第十六話 西口真菜と川上良①
三日後。七月二十七日。
夏休み四日目の夕方、数学の課題提出用ノートをスクールバッグに放り込んだ。初日に真菜の家から帰ってすぐにとりかかった夏休みの宿題が全て終わった。もう一日早く終わるかという心づもりでいたが、やることはなくとも思うことは多い状況だったためか、集中がそがれていつもの何倍も進みが遅かった。
時刻を確認すると、午後五時十分。やるべきこと全てを終えて、この取り計らったような時間帯。雪本は鍵だけ持って家を出た。勿論、真菜の働くカフェに行くのだ。
真夏も真夏の午後五時過ぎは、まだまだ明るさを多分に残しており、日差しがまぶしい。日焼け止めを塗るのを忘れたことに気が付いた雪本は、できるだけ日陰を探しながら、足早に歩いた。
歩くスピードのせいか、いつもより二、三分早く美術館前の公園にたどり着くと、何か集まりでもあったのか、幼稚園から小学校中学年くらいまでの子供たちと、その親たちとが多く訪れていて、楽し気な声を高らかに響かせていた。それでも道いっぱいを占領されているというほどの事はなく、道のわきの木の下の遊具あたりにうまいこと集まってはいたが、却って雪本は否応なくど真ん中の日照りの道を歩く羽目になった。
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三日前、夏休みの初日の朝に、真菜は雪本を、この公園の入り口ぎりぎりまで見送った。やっとの思いで目を見て「それじゃあ」といった雪本に、真菜はしっかりと目を合わせて、こう言った。
「今日の仕事が落ち着いたら、すぐ連絡する。またゆっくり会おう」
そこから三日間、真菜からの連絡はなかった。
正確に言うと、一日と半日過ぎたあたりで、メッセージが来ていた。突然実家に呼びだされ、ドタバタしていてとても連絡できる状況になかったのだという。その日のうちには東京に帰るとも言っていた。家庭の事情に文句をつけるのはやはりはばかられたし、事情が分かれば特に気になることでもなかったので、雪本はそれを承知した旨を返信した。
しかしそのまま、さらに一日半たっても、何の連絡も来ない。
ドタバタがまだ続いているのかもしれない、自分から連絡すべきなのかもしれない、とはもちろん思ったが、色々なパターンを思い描いた末、雪本は、今からメッセージを送ってその返信を待つタイムラグより、直接行って無理にでも事情を聴きだす方を選んだ。万が一にも逃げられたりした場合の事を考えて、結局、そうすることにした。
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やっと公園の突き当りの階段に差し掛かって一段目に足をかけると、後ろから、はしゃぎすぎた子供の叫び声が聞こえて、危うく踏み外すところだった。思わず低い息を漏らす。他人の大きな声が昔から苦手だった。泣くにせよ笑うにせよ、感情を爆発させた赤の他人の声を聴くと、その感情の波に引きずられ、揺さぶられるような気がして仕方がない。
いや、むしろ、今は自分の心が波打っているからこそ、普段はまだしも我慢できるような音に、そんな意味を見出してしまっているのか。
階段を上りきった矢先に人とぶつかった。お互いにすぐ、「あ」と声が出た。雪本が俯いていたからぶつかったのだ。慌てて顔をあげた。
「すみません、ごめんなさい」
「ああ、いえ」
その相手は穏やかな声で応対してくれたのにもかかわらず、目が合うと、なぜか瞳を不快そうに細めた。声と瞳との印象がちぐはぐで、雪本もいきおい声を飲む。
ずいぶん美形な男性だった。良く焼けた肌や筋肉のうかがえる首筋を見る限り、スポーツをやっているか、体力を使う仕事についているような雰囲気だった。鮮やかなバターブロンドの髪が余計にその印象を際立たせつつ、落ち着いた色のサマーニットとブルージーンズが奇妙に浮いている。そして柔らかく瞬くと、声の印象と目の印象がまとまって、顔の派手さを、揃って裏切る。
「カフェに行かれるようでしたら、今日はもう閉まってますよ。客が少ないので、早めに閉めるって、お店の人が言ってました」
純粋に親切な言葉に、やや気まずさを覚えつつ、雪本は小さく嘘をついた。
「あの、俺、お店の人と待ち合わせをしていて」
すると、その言葉を聞くや否や、そらされていた視線が、射貫くように雪本の目を見た。
「……失礼ですけど、もしかして、雪本さんですか?」
思わずうなずくと、その男の目は二三回、雪本の顔の輪郭をなぞるように焦点をずらし、やや硬い笑みを浮かべながら、冷静に言った。
「……なるほど。いや丁度良かった、申し訳ないけど、もし時間と体力があるようだったら、真菜を手伝ってほしい。多分男手が必要だと思う。俺はこれから仕事だし」
「真菜?」
「なんていうか……」
と前置きしてから、男は歯切れ悪くはにかんで続けた。
「どこまで説明されてるか微妙だけど、一応。はじめまして、川上良と申します。今あいさつしなくたっていいのかもしれないけど、こういうのが後からわかっても気まずいだろうし」
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店の前に着くと、扉に張られたガラスから、真菜が段ボールを組み立てているのが目に入った。
雪本が軽く扉をノックすると、真菜はばっと顔を上げる。嫌な顔をされるかと身構えたが、真菜は、場違いなくらいうれしそうに微笑んで、すぐに扉の鍵を開けた。
「ごめん、雪ちゃん、連絡できなくて」
「どうしたんですか」
雪本が思わず問いかけると、真菜は苦笑を浮かべた。
「引っ越すの」
「引っ越す?急に?それって」
「雪ちゃんのせいじゃないのよ」
真菜は慌てて立ち上がった。段ボールに足が当たって、中に折りたたんで入れていた洋服が崩れた。
「手伝っていいですか」
「いいの?」
「まだまだ荷物まとまってないんでしょう?俺が触っていい荷物があれば」
「ありがとう」
真菜は屈託なく笑った。
「じゃあ、荷物どんどん下ろしちゃうから、適当に分類して詰めちゃってもらってもいい?」
「はい」
雪本は、今しがた真菜が蹴っ飛ばして崩れた白いニットを畳みなおすところから始めた。
「実家に帰ったらね、両親が、私の住む家をこっちに用意してあげるから、お前はそこに住みなさいって」
「……ご両親と一緒に暮らすんですか?」
「んーん。違う違う。私の独り暮らしの家を、わざわざしっかり向こうのお金で準備してくれたって話。ありがたいよねえ」
真菜の手の中のガムテ―プが、びっ、と、荒っぽい音を立てる。
「監視、監視。自分たちの知ってる住所で、光熱費も全部管理して、私がちゃんとお行儀良く暮らしてるか見ておきたいの。そういう人たちで、私はそこのお嬢なの」
真菜は一、二枚厚手の服を手に取って、雪本に渡した。
「その段ボール、冬服だから、これ入れたらもう閉じちゃっていいよ。もし上手に入らなかったら、夏服の方に混ぜて」
「はい」
雪本は、冬服の畳みづらいのにかこつけて、しばらく作業に集中して黙り込んだ。音をたてぬようガムテープを引き出し、よれないように慎重に段ボールを閉じて、意を決した。
「あの」
「うん?」
「来る時、川上さんにすれ違いました」
「あら」
真菜はわずかに目を見開いた。
「よくわかったね、挨拶したの?」
「ああ、いや、向こうが気づいて挨拶してくれたんです。正直、俺は全然気づかなくて……いや、気づかなくて、っていうか、あれはもう……別人、じゃないですか」
数日前、真菜から見せてもらった、大学時代の川上良の写真を、その顔立ち、髪形、着ていた服に至るまで、これ以上ないほど鮮明に覚えていたのに、彼といざすれ違ったら気が付くことが出来なかった。
階段ですれ違った川上は、派手な金髪を抜きにしても、問答無用で人目を引くような華のある美男子だった。最後に見せたかすかな笑みやまなざしに面影を感じられはしたものの、顔のつくりがまるっきり別物だった。
「整形ですか?」
「そう。整形」
「やっぱり、そうなんだ」
段ボールの上で、使い切ったガムテープの芯を持て余した真菜が、右手から左手に、左手から右手に、芯を行ったり来たりさせつつ、言った。
「ごめん。なんとなく言いづらくて。あの人が整形したのって、ほとんど、私のせいみたいなもんなの。雪ちゃんに悪く思われるのは普通に嫌だからさ。まあでも、長く隠しておくつもりもなかった」
「……聞いても良いですか」
雪本は新しい段ボールを組み立てる手を止めた。
「川上さんは、どういう事情で、顔を変えたんですか」
真菜はすぐに頷いて、話しだした。