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第二話 カフェにて

 高校二年生の、七月十五日のこと。

 洗濯機が止まるのを確認するなり、雪本は中に一枚入った白い半袖のYシャツをこそぎ取った。

 明日は学校で文化祭の係決めがある。間違ってもうっかり休まないようカレンダーに赤いマジックペンで丸を付けたところまではよかったが、制服のチェックを怠っていたことに起床した瞬間気が付いた。七日ぶりに引っ張り出した制服は洗濯もアイロンも済ませてあったが、カバーをかけるのを忘れており、Yシャツの肩口に埃がうっすらと付着していた。

 ベランダにハンガーでYシャツを干すと、その一瞬だけでもうんざりするような暑さだったが、明るい日差しを浴びて青空に向かって風に乗る白い半袖はなかなか絵になり、気分は爽やかに満たされる。ベランダに続く窓を後ろ手に締めながらリビングの時計に目をやると、九時二十五分を指していた。四十五分に間に合えるだろうか。

 日焼け止めを手に取って手早く伸ばす。雪本の肌は生まれつき日焼けに向いていない。紫外線にさらされても上手い事黒く染まることができずに薄赤く火傷してしまう。

 一通り手早く済ませ、玄関前の姿見で最終確認をした。服は一つの皺もなく、これといった寝癖もない。

 何の問題もなさそうだと判断してから、ほんの一瞬、全く別の事実を確認して、鍵を右手に扉を開け、日に日に最高気温を更新してゆく七月半ばのお天道様の下へ身を晒す。


 雪本直哉は、生まれてこの方、自分より美しい顔の持ち主に出会ったことがなかった。


*****


 結局、到着は五十分を少し過ぎたころになった。真菜は開店前のカフェのカウンターに気だるく頬杖をついたまま、白いまぶたを閉じている。

「約束、忘れたかと思った」

「ごめんなさい」

「飲みたいっていうから待ってたのに。早起きしたから眠たいなあ」

「ごめんなさい。でも、十五分早く出るだけでしょ」

「いやあ、緊張して寝れなかったんだよ?起きられなくて、雪ちゃん待ちぼうけにさしたらどうしようって」

「本当に?」

「うそ」

 一つ大きく伸びをすると、黒一色のシンプルなエプロンがグイとカーブを描いた。伸ばした腕を優雅におろし、パチッと音が鳴りそうなくらい潔く目を開ける。笑顔の目尻に気品が灯り、頬の周りが輝いた。

「作ろっか」

 雪本はこの西口真菜という女性に初めて会った時から親しんでいた。それが恋慕に変わるまで、大した時間はかからなかった。

 カウンターの中央の席に急いで腰掛け、少し身を乗り出すと、ちょうど真菜が密閉された袋の一角をはさみで切った。切り口から驚くほど華やかにコーヒーが香り立つ。

「入荷したて、開けたてのほやほやだからね。これが飲みたかったんでしょ、贅沢もんめ」

「はい。ごめんなさい。わがまま聞いてもらっちゃって」

 新しく入荷されたコーヒーを一番に飲みたいと駄々をこねると、開店する十五分も前に来れば間違いなく一番乗りだと教えてもらった。つい昨日のことだ。

 一人暮らしをしているマンションを出て、籍を置いている高校の方角にきっぱり背を向け住宅街を歩くと、木々に覆われた公園に入る。その中をまっすぐ突っ切って階段を上り、その奥の現代美術館の裏手の花壇の片隅に佇むこのカフェまでは、平均して十五分。

「はい、できました」

「ありがとうございます」

青い薔薇が華奢に描かれ、白がやたら目立ったコーヒーカップを受け取ると、軽やかな香りが追いかけてきた。誘われるようにその薄い飲み口に唇をつける。真菜がまんじりともせず感想を求めるように雪本の表情を追いかけていた。その視線はくすぐったいばかりで、少しも重くはなかった。黙って笑みを向けると、真菜は少し口元に力を入れて小さなガッツポーズをした。


「じゃ、明日からはガッコ―行くんだ?」

「はい。ちょっと我慢すればすぐ夏休みだし。また文化祭で変なことやらされたらたまんないし。今年のクラスは、今のところ屋台かなって空気で、そこはほんとによかった」

「いやあ、屋台だって、雪ちゃんみたいな子は『看板生徒』にされちゃうよ。急にコスプレさせられたりして」

「いいですよもう、ロミオじゃなければ」

 真菜は無遠慮に大笑いした。笑っていられる側は気楽なものだ。だからこそ、大笑いの真菜を見て笑える今がありがたい。

「断ればよかったのに。そんなに嫌なら。それもできないくらいイケイケな感じなの?クラスのみんな」

「まあ、どうしてもって言って、断ることはできたと思うけど。……でも、俺が断ったら、誰かが代わりに、絶対やんなきゃいけなかったんですよ」

「いいじゃん。やりたがってた人いるかもよ」

「でも、ロミオですよ」

「うん。主役だよ。誰かはやりたがるよ」

「ロミオ役に推薦されてるんですよ。既に、俺が……」

「何?学校一の美少年がやる予定だったロミオの後釜やれる奴なんていないだろうってこと?」

「そうです」

「いい性格してんねえ、雪ちゃん」

「性格の問題じゃないでしょ、事実なんだから」

「雪ちゃんが気にする問題でもないでしょ。……ああ、いらっしゃい」

 客が入った。朝の時間帯によく来る常連客だ。時刻は十時二十二分。平日はいつもこのあたりから徐々に客足が増え、真菜も忙しくなってくる。

 真菜が件の常連客にカフェオレを出して、またカウンターの中に戻ってくると、雪本に名刺を渡してきた。

「え?」

「あの常連さん、イラストレーター志望で、今学生さんなんだけど」

真菜が少し声を潜めた。

「雪ちゃんをモデルにして描いてみたいんだって。もし興味あったら、いつでも連絡してくださいって。課題制作の一環だから、お金はそんなに貰えないかもしれないけど」

「あ、なるほど……」

「直接お願いしてみたらって言ったんだけどね、なんか小っ恥ずかしいんだって。断りづらくさせても申し訳ないみたいで」

 雪本は、視界の端に座るその常連客を盗み見た。心無しいつもよりも落ち着きの無い素振りで、ペース早くカフェオレを飲んでいる。線の細い内気そうな二十代半ばほどの男性だ。以前、指輪を左薬指にはめていたことがあるので、恐らくだが既婚者だろう。

「信頼はできる人だから。なんならここで、私が付き添ってる中ででもいいって」

「わかりました、考えてみます」

「西洋画って言うのかな。──あの、天使の絵のね、顔の参考にしたいみたい」

雪本は二重の気恥しさで思わず噴き出した。真菜も半笑いをこらえるように俯く。真面目でいつも勉強をしているような青年が、天使の絵に使いたいのでモデルになってくださいと、男子高校生に依頼するのは確かに恥ずかしいのだろう。頼まれた側の雪本がむず痒いのだから頼んだ側はよっぽどバツが悪いに決まっている。

「──真菜さんは」

「うん?」

「見た目がよくて、困ったこととか無いですか」

「え?なにそれ」

「いや、冗談とかじゃなくて」

雪本は咄嗟に作った下手な半笑いをコーヒーカップで隠した。

「ほら、外見がいいと、『それ以外』の部分をすごい……求められたり、ケチつけられたりするじゃないですか」

「いや、全然?」

真菜の答えは明快だった。

「だって、数学ができても走れない人はいるじゃない。外見がよくても他の事全部だめって人がいたって全然おかしくないって思うけど。何か言われたことあるの?」

 真菜にじっと見つめられて、雪本はただ首をかしげた。真菜はただ笑った。ごまかす余地も嘘をつく余地も、いつだって残してくれた。

   

*****


 去年の今頃、風邪をこじらせた雪本は、一日だけ学校を休んだ。その日は偶然、クラスで文化祭の話し合いがある日だった。

 まさか演劇部の一人もいない自分のクラスが劇をしようと企画するとは思わなかった。

 まさか演目がロミオとジュリエットだとは思わなかった。  

 一日欠席して翌日登校すると、すでに雪本はロミオになっていた。

 劇そのものは、投げもせず腐りもせず真面目にやりぬいたつもりでいる。周囲からの純粋な評価もその自覚を裏切るようなものではなかった。雪本自身、劇そのものが耐えられない程苦痛であったわけではないし、楽しく思える瞬間もあった。

 ただ、雪本がロミオになったことを皮切りに、その以前から雪本の周囲にはびこっていた様々な歪みが、とうとう無視ができない程に鮮明に浮かび上がった。所属していた陸上部での状況は輪をかけて深刻で、長引いた。雪本と直接トラブルを起こした張本人が、何を隠そう、陸上部員だったのだ。雪本かその相手かを責める空気が四六時中蔓延しなかなか消えてくれなかった。

 雪本は、病気を患ったことにした。学校もちょくちょく休み、部活動にはほとんど顔を出せなくても仕方がないくらい、体が弱い可哀想な人間ということになった。信じる者は皆味方になってくれたし、信じない者も証拠がない以上大っぴらには疑いを口に出せなかった。

 そんな時期に、このカフェで真菜に出会った。

 真菜は初めから正直に雪本の顔を誉めた。雪本の顔を誉め、良い顔を持って生まれた雪本の運を誉め、その顔で生きている雪本を誉めた。

 真菜のシンプルな態度を前に、雪本はようやくくつろぎを取り戻したのだ。


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