論として、二人は息子が生まれる以前のペースで仕事を再開した。
以来、沙苗は日本中を飛び回り、海外に飛ぶことさえも増え、家にはほとんど帰らない状態が続いた。
佐原も佐原で、仕事場は概ね限定されてはいたものの、深夜の帰りになることがほとんどになった。
沙苗と佐原が離婚をすれば、勿論どちらかとは会いづらくなるのだろうが、仲違いをしたのでなければ、全く会えないわけではないのだろう。そしてどちらとも大して会話する機会が無いのは、沙苗と佐原が結婚していても同じことだったし、雪本はふたりが仕事に打ち込むことを半ば望んでいた。
二人が思う存分仕事をし、二人が愛しあっていて、それさえ確信出来ればどうにかなると思った。
しかし、佐原はその日、ひたすら「ごめん」を繰り返した。
雪本はそれを端から端まで遠慮し続けた。
その一方で、佐原の顔は徐々に常の若々しさと力を取り戻し、雪本は却って委縮していった。
その時のことは幾度か思い返してきたが、思い返せば思い返すたび、なぜか自分で自分を恥ずかしく感じるようになった。
そして毎回、恥ずかしさの波が引くころ、すぐにでも佐原に電話して、その時のことを詫びたいと毎度のように思い立ち、電話をかける寸前まで行ってから、何について詫びればいいのか、まるでわかっていない自分に気が付くのだ。




