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第二十二話 川上との一日④

 食材と調味料の購入をすませ、再び真菜の部屋に帰ると、時刻は午後七時近くになっていた。

 改めてリビングに広がる段ボールを見回して、川上が嘆息する。

「やっぱり多すぎる」

「でも、この本とか、あの珈琲豆とか……向こうで見た覚えがなくて」

川上は雪本が手に取っていた本を受け取ると、ページをめくって、すぐに閉じた。

「どうも店主からの餞別って感じだな。荷物を預ける直前に渡したんじゃないか」

「今日新しく、荷物が追加されちゃった、みたいな」

雪本のおどけた言葉に、川上は柔らかく笑って見せた。

「住み込むのをやめるってだけで、今後も普通に働くのに……ああ見えて、結構熱い人なんだよ」

「熱い?」

「涙もろいし。お前のことも、かなり心配してたよ」

つられるようにして雪本も目を伏せ笑った。

「まあ、ド平日の昼間から高校生が入り浸ったら、どうなってんだって思いますよね」

 物音がして視線を上げると、川上が、珈琲豆の袋がいくつも入っていた段ボールを折りたたんでいた。雪本は川上と同じようにしゃがみこんで、ひとまず衣類をひとところにまとめ始めた。

 不意に川上が言った。

「心配され慣れてるんだな」

「……は?」

「ん?」

川上が首をかしげた。その態度から、聞こえないなら聞こえないでもいいと思って、先の言葉を発したことが読み取れたので、雪本はここぞとばかりに川上の目を見据えた。

 川上はさすがにそれ以上誤魔化さず、続けた。

「慣れてるってのとは、少し違うのかな。間違ったことだとも思わないんだけど。学校のはずの時間帯、高校生がカフェに入り浸る、お前の言う通り、それは、普通に考えれば異常事態だ。実際にあの人もそれを心配していたんだし。でもお前、それが心配をかけることだってわかってはいるんだな」

「それは、もちろんですよ。心配かけていたことは申し訳ないと思います。真菜にも心配かけて、苦労も掛けたんだし。でも、心配かけたくないからって、頑張って平気な顔して、何の問題もないですって学校に行けるような状態じゃなかったんです」

「そうだな。悪い。……否定したかったわけじゃないんだ。お前だって店主に、『余計な心配してんじゃねーよ』とか思ってるわけじゃないだろ。心配をかけるのは仕方がない。心配いらない人にだって勝手に心配してしまうのが人間なわけだから」

「川上さんが俺にご飯を作ろうとしてくれるのも、言ったら、そうですよね」

「心配……」

川上は一瞬言葉に詰まった。しかし、じっくり時間をかけて飲み込んで

「そうだな。心配をしたんだな。勝手に」

と頷いた。

「勝手に、とは、言う気ないです。ごめんなさい、言葉のあやというか」

「いや、いいよ」

「すみません。ごめんなさい、確かに俺、その辺の感謝っていうか、感覚が鈍いのかもしれない。自覚してるつもりだったけど、予想してるよりずっと真菜に気を遣わせてたり……」

 そういうと、川上は、首を緩く横に振った。

「真菜については、そういう反省はいらない。真菜は人と関わるのが好きなんだよ。言い換えれば、首を突っ込むのが好きなんだ。こっちからしてみれば突っ込んでほしくないときも、遠巻きにじろじろ見てくるような、そういう人間だから……。だから、それこそ本当に、あいつが勝手に、お前を見てただけなんだろう」

 雪本は川上の目を見た。川上は強くにらみ返しこそしなかったものの、無理には拒まず、肩をすくめて穏やかに見返してきた。その目の光で、判断した。

「だから、真菜を好きになったんですか」

 川上はじわりと目を細めて、うなずいた。形の良い目の中の、部屋の灯がゆるくゆらいだ。

 いつか写真で見た時の面影が最も色濃く出た瞬間だった。 

「……大学の部活が、同じだったんですよね」

「そう。雪本は何かやってるんだっけか」

「高校から陸上部に入ってました。ついこないだやめましたけど」

「ああ、そうだ……随分足が速いって聞いたよ。中学の頃は何もしてなかったのか?」

「してません」

「習い事も?」

「いえ。……そういえば、小さいころからそういうの全然してないな。川上さんは何かしていたんですか?」

「小三からサッカー漬けだ。父親は背が高いんだからバスケでもやったほうが、って何度か言っていたけど、それでも試合は見に来たし、必要な物は全部揃えてくれた」

 雪本は百六十センチに達するか否かの身体を最大限にしならせてバスケットボールをする、東井の姿を思い出し、思わず晴れがましく笑ってしまった。川上はそれを不快とは取らずにいてくれたようだった。雪本は尋ねた。

「今も、サッカーはやるんですか」

「いや。もうずいぶんやってない。社会人のサークルに入ろうかとも、一時は思ったけど。……あんなに協力してもらったサッカーもやめて、大学もやめて、今こうしてるんだからな」

「川上さんにとって、今こうしてるのは、不本意ですか」

川上の上瞼がかすかに震えて、目の端に反射していた光が一つ、見えなくなった。

「わからない」

それだけ言うと、川上はただ手を動かした。雪本もそれに倣った。


*****


 真菜の荷物は数こそ多かったが、家具を移動させてきたわけではないので、力作業は必要なかった。

 服と書籍を真菜の部屋に、コーヒーミルをはじめとした調理系の小物はキッチンに、シャンプーやリンスやボディーソープやヘアオイルや化粧水はとりあえず一旦風呂場の戸棚に――と、大まかな仕分けに沿って片付けていけばそれでよかった。

 

 三時間もあれば荷物は片付き、後の時間は荷解きで出たごみの片付けと掃除をした。掃除といっても、その段階で既に九時は回っていたので、掃除機はかけられず、拭き掃除と風呂掃除を軽く行うにとどまる。

 雪本が掃除をしている間に川上が手際よく食事の支度を整えてくれていたので、二度目の夕飯はどうにか十一時前までに済ませることができた。

「美味しかったです、ごちそうさまでした」

「そりゃよかった」

 雪本が頭を下げると、川上も合わせて一緒に下げた。美味しかった、というのは社交辞令で言ったのではなくて、本当のことだった。簡単な肉と野菜の炒め物と、柔らかく炊かれた白米と、それだけではあったが、炒め方や味の絡ませ方も手慣れた人間のそれだった。

「父親がそこまで料理上手ではなかったから、食べたいものがある時は小さいころから自分で作るようにしてたんだ。幸い、母が料理の上手い人だったみたいで、直筆の料理ノートが戸棚の奥にしまってあった。父親ももちろん、そのノートがあるってことはわかっていただろうけど……今思うと、母の字を見たらそれだけで、たまらなかったのかもしれないな」

 それももうわからないことだけど、と、川上は買ったばかりのマグカップに日本茶を入れて差し出してきた。雪本は一口口をつけた。やや苦みが勝るが美味しい。

「足が速いねって言われたんだ、真菜に。サッカー部も、たまに走ってタイムをとることがあって。マネージャーだから、それを見たんだろうな」

「他のマネージャーとか、部員には、言われたことなかったんですか」

「ない。――レギュラーには入れさせてもらっていたんだ。未経験者も多かったから、キャリアというか、歴を買われてって感じで――頑張ってるなとか、良く練習してるねとか……要するに、真面目だとか。背が高い、ともよく言われた。でもそんなことは、部活のメンバーじゃなくたって、サッカーやってなくたって言えることなんだ。同じ授業をとってるような奴なら全員、川上は真面目で背が高い奴だ、くらいの事は知ってるんだよ」

 川上は笑みを浮かべかけて、それを抑えるように口元を力ませ俯いて、ただ手元のカップを両手で包み込んだ。はにかんでいた。

「足が速いから、必要なところにすぐ移動できる、だから試合全体がスムーズになる、尊敬する。……そんなことを言ってきたのは真菜だけだった。真菜はもともとそういう事の出来る人間なんだ。俺に対してだけじゃなく、どんなやつにも、同じように目を向けて、何かを見つけて、見つけたらそれを伝えずにはいられない」

 川上は、不意に雪本を見て、瞬きを二回してからカップで少し唇を濡らした。

「……はじめはマネージャーとして、純粋に尊敬してた。そしたら向こうが尊敬するとか言うもんだから、こっちももっと尊敬して、どこかでそれを伝えたいと思って……気が付いたらもう、ずっと、目で追ってるんだ」

「……聞いてもいいですか」

「いいよ」

「川上さんは、真菜の浮気を、許せないって思いますか?」

「どれのことを言ってる?」

川上は口元に抱えたカップ越しに、ただ聞き返しただけという表情で雪本の目を見た。

「全部です」

雪本もカップを持とうとしたが、中指の背がカップの腹に当たった瞬間予想外の熱さに引っ込めた。 

 再度取っ手に指を通そうとした矢先、川上の声が水面をかすかに揺らす。

「雪本はどう思う、そういうことについて」

「……そうですね……多分、場合によるのかな。今回は、当たり前だけど想定してないことだったし、ショックではあった……と思います」

 川上は、そうだな、と、芯から来るような深い声で答えて、それから静かにカップを置いた。

「真菜とのことを、隠してたんだ。自分でわかってたんだ、付き合えてるのが奇跡だっていう事は。はたから見たら何かの手違いに見えるんだろうと思って、それを思い知らされるのが本当に嫌だった。でも……そう、そういう理由で隠していたはずなのに、浮気ってのはまるっきり、想定してなくて。母は早くに亡くなったけど――いや、だからなのかな、父は母に今でもぞっこんで、だから余計に……。いや、親のせいじゃないか、わからないな。でも本当に、予想もしていなかった。間抜けだな」

「間抜けって」

「想定も予想もしてなかったくせに、いざそうなったら納得したんだ。だったら初めから対策をとるべきなんだ。間抜けで合ってる。想定外で、ショックも受けた。隠していたからこうなったんだと思うと、先輩に対して本当に申し訳なくて、ただただ申し訳なくて、うらむ暇もない。真菜から事情を打ち明けられてもゼロから百まで全部すんなり頭に入る、予測はしていなかったけど、全然ありうる話だし、無理からぬ話なんだって」

 川上はそこで、ふと言葉を切った。言葉に詰まったのかと思って、雪本が視線をあげると、川上の視線は予想外にも雪本に注がれていた。雪本の目の色を確認するや、すぐにまた話し始める。案じられていたのは雪本の側で、案じたのは川上の側だった。川上の表情も態度も、ただただ冷静でしかなかった。

 それがとても理不尽だった。

「……いわゆる、彼氏の自覚、みたいなものか。そういうのがなんだかもう、頑張らないと見つけられなくなってくるんだ。もとからつりあえてないと思ってたから余計にあっさり。……でも、どうなんだろうな、頑張らないと見つけられない、じゃあ頑張ったらもう一度取り戻せるとして、俺はこの場合、頑張るべきなのか? つりあってないと思ってて、浮気されてもなんだかんだとボーっとしてるようなやつが”頑張って”彼氏面して、それは……それは真菜の為になるのか?真菜の為でなくても俺自身の為に……わからないな、やっぱり。何度考えても――」

 川上は膝の上に置いていた手を出して、直接カップの腹の部分を持って残りをあおった。空のカップをそのままキッチンの流しに持って行く。雪本が自分の分を持って立ち上がると、まだ残ってるだろ、ゆっくり飲んでていいよ、と、困ったように言った。

 川上はカップだけでなく、雪本と川上が食べ終わった夕飯の食器、そして使用したフライパンまで、いっぺんに洗い始めた。

 雪本はその間に何とか自分のカップを空にして川上に渡してしまいたかったが、どうしても熱くてうまく飲み進められない。

 取っ手を掴んでいるだけでもカップの腹から怖いくらいの温度の気配を感じられるというのに、川上はどうして直接つかめたのだろう。

 熱くなかったのか。

 熱いけどこらえたのか。

 ――どうでもよかったのか。

「なあ、これは真菜が悪いんだと思うか?」

洗い物を終え、引いた椅子と机の間に体を滑り込ませながら、川上は問いかける。

「さっきも言ったように、俺は、真菜が浮気をするって発想がなかった。だから、浮気しないでほしいとか、そういう事も言わずに来ていた。真菜は謝ってきたけど、そもそも約束してもないことなんだ。どうして、何を思って先輩とそういう風になったのかも聞いた。言っていることはよくわかるし、感覚的にも理解できなくはなかった」

「川上さん」

「理解できなくはない。無理して言ってるわけじゃないよ。強がってるわけでもない。本当にわかるんだ。どうしてもそうしたいと思ったら、仕方がない。俺はどうしてもそうしたいと思って真菜に交際を申し込んだし、その希望はかなえられた。先輩もどうしてもそうしたいと思って、真菜に交際を申し込んだ。四年付き合った幼馴染がいたらしいけどその女性とも別れたらしい、真菜に思いを伝えるために別れたんだ。俺と真菜が付き合っているなんて知りもしないで……本当に申し訳ない。この件について、先輩には何の責任もない。あの人は悪くない。じゃあ、真菜が悪いのかと言って……そりゃ、先輩に対しては加害者でしかないだろうけど……だからといって、俺に対する加害者ってことにしていいわけでもないだろ。それはこじつけだ」

「こじつけですか?」

「こじつけだよ。俺自身が、真菜は悪くないし、仕方のないことだと納得してる。そこじゃないんだ。頭や理屈では、真菜が浮気をしたことが一番悪いと、思っているけど……なんていうんだろうな、少なくとも、感覚的にはそこじゃなかった」

 川上は、俯きがちに小さく頷いて、言った。

()()()()()()

 窓から入る夏の夜風に冷たいムラを感じながら、雪本はゆっくりと、カップを両手で包んだ。冷えた手にはまだ熱かった。

「俺が真菜との交際を隠したいと思ったのも、一番根本的には、要は”そこ”なんだよ」

「川上さん」

「人間の魅力を左右する要素は他にいくらでもある。コミュニケーションの取り方だとか服の趣味だとか、しぐさ一つでも。ただ先輩はそもそも、そういう、顔以外の部分についても相当完成された人だったし。だから、」

川上はふと顔を上げ、雪本と目を合わせると、軽く肩をすくめて声の勢いを落とした。

「だから、まず顔を変えてみようと思ったんだ。それでこうなった。ただ……とにかくなんだかよく分からない頃のことだから、自分でもあまり、その時のことは覚えてない。とりあえず貯金を全部下ろして足りない分は働いて、とりあえず手術して、それで真菜に会って、泣かれたんだ。リベンジのつもりもなかったのに泣かれたって気分がよくなるわけがない。何も解決されないし改善もされない。というか余計戻れなくなった。顔以外の部分をどんなに自力で磨いたって、顔はもうほら、これだから」

川上の右手の人差し指が、川上のやや日焼けした首筋のあたりを起点に、くるりと円を描いてA先輩の顔を囲った。A先輩の顔は今までにない笑い方をしようとして、口元のあたりをやや硬くこわばらせた。

「ここまで来て、真菜と別れたくないとか、逆に、別れたいとか、そんな気持ちがまとまるわけがない。極論で言ってしまえば、人間、本気で好きだと思える人間と一緒にいるべきだろう。真菜だって同じだよ、真菜が誰と一緒にいるかなんてそんなのを決められるのは真菜本人だけなんだ。性格も人格も見た目も理想通りの男がもしいるんならそいつと一緒にいようと思って当然だ。そういう相手と引き離す権利なんて俺にあるのか。それは俺がそういう相手でないのが悪いんじゃないのか。今はもう真菜を好きなのかどうかすら怪しいのに」

「真菜は」

雪本は苦しさに耐えかねて遮った。

「真菜は、でも、謝ったんでしょう。川上さんに。先輩とのことを。――やっちゃいけない事だったって、真菜自身が認めてる」

川上は目を伏せた。

「そうだな」

「それに、大体――大体、川上さんが整形をしたからってなんで川上さんが責められるんです。そもそも整形って責められることですか? そんなに信頼を失うようなことですか? 真菜の親御さんは、二人の事情を知らないんでしょ? だったらホントにただの偏見じゃないですか、中身は何も変わってないのに、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 胸ぐらを掴まれて息ができなくなった。重たいものが床を擦る不快な音に目を細めると、狭まった視界の中で距離を詰める川上の黒目が、しかし、あまりにも昏い。雪本は頭を庇うべく腕を交差させた。

 川上は、プレスしすぎた屑の表面を撫でるように、口の中で低い音を転がした。

「娘の交際相手が、突然、全く別人の顔に変わって、絶対にそれまでしなかったような色に髪を染めて、理由の一つも説明しようとしない。その事実を、西口さんたちは、とても適切に受け取ってる」

「川上さん」

「父親は俺が整形したことを絶対に許さなかったし、今でも許していないし連絡もつかない、でもそれだって、仕方がないんだ。だって俺の元の顔は、死んだ母親そっくりだったんだから。それでも顔を変えたんだから、『顔が変わったくらいで』なんて言えないんだよ。……なのに、そこまでして、良いことなんか何も無かった。顔を棒に振ったってことは、中身も未熟だってことだ。だからやっぱり、俺が悪い――」

 ごとり、と大きな音が立ち、川上は手を離した。

 雪本の足元に白色のカップが落ちていた。すでに机の上で倒れてしまっていたものが、雪本の身体に触れて落ちたようだった。

 解放された雪本はバランスを崩して机の上に手をついて俯いた。自分の体が作る影が、見れば見るだけ黒々と濃くなっていくような錯覚があった。

「大丈夫か」

川上の声が近寄ってきて、背に掌の感覚が触れた。雪本はむせていてうまく声が出なかったぶん必死に頷いた。

「思い出した」

川上の声が、独り言か、雪本相手に言っているのか、その間のような音で響いた。ただし掌は一貫して雪本の呼吸に合わせて暖かく動く。

「先輩と真菜の件について、真菜は先輩の……あの人の顔に強姦されたようなものなんじゃないかって、そんな馬鹿なことも考えてたな、そういえば……」

 掌の感触が背から離れた。川上は揺れる目を伏し目がちに雪本に向けた。

「俺はお前を好きでいるのか、嫌いでいるのか、嫌いになったほうがいいのか、どうなんだろうな」

 予想外の問いかけに、雪本は思わず目をじっと見つめて返した。川上にとってもその反応が予想外だったのか、咄嗟にそらされた視線は、素早く雪本の顔の輪郭に走る。

 次の瞬間、川上の目に今までにない力が籠って、雪本は力いっぱい突き飛ばされた。

 倒れた拍子に頭を庇った腕の隙間から、川上が呆然と立ち尽くすのが見えた。

 こちらから声をかけようと立ち上がろうと手をついて、肩の痛みに蹲る。

「雪本」

「大丈夫です。ちょっと変な倒れ方して、肩を下にしちゃったみたいで」

川上はすぐに雪本の背中を支えて上半身を助け起こした。

「両肩ともか」

「いえ、右だけ」

「左の手は」

「使えます」

雪本は机の足を左手で掴んで、ようやく立ち上がった。痛みはないが足と腰が軽くわなないていた。

 体の芯の方が心を置き去りにして、恐怖と衝撃に震えていた。

「雪本、悪い……本当に、申し訳ない」

「大丈夫です」

 川上は雪本に駆け寄ったきり、蹲って立ち上がれずにいた。

「本当に、そんな気にしないでください、俺、平気です」

「平気なわけないだろ」

「平気なんです」

「雪本」

川上が何を言おうとするか察して、慌てて被せた

「真菜に言わないでください、三人暮らし出来なくなります」

「できなくて当然だろ」

「ホントに言うほど痛くないです、俺は川上さんがこれで追い出されるほうが嫌です」

 川上が雪本の状態を探るように目を向けてくるのを、ただ真っ直ぐに見返した。

「一旦、今回のことは真菜に内緒にしませんか」

 川上は根負けしたように、転がったままのカップを拾った。

「シャワーで冷やした方がいい」

 雪本は頷いて、すぐに手荷物から着替えを引き出し、浴室に向かった。

 

*****


 浴室は、床から壁の下半分までがチャコールグレーのタイルで覆われていて、そのせいか全体的にほの暗い。

 鏡に映った肩の痣は思いのほか大きく、その割に痛みが軽かった。

 水を出そうと手を伸ばすと、腕全体の筋肉が指の先まで強張っていて、痣以上の激痛が走る。突き飛ばされて、咄嗟に腕を交差させたとき、妙な力が入って筋を痛めたらしかった。怯んでゆっくりと蛇口をひねると、水の冷たさに体が震えて、その衝撃でまた腕が痛む。

 自分がとっさの判断で、それだけ必死に顔を守ったという事実が、雪本の頭と神経を一挙に洗濯してしまった。

 何とはなしに腕に触れると、鳥肌がびっしりと立っていて、自分の腕でないようだった。雪本はその感触を反対側の掌一杯にしみこませ、同時に、腕の方からも、その掌の体温を吸収しようと、暫く自分で自分の腕を、握ったり、放したりした。


*****


 入浴を終えて部屋に戻ると、スマートホンを眺めていた川上が、視線を上げた。

「真菜が、明日の朝にはここに来るって」

 奇妙に冴えている今の感覚をもってしても、その川上の声から他意を汲むことはできなかった。

 雪本は一瞬考えて、尋ねた。

「俺、どこの部屋で寝たらいいですかね」

「ああ……」

川上は、買ったばかりの雪本布団を両手で抱えると廊下に出た。雪本もすぐさまついていった。リビングを出て斜め前にある玄関から、左右にそれぞれ六、七歩歩くとある扉を、川上は両方とも開いた。

「どっちも広さは変わらないか。好きに決めていいよ。明日からは空いた方で俺も寝泊まりするし」

「じゃあ、窓がない方にします」

「無い方がいいのか」

「川上さんさえよければ。俺、日焼けすると痛くて。家でもカーテン分厚いのにしてるくらいなんです」

「そういうことなら。俺はむしろ日が入らないと目が覚めないから、こっちのほうがありがたい」

と言って、川上はまた微笑み、布団を雪本が選んだ方の部屋に置いた。

「川上さん」

「うん?」

「おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」


 川上は弱々しく笑んで会釈し、部屋から出ていった。雪本は布団の包装やタグを切りながら、自分と向き合うことを考え始めていた。


 川上は雪本を突き飛ばしたその手で、雪本にけがをさせたその手で、雪本のけがを気遣って布団を運んだ。心底から雪本に親切にする一方で、雪本の顔を見ることさえも耐えられない瞬間があり、どちらの想いも嘘ではないから、却って散らかり、散らかった自分より先に、他の何かに目をとられては、ますます捉えられなくなっている。

 雪本は、そんな川上と話をするべく、川上自身も捉えられない『川上良』をそれでも知ろうと試みて、そこで初めて『雪本直哉』という人間もまた不確かであると気が付いた。むしろ不確かな自分の答えを、川上との会話の中で見出そうとした節があったかもしれなかった。

 雪本は自分の頬に触れた。唇を指でなぞって、鼻筋を軽くつまんで、睫毛の毛先を指で撫でてから、耳に髪をかけ、あごの骨を関節で叩く。

 自分はこの顔を今まで、自分の一部と思ったことはなく、どちらかと言えば、沙苗から『持たされたもの』だという印象で、鏡越しに眺めていた。周囲から顔の造形をいくら誉めちぎられたところで、その言葉は鏡越しに確認されて消えてゆく。顔の造形を原因として人から悪意を買った時には、だったら顔を変えればいいのにと、心中で毒づいたこともある。今はそれが筋違いで仕方がないように思えた。


 褒められるのも詰られるのも顔のせいであるというなら、自分こそ、そんな顔を変えればいい。その発想が出てこないのも、いざという時顔を庇うのも、自分が自分の造形の良さを強みにしようと考えているからだ。


 雪本が雪本自身に、川上に、真菜に、そして美しさという概念に対して、何か結論を持たない限り、川上や真菜にそれを期待することもまた、筋違いである気がしていた。


*****

 

「雪本」

 聞き慣れない声が耳に入るや、曖昧で雑然とした夢が唐突に打ち切られ、思わず体が震えた。目を開けると、川上が布団のすぐそばにしゃがみこんでいた。

「悪い、驚かせて」

「いえ……おはようございます」

「おはよう」

川上は昨日着ていたジーンズの上に、部屋着のパーカーを羽織って、すでに靴下をはいていた。

「さっき真菜が戻った」

「わざわざ起こさなくてもいいのに」

そう言って、真菜が川上の背後から顔を出した。リネン地のブラウスに水色のプリーツの入ったレーススカート姿だった。

「あら、もうすっかり巣作って」

と言って手を振ってきた。雪本も思わず振り返した。真菜は少し声を弾ませた。

「ねえ、今すぐ起きて、外に出られる?」

「どこかに行くんですか?」

「来る途中にいいカフェがあったんだ」

川上が言った。

「そこで朝食をとろうと思って」

真菜がうなずく背後の廊下は既に日光が満ちていた。川上は朝に強い方なのか、肌にも髪にも既に艶があった。リビングの窓を開けてでもいるのか、夏の風の香りがして、雪本の頭もすぐに活発になってきた。

「行きます」


 雪本はすぐに布団を畳んだ。


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